8

総司の腕の中は温かくて良い匂いで、今まで感じたことのない幸せが私の心を満たしてくれる。
心臓はドキドキするのに心地良くもあって、物語に書かれていたよりずっと胸が熱くなる想いだった。


「セラ、好きだよ」


総司は惜しみなく愛情を伝えてくれるから、正直初めて会った時の印象とだいぶ違う。
どちらかというと少し淡白そうで、甘えても突き放されそうな印象を持っていたけど、実際はとても温かい人で、彼から言われた言葉には私の方が照れてしまうくらいだった。


『私も大好き。このままずっと総司といたいな、離れたくない……』

「うん、僕もだよ」

『総司、もっとぎゅっとして欲しい……』
 

明日からは、また庭園で少し話す程度の毎日になる。
そうすれば自動的にこうして抱きしめてもらえる機会もなくなるし、言葉で気持ちを伝えることもあまり出来なくなるかもしれない。
想像してしまうと寂しくて総司の胸に擦り寄ると、私の身体は後ろに揺れてそのままベッドへと沈んでいた。


「あんまり可愛いこと言わないでくれる?」


総司の背後には部屋の天井があって今の体勢がどうなっているのか理解すると、心臓が急に激しく鼓動を繰り返す。
総司はそんな私を真っ直ぐ見下ろしているから、目の前の総司のこと以外何も考えられなくなった。

総司の瞳がわずかに細められ、ゆっくりと唇が重なる。
触れるだけの優しいキス。
けれどそれだけでは足りなくて、ほんの少し動いた唇に応えるように私もそっと首を傾けた。

そうすると今度はもう少ししっかり唇が重なる。
何度も何度も、ゆっくりと優しく触れ合うたびに胸が高鳴って、全身の力が抜けていくみたいだった。
総司の指先がそっと頬を撫でて、角度を変えるように唇が重なると、自然と目を閉じてしまう。
この特別な気持ちは言葉では表現できなくて、唇が離れた瞬間、そっと瞳を開いた。


「嫌じゃない?」

『うん、総司に触ってもらえるの、嬉しいよ……』

「嬉しいだけ?」

『ドキドキもするよ、あと……ふわふわして力が入らなくなる……』


言葉にするのは少し恥ずかしかったけど、嘘はつきたくなくて正直に伝える。
そうすれば、総司の口元が柔らかく弧を描き、すぐにまた唇が重なった。

優しくて甘くて、甘噛みするように触れる唇。
触れ合うたびに胸の奥が熱くなり、思わず総司の服を掴んだ。

ふわりと身体が浮くような感覚の中で、総司が私を見つめているのがわかる。
唇が離れた後も私の表情をじっと見つめるその瞳が、胸の奥まで入り込んでくるみたいだった。

私、どんな顔をしているのかな。
変な顔、してないかな……。
そう考えてしまうと恥ずかしくて、熱を持った頬を少し隠すように、総司の胸にそっと額を寄せた。


「……そんなに可愛い顔されると、困るんだけどな」


総司の声が、耳元でくすぐるみたいに響いた。


「顔、真っ赤だけど」

『それは……恥ずかしくて……』


小さく呟くと、総司の腕が私の腰に回る。
突然引き寄せられたせいで総司の腕の中にすっぽり収まる形になって、息をするのも苦しいくらい近くなった。
顔を上げると、すぐ目の前に総司の優しい瞳がある。


