7

セラの部屋の窓をそっと開けると、セラは近藤さんと話をしているところだった。
見つからないように息を殺し、近藤さんが部屋を出て行ったのを確認してから、ようやく中へと入ることができた。

でもふと鼻を啜る音が聞こえ、セラが一人で泣いていることに気がついた。
すぐに駆け寄りたいのに、ベッドの近くでしゃがみ込んだまま動けなくなってしまったのは、セラが泣いているのはきっと僕のせいだろうという考えが頭をよぎったせいだった。

どれくらいそうしていただろう。
出て行くタイミングをすっかり失い、ただ近くでセラを見守ることしかできないまま、時間だけが過ぎていく。
そんな時、不意に僕の上着の金具がベッドの柵に触れ、微かな音を立てた。
音に反応したセラがゆっくりと上体を起こしたから、彼女が泣き止んだのを見計らい、僕はそろそろ出て行くことに決めた。

僕を見つめるセラの顔には、驚きと戸惑いが混ざっていた。
泣き腫らした瞳に濡れた睫毛、熱でほんのり赤くなった頬。
薄明かりの中でもはっきり見えるその表情は愛らしくて、僕はどうしようもなく目を奪われていた。

その時、扉の向こうから足音がする。
気づいた瞬間には躊躇いなくベッドの中へと身を滑り込ませていた。
石鹸の香りが鼻を掠め、抱き寄せた体温がじんわりと腕の中に広がっていく。
その温もりは思っていたよりずっと小さく柔らかくて、僕の胸をどうしようもなく高鳴らせるものだった。

互いの心臓の音が混ざり合い、どちらの鼓動かさえわからなくなるこの時間がずっと続けばいい。
そんな叶うはずもないことを、つい願ってしまった。


『総司、山崎さんもう行ったよ?』


心地良い時間はあっという間に終わってしまうらしい。
動かない僕に痺れを切らしたのか、セラは半ば無理矢理上体を起こすと、ベッドの上のコンフォーターを捲った。


「良かった、見つからなくて」


いまだにこの状況がよく分かっていないのか、僕を見下ろすセラは微笑むわけでも怒るわけでもない困り顔をしている。
女の子が寝ているベッドにいつまでも入っているわけにもいかず、僕はベッドサイドへと腰を下ろした。


「言わないでもらえて助かったよ」

『言ったら大変なことになっちゃうよ。三階は入室禁止なんだよ?』

「分かってるよ。だから窓から入ったんだし」

『窓からって、どうやってバルコニーまで来たの?』

「ん?木を登ってきたに決まってるじゃない」


さも当たり前にそう言った僕の言葉に、セラは目をぱちくりさせて驚いているから面白い。


『そんなことしたら駄目だよ……。危ないよ?』

「でもこうでもしないと君にずっと会えなさそうだったからさ」

『そうかもしれないけど、お見舞いなんて気にしなくて良かったのに』


お見舞いもそうだけど、ただ僕が会いたかった。
勿論そんなことは言えないし言うつもりもないけど、もう一つ来た理由があるからそのことを伝えることにした。


「今日は悲しませることを言ってごめん。それをどうしても君に言いたかったんだよ」


時刻は日付が変わる数分前。
会えたら真っ先に告げようと思っていた言葉だ。


「昨夜の君との待ち合わせ、僕は九時だと思ってたんだよね。だから昨日庭園で君を待ってたんだけど来なかったからさ、何かあったのかなって気になってたんだ。でも山崎君から君が七時頃からずっと僕を待ってたって話をさっき聞いて、今日会った時に君が僕を見て少し様子が変だった理由がようやく分かったんだよ」


セラは僕の言葉を聞いて直ぐに理解したのか、少しホッとした様子でいつもの柔らかい表情を見せてくれた。


『良かった……。私、総司が昨日来てくれなかったのは、何か総司に嫌われるようなことしちゃったからなのかと思ってた』

「僕の方こそ。また君を怒らせちゃったのかと思ったよ」

『そんな……怒ったりしないよ。それに総司こそ、怖かったよ。総司は会った瞬間分かるもん、今怒ってるのかなとか機嫌悪いのかなとか』

「別に怒ってたわけじゃないよ。機嫌はちょっと悪かったかもしれないけど」

『昨日沢山待たせちゃったから?』

「違うよ。君を待つのは構わないんだけどさ、君が伊庭君と仲良いみたいだからちょっと意地悪したくなっただけだよ」


僕の言葉を聞いてくすりと笑ったセラはどの程度本気で捉えたかは分からないけど、「別に特別仲良いわけじゃないよ」と話す。
特別仲が良かったらたまったものじゃないけど、金輪際関わらないでもらいたいくらいだ。


