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総司と千鶴様が出て行った練習室。
伊庭君とはじめに支えられながら立ち上がった私を、二人は苦痛そうに顔を歪めて見つめていた。


「直ぐに手当しましょう」

「血が滲んでしまっているな、跡にならなければ良いのだが」

『大丈夫、このくらいなんてことないから』

「何を言ってるんですか?ヴァイオリンで殴られたんですよ?」

「とても正気の沙汰とは思えないな。あの王女は頭がおかしい」

「許せません、君にこんなことをするなんて……。護って差し上げれず申し訳ありませんでした」

「俺も対応が遅れて申し訳なく思っている」


頭を下げる伊庭君とはじめに、私は慌てて首を横に振る。
まさかあの場であんなことが起こるなんて、普通誰も思わない。
二人が責任を感じる必要はないから、私はにっこり微笑んだ。


『ごめんね、心配ばかりかけて。でも本当に大丈夫。私、こういう痛みには強いみたい』


正直、この程度の身体の痛みならどうってことない。
時間が経てば傷は治るし、我慢のしようがあるからだ。
でも心の痛みだけは、どうしても治し方が分からない。
今苦しくて泣きたいのも、心が抉られてしまったように痛いからだった。


「何を言っているんですか……。女性の顔に傷をつけるなんて、許されることではありませんよ」

「次回からはセラの側にあの王女を近づけさせないよう、俺達で護ろう。恐らく相手が相手なだけに教師に話したところで対処して貰えないだろうからな」

『ありがとう。私が余計なことを言わなければ良かったよね』

「君は何も間違ったことを言っていませんよ。あれは全て王女殿下の嫌がらせです」

『こうなることが分かっていたから、私達は極力千鶴様に関わってはいけなかったのかな……』

「だが殿下から聞いていた様子とはまた異なると思うのだが……。とても心が病んで弱気になっているとは思えないな」

「ええ。あの方は元々良い噂は聞きません。目をつけたご令嬢を精神的に苦しめてぼろぼろになるまでいじめ抜くと聞いたことがありますから」

『……え?そうなの?』

「君が仲良くされているようでしたので余計なことは言わなかったんです。僕も噂だけを鵜呑みにするのも良くないと思っていましたしね。ですがこのような光景を見てしまうと、強ち噂は嘘ではないと思えてしまいます」

「ああ。あれは殿下もおっしゃっていた通り、ただのわがままだと感じる。精神的に不安定なのであれば俺達にも平等に矛先が向いてもおかしくはない。だが王女はセラにだけやたら敵意を向けている。つまり故意的だということだ」


今までは千鶴様が病気でお辛いだろうからと我慢していた。
それに総司とのこともあり、千鶴様とは親しい間柄でいたかった。
けれどこの前の風祭から、千鶴様はやたら私に意地悪な言葉ばかり投げかけてくる。
その様子は私が傷付くことを敢えて口にして、私の反応を面白がっているように見えた。
その事実を信じたくなくて私の気のせいだと思うことにしていたけど、今の音楽の練習だって明らかに悪意がある。
そんな悪い感情に屈したくはないと、私は唇を噛み締めた。


『もしそうだとしたら、私……負けたくない』

「セラ……」

『次の時までにピアノ、完璧にしてくる。千鶴様に文句を言われないくらい完璧にして、自信を持って弾けるようにしてくるね』


ここ最近、私は自分に自信が持てていなかった。
そのせいで自信のあったヴァイオリンの演奏すら、くだらない間違いをしてしまった。
そのことでもっと自信が持てなくなって自分のことが嫌いになってしまいそうだったけど、私が弱気になってしまえばそれこそ千鶴様の思惑通りになってしまう。
私が自分自身を愛してあげなければそれが一番可哀想だと、私は強くなる決意を固めた。


