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僕が選択科目で音楽を履修したせいで、今回の世界で辿る道は前回とはまるで違うものになった。
良かったのか悪かったのか、その判断を下すにはまだ早い。
ただひとつ確かなのは、放課後の声楽の練習にはうんざりしているという事実だった。
週に数回の参加が義務づけられているこの練習は、僕にとって静かに積み上がるストレスの温床みたいになっている。
「総司さん、よければ今度是非私のお城に招待させて下さい」
学院祭まで、残り一週間。
何度も繰り返してきた放課後の練習は慣れたものになりつつあるのに、その後に訪れる王女殿下との時間だけは、どうしても慣れそうになかった。
あの日、彼女助けたことが原因なのは間違いない。
恐らくそれ以来、僕に好意めいたものを向けるようになったのだろう。
けれど王族は、決して邪険に扱えない相手だ。
その距離の取り方を誤れば、セラにも近藤さんにも迷惑が掛かる。
だからこそ、王女からのこうした誘いは、僕にとってはただの苦痛なものでしかなかった。
「お声がけ頂きありがとうございます。ただ申し訳ないのですが、僕こう見えて結構多忙でして」
「そうなのですか?」
「専属騎士なのでお嬢様の護衛が主な任務なんですよ。それに帰宅してからは騎士団の通常任務もありますしね」
「随分とお忙しいのですね。それですと、ご自分の時間が取れないのではないですか?お可哀想」
「いえ、毎日が充実していて楽しいですよ。専属騎士が長年の夢だったので、今の職務には僕自身大変満足しています」
可哀想という言葉は好きじゃない。
話の流れにもよるけど、王女殿下の今の言い方は相手を気にかけているようで実際は違う。
僕の境遇を下に見て憐れんでいるような、そんな含みすら感じられた。
それにアストリアの専属騎士の待遇は、他の家門と比べてどこよりも良いと自負している。
文句のつけようのない衣食住に、こうして学院にまで通わせて貰えることは勿論、大好きなセラと一緒にいられるんだから、僕にとっては正に天職だ。
「そうですか。セラさん、とてもお優しそうですものね」
「そうですね、優しくて素敵なお嬢様ですよ。では、僕はそろそろ失礼します。本日はありがとうございました」
僕がそう言って頭を下げた時、急に彼女は顔を歪めてその場に倒れそうになる。
この状況で支えないわけにはいかずに手を差し伸べてしまったけど、こうして僕が帰る頃になると体調が悪くなるのは度々で。
タイミング的に敢えて倒れたとしか思えなかったこそ、眉を顰めた僕がいた。
「……大丈夫です?」
「はい……、ごめんなさい。気分が悪くて」
「早くお帰りになった方が良いと思いますよ。馬車までお送りしますから」
「もう少しここで休んでからでも宜しいですか?胸が苦しくて……」
図書室ではセラや伊庭君、平助が課題をしながら僕を待っていてくれている。
僕がこうしてよく足止めを食らうことで、無駄に皆の時間を浪費させていることが心苦しかった。
けれど皆に話せばあの子の心労になるだけだし、変に勘繰られても困るから詳しくは話していない。
とは言えこのまま王女の言いなりでいては駄目だと、彼女を近くの椅子へ座らせるなり、僕は覚悟を決めて言うことにした。
「分かりました。ただ僕は今日あまり時間がないんですよ。大切な任務が控えておりますので、申し訳ないですが先に帰らせて頂きます。付き添いが必要でしたら先生方にお声掛けしますよ」
そもそも普段は護衛をつけているのに、この時間だけは敢えて人払いをしているかのように護衛がいない。
最近はよく馬車で護衛を待機させているようだけど、そのことにも納得がいかなった。
けれど僕の言葉を聞いた王女殿下は、微笑むなり驚くべきことを口にした。
「任務なんておやすみしてしまえばいいですよ?」
「いや……、そういうわけにはいきませんよ」
「アストリア騎士団の方にこちらから事情を話せば総司さんが咎められることはありません。今夜にでも私から父に話して……」
「いえ、それは困ります。僕はアストリアでお世話になっている身ですので、出来る限りのことはしたいんですよ。任務だって、僕自身が休みたくないですから」
何を勘違いしているのか、彼女から出る提案にはぞっとする。