「そんなに恥ずかしいの?」

『だって、こんなに近いから……』

「ははっ、可愛いな。セラってさ、ほんとに表情がころころ変わるよね。驚いた顔も恥ずかしそうな顔も嬉しそうな顔も……全部可愛いから困るよ」

『可愛くないし、そんなにじっと見ないで』

「どうして?僕だけには見せてよ」

『でも、総司が可愛いとか言うから、余計に恥ずかしくなっちゃうんだよ……』

「恥ずかしい顔も可愛いのに?」

『もう……』


眉根を寄せて睨んでみると、総司がまた楽しそうに笑った。


「ごめんごめん。でもセラが可愛過ぎるのがいけないんだよ。そんな顔ばかり見せてたら危険だと思わない?」

『どうして危険なの?』

「うーん……」


少しだけ考え込むような素振りを見せて、それからふっと総司の顔が近づいた。


「もっと、触りたくなるからだよ」


耳元で囁かれた途端、頭が真っ白になった。
そしてそのまま、ふわりと唇が重なる。


『……ん……』


すべて包み込まれてしまいそうなキス。
息をするのも忘れてしまいそうで、総司のことしか考えられなくなる。


「セラ、好きだよ」


囁くような声が耳元に落ちる。
鼓動が跳ね上がるのを感じながら、こくりと頷いた。


『私も……総司が好き……』

「じゃあもっとしてもいい?」

『……うん。もっと、いっぱいしてほしい』


言った瞬間、総司の指がピクリと動くのを感じた。
一瞬の静寂、そして次の瞬間には唇が深く重なった。

それまでの優しく触れるだけのキスとは違う、少しだけ熱を持った口づけ。
唇で甘噛みされるように、唇同士が深く互いの熱を感じ取る。
総司の腕の力がわずかに強くなって、甘い感覚が全身を包み込んだ。


「……セラ」


唇が離れると、いつもより低く甘い声で名前を呼ばれる。
その声がくすぐったくてそっと総司を見上げたけど、その瞳の色を見た瞬間心臓がまた跳ね上がった。
いつもの穏やかな瞳とは違う、何かを堪えているような揺らめくような色。
総司の指が私の肩に回って、そこに僅かな力が加わった。


「……ごめん」


ふわりと身体が離れて、総司はそのままベッドサイドへと座る。
急に訪れた距離に私は思わず瞬きをした。


『総司?』


名前を呼ぶと、総司は少し困ったように微笑んだ。


「このままだと、ちょっとまずいかなって思って」

『誰か入ってきたらってこと?』

「いや、そうじゃなくてさ」


そう言いながら、わずかに目を伏せる総司。
総司の耳が、ほんの少しだけ赤くなっていることに気づいて、私までまたドキドキする。


『総司』

「うん?」

『大好きだよ』


総司の背中にそっと頬を擦り寄せる。
すると総司は大きなため息を吐き出しながら、恨めしそうな顔で私の方を見てきた。


「……なんか、今日はもう駄目みたいだ。君に何かしでかす前に僕は帰るよ」

『え、待って?もう帰っちゃうの?』

「僕だってまだいたいけど、仕方ないじゃない。君が無防備過ぎるのがいけないんだよ」


それだけ言って本当に立ち上がって行こうとするから、私は慌てて総司の後を追いかける。
でもいつの間にか落ちていたらしい膝掛けのスカーフが足先に引っ掛かり、すぐ側のテーブルクロスを巻き込みながら盛大に転んでしまった。


『……いた……』

「ちょ、大丈夫?」


総司と何か飲めるように出しておいたガラスのティーカップが二つ、割れて床に落ちている。
お気に入りだったから少し悲しいけど、今はそれよりも総司のことの方が大事だった。


『総司、本当にもう帰っちゃうの?』

「何やってるのさ、転ぶ程慌てて追いかけててきたの?」

『だって総司が急に帰るって言うから……』

「ごめんね、まだいるからそんな悲しそうな顔しないで」


転んだまま座る私の目の前に来て、総司は優しく私の髪を撫でてくれる。
頬から耳を辿って髪を梳くその総司の撫で方を心地良く感じながら、近付いてくる唇の体温を待ち侘びずにはいられなかった。
でもその時だった。


「セラ、大きな音が聞こえたが平気か?」


直ぐ側の隣接されたドアからはじめの声が聞こえてくる。
思わず動きを止めて見つめ合った私達だったけど、「開けるぞ」という声が聞こえたからその場で慌てて飛び退いた。


『ま、待って……!今私が開けるから』

「……ああ、分かった」


思わず開けると言ってしまったけど、何て言えば正解だったのか後になって考える。
総司を見れば、やってくれたねと言わんばかりの顔で私を見下ろしてるから余計に気まずい。


「どうするのさ。これじゃあ帰るに帰れないし、隠れるしかなくなっちゃったじゃない」

『ごめんなさい……』

「取り敢えず僕はバスルームの方に隠れてるから、君は早いところはじめ君を追い返してね」

『はい……』


少し不機嫌そうにそう言われて、肩を竦めながら頷く。
総司がバスルームに行ったのを確認してから、ドアを開けようと右側を向いた。


『あ、チェスト……』


そうだった、総司がこれで防御してくれていたんだった。
私の力ではすんなり動いてくれなくて、うんうん言いながら引き摺るようにずらすのが精一杯。
不自然な位置で止まったチェストに複雑な心境になったけど、時間を掛けても仕方がないからドアを開けた。


