6
あの後、手荷物をまとめ馬車に乗った私は、ただぼんやりと外の景色を眺めていた。
私の付き添いをしてくれている薫様は、私を城に送り届けてから宮廷に戻るらしい。
「面倒ばかりかけてごめんなさい」と謝った私に、「お前は謝らなくていい」と呆れた様子で言ってくださった。
「明日から、昼はどうするの?」
景色を眺めながら丁度そのことを考えていたから、私は薫様を真っ直ぐ見つめる。
ずっと悩んでいたことではあるけど、今がいい機会だと意を決して言うことにした。
『明日からは元通り、護衛の人達やクラスの友人とお昼を食べようと思っています。千鶴様にもそのこと、お伝え頂けますでしょうか?』
私が何か失礼な態度を取ることで、総司への風当たりが強くなったら困るという思いで、今まで素直に従ってきた部分もある。
けれど今日の様子を見たら、むしろ私は総司と千鶴様にとって二人の関係を邪魔する存在でしかない。
あんな場面を見てしまったら、もう……手紙も渡せないよね。
「分かった、千鶴には伝えておく。でも、たまには俺と食べようよ」
『薫様と?』
「ああ。別に毎日じゃなくていい。気が向いた時に誘いに行くから、その時は俺の相手をしてよ」
薫様のことは最初は少し苦手だった。
あまり話さないし、話したと思ったら意地悪だし。
少し怖くて近寄りがたいと思っていた。
でもここ最近は以前より親しくなれたのか、今日だってこの人の優しさに救われた。
それにまたリュネットにも会いたいから、私は笑顔で頷き返事をした。
『是非。薫様が誘ってくださるなら、その時はご一緒させてください』
「ああ、そうさせてもらうよ。で、手紙はどうする?」
いざ聞かれると、迷ってしまう私がいる。
あの光景を見てもまだ総司を信じていたいと思う自分が凄く嫌で、その未練を断ち切るように私は拳を握りしめた。
『手紙は……もう書きません』
「そう……。まあ、さすがにあんなところを見たら好きじゃなくなるか」
『総司のことは変わらず好きです。多分ずっと大好きなままだと思いますけど……大切な人だからこれ以上総司の重荷になりたくないんです。私の手紙はきっと、凄く総司を困らせると思うから……』
でもこの一年間、私は手紙を書いている時、とても幸せだった。
総司と繋がっていられる唯一の時間だと思っていたから、毎晩手紙を書く時間は私にとって凄く大切だった。
でも今夜からはそのささやかな幸せすらなくなってしまう。
そのことがこんなにも悲しいなんて、知らなかった。
「別に……、無理しなくても書きたいなら俺が渡してあげるけど?」
『大丈夫です、けじめはつけないと駄目だと思うので』
再び湧き上がった涙をこぼれる前に拭って、しっかりしろと自分に喝を入れる。
それでもいまだどこか実感が湧かないのは、それだけ私が総司を長い時間想い続けてきたからなのかもしれない。
「最後は残念だったけど、途中までうまかったよ」
何のことを話しているのか最初は分からなかったけど、直ぐにそれが競技のことだと分かる。
いつも毒舌な薫様が一生懸命私を慰めようとしてくれていることが伝わるから、私は思わずくすりと笑った。
「俺は面白いことなんて何一つ言ってないけど、何に笑ってるんだろうね」
『いえ、最近薫様が優しいなって思って』
「お前、俺のことを馬鹿にしてるの?」
『してません。ただありがたいと思っていたんです。今日は色々ありましたけど、薫様がいてくださらなかったらきっと一人で心細かったと思うので』
リュネットとの練習の時も、レースを待つ間も、総司と千鶴様のあの場面を見た時だって、薫様は私に寄り添っていてくれていた。
もしかしたらあの二人の邪魔にならないようにそうしていたのかもしれないけど、それでも私は救われたから薫様には感謝していた。
「お前とは約束したからね、乗馬を教えてあげるって」