『だから次の練習の時は大丈夫。私絶対に負けないから、心配しないで』


私は、自分が大切だと思う人達に笑っていて欲しい。
私が私を大切にしてあげなければ、私を大切に思ってくれている人達にも申し訳ないと気付いた瞬間だった。


「ああ、分かった。セラならば乗り越えられると信じている」

「ええ、辛い時はいつでも僕達を頼ってください。僕達は君の味方ですから」

『ありがとう』


ずっと忘れていた、自分を信じてあげること。
自分を信じてあげられるためにも、頑張って努力を重ねていこうと思った。
努力した時間やそれによって得られたものは、きっと私を裏切らない力になる。
その力を身につけて、私自身の力で千鶴様と戦いたいと思った。
そうすることで総司にどう思われても、もう構わない。
私は私のやり方で、あの人と対等になってみせると決意を固めた。


それから一週間という短い時間だったけど、私は城に来てくださる先生の指導の元、自分の全てを練習に注ぎ込んだ。
先生には元々ほぼ直すところがないと言っていただいたこともあり、前回の千鶴様のご指摘がただの嫌がらせだと確信を得る。
そしてピアノだけではなく千鶴様が担当されるヴァイオリンのパートまで完璧に覚えた。
たとえ誰に何を言われても、自分の信じたものを曲げずに進める自分でいたい。
それが今まで支えてくれた人達にできる、私なりの恩返しの形だと思った。


そして再びやってきた音楽の日。
グループに分かれて練習室に行き、五人での音合わせが始まる。
千鶴様の視線がピアノの私に突き刺さっているのは感じたものの、今日は不思議と怖くない。
鍵盤に触れる自分の手が、信じられるものになっていたからだった。

そしてその心の余裕から、千鶴様の奏でるヴァイオリンの音の特徴や癖を注意深く聞く。
どのように演奏すれば全体がもっと良くなるのかを、一生懸命に考えていた。


「セラさん、またずれていますよ。どうしていつも私達を乱すのですか?」


今日も始まった千鶴様のご指摘に、練習室の空気は張り詰める。
前回までは私も怯えてしまっていたけど、今日ばかりは違った。


『申し訳ありません。ですが私が弾いたタイミングは譜面に沿っています。この部分、ヴァイオリンが少し走ってしまっているように聞こえたのですが』


私がはっきり言い返すと、それはそれで余計に練習室の空気が重くなる。
それでも負けじと千鶴様を見つめていれば、彼女は表情を一度固くしながらも直ぐに鼻で笑った。


「私が間違っていると仰りたいのですか?」

『お許し頂けるのでしたら、この部分を私が弾いてみても宜しいでしょうか?』

「いいですよ。さぞお上手に演奏してくださるのですよね」


敢えて煽るような言葉に僅かな微笑みだけ向けて、ヴァイオリンを受け取るなり軽く息を吸った。
そして丁寧に姿勢を整え問題のフレーズを弾き始める。
何度も練習して完璧になったその音が練習室に響き渡った時、周りの空気が明らかに変わったのを感じた。


『このようにこのフレーズはバランスを考え弓の動きを抑えめにして頂けると、全体の音が綺麗にまとまると思います。参考になれば幸いです』


私が笑顔でそう告げた瞬間、千鶴様の顔が真っ赤になった。
そして私から弓を取り上げるなり、そのままそれを振り上げ私の頬を思い切り叩いた。


『……っ』

「私に偉そうな態度を取らないでください……!」


結局また手を挙げられて、伊庭君とはじめが私を護るように傍に来てくれる。
でもここで護られてばかりいたら、結局何もできない私のまま。
それでは意味がないから、二人に「大丈夫」と告げて千鶴様の前に再び立った。


『千鶴様は何故、暴力を振るうのですか?』

「あなたが生意気な態度を取るから悪いのですよ」

『私はただ、皆がより良い演奏が出来るようにと思って言いました。千鶴様が今まで私をご指摘くださったのも同じ想いだと思っておりましたが違ったのでしょうか?』


毅然とした態度でそう告げると、千鶴様は瞳を揺らし一度言葉を失ったようだった。


「……違わないわ。けれど今のはあなたがとっていい態度ではなかったということです」

『私は自分の思ったことを正直にお伝えしただけです。けれど、至らない表現であったのでしたら謝ります。ですが暴力で相手を傷付けることは、誰にとっても正しいわけではないと思います』