『ごめんね、お待たせしました……』

「ああ、平気なのか?何か割れたような音がしたが」

『あ……、うん。ちょっとグラス割っちゃったの。でもそれだけだから大丈夫だよ』

「ならば良いのだが、このチェストは何故このような場所にあるのだ?随分と曲がってしまっているな」

『え?あ、えっと……ちょっと部屋の模様替えでもしようと思って今運んでて』

「この時間から模様替えを?」


その突っ込みは正論だと思う。
それでも他に言い訳が思い浮かばなかったから仕方ない。


「模様替えならば従者に手伝って貰った方が良いのではないか?」

『私、模様替えが趣味で自分で動かしたくなっちゃうの……』

「それで唸っていたというわけか」

『あ、うん……ちょっと重くて手こずっちゃって』

「ならば俺が運んでやろう。どこに置きたいのか教えてくれ」

『ううん、気にしないで。もう遅いしはじめは寝た方がいいよ?』

「いや、俺も眠れなくて時間を持て余していた。なので手伝わせて貰えたら助かる」

『ありがとう……。じゃあここにお願いします』

「ああ、分かった」


どうしよう、時間がかかると総司に申し訳ない。
チェストを運んで貰ったら戻って貰おうと思いながら、元あった場所に運んでくれるはじめを見ていると、彼は運び終えるなり割れたグラスを拾い始めた。


『だ、大丈夫だよ。それは私が拾うから……』

「問題ない。二人で片付けた方が早く片付くからな」

『でも……』

「ゴミ箱はあるだろうか」

『あ、はい。ここに……』


取り敢えず早く片付ければ大丈夫と言い聞かせて、私もそのグラスを拾っていく。
けれどあと少しのところで指先に痛みが走り、少し切れてしまった人差し指からは血が溢れ出した。


「切ったのか?」

『ちょっとだから全然平気だよ、残りは私がやるからはじめは戻って?』

「先程からそればかりだが……俺がいると迷惑だろうか?」


そんな悲しそうな顔で見つめられたら、何て返事をすればいいのか分からなくなる。
はじめが嫌とかそういうことではなく、ただ総司を優先したいだけなのに、難しいな……。


『ううん、そんなことないよ。手伝って貰えるのはありがたいけど、もう時間も時間だから。はじめは明日国に戻るし休んでおいた方がいいと思ったんだ』

「俺のことは気にしないでくれ。今日はつい手合わせに夢中になってしまいセラとの時間が取れなかったからな、伝えなければと思っていたことを言えずにいたから後悔していた」

『そうなの?』


私に伝えなければいけないことってなんだろう。
そう思いながらはじめの言葉を待っていると、ハンカチを取り出したはじめは私の手を取り、そっと傷口の血を拭ってくれる。
そしてそのまま手を握るから、思わず目を見開いた私がいた。


「セラは覚えているだろうか?昔の約束を」

『昔の約束……?』

「ああ。幼い頃にした約束だ」


どうしよう、全然覚えていない。
お父様の話だと五歳くらいまでははじめと遊んでいたらしいけど、流石にその頃の記憶は曖昧なものが多くて首を捻ることしか出来なかった。


『ごめんなさい、覚えてなくて……』

「いや、構わない。時間が空いてしまった故、当然のことだからな。だが、もう一度言わせて貰ってもいいだろうか?」

『うん』

「その、だな……俺達がもう少し大人になりセラがデビュタントを迎えた暁には、俺と婚……」

「はじめ君。こんな夜遅くに、うちのお嬢様の手を握って何をしてるのかな」


まさかと思って見上げた先には苛立った様子の総司がいて、その事実にはじめだけではなく私も驚く。


「何故あんたがここに……」

「昼間言ったでしょ?僕はこの子の護衛役なんだ。今日は公子様がこの子の隣の部屋で寝泊まりするっていうんで、万が一があった時にはこの子を護って欲しいって近藤さんから頼まれてたんだよ」

