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あの日から、私は千鶴様に嫌がらせを受けることはなくなった。
相変わらず視線は鋭いし、私とは言葉すら交わしてくれないけど別に構わない。
私は下を向かずに毎日を過ごそうと決めたから、総司にもなるべく視線を向けない生活を送っていた。

そんな中、公務で遠方に出掛けていた薫様が一ヶ月ぶりに学院に顔を出す。
昼に私を王室専用のお部屋に呼ぶと、私の隣に腰掛けて申し訳なさそうに眉を下げていた。


「伊庭と斎藤から音楽のアンサンブルでのことは聞いたよ。千鶴が本当に申し訳なかった」


会って早々に頭を下げる薫様に、私は勢いよく首を横に振る。
「気になさらないで下さい」と告げても、その表情は直ぐには晴れてくれなかった。


「この傷だよね、千鶴が叩いたところ」


伸ばされた指先は、いまだガーゼで保護している左頬を遠慮がちにそっと撫でる。
もう殆ど治りかけているけど、虫刺されや普通のあざとも違うこの傷は他の人に色々と聞かれそうだから、念のため隠していただけだった。


『もうほぼ治ってるんです。それに全然大した傷ではないので、気になさらないで下さい』

「気にするよ。ヴァイオリンで叩くとか、あいつ……完全に頭がおかしいね」

『いえ、薫様から窺っていたのに千鶴様と距離を取れずに申し訳ありませんでした』

「たまたまグループが一緒になったんだからそれは仕方ないことだよ。でもあの二人からセラが千鶴に反撃した話も聞いたよ」

『え……』

「千鶴にどう言ったのかも聞いた」


二人に口止めしておくべきだったと後悔しても今更遅い。
「申し訳ありません」と頭を下げた私に、薫様は笑いながら私を見つめた。


「なんでお前が謝るの?悪いのは千鶴だ」

『いえ……立場も弁えずに生意気なことを言ってしまった自覚はあります。ただどうしても一度腹を割って話したかったんです』

「風祭の時もそう言ってたしね。それで、千鶴とは腹を割って話せたの?」

『どうでしょうか……。私が一方的に言いたいことを言ってしまっただけなので、千鶴様がそれに対してどう考えていらっしゃるかは分かりません』


それにいくら話し合ったとしても、私達の間に普通の仲直りはないのかもしれない。
私自身、総司のことが絡んでいるからそう単純に割り切れるものでもない気がしていた。


「セラって大人しいのかと思ってたけど、千鶴相手に戦えるなんて案外強いところもあるんだね」

『自分ではよく分かりません。ただ強くありたいとは思いますけど』

「どうして?」

「自分のことすら護れなかったら大切な人も護れないからです。大切な人が困っている時、何もできない私でいたくないですから」


現に私は総司が近衛騎士に任命された時、泣くばかりで彼の為に何もしてあげられなかった。
あの時の後悔が残っているからこそ、私は今も苦しみの中にいるのかもしれないとすら思った。
だから私は私の思いつく方法で強くなりたい。
その想いだけが今の私を突き動かしていた。


「お前は優しいね」

『薫様こそお優しいですよ。私の心配をして下さいます』

「俺は優しくないよ」

『ふふ、そんなことないですってば』

「ありがとう、千鶴を怒ってくれて」


不意に言われた言葉は、私が想像もしていなかったものだった。
だから何も言わずに薫様の顔を見つめたまま、ただ彼の言葉を待っていた。


「千鶴はわがままで、でも寂しい奴なんだ。だから俺も黙って言うことを聞いてきたし、その方が楽だったからそうしてきた。でもそれが良くなかった自覚はあるんだよ。だからセラみたいにあいつに向き合ってやることってあまりしてこなかったからさ、セラが千鶴に言った言葉を聞いて俺も目が覚めた気がするよ」

『私はそんな立派なことはしていません。ただ我慢して自分を押し殺していたらどんどん自信がなくなって、自分を嫌いになりそうで怖かったんです。だから私は私の思うまま生きようと思って、それで千鶴様にも正直な気持ちを言いました』


だからそれは千鶴様のためではない、私自身を守るためだ。
薫様はそれが分かっても尚微笑みを浮かべ、いつになく穏やかな口調で言葉を続けた。


「それで構わないよ。セラには俺と対等でいて欲しいと思ってる。だから婚約だって本当は今直ぐ王命を出したいくらいだけど、セラの意志で決めて欲しいと思ってるんだ」


薫様がいない間、アンサンブルの練習を重ねながらこの人との未来を考えた。
私の為に一生懸命尽くしてくれようとする薫様に応えたい気持ちがあったからだ。
でも復学した総司と会ったことで、より気持ちが揺れ動き、私の心はいまだ総司で染まったまま。
他の人に気持ちを寄せたまま薫様と婚約することは、薫様に対してあまりにも失礼だと思うから、その気持ちを正直に告げようと思った。


『お心遣い、本当にありがとうございます。私、薫様のことを真剣に考えました。本当に優しくして頂いて感謝の気持ちでいっぱいですし、私もその想いに返したいってそう思っているんです』

