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綺麗な木漏れ日が揺れる公爵邸の庭園。
風が舞い上がるように強く吹き、読んでいた本のページが勢いよく捲られた。
『あ……』
ぽたりと手の甲に水滴が落ち、最初は雨かと思った。
でもそれが私の瞳から出たものだと分かった時には、止まることなくこぼれ落ちていった。
私は今、本を読んでいた筈。
それなのに胸はとても痛くて、何か大切なものを失ってしまったような感覚だった。
それは昔、お母様が亡くなってしまった時と少し似ている。
大切な誰かともう会えないと知ってしまった時の、言葉に出来ない損失感だった。
『……総司?』
風が吹き荒れて、何故か急に不安になった。
総司がいなくなってしまったような気がして、気付けば私は走り出していた。
そんなことはある筈ないと思う気持ちとは裏腹に、動き出した身体は止まらない。
お城の中へと入り、私は総司の部屋へとノックもせずに入った。
『……総……』
部屋はもぬけの殻だった。
最低限の調度品しかないその場所は、よく考えればまだ誰も生活していない。
それなのにどうして私は総司がここにいると思い込んでいたんだろう。
その不可解な自分の感覚に胸がまた苦しくなり、胸元で握った手にぎゅっと力を込めた。
「お嬢様?どうかされましたか?」
私を現実に引き戻したのは穏やかな山崎さんの声。
専属騎士の部屋の前で立ち尽くす私を不思議に思ったのか、首を傾げて私を見つめていた。
『山崎さん、総司を見ていませんか……?』
「沖田さんですか?今日はまだお会いしていないかと」
『そうですか、ありがとうございます』
「あ、お嬢様……!廊下を走ってはいけませんよ!それともうすぐ学院の担当者の方がお見えになりますからね……!」
お礼を言うなり走り出した私に、山崎さんのご指摘の声が後ろから届く。
走ってしまってごめんなさいと心の中で謝りながら、お城の二階と一階をくまなく探し、騎士団の稽古場にも顔を出した。
そして再び庭園に戻って来ても総司はいないから、私の瞳からはまたぽたぽた涙が溢れていた。
『……うっ……』
どうしてだろう、不安で仕方がない。
その理由が分からないのに、総司が隣にいないことが怖くて堪らなかった。
もうずっと総司に会えていない気がするなんておかしな話だけど。
私は総司に会いたくて会いたくて堪らなかった。
「セラっ……」
その声に誘われて振り返ると、息を切らした総司が私を見て目を見開く。
少し震えて見えた総司の手が頬についた涙を拭ってくれた時、総司が辛そうに顔を歪めた。
「良かった……、また君に会えて」
『総司……』
「凄くセラに会いたかったよ……」
きつく抱きしめてくれる腕の中、私は総司の胸に顔を埋めて涙をこぼす。
温もりに触れたら急に涙が止まらなくなって、縋るように総司の背中に腕を回した。
悲しくて堪らないのに、何が悲しいのかもよく分からない。
ただ溢れた涙は中々止まってくれないから、しばらくの間そうしていた。
「セラ……、平気?」
腕が優しく離されると、総司は身を屈めて私の涙を拭ってくれる。
鼻を小さく啜りながら頷く私を、総司が顔を歪めて見つめていた。
「もしかして覚えてるの?」
『何のこと……?』
「……何も覚えてない?」
『うん……?』
どうしよう、総司の言っていることまでよく分からない。
総司が悲しそうに瞳を揺らす理由も分からなくて、まるでおかしな夢の中に入ってしまったみたいだった。
「……そうだよね、変なこと言ってごめん」
『総司はどうしたの……?大丈夫……?』
「僕は大丈夫だよ。こうしてセラと会えたから、元気出たしね。セラはどうして泣いてたの?」
『それが……よく分からなくて……』
とても悲しいことがあった気がする。
いまだに胸は痛くて苦しいのに、その理由がわからないから余計に不安になった。
でも手を伸ばせばそこには大好きな温もりがあって、きっと大丈夫だって……そう思うことができる。