「まあでも、今後伊庭君は気をつけてね」

『気をつけるって、どうして?』

「どうしても。セラに伊庭君は似合わないよ」


今回の件を詳しく話しても、セラが気を揉むことになるだけだ。
それに伊庭君の言う通り、彼が嘘をついた証拠もなければ確証もない。
それならば余計なことは言わないほうが良いだろうと、遠回しに伊庭君を貶すだけに留めた。


『似合わないのかな?よく分からないけど、総司は伊庭君と気が合わないみたいだね?』

「とことん合わないね」

『そんなに合わないんだ。どうしてだろう。伊庭君、優しくて良い人だと思うけど』

「へえ、そういうこと言うんだ。じゃあセラは僕と伊庭君どっちが好きなの?」

『え?』

「ねえ、どっち?」


詰め寄る僕に一度目を瞬いた後、セラは可愛い笑顔で言った。


『総司はどっちだと思う?』

「質問に質問で返さないでくれるかな」

『総司もよく、質問に質問で返してくるのにね』

「僕は真面目に聞いてるんだけど?」


折れずに聞き続けると、セラはまたくすくす笑っている。
そして特に躊躇った様子もなく、僕に言った。


『総司に決まってるよ』

「それ本当なの?」

『うん。総司が一番好きだから専属騎士になってもらいたいんだよ』


思ってもみなかった直球過ぎる言葉に、僕らしくもなく心音が早くなるのを感じる。
部屋が薄明かりで良かったと思える程、身体が熱くなった気さえした。
セラもへらりとふぬけた笑顔を見せながらも、どこか照れくさそうにしているから落ち着かない。
でもこの落ち着かない時間が、今の自分にとって大切なものだと気付いた。


「そこまで言うなら、そういうことにしておいてあげてもいいけど。君も物好きだよね」

『物好きだよねって、自分のことだよ?』

「実際あれだけ沢山強い騎士がいるのに、敢えて僕に専属騎士になって欲しいと思うなんて相当な物好きだと思うよ」

『そんなことないよ。総司は私の一番の騎士になってくれるんじゃないの?』


セラは少し膨れて見せるけど、実際僕から剣術を取ったら何も残らない。
でも他の団員達は剣術に加えて貴族の出身だったり、名のある家門を継いでいたりと色々なものを待っていた。
まだ年若いこの子が僕を命の恩人だと思い込んで僕を贔屓にしてくれてるだけで、それが永遠に続くだなんて自惚れてはいないけど。
今は先の未来より目先のことに一生懸命でありたいから、僕の目標は変わらなかった。

それなのに、心のどこかで吊り橋効果の話をした時の伊庭君の言葉が引っかかっている。
あの状況下でたまたま僕が助けたから、セラは僕を気にかけてくれているだけなんじゃないか。
そんなことを考えてしまう自分が、ひどく嫌だった。

でも今、この子にそんなことを聞いたって仕方ない。
体調の悪いセラをわざわざ不安にさせるようなことを言いたくないし、僕自身がその答えを聞くのが怖かった。
だから何も言わずに伸ばした手は、気付けばセラの手をそっと握っていた。


「……そうだね」


本当はもっと何か言いたかったのに、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
でもセラはそんな僕の様子に何か思ったのか、僕をじっと見つめてきた。


『総司……?』


僕の手をきゅっと握り返す、小さな温もりが伝わってくる。


「ん?どうしたの?」


僕がそう聞くと、セラは少し考えるように目を伏せ、それからふわりと微笑んだ。


『総司は普段から考え事をすること、多いの?』

「え?」


思ってもみなかった言葉に、つい聞き返す。


『なんとなく、よく遠くを見てる気がするから』


彼女はそう言いながら、指で小さく空をなぞった。


「そんなことないよって言いたいところだけど、セラがそう見えるなら、案外そうなのかもね」

『ふふ、やっぱり』

「じゃあ、セラはどうなの?何か考え事することはある?」

『うーん……最近は、お父様の書斎にあった本を読んでたから、その内容を考えることはあったかな』

「どんな本?」

『昔の騎士団の話だったよ』

「へえ、それはちょっと興味あるかも」

『わあ、やっぱり?総司、そういう話好きそうだなって思ったんだ』

「うん。機会があったら貸してよ」

『もちろん。でも明るい話ばかりじゃないから、読むと少し疲れちゃうかも』

「そっか」

『だから総司も考え事しすぎて疲れちゃった時は、ちゃんと休んでね』


セラはまるでそれが当然のことみたいに優しく笑う。
僕が何を考えていたのかなんて聞かないのに、それでも気にかけてくれているのが伝わってくるようだった。


「セラって優しいよね」

『え?』

「僕のことをそうやって気にしてくれるの、セラくらいだよ」


セラは小首を傾げて「そんなことないと思うよ」と優しく笑う。
きっと彼女の中では、目の前にいる相手を大切にすることや、こうして温かい言葉をかけることは当たり前のことなのかもしれないけど。
僕はセラのその行為に、何か特別な想いがあって欲しいと思ってしまう。