「それは本当?」

『はい。でもまだどうしても自分の中で総司のことが消化出来ていないのです。いつ忘れられるのかも分からない中途半端な状態で、薫様にお返事をするわけにはいきません。それに薫様の貴重なお時間をこれ以上私のために使って頂くわけにもいかないと思っています』


私の言葉を聞いて瞳を揺らした薫様は、一度言葉を飲み込むように黙ると静かな音色で話し始めた。


「つまりそれは、お前を諦めろっていうこと?」

『諦めて欲しいだなんて、そんな大それたことは思っていません。ただ私は薫様のお相手に相応しくないと思います』

「どうして?相応しい相応しくないは俺が決めることだ。それにお前は何も気にしなくていい、沖田を想ったままでいいって言ってるじゃないか。俺が全てのことからお前を護ってあげるから」

『私は将来共に歩む人とは、お互いに護り合えるようなそんな関係でいたいと思っています。でも私は今、薫様にして頂いてばかりで何もお返し出来ていません。こんな中途半端なまま将来の約束をしてしまったら、いつか薫様を傷付けてしまいそうで怖いのです……』

「それは……万が一沖田を忘れられなかった場合のことを言ってるの?」

『……はい。総司はもう、私と目を合わせても話しかけてもくれません。でもどうしても嫌いにはなれないんです。自分でも情けないとは思いますけど、全く前に進めてないんです。最近はこの気持ちのまま、毎日を過ごすことには慣れてきました。でもだからと言って他の人と恋愛をする気になれないと言いますか……』


薫様の悲しそうな顔を見てしまうと、私まで悲しくなって言葉に詰まってしまう。
けれど私を大切に想ってくれているだろうからこそ、この人に嘘はつきたくなかった。


「俺じゃだめ?」

『薫様だからだめというわけではなくて……』

「沖田以外は無理っていうことか」

『はい……』


静かな部屋の中には沈黙が流れて、薫様から視線を逸らしこの先のことを考える。
いつまでも立ち往生しているわけにはいかないのに、私の気持ちはなかなかうまく動いてはくれないようだった。


「でもいつかセラは、家の為に誰かと婚姻を結ばなければいけなくなる。もうすぐセラもデビュタントを迎えるよね、そうしたらどうするの?」

『それも、実は困っていて……』

「多分お前には相当な数の縁談がくるよ。近藤公だって、お前が良い縁談を結ぶことを願っている筈だ」


問題はそこだと思っている。
公爵家の一人娘として今まで何不自由ない暮らしをさせてきて貰ったからこそ、私の勝手な想いだけでは生きてはいけないことは百も承知だ。
でも今はただこの心の傷が癒えることを待つことしかできないから、時間に頼るより他はない。
だからこそ急いで返事を決めなければいけない薫様との縁談話は、少し気が重かった。


「ねえ、セラ」


私が様々な考えを巡らせていると、私の手を掴む薫様。
その瞳はいつになく真剣で、私の唇をきゅっと力強く結ばれた。


「俺、待つから。もう急かさないしいつまで時間かかってもいいから、今断ることだけはしないで」

『ですが……』

「待たれるのは重荷だろうし、お前は優しいから俺のことを気にしてそう言ってくれてるのもわかってる。でもわかった上で頼んでるんだ。俺はお前と以外、結婚なんてしたいと思わない。だから俺を遠ざけないでよ」


どうしよう……まさかこんな風に言って頂けるなんて考えてもみなかったから思わず言葉が出てこなくなる。
薫様は本当に、最初の頃の印象と全く違う。
そのことが余計に私を困惑させて、何が正しい選択なのかわからなくなる。


「俺とは絶対に無理?受け付けない?」

『違います。薫様のことは好きですし信頼もしてます』

「じゃあもし沖田がいなかったら、俺と結婚してくれた?」

『はい……好きな人がいなかったらありがたくお受けしていたと思います』


薫様は素敵な方だし、その顔立ちは美少年そのもので女子生徒からも人気がある。
何よりこの国の王太子様であり、この人との結婚を夢見ている女の子も沢山いる筈だ。
私だってもし総司と出会わず好きな人がいない状態だったら、きっと有難く薫様のプロポーズをお受けしていたと思う。


「良かった。そう言って貰えて嬉しいよ。それならまだ断らないで」

『でも薫様もそろそろお相手を決めなければいけない頃合いですよね?』

「それは別にいいよ。俺は好きな人と結婚したいからね。だから絶対お前がいい」


私が絶対総司がいいと思うのと同じで、もし薫様も同じように私を必要としてくれているなら、それは正直嬉しいと思う。
薫様の言葉は総司に振られて自信をなくした女の子としての私の自信を、蘇らせてくれるものだった。