心に空いた穴を埋めるように、総司の手を握る手に力を込めた。
『ただ総司に凄く会いたかったの。探したけど会えなかったから、不安になって……とにかく凄く……会いたかった……』
再び涙が溢れてしまったから、慌ててそれを自らの指先で拭った。
それでもまた流れた涙は総司が拭ってくれて、彼はまた辛そうに顔を歪めた。
「僕はずっとセラの傍にいるよ。だから心配しないで大丈夫だよ」
『うん、ありがとう……』
「ごめんね、君を不安にさせて」
『違うよ、総司のせいじゃないから。私がおかしくて……もしかしたら本を読んでて寝ちゃったのかな。変な夢でも見たのかも……』
総司に会って、その顔を見たら少しほっとした。
頬を撫でてくれる手が温かくて、その手にそっと自分の手を重ねた。
でもそんな私を見下ろす総司は、とても悲しそうに今にも泣き出しそうな顔をしている。
『総司はどうしてそんなに悲しそうなの?何かあったの……?』
「ううん、何もないよ。ただセラに会えて嬉しいだけかな」
『私も総司に会えて嬉しい』
「セラ、大好きだよ。ずっと君に言いたかったんだ」
想いが通ってから、もうすぐ一年。
総司は私に会うたび、必ずその気持ちを言葉にしてくれる。
そのたびに胸の奥で、そっと花が開くみたいにあたたかくなるのに、今日はなぜかいつもより深く心に染み込んできた。
大切で、特別で、失くしてはいけないもののように感じられて。
気づいたときには、また瞳が潤んでいた。
『……ぅ……』
溜めきれなくなった涙が、静かに零れて頬を伝っていく。
そんな私を見て、総司は驚いたように瞳を見開いた。
「……セラ……」
『……っ、嬉しい……』
その言葉を、ずっと待っていた気がする。
けれど同時に、もう二度と聞けないかもしれないと、どこかで思い込んでいたような気もしたからこそ、胸の奥が締めつけられて涙は止まらなくなってしまった。
寂しくて、悲しくて、これからの毎日が怖くて……
でも、どうしてそんな気持ちになるのかは私にもわからない。
ただひとつ確かなのは、総司を想うこの気持ちだけが、はっきりと胸の中にあるということだった。
『私も……総司が大好き……』
縋るように総司の服を掴めば、総司は優しく抱きしめてくれる。
しばらくの間、泣き続けてしまったけど、総司はその間ずっと温かい温もりをくれていた。
『……泣いて……ごめんね……』
「謝らないでいいよ。セラの涙を拭えることも嬉しいからさ」
総司の優しい眼差しや、涙を拭う優しい触れ方が、私の気持ちを次第に落ち着かせてくれる。
それでもまだ離れたくなくて、私は総司の服を掴んだまま離れることはしなかった。
「セラ、僕を見て」
その言葉に誘われて総司を見上げると、綺麗な翡翠色の瞳が私だけを見つめてくれている。
吸い込まれそうになるくらい綺麗で、心音が早くなって止まらない。
この瞳に総司を映せば、大好きで堪らないと心が叫んでいるような気がした。
「ようやく近くでセラの顔が見れて嬉しいよ」
『ようやく?』
「うん。君を見る度に僕は、君のことが大好きで堪らないって思うんだ」
同じことを思ってくれていたことを知り、心が喜びと安堵に包まれていく。
照れくさくて、でもとても幸せで。
私が自然と笑顔になれば、総司も嬉しそうに笑ってくれた。
「……可愛いね」
私の髪を慈しむように撫でてくれた総司は、柔らかく微笑むと身体を屈めて私に顔を近づける。
私の瞳も閉じかかったけど、唇が触れる寸前、直ぐ近くから平助君と伊庭君の声が聞こえてきた。
「総司の奴、いきなり走り出してどこ行っちまったんだろ」
「沖田君は相変わらず自由奔放ですね。もうすぐ学院の教員の方々がお見えになるというのに」
「一応、庭園も見に行こうぜ。よくここで昼寝してるって言ってたし」
「昼寝なんてしてるんですか?ここはセラのために作られた庭園ですよ、沖田君の昼寝場所ではないんですけどね」
その会話を聞いて私が総司を見上げれば、彼は微笑みを浮かべて私の手を引く。
そして低木の並ぶ庭園の端っこに行き、そこに身を隠すように私を座らせた。