「万が一……だと?」

「そうだよ。はじめ君が暴走してセラを襲ったりしたら大変でしょ?その可能性を危惧して、僕は一晩このバスルームでこの子を護衛するよう任務を与えられていたんだよ」


凄く無理のある理由だったから落ち着かない心情で二人の様子を見ていたけど、はじめは私を見ると「そうなのか?」と聞いてくる。


『あ、えっと……うん?』

「しかしこの者がいたところで、それはそれで危険だと思うのだが。あんたがセラに手出ししない保証はないだろう」

「僕はずっとバスルームにいたんだよ?近藤さんからの任務を、僕がいい加減に遂行するわけないじゃない。しかも君みたいにべたべたこの子に触ってもないしね」

「俺とて邪な感情でセラに触ったわけではない。彼女が怪我をしたためハンカチで血を拭っただけだが」

「あれ?そうだっけ?血を拭いた後、手を握ってたの僕見たんだけど」

「あれは……違う。他意はない」

「ふーん。でもどうする?僕は別にこのまま近藤さんのところに行って、今見たありのままを話してもいいんだけど」


総司は強気でそう言うと、威圧感たっぷりの表情ではじめを見下ろしている。
多分今総司は少し怒っていて、それが私のせいだということも分かっていたから、不安な心情のまま事の成り行きを見守ることしか出来なかった。


「いや……近藤さんに余計な心配を掛けたくはない。俺とて不純な動機でここに来たわけではない故、言わないで貰えると助かるのだが」

「まあ君とは昼間手合わせして貰ったし、そこまで言うならいいよ、黙っててあげても。その代わり僕は近藤さんから、何もない限りははじめ君に姿を見られないようにって命令を受けているんだ。だから僕のことを聞いたり話したりしたら自動的に今晩何かあったって言ってるようなものだから、念のため気をつけてね」

「ああ、分かった。余計なことは言わないでおこう」

「そう?じゃあそろそろ戻って寝たら?僕も早く休みたいし」

「そうさせて貰う。セラもすまなかった、また明日会おう」


部屋へと戻って行くはじめにおやすみを告げて、そのまま暫く無言になる。
総司は不機嫌そうなまま再びチェストをドアの前まで運び、今度は真意の読めない笑顔を浮かべ、座り込んだままの私の前にしゃがみ込んだ。


「で?どうして君は、僕以外の男を平気で部屋に入れちゃうのかな」


総司の笑顔が逆に怖くて思わず視線を逸らすと、顎に添えられた手によって強制的に総司の方を向かされた。


「聞いてる?」

『ごめんなさい、成り行きで……』

「じゃあセラは成り行きでなんでも許しちゃうの?」

『そういうわけじゃないよ、ガラスを拾い終わったら帰ってもらうつもりだったんだけど……』

「手握られてたのに?」


確かにそうだから、私が悪かったと反省する。
私が逆の立場だったら凄く嫌だし、やきもちを焼いてしまうだろうから、こうして総司が苛立つ理由も分かるつもりだ。


『もう今度からは誰も部屋に入れたりしないし気をつけるね、心配掛けてごめんなさい……』

「セラはもっと気をつけないとね。世の中には君が考えもつかないような悪い奴もいるんだよ。はじめ君がそうだとは言わないけど、よく知りもしない相手を信用したら駄目だよ。君だって誘拐されたことがあるから分かるよね」

『うん……』


確かにあの時も侍女さんの口車に乗って、護衛も付けずに街に出たことが誘拐されたきっかけだった。
後からその侍女さんはお金で買収された人だと分かったけど、誰かを信用するというのは困難なことなのかもしれないと実感する。
いくら絆を信じていても一方的な場合も十分あるから、それを考えると少し悲しい気持ちになった。


「そんな顔しないでくれる?まるで僕が虐めてるみたいじゃない」

『ごめん……』

「君は困った子だけど、そういうところも全部好きなんだけどね」


総司の好きという言葉に反応して総司を見ると、彼はもういつものように笑っている。
それに安堵した私も、思わず彼に微笑みを向けた。


「はあ……、ちゃんと分かってるのかな」

『うん、分かってるよ。分かってるし気をつけるから、もう少し一緒にいてくれる?』


総司を見上げて頼んでみると、苦笑いをした総司は言ってくれた。


「そんなに可愛いくお願いされたら、君を置いて帰れなくなっちゃうよね」

『じゃあ向こうで話そう?』


残ったグラスの最後の一つを片付けて、総司の手を引くとちゃんとついて来てくれる総司はまだ私と一緒にいてくれるみたいだ。
小さい声で話さなければならないし、この部屋からは出られないけど、ここが今の私達にとって誰にも邪魔されない幸せの空間。
優しい腕の中、大好きな人の温もりに目一杯甘えた夜だった。


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