そんな勝手な動きをされてしまえば僕の立場がないし、何より近藤さんやセラを巻き込みたくはない。
これは絶対にだ。
「分かりました。総司さんがそう仰るのでしたら、私の方からは何も言いません」
「はい、そうして頂けると助かります」
「そのかわり、もう少し一緒にいて下さいね。私、あなたとお話がしたいの」
ここ最近で分かったことは、王女殿下には普通の人に通じる理屈が通用しない。
いくらこちらの事情を話してみても、全く汲み取る様子は見受けられなかった。
さすが権力でものを言う王族の人間という感じだけど、そんなものに巻き込まれている場合ではない。
セラを護り切るためにも、ひと時だって離れたくないのに。
「ではあと十分にして下さいね。それ以上は僕も無理ですよ」
「ふふ、分かりました。でも総司さんはつれない方ですね、そんなにセラさんが大事?」
「当たり前じゃないですか。僕はお嬢様の専属騎士なんですから」
「本当にそれだけなのかしら?」
「そうですけど?」
「じゃあもし私の専属騎士になったら、同じように私のことを大事して下さる?」
その言葉を聞いて、恐らく僕は込み上げてきた不快感を態度全面に出してしまったのだろう。
僕を見て口元を手で押さえた王女殿下は、おかしそうにくすくす笑った。
「冗談ですよ?そんな怖い顔をされなくても宜しいのに」
「いえ、冗談だってことは分かっていますよ。そもそも僕では王族の騎士は務まりませんしね」
「でも総司さんは騎士特級をお持ちですよね、とても優秀な腕前だと思いますけど」
「僕はアストリアの家に命を救って貰った身なんです。元々は爵位すら持っていなかった卑しい身分の出ですから、そういう意味でも王族の護衛は僕には向いていませんよ。それに僕は近藤家に忠誠を誓っておりますので、今更主人を変えるつもりもありません。なのでもし王女殿下の専属騎士になったら、などという質問にもお応えすることはでき兼ねます」
にこりともせず真面目に答えると、彼女も僕を見つめ何も言わないままただ微笑んでいる。
その笑顔が崩れないことが逆に嫌だったけど、下手なことを言って勘違いされるよりかは良いだろうとはっきり告げた。
「とても真面目な方なのね、素晴らしいと思います。騎士の鏡ですね」
「そのようなことはないですけどね。ですが、お褒め頂きありがとうございます」
「ねえ、聞きたいのだけれどセラさんはどんな方なの?」
「え?」
「私、総司さんのことも好きだけどセラさんとも仲良くなりたいの。お人形のように愛らしいご令嬢がいらっしゃるって噂では聞いていたけど、本当に可愛らしい方だから是非仲良くなりたいと思って。もし良かったら仲を取り持ってくださらない?」
セラをこの人に近づけてはならない……そう警告する本能的な感覚が、冷たく背筋をなぞっていく。
でもこの場ではっきり断ることも出来ない立場柄、濁すように言葉を返した。
「そうですね、そのうちで宜しければ」
「楽しみにしています。クラスが違うので中々お会い出来ないことが残念だわ」
「すみません、そろそろ時間なので僕は失礼致します」
長く感じた十分がようやく過ぎて、僕ははっきりそう告げる。
王女殿下はいつものように微笑むと、僕を見上げて行った。
「約束ですものね、分かりました。では最後に一つお願いしても宜しいかしら?」
「……なんでしょうか?」
「先程倒れかけた時に足を少し捻ってしまったみたいなの。保健室までいいので、連れて行って下さらない?勿論、いつもみたいに」
彼女は、僕の立場で断れないことを知っていて敢えて試しているような眼差しで僕を見つめていた。
何が目的かは分からないものの、僕を本気で気に入っているわけではないことだけは分かる。
だからこそ余計に末恐ろしいわけだけど、セラや近藤さんのことを考えれば首を横に振れる筈はなかった。
「かしこまりました。では保健室までお運び致します」
保健室は同じ棟にあるし、然程遠くない。
皆がいる図書室は別棟だし、セラに見られる可能性が低いことだけが幸いだった。
けれど練習後、こうして王女殿下を横抱きにして彼女の指定した場所まで行くのは、今日が初めてのことではない。
彼女はことあるごとに何か理由をつけては、僕を自分の護衛のように好き勝手に扱っていた。
彼女の言う「いつもみたいに」という命令は、僕の心を蝕む呪いのような言葉だった。
