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学院就学の前日。
柔らかな陽射しの中、僕は公爵邸の乗馬練習場に立っていた。
僕の目の前ではセラが馬に跨り、真剣な眼差しで手綱を握っている。
その姿がどこか不安そうに見えたから、僕はそっと歩み寄りセラの手に自分の手を重ねた。
「まずは、手綱は左右均等に持つといいよ。馬に気持ちが伝わるように、力を入れすぎずにね」
僕は穏やかな口調でそう話すと、セラは小さく頷いた。
普段なら声を掛ければ微笑むことが多いセラも、今日はその表情に少しの緊張が見えた。
「それから体のバランスも大事かな。上半身はまっすぐに、でも柔らかく動かしてみるんだ。今はまだぎこちないけど少しずつ慣れていくはずだよ」
馬の動きに合わせて、セラは必死に姿勢を整えようとしている。
僕はセラの肩にそっと手を添え、正しいフォームを教えた。
『こうかな……』
セラが馬の上で身をこわばらせる様子を見て、思わず微笑みがこぼれる。
こうして慣れないことに挑戦している姿は、初々しくて可愛いかった。
「乗馬服、似合ってるよ」
『本当?ありがとう……』
今日のセラは白いシャツに紺色の細身のベストを重ね、ウエストラインがすっきりと強調された乗馬服に身を包んでいた。
袖をまくった手首が華奢で可愛らしいし、すらりと伸びた脚のラインが妙に目を引く。
膝のあたりには補強のための革のパッチがついていて、そのせいで脚がよりしなやかに見えた。
ドレス姿ばかりを見ていたから、パンツ姿は新鮮な印象を受ける。
馬の背に跨る姿勢に慣れていないせいか、背筋を伸ばした様子はどこか頼りなさげで、保護欲を掻き立てられるものだった。
「大丈夫?」
思わず声をかけると、セラはきゅっと手綱を握りしめ、真剣な表情でこちらを見た。
『うん……。でも、久しぶりだからすごく高く感じる』
馬上からの視線の高さに少し戸惑っているのか、小さく眉を寄せる仕草が愛らしい。
不安そうな顔をしているのに、頑張ろうとする意志が伝わってくるから、出来る限り僕も力になってあげたいと思っていた。
それに前回の世界で、王太子に乗馬を習っていたセラを思い出せば、今回自分がその役割を担えることが嬉しいと思える。
最初こそ反対した僕も、先日の夜のセラの言葉を聞いて、未来のために懸命に努力しようとするこの子をただ支えてあげたいと考えていた。
「最初はみんなそう感じるかもね。でも大丈夫だよ、僕がそばにいるから」
そう言いながら馬の首を撫でるように促すと、セラは恐る恐る手を伸ばし、黒の手袋をはめた指先が慎重に馬のたてがみに触れた。
『わあ、ふわふわ……。今日はよろしくね』
その様子があまりにも可愛らしくて、胸の奥が温かくなる。
とは言え緊張した面持ちで手綱を握りしめているセラは、肩に余計な力が入っていて今にも固まってしまいそうだ。
「そんなに強く握らなくても大丈夫だよ。馬は優しく導けば、ちゃんと応えてくれるよ」
そっと手を添えて、セラの力の入りすぎた指を解いてあげる。
するとセラは小さく瞬きをして、少しずつ肩の力を抜いた。
『こう?』
「うん、いい感じ。あとはもう少し背筋を伸ばして。そう、視線は前に」
セラの背にそっと手を添え、正しい姿勢を教える。
セラの華奢な体から伝わる温もりが心地よくて、思わずもう少し長く触れていたくなるのを堪えてセラの動きに集中した。
「足はしっかりと馬の胴を挟んでみて。バランスを取るのは腰で。腕に力を入れすぎると馬の動きを妨げちゃうから気をつけてね」
『えっと……こうかな?』
「うん、いいよ。そのまま少し歩かせてみようか」
セラは小さく息を呑んでから、恐る恐る脚を軽く使って合図を送る。
すると馬は素直に歩き出し、セラは驚いたように目を見開きながらも次第に表情を和らげていった。
