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アンサンブルのテスト当日。
本番までの時間を練習室で過ごしていると、部屋の隅で王女がセラに声をかけている様子が目に入る。
また何かされやしないかを危惧して注意深く見ていると、どうやらこの前のことを謝罪しているらしい。
王太子に言われたことで、あまり邪険にするのは不味いと思った故の行動だと思っていた。
けれどふと僕と目が合うと、王女はその笑みを冷ややかなものへと変える。
そしてセラの耳元で何か囁いている様子だったため、僕は思わず瞳を細めた。
ここからでは何も聞こえず、少し落ち着かない心情のまま二人に近寄る。
僕の目に映るセラの瞳は揺れ、何か信じられないことを耳にしたような表情を浮かべているように感じた。
「セラさんと総司さんも仲直りの握手、しましょう?」
あの日以降、セラに対して憎しみを抱いているだろう王女が何の目的でこんなことを言うのかは分からない。
ただ今はまだその命令に逆らうことは出来ないから、セラの前に立ちよく状況が分からないままその手を差し出していた。
目の前のセラは僕を見つめてはくれなかったけど、久しぶりに間近で見るその顔は相変わらず儚げで可愛くて、僕の心音は少し早まる。
こんな形でも、たとえ手だけだとしても、セラに触れられるのは嬉しかった。
でも僕に向かって差し出された小さな手は震え、思わずまたセラを見つめる。
すると大粒の涙が湧き出るように溢れ、セラはその悲しみを惜しみなく表現するかのように、顔を歪めて泣き出した。
『……ぅっ……』
あまりにも辛そうに涙を流す姿を目の当たりにして、僕の心臓は先程とは違う意味で早くなる。
僕の指先も震え、セラに向かって伸ばしかけたけど、伊庭君に腕を引かれたセラは気付けば彼とはじめ君に守られるような形で涙をこぼしていた。
「セラに何をしたんですか……?」
「私は何もしてないですよ?ただ仲直りしたかっただけです」
「それだけでセラがこれ程までに泣くわけがないだろう」
「本当に不思議です。お心が強い筈のセラさんが人前で泣いてしまうなんて……そんなに私達と仲直りをすることが嫌だったなんて悲しいですね」
『……ぅっ……ひ……』
こんな場所でしゃくり上げて泣くなんて、普段のセラからはとても想像ができない。
いつだって悲しくてもぐっと涙を堪えて、それでも堪えられない時は僕の前でだけ素直に涙を流してくれるのが僕の知っているセラだった。
でも今は口元や目元を押さえながら、もう限界だとばかりに泣きじゃくってしまっている。
その姿を見て思わず僕まで涙が込み上げてしまったのは、僕の存在がセラをどれだけ悲しませているのか身をもって知ったからだった。
「セラ……、もういいです。行きましょう」
伊庭君に連れられて練習室を出て行くセラをただ目で追うことしか出来ないでいると、僕の胸ぐらは掴まれ目の前には顔を歪めたはじめ君が僕を睨み上げていた。
「あんたは一体何をしている?」
僕ははじめ君とも言葉を交わせない。
この目すら合わせてはいけないから一度真っ直ぐはじめ君を見据えて、すぐに視線を逸らした。
「斎藤さん、王家の近衛騎士に手を出さないで頂けませんか?」
王女の静かな声が僕達の耳に届いた時、僕の胸元を掴んでいたはじめ君の手が離される。
はじめ君に気付いて欲しかったけど、今の短時間では無理だったらしい。
僕に背を向け、彼も音楽室から出て行ってしまった。
「ふふっ。セラさんの泣いた顔、久しぶりに見られました。人前であんなに泣いてみっともない人。あれで心の強さをよく語れたものですね」
「セラに何を言ったんですか?」
「さあ、忘れてしまいました」
「あれだけ泣くということは余程のことを言ったんでしょうね」
「どうでしょうか。もしかしたらセラさんにとっては辛いことだったのかもしれないですけど、よく分かりません」
尚も愉快そうに笑っている王女に拳を振り上げ、彼女の直ぐ真横にある壁を思い切り叩き付ける。
身体をビクッとゆらした王女は、信じられないものを見るような様子で僕を見上げた。
「次、セラに何かしたらあなたを殺します」
「……そんなことをすればあなたも死刑ですよ」
「構いませんよ。これ以上セラが苦しめられるよりかはずっとマシだ」
僕が王女や王太子といることでこの心がすっかり荒んでしまったように、セラの曇りない綺麗な心が元通りにならないくらい濁らされてしまったのではないかと考えると苦しくなる。
僕を見る瞳も以前までとはすっかり変わって、今は、どこか怯えるようなとても悲しい眼差ししか向けられなくなってしまっていた。
「王女殿下は寂しい方ですね。こんなことをして楽しいなんてどうかしてますよ」
正直、あの泣き顔は相当こたえた。
だからこそ怒りの感情よりも、今はただ悲しかった。
護ることの出来なくなったセラを想いながら、僕は思った言葉を吐く。
もう取り繕うことはせず、ありのままの感情をぶつけていた。
「どうとでも仰ってください。私のように人の不幸を見るのが好きな方は案外沢山おられますから」
「それはきっと心が満たされていないんでしょうね。本当に幸せな人は、他人の不幸を見て楽しいなんて思いませんから」
「そうですか?私の場合、自分が恵まれた境遇だからこそ他人を通して不幸を感じる瞬間に興奮するんです」
「王女殿下が恵まれている?あははっ、笑わせないで下さいよ。僕があなただったら、今すぐ死にたくなっちゃうな。本当に醜い哀れな人ですよ」
目を見開き、僕目掛けて手を振り上げた王女の腕を掴む。