「前々から思っていたんですけど、総司さんって良い香りですね。何か香水でもつけていらっしゃるの?」
「まあ、少しだけ」
「やっぱり。何の香り?」
セラが僕のためにブレンドして作ってくれている香水だ。
この人に詳細なんて話したくもない。
だから「貰いものでよくわかりません」と返すと、彼女は再び話しかけてきた。
「そう。でしたら私この香りはどうかしら?」
「僕、香水のことはよく分からないんですよね。すみません」
僕はこの人の甘ったるい香りが嫌いだ。
それにセラ以外の異性にこうして頻繁に触れなければならない時間も嫌で堪らなかった。
そしてこれを繰り返す度に僕の中に溜まっていく罪悪感が、僕の胸を苦しくさせる。
こんなにもセラのことが大事なのに、あの子を裏切ってしまっているように感じられた。
それなのに僕の心情なんてお構いなしの王女は、保健室まで歩く道すがら、僕の首筋にいきなり抱き着いてくる。
そしてまるでセラがするかのように僕の首元に擦り寄ってきたから、嫌悪感から身の毛がよだつ思いだった。
「ちょ……王女殿下、何をされてるんですか?そのようなことをされるのは困ります」
「だって香水の香りがよく分からないと仰るから。こうしたら少しは香りが分かると思ったんですけど」
僕から離れた彼女は、わざとらしく僕を上目遣いで見上げて悲しそうな顔をして見せる。
直ぐ真下にあるその顔から視線を逸らし、僕は無言のまま保健室までの道を急いだ。
「はい、着きましたよ。足やお身体、お大事になさって下さい。では、僕はこれで」
どうせ足だって体調だって問題はないのだろう、王女殿下の顔色は全くもって悪くない。
保健室から出て行こうとする僕を再び引き止めるから流石に苛立ちながら振り返ったけど、彼女はにこやかに微笑み言った。
「先程の約束楽しみにしていますね。セラさんに宜しくお伝えください」
「……承知致しました」
王女殿下の言葉がどこまで本気かは分からない。
ともあれこれ以上関わりたくはないから、早く音楽祭が終わることを願ってしまう僕がいる。
あと一週間で本番、あと少しだけ耐えろと自分に言い聞かせて、セラ達のいる図書室へ走って向かった。
「ごめん、待たせて」
もう外も暗く、閉館ぎりぎりということもあり、僕達以外に人もいない。
図書室に駆け込むと、三人はいつもの笑顔を僕に向けてくれた。
「遅くまで練習お疲れ様です。そろそろ戻って来る頃だろうと、丁度話していたんですよ」
「総司、お疲れ!少しは上手くなったかー?」
『練習おつかれさま。全然待ってないから大丈夫だよ』
それぞれがかけてくれる優しい言葉を聞いて、なんだか無性に皆と過ごす時間が愛おしく感じてしまう。
それと同時に僕がいつも当たり前に過ごしているこの場所が、いかに自分にとって大事か再認識したような気分だった。
「ありがとう。いつも待たせてばかりでなんだか申し訳なくなっちゃうけどね」
「総司がそんなこと言うなんて珍しいじゃん」
「本当ですよ。何か悪いものでも食べたんですか?」
『ふふ、明日はとんでもないものが降ってくるのかな』
「ちょっと何なの?皆して酷いんだけど。こっちは本当に申し訳なく思ってるのにさ」
「別に今はテスト前じゃねーし、のんびり待ってるだけだから気にする必要なし!」
『うん。丁度皆で課題片付けられるから良いねって話してたんだよ。だから気にしないで大丈夫だよ』
「セラが沖田君の分の課題も終わらせてくれたんですよ。彼女にちゃんとお礼を言ってあげて下さい」
「え?そうなの?」
驚いてセラを見ると、嬉しそうに僕を見てはにかんでいる。
その顔を見て癒されるのと同時に無性に抱きしめたくて堪らなくなるわけだけど、先程のことを思い出せばまた罪悪感が湧き上がった。
「セラ、ありがとう。今日はこの後任務もあるから、本当に助かるよ」
『ううん、このくらい任せて』
「よし、じゃあ帰ろうぜ!腹減った」
「そうですね。今日は僕と平助君も任務がありますから、早いところ行きましょう」
皆の笑顔は僕の荒んだ心を少しずつ治してくれるから、僕はこうして微笑むことが出来る。
僕を見上げて嬉しそうに笑うセラに微笑み返して、馬車へと向かって行った。
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