『わあ……、動いてくれた……』
「すごいね、ちゃんとできてるよ」
『私ちゃんと乗れてるかな?』
「もちろん。すごく上手だよ」
そう答えると、セラは安心したように微笑んだ。
その笑顔があまりにも眩しくて、思わずセラの頬に手を伸ばしていた。
「君はなんでもすぐに飲み込めるから、僕が教えられて嬉しいよ」
『総司が教えてくれるから、私も頑張れるんだよ』
「そんなに僕のことが好き?」
緊張が少しでも解れたらいいと敢えてかうようにそう言ってみれば、セラは悪戯に笑って何も言わないのに否定もしない。
その反応すら愛しくて、セラと過ごす初めての乗馬の時間に幸せを感じていた。
その後も最初より速く歩かせながら、手綱の使い方や馬のリズムに合わせる方法を教えていく。
最初はぎこちなかった動きも、セラはすぐにコツを掴み、驚くほどの速さで上達していった。
「セラ、すごいね。こんなにすぐ慣れるなんて思っていなかったよ」
『総司先生のおかげだよ。やっぱり指名して良かった』
「あははっ、優秀な生徒を持てて僕も鼻が高いよ」
『でしょう?』
そう言って得意気に胸を張る姿が可愛くて、思わず口元が綻ぶ。
『私、もっと速く走らせてみたいな』
気づいた時には遅かった。
セラが無邪気に馬に軽く合図を送ると、馬はその指示に素直に応じ、駆け足になった。
『わあ、すごい……!』
「待って、それ以上速くしたら……」
『楽しい……!』
駄目だ、全然聞いてない。
僕は急いで自分の馬に跨り、セラの馬の横に駆け寄ろうとした。
でもセラは夢中で手綱を軽く送り、まるで風と一体になったかのように走り続けた。
『見て、総司……!風が気持ちいいよ』
セラの明るい声が響く中、僕は心の中で焦りと不安が募るのを感じた。
「くそ……このままじゃ、本当に危ない」
僕は馬を操り、セラの馬の隣に必死で並走しながら再び叫んだ。
「セラ、落ち着いて!もう少し手綱を引いて、ゆっくり走ってくれない?」
『え?なに?』
セラは楽しげに目を輝かせながらも、夢中で馬に合図を送る。
セラが楽しんでいる姿は愛らしいものの、同時にその勢いが制御不能になる危険があった。
「セラ……!危ないってば!」
何度目かの声も、風にさらわれて届かない。
前のめりに身体を預けて馬を駆けるセラは、嬉しそうに笑っていたけど、その速度はもはや制御できる域を超えていた
『……きゃっ……』
馬の前足が突然浮く。
セラの体がふわりと傾いたのを見た瞬間、僕の胸の奥にぞっとするほど冷たいものが走った。
「セラ……!」
僕は咄嗟に馬を飛ばし、セラの横へと滑り込んだ。
手綱を片手で操りながら、もう一方の腕を伸ばす。
か細い腕を捕らえ引き寄せたと同時に、セラの身体が僕の胸の中に飛び込んできた。
『……びっくりした……』
なんとか馬の上に受け止めたられたけど、ほんの一瞬でも遅れていたらセラは間違いなく落馬していた。
以前の風祭でのことや命を落としたセラの姿が蘇り、気付いた時にはセラ肩を強く掴んでいた。
「……何してるのさ!」
セラを抱きかかえたままつい声を荒げてしまったけど、それくらい怖かった。
あのままセラが落ちていたことを想像してしまえば、この焦りや苛立ちはすぐに抑えることはできなかった。
「君が落ちたらどうするつもりだったの?これは遊びじゃないんだよ、制御できない速度で走らせるなんて、馬に乗る資格ないくらい危ないことだって分かってるの?」
『……あ、ごめんなさい……私……』
「危険なことをするなら、もう乗馬はさせられないよ」
俯いた顔が僕の胸に沈んで、息が少し震えていた。
「ごめんなさい」と再び謝るセラの瞳には涙が溜まっていて、以前、懐中時計を一人で買いに行ってしまった時のことを思い出す。
あの時もこの子を身を案じるばかりに、僕は感情のまま怒ってしまったけど。
