7
セラがいる部屋を出て行くと、僕は指示されていた通り隣の部屋へと戻った。
そして直ぐに鏡の中の様子を窺えば、セラは暫くの間ソファーに静かに座り続けていた。
その姿はあまりに儚く、誰もいない広い部屋の中でセラの存在が小さく見える。
まるでその繊細な身体がこの広々とした空間に押しつぶされてしまいそうにも見えて、今日会って話したことで余計にセラを傷付けてしまったようにも思えて不安で堪らなかった。
そしてその予想通り、耐え続けていた感情がついに堰を切ったのか、涙がぽたりぽたりとセラの頬を伝う。
それはまるで静かな雨が降り始めたようにも見えたけど、やがて涙は止まるどころか次第にその勢いを増し、セラは小さく肩を震わせていた。
声を出すこともなくただ静かに泣き続けるセラがその愛らしい表情を歪めるたびに、僕の胸を締め付ける。
セラの涙一粒一粒が、僕の胸にまるで針のように突き刺さっていくようだった。
「総司さん、上手に命令を聞けましたね。合格です。見ていてとっても楽しかったですよ」
僕の心情を知ってか知らずか、王女は満足した面持ちで僕の方に視線を向ける。
その言葉に返事をする気にはなれず、再びセラに視線を向けた。
セラの涙を、セラの痛みを……これほどまでに感じるのは初めてて、僕がいないところでこうしていつも一人で悲しみに耐えているのかと思えば、自分の無力さが憎くて堪らなくなる。
涙を拭っても拭いきれずにとうとう顔を覆うように手を添え泣き出したかと思えば、そのまま僕や王女の為に優しい祈りを捧げているから、僕の心はまた大きく揺れ動いた。
「あーあ……あんなに泣いて可哀想に」
「セラさんが泣き虫なだけではないの?今のお祈りはとても本心には思えないけど」
「お前は手厳しいね。さ、俺はセラを慰めにでも行ってこようかな」
王太子はいつになく上機嫌でそう言うと、軽やかな足取りで歩いて行く。
その言葉に眉を顰めた時、僕より早く口を開いたのは王女の方だった。
「薫が行く必要はないわ」
「別に行ったっていいだろ?」
「どうして?まさか今のがセラさんの本心だと思っているわけではないでしょう?」
「本心なんじゃないの?あいつは馬鹿でどうしようもないけど、お人好しだからね」
「そんなはずがないわ、ただ綺麗事を言うのが好きなだけよ。願ったところで無駄だって、いつ気づくのかしら。薫まで騙されるなんて、どうかしてるわ」
いつもはセラに対して温厚な王女が、初めて苛立った視線をセラに向けていた。
セラの醜い内面が見られなかったことへの不満からなのか、セラを庇っても見える王太子の態度が気に食わなかったからなのかは分からないけど、王女の敵意がセラに向けられることは避けたいと思わずにはいられなかった。
「はあ。分かったよ、行かなければいいんだろ」
「ええ。それに泣き止んでくださったら、今日はセラさんには帰っていただきます。いつまでも宮廷内で泣かれても迷惑ですからね」
「千鶴、何に怒ってるんだよ。ついさっきまでは喜んで見ていたじゃないか」
「セラさんの色々な表情を見たかっただけです。でも、もうだいぶ飽きました。次のゲームはどうしようかしら」
冷たくそう言ってセラを見据える王女が、何かよからぬことを企むのであれば僕はそれを阻止しなければならない。
セラの悲しみに触れ、痛みを共有したことで、あの子をこの地獄のような場所から一刻も早く連れ出したいという意志がより強く宿った。
そしてその夜、夕方の任務を終えた僕が日課の報告の為に王女の部屋に出向くと、不機嫌そうな視線が僕へと向けられる。
王太子の方は気怠げに肩を回しながら、公務の愚痴をこぼしていた。
「こちら、今日のゲームの結果です。達成されたので印を押しておきました」
あと三つクリアすれば、僕は晴れて自由の身だ。
けれど今日までの二つをクリアするのにどれほどの悲しみをセラに与えてしまったのかを考えれば、契約書を見ても気分は沈むばかりだった。
「それにしても総司さんは酷い方ですね。セラさんにあんな恥ずかしい姿を晒させて、本当に彼女のことが大切なんですか?」
この程度の質問は勿論されると思っていたし、僕も自分が最低だと分かっているつもりだ。
自責の念に苦しみながらもこうするより他がなかった上、他の男に何かされる危険性を考えれば僕がこの手でセラに触れることがまだあの子を傷付けないと思ったからこその選択だった。
「その酷いことを提案したのは王女殿下ですけどね。僕はただ契約を果たす為に動いただけです」
「そうですか。でもご立派でしたよ、セラさんも沢山泣いて下さいましたしね」
「王女殿下はセラが泣いていると、自分よりあの子が不幸に見えて優越感に浸れるんですか?他人の醜い姿が見たいのも、自分以外の人間が自分と似たような部分を持ち合わせていることに安心したいからですよね」
あれからずっと考えていた。
なぜこの人がセラに執着し、あの子を試すことばかりするのか。
最初はセラに好意を抱いている可能性を考えたけど、多分そんな単純なものではない。