『折角教えていただいたのに、あんな形で終わってしまい残念です。でもまた挑戦したいです』
「あんなことがあったのに怖くないの?」
『はい。ただ今度からは事前にもっと確認しようと思います。それにリュネットにもまた会いたいです。リュネットとコースを走ってる時、本当に楽しくて。まるで一緒に風になったみたいで最高でした』
あの一瞬は、嫌なことを全て忘れてただ乗馬を楽しめていた。
技術はまだまだ足りないしもっと練習も必要だけど、あの感覚は馬に跨ったからこそ感じられた特別なもの。
温かいリュネットの体温を思い出し、思わず口元に笑みがこぼれた。
『今日、風祭に参加出来て良かったです。とても楽しかった』
本当は完走できていたらもっと最高だったけど、今回は仕方ない。
次回からは事前に確認する大切さも学べた。
今日のことを思い返し色々考えていると、馬車の中で不意に目の前に座る薫様が立ち上がる。
そして私の隣の直ぐ真横に腰掛けるから、私は不思議に思いながら彼を見上げた。
「ねえ、セラ」
伸びてきた手が私の乗馬の帽子に触れ、また直してくれているのかと思った。
けれどその手はそのまま髪を撫で肩に優しく触れるから、思わず少し後ろに後ずさった。
「なんで逃げるの?」
『あの、近いといいますか……』
「近づいたんだから、それは近いだろうね」
『そうではなくて、離れて下さい』
「王太子の俺にそんなことを言っていいと思ってるの?」
『そういう言い方は、意地悪で良くないと思います……』
この人相手にこんなことを言えてしまう自分に驚いたけど、それだけ心を許せているのかもしれないと思えばそれはそれで驚く。
薫様も意地悪な笑みを見せると、ようやく少し私から離れてくれた。
「傷が治ったら、またリュネットに乗りにくるといいよ」
『いいんですか?ありがとうございます』
「折角頑張ったんだから最後まで走らせてあげたかったけどね」
『そうですよね……。リュネット、本当によく頑張ってくれたからあんなことになって可哀想で……』
「俺はお前に言ったんだけど」
『え?私ですか?』
「そんなに楽しかったなら、最後まで走った時の達成感をお前に味わわせてあげたかった」
少し眉を寄せそう言ってくれる薫様の顔には、ふざけた様子も意地悪な様子もなく、本心で言ってくれていることが分かった。
私も最後まで完走できなかったことがずっと心残りだったから思わず唇をきつく結んだけど、そんな私の気持ちを理解して寄り添ってくれる人がいることが幸せだと思えた。
『そう言ってくださりありがとうございます。達成感……いいですね。次回まで楽しみにとっておきます』
「まさか次回も出る気でいるの?」
『それは……どうでしょう。お誘い頂ければ喜んで出ますけど』
「じゃあ、来年も俺と一緒に出ようか」
『宜しいのですか?』
「ああ、リュネットと完走すればいい。絶対最高に楽しいはずだ」
『はい……!ありがとうございます』
楽しみができた。
リュネットの背中に乗って風を切り走っていく自分を想像したら、きっとこういう小さな楽しみを沢山見つけながら、私はまだ前に進めると思えた。
それなのによく分からない涙がこぼれて、慌ててそれを拭う。
拭ってもまた溢れて、また拭っても溢れて、どうしてか止まってくれなかった。
『あ……れ、ごめんなさい。どうしてだろう……』
公爵邸が見えると急に現実味が帯びてきて、総司が心にいない毎日を送ることが急に怖くなった。
今まではどんなに悲しくても心にはぶれない支えがあったから、どうにか笑顔で乗り越えられていたけど、今日からはもうその支えもない。
そんな日々は生きていて初めてだったから、まだ自分の中でそんな自分の生活がうまく想像できなかったのかもしれない。
「……可哀想に」
薫様はまたその言葉を私に言う。