「本当のことだよ。セラは僕が何も言わなくても、なんか察してくれるよね」

『察してあげられてるのかは分からないけど、総司と一緒にいる時間が増えてきたからじゃないかな?総司が考え事してる時とか、ちょっと疲れてる時とか、なんとなくわかるようになってきた気がする』


その言葉がふわりと心に落ちる。
それは僕達の過ごしてきた時間に価値があると言ってもらえているように聞こえるから、心が温かくなる気がしていた。


「そうなら嬉しいけどね。でも、セラはなんで僕のことをそんな風に気にしてくれるの?」


セラはきょとんとした表情で瞬きをする。
僕の問いは唐突だったかもしれないけど、ずっと気になっていたことだった。


『なんでって言われると、うまく説明できないかも』

「説明できないって困るな。僕、結構気になるんだけど」

『そうなの?ちゃんとした理由、ないと駄目?』

「別に駄目ってわけじゃないけどね。ただあの事件があったから、何か君に気にさせちゃってるのかなって思ってさ」

『総司が助けてくれたこと、凄く感謝してるよ。でもそのことと総司のことが気になることはまた別って言うか、それだけだったら多分今みたいにはならないと思うよ』

「そう?」

『うん。だって、助けてもらったことと総司と話したいなって思う気持ちは、私の中ではまた別みたい』


僕が少し首をかしげると、ルナはそれに気づかないまま、穏やかに言葉を続ける。


『一緒にいると楽しいし、気づくと総司を探してることもあるよ。あとね、最近は総司がどんなことを考えてるのか、前よりわかる気がして……それがなんだか楽しいんだと思う』

「ははっ、随分のんびりした理由だね」

『そうかも。でもそういう時間が好きなんだよ。特別なことがなくても、総司と過ごす時間は大事にしたいなって思うんだ。だから総司のこと、もっと私に教えてくれる?』


その言葉が、胸の奥深くに落ちていく。
少しずつ、ただ一緒に重ねてきた時間の中で、彼女は僕を見てくれていたのかもしれない。
そしてあの事件から月日が経った今も、僕を知りたいと思ってくれている。
僕達の関係は、決してあの数日間だけで作られたものではないと思える言葉だった。


「勿論。それを聞いて、僕もセラのことをもっと知りたくなったかな」

『ふふ、じゃあこれからも沢山話そうね』

「そうだね。そのために専属騎士も頑張って目指すよ」


そう言うとセラは嬉しそうに頷いて、そっと僕の手をもう一度握り直した。


『応援してる』

「うん、頑張るから見ててよ」

『じゃあ総司のことずーっと見てるね。二十四時間ずっとこうやって』

「はは、馬鹿でしょ」


片手で目を囲ってふざけるセラは、純粋に僕を必要としてくれている。
この子の期待を裏切らないためにも、僕は絶対上に登りつめてこの子を護れる騎士になりたい。


「またここに会いに来てもいい?」

『それは駄目。もし見つかったら総司が怒られちゃうよ』

「見つからないようにするよ。セラが黙っててくれたらいいだけなんだけど」

『だけど、もしも何かあったらって思うと総司のことが心配だから……』

「でもここでなら会えるよ」


それが全てだった。
たとえ危なくてもリスクがあっても、この子と会う時間は必要不可欠だ。
僕達は今、互いにやらなければならないことが多過ぎて毎日に追われてしまうけど、少しでいい。
この子が僕を見てくれている今のうちに、同じ時間を過ごしていたかった。


『本当に大丈夫なのかな……』

「うん。まあバレて死刑になったらごめんだけど」

『ええっ……そんなこと言われたらもっと心配になる……』

「そもそもバレたら本当に死刑になったりするの?」

『ううん、さすがにそれはないとは思うけど……こんなことする人、総司しかいないからわからないよ』


その言葉に二人して顔を見合わせて笑ってしまったけど、どうしても会いたくなった時はまたこの子に会うためここに来てしまうんだろう。
そう確信しながら、束の間の一緒に過ごせる時間を楽しんでいた。

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