6

慣れない部屋のドアを静かに閉めると、どこか借り物のような空気が胸の奥に入り込んでくる。
真っ先にバスルームへ向かってぼんやりとしたままシャワーを浴びても、お湯の音が今日は少しだけ遠くに聞こえる気がした。

身元が分かってからの日々は目まぐるしくて、自分ではうまく飲み込めていないまま優しい人たちの中にぽつんといる。
お父様も、騎士団の方々も、周りのみなさんも……みんな本当にあたたかくて優しくしてくれる。
でもたくさんの人に囲まれているのに、まるで遠くからその光景を見ているみたいで、どこか現実感がないまま時間だけが過ぎていった感覚だった。

本当はここに戻ってくる途中で、ほんの少しだけ期待していた。
この場所に来れば、何かが蘇ってくるんじゃないかって。
懐かしい景色に触れれば、大切な人たちと話をすれば……少しずつ記憶は戻って元の本当の自分に戻れる筈だと思ってしまっていた。

だけど実際は何ひとつ思い出せないまま、私の心は今も空っぽ。
名前も声も想い出も、まだ全部遠いままだった。


『……このまま記憶が戻らなかったら……どうしよう』


そんなふうに考えてしまえば、胸がきゅっと痛んだ。
私が何も思い出せないことで、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
せっかく優しくしてくれているのに、私が空っぽのままならその優しさにどう応えればいいんだろう。

バスルームの鏡に映る自分を見つめながら、そっと目を伏せる。
本当の私がどんな人だったのか。
何が好きで、何を大切にしていたのか。
たった一つでも思い出すことができたら、少しは安心できたかもしれないのに。


バスルームから出た私は、静かな部屋の中をそっと見回す。
絹のカーテン、淡い灯り、やわらかなベッド。
どれも自分のものなのにやっぱりどれも借り物みたいで、心が落ち着かない。
ベッドの中でひとつ、またひとつと深呼吸をしてみても、今夜は胸のざわめきは静まってくれなかった。


『……なんだか、へんな感じ』


手元を見つめると、知らないようで、でも確かに私の手。
何をしても自分じゃないみたいで、頼りなくて、不安が消えない。
私はベッドからそっと立ち上がると、部屋の中を歩き回るようにして、ふらりともうひとつのドアの前に向かった。


『ここ……』


気がつくと、足が向いていたのは総司の部屋へと繋がる隣の扉だった。
意識していたわけじゃないのに、気づけば目の前に立っていた。
なんだか不思議な気分でゆっくりと手を上げかけたけど、ふと壁の時計が目に入りそのまま小さく動きを止める。


『……こんな時間に、迷惑……かな』


再会したあの夜、ほんの少しだけ総司と話したことを、私は何度も思い出してしまう。
ぎこちなくて分からないことばかりのはずなのに、総司の前ではほんの少しだけ、自分が自分でいられるような気がしていた。
その理由はわからないけど、総司と話すのは居心地が良くて、不思議と安心できる……そんな感じ。
変わらないと言ってくれた総司の言葉が嬉しかったから、もう少しだけ彼の声が聞きたいと思った。

だからもし彼が寝ていても起こさない程度の強さで、二回扉をノックしてみる。
するとドアの向こうからは暫く何の反応もなかったから、やっぱりもう休んでしまったのかもしれない。
そう思って少し残念な気持ちで踵を返そうとした時、直ぐ横で小さくドアが開く音がした。


「ごめん、丁度お風呂から出たところでさ」


思わず総司を見上げると、栗色の髪は濡れていて身体にはバスローブが羽織られている。
はだけた胸元からは上半身が見えてしまっていたから、思わず横に目線をずらした。


「どうしたの?」

『あの……用は特にないんだけど、まだ起きてるかなって思って』


やっぱり少しだけ緊張する。
総司と私が今までどのような関係を築いていたのか分からない分、まだ手探り状態だった。
でも様子を窺うように再び総司を見上げてみると、柔らかく微笑んでくれたから、また心がほんわりと温かくなった気がした。