『ふふ、薫ってこういうこと言ってくださる方だったんですね。本当に意外』

「その言い方は失礼だろ。俺は今、一生懸命お前を口説いてるんだ」

『でもあまり言われると恥ずかしくなってしまいます』

「何もしないでお前に好きになって貰えるわけがないんだから仕方ないじゃないか。口説かれるのが嫌なら、さっさと俺を好きになればいい」


偉そうにそう言った薫様はいつもの彼らしくて、それはそれで笑ってしまう。


『そうですね。私も薫様のこと、今よりもっと好きになりたいです』


そうしたら今のこの辛い気持ちもなくなってくれるのかもしれない。
私だけを見つめてくれる薫様を、私も真っ直ぐ見つめられたらどんなにいいかと思えた。


「だったらまだ諦めなくてもいいよね。絶対お前を振り向かせてみせるから」

『ありがとうございます……。でも私に飽きたら無理せず他に行って下さいね』

「お前……この期に及んで他に行けって失礼じゃない?他なんていないけど」

『でも人の気持ちは変わることもありますよ?』

「沖田みたいに?」

『そんな意地悪な言い方しなくてもいいのに……』

「でも人の気持ちが変わるならお前の気持ちだって変わるかもしれないよ」


そうなのかな……。
今は想像もできないけど、あの大好きだった総司の笑顔や二人の思い出を忘れてしまう日は来てほしくないと思ってしまう。
辛くてもいいから好きなままでいたいなんて、そんなことを思ってしまうから私の心はいつまでも総司で溢れてしまうのかな。


「どうしてそんな悲しそうな顔するの?」

『してません』

「してるよ」

『してません……』

「はは、膨れた」


薫様から視線を逸らして、彼に背を向ける。
思わず悲しい顔をしてしまった自分が嫌になっていると、そっと腕が回され、私の身体は後ろから抱きしめられていた。


『薫様……』

「俺は変わらないよ。俺はずっとお前を好きでいる。ずっと傍にいるし、お前に悲しい想いだってさせない。お前を護ってあげたいし、沢山笑わせてあげたいと思う。誰かのことをそうやって思えたのは生まれて初めてなんだ」


当たり前だけど薫様の顔は見えなくて、その声だけが耳元で聞こえる。
その言葉に思わず瞳が潤んでしまったのは、ただ純粋に薫様の言葉が嬉しかったからではなく、総司にそう言って貰えたらどんなに嬉しいかという最低なことを考えてしまったからだった。


『ありがとうございます……』


少し戸惑いながらも、振り解けなくて複雑な心情のままただこの状況を受け入れていた。
けれど部屋のドアがノックもなしに開いて、千鶴様と総司が目を見開いていて私達を見た。

咄嗟に離れようとした私の身体は、薫様の腕に力が入ったことで身動きが取れなくなる。
嫌悪感を表した二人の視線に居た堪れなくなり、私は身を強張らせながら顔を俯かせることしかできなかった。


「今取り込み中なんだ。悪いけど他行ってくれる?」

「……薫、今日は学院にいらしてたんですね」

「ああ。さっき公務先から直接来たんだ。セラに会いたかったからね」


この数十秒が酷く長く感じられる。
総司はとっくに私になんか興味ないと分かっていても、この場面を見られるのは正直とても辛かった。
部屋のドアが閉められればようやく息を普通に吸い込める感覚になるけど、先程の総司の鋭い視線が頭から離れてくれなかった。


「ごめんね。沖田に見られるのは嫌だったかな」


今頃になって拘束を解いてくれる薫様は、私の顔を覗き込むとそんなことを言ってくる。


『大丈夫です……。総司は私のこと、もう何とも思っていないので』


目は直ぐに逸らされるし、話し掛けてすらくれない。
今までは私の身に何かあれば直ぐに駆けつけてくれたのに、今は知らん顔で千鶴様を気遣うだけだ。
何より風祭の日の総司と千鶴様を思い出せば、総司の気持ちが完全に千鶴様に向いてしまったことは直ぐに分かる。
もしかしたら声楽の練習をしていた時からもう、あの二人はそういう関係だったのかもしれない。


「そう。でもセラは沖田を憎く思わないの?」

『憎くはないです』

「どうして?普通は他の女に心変わりされたらいい気しないと思うけどね」

『確かに悲しいですけど、人の気持ちだけは仕方ないことなのかなって思います。それに総司には今まで沢山支えて貰ったので、今総司が幸せならそれでいいんです』


そのために手紙もやめた。
期待することも、待つこともやめた。
今だって話しかけることもその視線を合わせることも出来ないけど、そんな私でも総司のためにできることがたった一つだけ残っている。
それは総司の幸せを心で願うことだ。


「お前はやっぱり馬鹿だね」

『ふふ、薫様に馬鹿って言われ過ぎたせいで本当にそうなってしまったのかもしれません』

「お前は出会った頃から馬鹿だったよ」

『でもそんな私を気に入って下さった薫様も大概だと思いますよ?』

「ははっ、違いない。でもいいんだ、そんな馬鹿なお前が好きなんだから」


意地悪な笑みを浮かべた薫様はやっぱり得意気で、そんなところは憎めないなと思ってしまう。
まだ私の気持ちはままならないままだけど、総司とこの世界で出会えたことが嬉しいと思えるから。
この気持ちだけはずっと忘れずにいたいと思っていた。

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