それに反応して彼を見上げてみたけど、以前のような意地悪な顔つきではなく、労わるような視線が向けられていた。
右目の涙を拭えば左目からまたこぼれて、今度は薫様の指がそれを優しく拭ってくれる。
少し複雑で唇を結ぶと、彼がゆっくりとその口を開いた。
「夏前に星祷祭があるね。まあ、どうでもいいと思ってたんだけど」
『星祷祭……?』
「お前、まさか知らないの?学院で催される舞踏会のようなものだよ」
『ああ……』
聞いたことがある、確か前に総司が私に言っていた。
星祷祭で一緒にワルツを躍ろうねって、そう言って貰えて嬉しかったのに。
「俺がお前をエスコートしてあげるよ」
『ですが、千鶴様は宜しいのですか?』
「学校の規定で繋がりのある家門同士は組めないようになってるんだ。だから面倒だし出ない予定でいたけど、お前をエスコート出来るなら参加してやってもいいかなってね」
『ふふ、上から目線なんですね?』
「俺は王太子だから上からなのは当たり前だ。勿論、断らないよね」
まだ星祷祭の詳細もよく分からないけど、繋がりのある家門同士で組めないなら伊庭君や平助君とは組めないことになる。
はじめも千ちゃんと組むかもしれないと考えれば、私に断る理由はなかった。
『私で薫様のお相手が務まるでしょうか?ワルツ、そこまで上手ではありませんよ?』
「ああ、少しくらいワルツが下手でも許してあげるよ」
『足を踏んでも?』
「ぎりぎり許してあげられるね」
『ぎりぎりですか、大丈夫かな……』
「お前と行きたいよ、俺は」
薫様からそんなことを言って頂けるなんて思ってもみなかったから、驚きと緊張から彼をじっと見る。
でも今日はあんなことがあったばかりだし、きっと相手のいなさそうな私を気遣ってくれているのだろう。
その優しさやご厚意を素直に受け取りたいと思った。
『ありがとうございます。ではお言葉に甘えてエスコートお願いします、殿下』
「殿下って呼ぶなよ」
『最近はあまり意識していなかったですけど、改めて王太子殿下なんだなと思ったら少し気後れしてしまうといいますか……』
勿論頭では理解していたことだけど、お名前で呼ばせて頂くようになってからは、然程意識していなかったのかもしれない。
学院で唯一の王太子殿下のお相手かと思うと、その大役を務めるのが私で本当に大丈夫なのかと不安に感じてしまうのは当たり前だ。
「そんな必要はない。今まで通りで大丈夫だ」
『分かりました。エスコートして頂けること、楽しみにしています』
「ああ。お前に似合いそうなドレスを贈るよ」
『え?いえ、それは大丈夫です。お気持ちだけで本当に』
「俺が贈りたいんだ。贈ったら勿論、着てくれるね?」
『それは勿論……。ですが本当にドレスはこちらで用意致しますので』
「俺に恥をかかせる気?エスコートする女性のドレスくらい、普通に用意するだろ」
王家の方の感覚はよく分からないけど、思えば学院祭の声楽で総司にも千鶴様からスーツのセットアップが贈られてきたことを思い出した。
『ありがとうございます……』
「お前は何色が一番似合うんだろうね」
『確かに何色なんでしょう?』
「それを見定めるために、またお前に会いに行くよ」
『……はい』
馬車が止まり、気付けばもう公爵邸の敷地の前だった。
すっかり日は傾いて、綺麗な夕焼けが馬車の中をオレンジ色に照らしていた。
『ここまで送って頂きありがとうございました。薫様は午後に競技も残っていたのに、ごめんなさい……。泣いてしまったり、リュネットのことも……今日は沢山ご迷惑をおかけてしまいました』
「別に構わないよ。うちの妹のせいでもあるしね」
『いいえ。千鶴様にも今日のこと、私が深くお詫びしているとお伝え頂けませんか?本当は直接ご挨拶をしなければならないのですが……』