「少し話しでもする?」

『いいの?』

「勿論。ただまだこんな格好だから、良かったら入って待っててよ」


「どうぞ」と言ってくれる総司にお礼を告げて、中へと入る。
初めて見る部屋を見回していると、総司は私の肩にカーディガンを掛けてくれた。


「温かくしてないと風邪引いちゃうでしょ」

『ありがとう……』

「僕のだからだいぶ大きいけどね」


山崎さんもそうだけど、この家の専属騎士の方はとてもよく気が利いて常に傍で主人のことを気に掛けてくれている。
こうした優しい気遣いも専属騎士としての教育を積んできた賜物なのだろうと考えながら、その優しさをただ素直に嬉しいと思った。


「今温かい飲み物作るから待ってて」

『あ、私が作るよ?総司は着替えたりしていいよ』

「いいから君は座ってて」


後ろから肩をやんわり押されて、腰掛けた先はソファーの上。
ずっと街娘だと思っていた分、今のようなお嬢様扱いは慣れなくて少し落ち着かない気分になった。


「はい、どうぞ」

『わあ、ありがとう。これなあに?』

「柚子はちみつだよ。君は好きだったんだよ、これ」

『そうだったんだ、柚子のいい香りがする。頂きます』


マグを両手で包みながらそっと息をあてると、温かい柚子の香りが鼻を掠める。
一口飲めば甘くて美味しくて、思わず笑顔になる私を見て総司もくすりと笑っていた。


『甘くてとっても美味しい』

「セラは甘いもの好きだったもんね。蜂蜜は太らないから沢山入れてって言われてこの味で落ち着いたんだ」

『いつも総司に作って貰ってたの?』

「たまにね。どちらかと言うと僕が君の部屋に行くことのほうが多かったからさ」


総司は今日まで持ち運んでいた大きな鞄から、服やら何やら色々取り出しながらそう話している。
私は侍女さんにお片づけを頼んでしまったけど、総司は「自分で片付けます」と言って断っていたことを思い出した。


『そうなんだね。今は総司の方が私より私の好みとか分かってそう』

「まあ、昔の君に関してはそうかもね。逆に今の君の好みは分からなくなっちゃったけど」

『多分変わってないよ?』

「そうなの?でも記憶がないんだから分からないじゃない」

『でも甘いものも、この柚子はちみつも凄い好きだし、好みは早々変わらないよ』

「ふーん?だといいけど」


少し不服そうな視線を向けられた気がして目を瞬いてしまったけど、総司は再び鞄に視線を落とし、中に入っていた物を整理していった。


『私も手伝おうか?』

「大丈夫だよ、もうこれで終わりだからっと……」


総司は最後に背伸びをしながら棚の上に鞄を置く。
そしてバスルームへと入ると、バスローブ姿からナイトウェアに着替えた総司が出てきて私の隣に腰掛けた。


「今日、疲れたんじゃない?」


奥まで腰掛けた私の真横、浅く座っている総司は頬杖をつきながら私を見つめる。
少し距離が近くて落ち着かない気分になったから、手の中にある柚子はちみつをじっと見つめることしか出来なくなってしまった。


『ううん、みんな良い人達で優しくて安心したよ』

「そうだね。ここの城の人達は本当に良い人ばかりだと思うよ」

『うん。ここに来て、私は幸せだったんだろうなって思った。みんな記憶がないことも気遣ってくれて、別に無理に思い出さなくていいよって言ってくれて……安心したかな』


それは私に無理をさせないように言ってくれた言葉だということは分かっている。
その優しさはありがたいものの、きっと本心ではないかもしれないと考えてしまう自分が嫌だった。

でも今は後ろ向きでいるより前向きでいたい。
変わらないと言ってくれた総司の言葉を信じて、私は私のままここでの生活に慣れていけばいいよね。


「君が全てを忘れてしまったことに何か止むを得ないない事情があるなら、仕方ないことかもしれないよね」

『止むを得ない事情?』

「例えば何か思い出したくないことがあったり、傷付かないように防衛本能が働いてたり……勿論僕にはその理由は分からないけど、もし忘れることを君自身が望んでそうなってしまったなら、確かに無理に思い出して欲しいなんて言えないかなって思ってさ」