「いませんよ。やっぱり先に城内へ行かれたのかもしれませんね」
「あれ?ベンチの上に本が置かれたままになってるじゃん」
「セラのものでしょうか?一応持って行きましょう、雨が降れば本が濡れてしまいます」
思えば本を置き去りに総司を探しに行ってしまったことを思い出す。
膝を抱えながらぼんやり先程の涙の理由を考えていると、総司の手が私の右頬を優しく包み込んだ。
彼の親指が頬を撫でると、私達の距離は近付いていく。
ドキドキしながら瞳を閉じれば、唇は優しく重ねられた。
角度を変えては何度も繰り返されるキスはとても優しくて、総司が私を大切にしてくれていることが伝わってくる。
私達以外誰もいない庭園の中、私は少し恥ずかしい気持ちで総司を見上げた。
『今日は学院の方がいらっしゃる日だったね。制服とか色々楽しみ』
「そっか……、そうだったね。セラなら制服姿も可愛いよ」
『ありがとう……』
「僕はまたここから頑張らないとかな」
『え?』
「早く君の専属騎士になりたいなって思ってさ」
半年後には大会がある。
恐らくその大会の成績や今までの総合的評価で私の専属騎士は三人のうちの誰かになるのだろう。
私は絶対総司がいいから、自分の膝に頭を預けながら斜め上の総司を見上げた。
『凄く楽しみだし、今から待ち遠しいな。総司が専属騎士になってくれたら、ずっと一緒にいられるね。それが一番嬉しい』
今はまだあまり一緒にはいられないし、会う時もこうやって人目を気にして会わなければならない。
でも総司があの専属騎士専用の部屋に来てくれたら、毎日会える、毎晩話せる。
そのことが嬉しくて堪らなかった。
けれど私の言葉を聞いた総司は、急にぽたりと涙をこぼす。
目を見開いたのは私だけではなく、総司自身も少し動揺したように私から顔を背けた。
『……え?総司?どうしたの……?』
「……いや……ごめん。なんでもないよ」
『もしかして……私の専属騎士になりたくない……?』
「違うってば。そんなことあるわけないでしょ?」
『でも……』
「……今日、夢を見たんだ。折角セラの専属騎士になれたのに、ここから出ていかないとならない夢でさ……。それを思い出したら、ちょっとね。かっこ悪いとこ見せてごめん」
苦笑いをしてそう言った総司は、もういつも通りだった。
夢は夢だけど、思い出すと辛くなる夢を見ることはあるから気持ちはわかる。
とても現実的で苦しい夢を、どうして私達人間は見てしまうんだろう。
『それはとても悲しい夢だね。総司がここから出て行くなんて、悲し過ぎて想像したくないよ……』
総司がそんな夢を見たから、私もこの場所から総司がいなくなったように感じてしまったのかな。
あの時は総司に触れることももうできない気がして、とにかく酷く総司が遠く感じられた。
「僕は君を護りたくて騎士になったんだよ。だから他のところには行かないよ」
『うん、ありがとう……』
「たとえ王命が出されたとしても、僕は絶対従わない。ずっとセラの傍にいるって決めたしね」
『ふふ、嬉しいな。ずっと傍にいてね』
繋いだ手が優しく引き寄せられて、短い返事を返してくれた総司と再び唇を重ねる。
心地良い緊張と心を満たしていく幸福感が私に幸せをくれるから、こんな毎日がずっと続いて欲しいと思っていた。
『そろそろ学院の方がいらっしゃるかな、私達も向かわないといけないね』
「もう少しだけ一緒にいようよ」
『でも、時間大丈夫かな?』
「あと少しだけ。まだ大丈夫だよ」
総司のキスも好きだけど、こうして触れる時優しく頬を撫でてくれる総司の手や私の身体を引き寄せるように背中に回された腕の温もりも好きだ。
大切に護ってくれる総司の体温が心地良くて、私は総司の肩に縋るように手を置いた。
この世界には沢山の人がいるけど、私はきっとこの先も総司のことしか特別に思えない。
だからこの温もりは絶対に手放せないと思いながら、束の間の幸せに身を委ねていた。
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