恐らくこの人は、自分の執着した相手の醜い姿を見ることで、自分の歪んでしまった心を肯定したいのかもしれないと思った。
「……それはどういう意味でしょうか?」
「僕が言った通りの意味ですよ。セラをあの場に閉じ込めて、泣かせてまでして見たいのは、あの子の醜い一面なんですよね。その理由は王女殿下が持つ不安の裏返しではないんですか?」
僕がそう言ったと同時に、僕には机の上に置かれていた本のようなものが投げられる。
頬に当たって落ちたそれは、見覚えのある字で書かれたレシピのようなものだった。
「知ったようなことを言わないで下さい。私はただセラさんの本性が見たいだけです」
「それを知ってどうするんです?」
「私、昔から愛や希望に満ち溢れていると信じて疑わない人が嫌いなんです。そういう綺麗事をいう人に限って内面は汚くて、いざ自分に不幸が降りかかると慌てて喚いて醜態を晒すの。でもそんな自分自身の醜さに気付いていないから、自分は清い人間だと信じて疑わないし、自分は正しいと思っている。心が広くいられるのは自分が恵まれてるからだって気付いてない人間が、私は本当に大嫌い」
つまり自分は病弱でやりたいこともままならないから、歪んで当然だと言うことだろう。
そして幸せそうな人間にそれを憐れまれたり過度に心配されたり、時に見下されたような同情をされることでこの人の心は荒んでしまったのかもしれない。
この人なりにこの世界は生きにくく、辛い場所なのかもしれないと思った。
そう考えてしまうと王女の言い分も分からなくはないけど、ただ一つ言えるのはその考え方はあまりにも寂しい。
人の愛情に触れてもそれを真っ直ぐ受け取れないのは、憐れだと思わずにはいられなかった。
「まあ、言いたいことは分かりますけどね。でもセラは純粋に相手の立場に立って考えられる子ですよ」
「それはあなたにいい顔したいだけだということが分からないのでしたら、あなたも本当に愚かですね」
「仮にそうだとしても僕を想うが故に、陰で泣きながらも耐えてくれる姿を見ると、それも愛情の一つの形だと思うんですよ。それを全面的に否定する必要はないと思うんですけどね」
「あなたがそう思うのは勝手だけれど、セラさんが今日のあなたの行動の本当の意味を知ったら、彼女は同じように愛情の一つの形だと思ってくださるのかしら?私達が今日の一部始終を見ていたと知ったら、きっとセラさんだってあなたに対しての感情も今とは変わってしまうと思います」
この人のやり口は、じわじわと相手を痛ぶり追い詰めていく毒のようなものだ。
その毒に蝕まれていると気付いた時には後戻り出来ないところまでその毒は身体全体に侵蝕し、決して僕を逃してはくれなかった。
でもそんな僕も今日セラと言葉を交わして彼女の優しさに触れたことで、心に巣食う毒を僅かに浄化できた気がする。
セラの汚れない眼差しや愛情が、僕を優しく包み込んでくれた気がしていた。
「そうなったら僕は誠心誠意謝って自分の気持ちを伝えますよ。許して貰えるまで諦めずに伝えます」
「あなた方は綺麗事がお好きだとよくわかりました。それではせいぜい頑張って、セラさんを繋ぎ止めておけるようなさって下さい。もう下がって」
王女は冷たくそう言って僕の方を一度も見ることはなかったけど、王太子は立ち上がり先程王女が投げた一冊のノートを手に取りそれをパラパラとめくって眺めていた。
「あいつもマメだね。こんなの千鶴に書いたところで、お前は菓子作りなんてしないだろ?」
「するわけないわ。あんなに面倒なことをして時間かけて馬鹿みたい。クッキーなんて、どこででも手に入るのに」
「まあでも、あいつのクッキーはおいしいと思うよ」
「……薫、あなたまで何なの?先程からやたらセラさんを庇おうとしているように見えるのだけど」
「そんなつもりはないけどね。ただお前もただのゲームにそんなむきになる必要はないんじゃない?」
「私は別にむきになってなんて……」
「俺は今日、公務で疲れてるんだ。そろそろ寝るよ」
「あ……」
呼び止めようとした王女から視線を逸らし去って行く王太子は、手元のノートを机に置き部屋から出て行ってしまう。
王女は悔しそうにその姿を見送るとそのノートを再び床へと捨てるから、僕はそれを手に取りそのまま王女に一礼をして部屋を出た。
自室に戻りその本を開いてみれば、セラが王女宛に書いたお菓子のレシピがカラフルに彩られて綺麗にいくつも書かれている。
お得意の落書きは王女の絵に変わっていたから、思わず口元が緩んだ。
きっと君は今、泣いているのかもしれない。
そして僕の言った言葉に頭を悩ませている可能性もあるだろう。
それでも君はまだ僕を信じてくれていると思えるから、そんな君に手紙を書こう。
今は出せない手紙でも、この溢れた想いは決して無駄ではないと思いたかった。
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