記憶を戻すために何をすべきかを考えてばかりいた私は、そもそも記憶が無くなった理由を深く考えることをしてこなかった。
頭を打ったせいかとも思っていたけど、総司が言うように忘れることを自分自身が選択していたのだとしたら、それはそれで複雑な心境にならなくもなかった。
だから黙り込む総司の横顔を眺めながら、私も言葉を探していたけど。
総司は再び私を見つめると、真剣な面持ちで言葉を続けた。


「それでも僕は、君に思い出して欲しいって思ってしまうんだ。思い出すことで君が辛い想いをするかもしれないけど、その時は僕が傍にいて君を支える。絶対に一人で苦しませたりなんてしないよ。だから僕はちゃんと君の人生を歩んで欲しいと思う。本当の君のままの人生をね」


総司の言葉は今の私にとっては少し辛い言葉だった。
まるで今の私は本当の私ではないと言われているよな……きっとこの人が好きな私は今の私ではないんだろうなって思ってしまうような言葉にも感じられた。

でもそれとは反対に、私のことを真剣に考えてくれてるからこそ出た言葉だとわかったから、こうして正直に今の私に向き合ってくれる総司の想いは嬉しいと思う。
総司が大切にしてくれていた本当の私を通して、今の私も優しく包まれているような気がした。

総司がこんなふうに言ってくれるのは、それだけ私との思い出を大切にしてくれているようにも感じられたし、きっとこの人は私が笑っていた時も泣いていた時も、ずっと傍にいてくれたのかもしれない。
たくさんの時間を共に過ごして、想いを交わして、寄り添ってきてくれたんきてくれたんだろうと気付いた。


「セラ……、ごめん。君を泣かせたいわけじゃなかったんだけど……」


総司の言葉を聞いて、自分の頬が濡れてしまっていることにようやく気付く。
少し震えてしまった指先で慌ててそれを拭ったけど、またぽろぽろ溢れて止まらなかった。


「……本当ごめん。こんなこと言うべきじゃなかったね」

『ううん……』


思い出せないことが、こんなに悲しい思ったのは初めてだった。
本当の私を大事に想ってくれる総司のことを、何も覚えていないのがただ苦しかった。

でも辛そうに私見つめる総司の顔を見て、この人に悲しい顔はさせたくないと思う私がいる。
そのためにも私は一日も早く記憶を取り戻して、本当の私に戻らなければいけない。


『ありがとう。私のこと真剣に考えてくれて……総司の気持ち、嬉しいよ。私も、早く思い出したいから……頑張る……』


でも本当は頑張り方も分からない。
沢山の話を聞いて沢山の知り合いに会う度に、それでも何一つ思い出せない自分に今までより大きな不安を覚えたのは確かだった。
本当の私ならどう返事をするのかな、とか。
この人とはどう接していたのかな、とか。
そんなことばかり考えながら話すことしか出来なくて、それが余計に自分らしさすら無くしてしまいそうで怖かった。

でも総司がこの前、私は私のままで変わらないって言ってくれたから、不安になる度その言葉を思い出して大丈夫だって言い聞かせてきたけれど。
やっぱり今の私は違うんだと分かってしまった今、再び涙が湧き上がってきた。


「ああ……、セラ、ごめんね?そんな泣かないで……」

『ごめ……、今日は私……もう戻るね……』

「いや、駄目だよ。そんな状態のまま行かせられないよ」

『……でも……』

「セラ……」


少し躊躇いがちに伸ばされた腕が、私の身体を包んであやすように頭を撫でてくれる。
それでも止まってくれない涙は総司の肩を濡らし、私の頬もひりひりと痛くなった。
気持ちの整理がつかなくて、自分の感情もよく分からない。
でも一つ分かったのは、多分私はこの人にがっかりされたり悲しい顔をされたりしたくないんだろうということだった。