その時の僕の言葉に傷ついたままセラを逝かせてしまった一度目の世界が蘇り、僕は出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「……いや、僕の方こそごめんね。言い過ぎたよ」
セラの髪をそっと撫でると、首を横に振ったセラは悲しそうに唇を結ぶ。
『総司の言う通りだと思う。私、調子に乗ってた……。総司、怒ってる……?』
「怒ってないよ。ただ無理にスピードを出しちゃだめだよ。楽しいのは分かるけど君の身体が何よりも大事だからね」
『うん、これからはちゃんと気をつけるね。ごめんなさい……』
「わかってくれたならそれでいいよ。大切なのはこれから気をつけることだから」
そう言うとセラは小さく頷きながら、そっと僕の服の裾を指でつまんだ。
その仕草がなんだか無性に愛らしくて、思わず苦笑する。
『助けてくれてありがとう』
「君を助けるのは当たり前だよ、僕が何より大事にしたい人なんだから」
目の前のセラが、ようやく顔を上げる。
でもその瞳はまるで甘えるように潤んでいて、安心しきった表情と相まって僕を至近距離から真っ直ぐに見つめてくるから、心の真ん中を貫かれた気分だった。
「セラ……」
思わずその名を呼んでいた。
馬の上で寄り添うこの距離や腕の中にいる体温、指先ひとつ動かせば頬にも髪にも触れられるのに、ここは乗馬の訓練場。
触れたい気持ちが溢れて、息が詰まりそうだった。
「……ちょっと、近すぎるんだよね」
『え……?』
「そんなに見つめないでくれる?誰かに見られたら疑われちゃうんだけど」
『あ……ごめん』
セラは再び顔を俯かせる。
その寂しそうな顔を見てしまうと、この前の世界でのセラが頭に浮かんだ。
あの時、気付けばセラはいつも寂しそうに笑っていた。
最後なんて泣かせてばかりで、どれ程セラを苦しませてしまったのだろうと、再び胸が痛くなった。
今はこうして前の世界の記憶をなくしたセラと過ごしているけど、セラは信じられないことに王家の馬の名前を覚えていた。
セラの口からはっきりと出たリュネットという言葉を聞いた時、思わずぞっとしてしまった僕がいる。
もしあの世界のことを思い出したら、きっとセラはとてつもなく傷付いてしまう。
そして僕の言葉の真偽を証明できるものがこの世界に存在しない今、この世界の僕の想いすら届かなくなりそうで怖かった。
そんなことを考えてしまうからなのか、セラが悲しそうに瞳を伏せると、この心はどうにかしようと必死になる。
前の世界で沢山悲しい想いをさせてしまった分、この世界では沢山笑顔にさせてあげたかった。
「ねえ、セラ」
セラの髪にそっと触れながら、その瞳を覗き込んだ。
「今日、本当によく頑張ったね。初めての乗馬で、あれだけ馬を操れるなんてすごいことだよ」
その言葉に、セラは驚いたように目を丸くする。
『……本当に?』
「もちろん。僕は嘘を言わないよ」
指先でセラの頬をなぞると、少し赤く染まっていく。
そんな姿がまた可愛くて、その様子に満足しながら僕は一つ提案をしてみることにした。
「馬を速く走らせてみたいなら、今度は僕と一緒に乗ってみようか」
『……いいの?』
「もちろん」
そう言いながら僕は馬の鞍に手をかけ、セラを見つめた。
セラの頬が嬉しそうに緩むのを見て、自然と僕の口元も綻んでしまう。
「ほら、前向いて」
セラは頷くと、僕の腕の中で馬に跨る体勢に変える。
そして目の前の身体を僕の方に引き寄せると、しっかりとセラを腕の中に収めた。
『あの、少し近くない……?』
「当然だよ。君を護るために一緒に乗ってるんだから」
そっとセラの腰に手を回し優しく支えると、細い体がすっぽりと僕の腕の中に収まる。
セラはぎこちなく手綱を握りながらも、緊張しているのが伝わってきた。