私がはっきりと言い返したことが意外だったのか、彼女の瞳には苛立ちと戸惑いが入り混じっている。
それでも私は一歩も引かずに、千鶴様を静かに見つめ続けていた。


「世の中には暴力なんてありふれています。戦争だって言ってしまえば暴力と同じでしょう?この世の中は強い相手に弱い相手が屈するように出来ているのですから」

『戦争も暴力も確かにこの世から消すことはできないかもしれません。でもだからこそ一人ひとりが暴力に頼らない選択をすることが大切ではないでしょうか?私はどんなに辛いことがあっても、自分を信じて立ち向かう強さを持ちたいと思っています。暴力ではなく言葉で自分の想いを伝えられる人でいたいです。それが本当の強さだと信じているからです』


千鶴様の肩が震え、今にも怒りが爆発しそうに見えた。
けれどここで怯んではいけないと、私は意を決して伝えたいことを言葉にした。


『千鶴様も本当はお分かりの筈です。誰かを傷付けることで心が晴れることはありません。それどころかもっと深く自分を傷付けてしまうだけですよ』

「……偉そうに、知ったことを言わないでください。あなたみたいな弱い人に何が分かるの?」

『では私の言葉が間違っていたなら、どうか教えてください。千鶴様の仰る強さとは、相手を一方的に力で捩じ伏せることなのですか?』

「そうだと言ったら?」

『私は違うと思います。ただ暴力でしか伝えられない想いなんてきっと本当の強さではありませんし、そのような強さ、私は欲しくもありません。暴力や権力だけに頼るのは、心の弱い人がすることです』

「あなたは私を侮辱しているのですか……!?」


千鶴様の声が、激しい怒りを帯びて練習室に響いた。
距離を詰めた千鶴様は乱暴に私の髪を掴んだため、私はその痛みに思わず小さい声をあげた。


「そんなに私に逆らいたいのなら、痛みというものを教えて差し上げます!」


千鶴様の顔は怒りで歪み、瞳には憎しみが滲んでいた。
彼女は私の髪を更に強く引っ張り、バランスを崩した私は思わず膝をついた。


「セラ……!」

「王女殿下、これ以上はやめてください!」


伊庭君とはじめが私を助けに入り、総司は逆側から千鶴様の腕を掴んだ。


「王女殿下、どうか落ち着いてください。これ以上の行為はあなたの為にもなりませんよ」


真っ直ぐ千鶴様を見下ろす総司を目の前に、彼女は言葉を詰まらせ、ようやく私の髪から手を離す。
自由になった私は、髪を押さえながら静かに立ち上がった。


『千鶴様……私はただ自分の想いを伝えたかっただけです。けれどそれが千鶴様を傷付けてしまったのなら申し訳ありません』


少し湧き上がってしまった涙を堪えながら、総司に連れられ去って行く千鶴様に言葉をかける。
彼女は振り返ることもなく練習室から出て行ってしまうから、私はその場で唇をきつく結んでいた。


「大丈夫でしたか?」

『うん。結局助けて貰っちゃったね、ありがとう』

「セラは一人で頑張ってよく戦いましたよ」

「ああ。あの王女が見たこともないくらい悔しそうな顔をしていたからな」

「ふふ、そうですね。僕は見ていてとても気が晴れました。君の想い、伝わっているといいですね」

『どうかな……。余計嫌われちゃったかもしれないけど』

「だがセラの言葉は、改めて考えさせられる言葉だった」

「そうですね。本当の強さがどういうものなのか、僕も君の言葉で気付けた気がします」


優しい二人に微笑みを返し、私はゆっくり息を吸い込む。
千鶴様のことはとても怒らせてしまったけど、私の気持ちは驚くほど晴れていた。
それはずっと我慢していたこの気持ちや言いたかったことを、思い切り千鶴様にぶつけることが出来たからかもしれない。
初めてありのままの私を、あの人の前にさらけ出せた気さえしていた。
だからたとえ私の気持ちが理解して貰えなくても構わない。
これからは私は私のまま、頑張って日々を過ごしていこうと前向きに考えられた瞬間だった。

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