「ごめん。勝手なことを君に言っちゃったよね」

『ううん、総司の言葉は嬉しかったよ……』

「変に捉えないで欲しいんだけどさ、僕は……」


総司がそう言い掛けた時、総司の部屋の扉がノックされる。
総司は目を見開くと直ぐに眉を顰め、「静かにしててね」と小声で言ってドアの方まで歩いて行った。


「山崎君?どうしたの、こんな時間に」

「沖田さん、夜分にすみません。近藤さんがもし沖田さんが起きていたら、話がしたいから呼んできて欲しいとおっしゃられてまして。部屋の電気が漏れていたので、お声を掛けさせて頂きました」

「近藤さんが?それって明日だと駄目なのかな?」

「明日はお嬢様の護衛などされますよね。沖田さん一人の時にお話をされたいようです」

「分かったよ。少し待っててくれる?上だけ羽織ったら行くよ」

「すみません、宜しくお願い致します」


部屋のドアを閉めると、再び総司は私の前に来て悲しそうに私を見つめる。
頬の涙を拭ってくれると、静かな声で私に言った。


「なるべく直ぐ戻ってくるから、まだここにいてくれる?」

『うん……』

「ありがとう。近藤さんのところ行ってくるから、少しだけ待ってて」


私が頷くと、総司は少し名残惜しそうにしながら私から離れ、ジャケットを羽織ると部屋から出て行く。
一人になった部屋はやたら静かで、また涙が湧き出てきたから、私はベッドサイドに置かれたティッシュを取りにソファーから立ち上がった。


『嫌だな、こんなに泣くなんて……』


子供みたいに泣いてしまったのが恥ずかしい。
総司の少し困ったような顔を思い出すと、また胸の奥が痛くなって小さなため息がこぼれた。
そっと総司のベッドの端に腰を下ろして、さっきの総司の言葉を思い出す。
すると再び涙が湧き上がり、私は慌ててそれを拭った。

もしこのままずっと記憶が戻らなかったら、今の私はやっぱり前とは違うって思われちゃうのかな。
総司ががっかりしてしまったら、どうしよう。
そんなふうに考えてしまって、胸の奥がまた苦しくなった。


『……疲れちゃった……』


思わず無意識に漏れた本音を聞いて、心の奥からふわっと湧き上がる感情に気付かされる。
前向きでいようと頑張っていたつもりだったのに、全部が逆になっていくようで唇をそっと噛んだ。

今日会った優しい人たちは、きっと大切な人達なんだろう。
けれど私にとっては皆初めて会った人にしか思えなかった。
お父様だって優しいけど、どこか距離のある初対面の紳士みたいに感じてしまうし、騎士団の方々も誰が誰なのか分からなくてなんだか戸惑ってしまう。
これからまた学院に通うようになったら、今度は見知らぬ人達が私の友達になる。
名前を呼ばれても、笑いかけられても、何も返せない自分がいるのが怖かった。


『戻りたい……』


あの頃の自分に戻りたい。
皆を思い出して、あの人達の優しさをもっと真っ直ぐ受け取りたいのに。
それなのに今の私は、顔色をうかがってばかりで疲れてしまって、情けないなと思った。
でももしかしたら今の私のままだと皆に受け入れてもらえないんじゃないかという不安が胸のどこかにずっとあって。
だからせめてほんの少しでも前の私に近づこうとしてしまう。
考えすぎだって分かってても、頭からそのことが離れなかった。

時計を見たら総司が部屋を出てから三十分。
もう部屋に戻ろうとカーディガンを脱ぐ。
思わずそれを抱き締め総司の香りを吸い込んだ時、不意に著しい睡魔が襲ってくる。
それに気付いた時には意識を手放していて、ただ腕の中にあるカーディガンだけが私を慰めてくれている気がしていた。

ここはきっと、かつての私の居場所だった。
でも今の私には、少し遠く感じてしまって、どこにもちゃんと居場所を見つけられていない……そんな気がした。


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