「ほら、リラックスして。僕がちゃんと支えてるから」
そう囁くと、セラは小さく頷きつつもその頬はまだほんのり赤いままだ。
セラが小さく身じろぎして困ったように少し後ろを振り返るから、その視線や挙動に僕の口元は緩み、思わず肩越しに覗き込んでいた。
「なあに、その顔。もしかして僕と一緒に乗るのは嫌なの?」
そう囁くと、セラは慌てたように首を横に振った。
『そういうわけじゃないけど……』
「じゃあ、このままでもいいよね?」
セラの耳元でわざと低く囁くと、ぴくっと小さな肩をすくめた。
その反応があまりにも可愛らしくて、ついからかいたくなるのは僕の悪い癖だ。
「ねえ、もう少しだけ深く腰を下ろして。馬の動きに合わせると、もっと楽になるよ」
『こう……かな?』
「うん、いい感じ。もっと僕に背中を預けて」
セラが素直に体を僕にもたれかけるようにすると、より一層距離が縮まった。
恥ずかしそうにしながらも、セラは僕の言葉に従って、そっと背を預けてくれる。
柔らかい髪が僕の顎に触れてくすぐったかった。
『総司……?』
「ん?」
『なんか、くっつきすぎちゃってるよ……』
「二人乗りだからね。しっかり支えないと、君が落ちちゃうでしょ?」
『それは、そうかもしれないけど……』
「ほら、ちゃんと前見ないと」
再び耳元で囁くと、セラは観念したように小さく頷いた。
『総司……なんか、恥ずかしいよ……』
「どうして恥ずかしいの?」
『やあっ……』
彼女の耳元にそっと唇を寄せて囁くと、セラはますます身を縮こませた。
『もう……さっきから意地悪してるでしょ。やめて』
「ははっ、バレてたんだ。でも君が可愛すぎるからいけないんだよ」
『真面目にやって』
「酷いな。僕はセラのことにはいつだって真面目に考えてるのにね」
そう言いながら、僕は馬を軽く合図で歩かせた。
セラは最初こそ緊張していたけど、僕の腕の中で少しずつ力を抜かしその身を委ねてくれるようになった。
「もう少し速くしてみる?」
『いいの?』
「うん、今度は僕が手綱を引くよ。だから、僕にちゃんとつかまってて」
『うん』
セラがそっと僕の腕に手を添える。
その指先が少し震えているのが愛おしくて、僕は彼女の手を包み込んだ。
「いくよ」
軽く馬の腹を蹴ると、馬はリズムよく駆け出した。
セラの髪がふわりと舞い、甘い香りが僕の鼻をくすぐる。
『……あっ……』
セラが驚いてぎゅっと僕の腕を掴む。
その仕草が可愛すぎて、思わず笑ってしまった。
「怖くない?」
『総司がいるから大丈夫』
「へえ、僕のことそんなに信じてくれるんだ」
『うん。だって、総司だもん』
何気なく言われた言葉に、胸がまた温かくなる。
こんなに素直に僕を信じてくれるセラが、愛しくて仕方ない。
「ありがとう、セラ」
耳元でそっと囁くと、セラは少し戸惑ったように身をこわばらせた。
『何がありがとうなの?』
「僕を信じてくれることだよ」
『だって総司は私のこと、いつも護ってくれるし大切にしてくれるから』
セラに信じてもらえることは、僕にとって大きな力になる。
君からの言葉がどれほど僕の心を満たしてくれるか、セラは知らないんだろうけどね。
「これからも君のことはずっと僕が護るよ」
『本当……?』
「もちろん」
『ねえ、総司』
「ん?」
『私……総司と一緒に乗馬ができてとっても幸せだよ』
そう言って、セラがふわりと笑う。
その笑顔が眩しくて、胸の奥が温かくなる。
「僕もだよ。折角だからもう少し乗っていようか」
セラが恥ずかしそうに頷くのを見て、僕は彼女をそっと抱きしめた。
これから先も、ずっとこうしていられたらいい。
そんなことを思いながら、僕達は二人だけの時間を楽しんでいた。
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