そのまま容赦なく力を入れれば、瞳は細められ辛そうに顔を歪ませた。
「どうせ王女殿下はセラが羨ましくて堪らないんでしょ?だからあの子を悲しませることで優位に立った気でいるんでしょうけど、実際は自分を惨めにしてるだけだということにすら気付かないなんて愚かですよ」
いつもの王女のように、にっこり微笑み爆弾を投下した。
僕の手を振り払った王女は憎しみの籠った目で僕を睨みつけると、再び口角を上げた。
「きっとセラさんはこのまま薫を選びます。そうなったら総司さんは悲しいですね」
「セラが王太子殿下と婚約したら、あなたもこんな馬鹿げたことは出来なくなりますよ」
「残念ながら今はそうかもしれないですね。でもあの気まぐれな薫が、そんなにずっとセラさんを好きでいるでしょうか?」
「どういう意味です?」
「薫ってね、昔からどんなに欲しかったものでも手に入った途端に興味をなくしてしまうの。セラさんはどちらになるのでしょうね」
僕はまだ王太子のことをよく知らない。
あいつのセラへの執着が、どの程度純粋なものなのかも何一つ分からなかった。
もし王女の言う通りのことが起これば、セラは鳥籠の中で一生こいつらにいいように扱われてしまう。
その可能性を否めない今、これまで以上の節操感が僕を苛む結果となった。
「次のグループ、お願いします」
音楽委員が次のテストの開始を知らせに僕達の元へとやってくる。
正直テストどころではない心情だったけど、僕は王女と並んで先生の待つ教室へと入って行った。
そこには既にセラ達三人がいて、それぞれ楽器の前で調弦したり譜面を確認したりしている。
セラの顔は涙顔だったけど、姿勢良く座りテストに向けて集中しているように見えた。
「それでははじめましょう」
セラの伴奏とヴァイオリンの旋律から始まり、シューベルトのセレナーデで切なく教室を包み込む。
セラとの練習もこれで最後かと思えば、僅かな接点すらなくなってしまうことが悲しかった。
でも多分僕や王女がセラに接触すればするほど、セラを悲しませることに繋がる。
それでも懸命に堪えながらピアノを弾く姿を見てしまえば、その様子にすら僕はまた心を奪われた。
「とても良かったですよ。最高評価です」
先生からのお褒めの言葉を頂いても、セラは僅かに口元を上げるだけでその瞳はすぐに伏せられてしまった。
どこかぼんやりとしているのに瞳は涙で潤んでいて、今にも消えてしまいそうな儚い表情にまた焦りが込み上げていた。
そして三人は僕達を見限ったように、何一つ言葉を残すことなくその場から去って行く。
その後ろ姿からは言いようのない距離を感じて、ただ胸を苦しくするばかりだった。
それからもこの状況を打破出来る兆しすら見えないまま数日を過ごし、星祷祭を前日に控えた午後。
僕は明日の学院での舞踏会を憂鬱に思いながら、王女の付き添いで廊下を歩いていた。
今は授業中ではあるものの、体調が良くないという王女に同行し保健室に行く羽目に。
然程具合が悪そうにも思えないから、いつもの如くただのわがままだろうと踏んでいた。
「明日のことを考えると憂鬱です。星祷祭なんてくだらないわ」
元々出向く予定ではなかったらしい王女は、王太子の命令で出席することになったらしい。
その理由というのも、自分だけ参加して双子の妹が不参加だというのは王家としての体裁が良くないという理由だった。
確かにその言い分は最もではあるものの、アストリアからの出向という立場の僕が、いまだに公爵家の所属として形式上扱われていることが災いして、王女のエスコートをすることになってしまったから最悪極まりない。
王女の言葉に短い相槌だけ返し、窓の外に目を向けた僕がいた。
春とは言え、雨が降りそうな曇り空では肌寒い。
制服の上に持っていたカーディガンを羽織ろうとそれを広げながら歩いていた。
けれど少し先の廊下沿い、その窓の下で膝を抱えて座る一人の人物の存在に僕は気付く。
体育の見学だろう、グラウンドを見つめながら外で寒そうに手に息を吹きかけているセラを見て僕は目を見開いた。
「星祷祭のスーツはこちらで用意致しますので」
王女はセラの存在に気付いていない。
だから敢えて「ありがとうございます」と感じ良く返事をしながら、王女の少し後ろを歩いて行った。
セラは相変わらず悲しそうに眉を下げ、ぼんやりグラウンドを見つめている。
でも僕が以前あげたペンダントのヘッドを無意識に指先で触れる仕草はまるで僕を呼んでくれているようで、今すぐそばに行って抱きしめたい衝動にかられた。
セラの真上にある窓ガラスは、幸運にも少し開いている。
この程度のことで僕の気持ちが届くとは思っていないけど、こんな機会は恐らくもうないかもしれない。
王女の目を盗み窓ガラスの隙間から、持っていたカーディガンをそっとセラの上に落とした。
『……え?』
僕の大好きな彼女の声が聞こえた。
それだけで縮んでしまった心が息を吹き返すように元気になる。
セラは僕より低いところに座っているし、歩みを止められないからきっと僕だと気付かないかもしれないけど。
それでも寒さに凍えるセラの身体が少しでも暖かくいられるのなら、それで構わなかった。
声が届くなら、この想いが今も変わらないことを今すぐ君に伝えたい。
それが叶わなくとも、せめて少しでもセラのために何か出来る自分でいたかった。
なぜなら僕は、君と出会い君を幸せにするために生きている。
だからどうかこれ以上セラを苦しむことにはなりませんようにと、幾度となく願ってしまう僕がいた。
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