「伝えておくから心配しなくていいよ。それに、これからは千鶴に何かされたら俺に言えばいい。俺なら千鶴からお前を護ってあげられるからね」
『ふふ、千鶴様はそんなに怖い方ではないですよ』
カトラリーが飛んできた時は少し驚いてしまったけど、私の知っている千鶴様は基本温厚で優しくて強さも兼ね揃えている素敵な人。
だから総司も彼女に惹かれたんだろうと思えば、当然のことのように思えた。
薫様は少し寂しそうに微笑むと、そっと私の額に触れる。
僅かな痛みが走り、今日のことを気にしてくれていることが分かった。
「千鶴の奴……セラにこんな傷を負わせてどういうつもりなんだろうね。思い出したら腹が立ってくるよ」
『全然痛くないので大丈夫ですよ。立場も弁えずに生意気なことを言った私が悪かったです』
「お前は何も悪くないし、これからのことだって何も心配しなくていい。あの二人から離れて、落ち着いて生活するといいよ」
『はい……』
「お前の現状を知っているのは俺だけだから、いつでも話は聞くし慰めてやってもいいと思ってるんだ。だから今日は余計なことは考えず、城でゆっくり休むんだよ。前みたいに倒れたりしないように、まずは自分の身体を大事にしないとね」
薫様は今日一日とても優しかったけど、最後の言葉は優し過ぎて少し擽ったいような変な気持ちになる。
でもこの人が言ってくれた通り、私の現状やこの悲しい気持ちを知ってくれているのは薫様だけ。
その薫様がこうして寄り添ってくれることは、とても心強かった。
『ありがとうございます。薫様にそう言って頂けて、とても心強いです』
「当たり前だね。なんと言っても俺は将来の国王陛下だ。俺が味方にいれば怖いものはないだろ?」
『ふふ、仰る通りです』
「お前はそうやって笑ってた方がいい。一日も早くお前が笑顔を取り戻せるように、俺がお前の力になるよ」
人の優しさは、どうして時に涙を誘うのだろう。
湧き上がってしまった涙を慌てて拭い、薫様に微笑みを向けた。
今日は色々なことがありすぎて上手く心が整理出来ていないけど、リュネットと走れたことや薫様の優しさを知れたことは私にとって大きな財産になった。
だから今日はとても良い一日だったに違いないと思いながら、お礼を告げて馬車から降りた。
夕焼けに染まるお城はとても綺麗で、思わず立ち寄ったのはよく総司と言葉を交わした庭園。
ベンチに座り、また立ち上がり。
総司がたまに隠れて昼寝をしていたその場所に腰をおろした。
『あ……』
この前までは見ることの出来なかったシロツメクサが、今は沢山の蕾をつけて開花の準備をし始めている。
すっかり春が来たことを私に教えてくれるから、思わず口元に笑みがこぼれた。
でもそんなシロツメクサの上には私の涙がこぼれ落ちて、止まらない。
時間が戻ればいいと願う気持ちも止められなくて、私はまだ総司との思い出を直ぐに手放すことは出来なさそうだった。
何年か経って、私が今より大人になった時。
私はまだこの想いを引き摺っているのかな。
総司はどんな男性になっているのかな。
そんな取り止めのない未来のことが次から次へと溢れてくる。
今までは未来の自分を想像すると、必ず隣には総司がいて、変わらず私に微笑みを向けてくれていたのに、今日からはそこに誰もいない。
そのことがとても辛かったけど、総司が幸せなら私は大丈夫。
私の命を救い、何度も護ってくれた人だから、最後に私も総司の幸せを心から願える人でいたかった。
でもここに来ると思い出す、総司がシロツメクサの指輪で私に未来の約束をしてくれたこと。
あの日の総司に会いたくて堪らなくて。
私はその日暗くなるまで、この場所で一人総司を想って涙を流していた。
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