5

今日は学院の入学式。
私は新しい制服を身に纏い、期待半分不安半分で皆と馬車に揺られていた。
運良く首席になった私は、今日は全校生徒の前で新入生代表の挨拶をしなければならない。
昨晩は緊張し過ぎて、なかなか眠りにつくことが出来なかった。


「伊庭君と平助のどっちかは、セラの代表挨拶についてて欲しいんだけど」


皆と他愛ない話をしていると、総司が急に真剣な面持ちで話し始めた。


「舞台裏での護衛ということでしょうか?」

「うん。セラは僕達とは別の場所に座るだろうし、教室に戻るタイミングも違うかもしれないでしょ。だから一人はセラの傍にいた方がいいと思うんだよね」

「そういうのはいつも総司がやりたがるのに珍しいじゃん」

「ついててあげたいのは山々なんだけど、僕は先に教室に行きたいんだ」

「どうしてです?」

「クラスに変な奴がいるかもしれないし、セラがそいつらと接触する前に手を討ちたいんだよね」


総司が何をしたいのかよく分からなくて、私と伊庭君、平助君は三人で顔を見合わせる。


『別に大丈夫だよ?どんな人がいても』

「駄目だよ。回避するべき危険があるなら、それは先に排除したいからさ」

「よく分かりませんが、それでしたら僕がセラに同行しますよ」

「待ってくれって。今日は俺がセラについてたいんだけど」

「平助君はたまに注意力散漫な時がありますから、僕に任せて下さいよ」

「はあ?ひっで、俺だって今は落ち着いてんの。もう前みたいじゃねーの!」

「どっちでもいいけど、じゃんけんで決めれば?」


総司が投げやりな感じでそう言えば、伊庭君と平助君は本当にじゃんけんをし始める。
あいこばかりで何回も続くその姿を見れば少し緊張は解けて思わず笑ってしまった。


「っしゃあ!俺の勝ち」

「じゃんけんで決めるなんて納得いきません」

「今更それ言うのはずりーって。伊庭君だって手出してたじゃん」

「それは平助君が出さなきゃ負けよ、と言うから仕方なくですよ」


二人の言い合う姿を横目に、見えてきた学院に視線を移す。
すると言いようのない不安感や悲しみに似た感情が急に胸に湧き上がり、その違和感に私は拳をきつく握っていた。


「どうしたの?泣きそうな顔して。緊張してるの?」


私の顔を覗き込んだ総司は、微笑んでそう聞いてくる。
でも今の私は代表の挨拶に緊張しているわけではなくて、なんだろう……心が学院に行きたくないと言っているみたい。
何か憂鬱なことや悲しいことがあるとわかっていてその場に行かなければいけないような……そんな感覚だった。


『そうだね、少しだけ緊張するかな』

「セラなら大丈夫だよ、席からちゃんと見てるからね」

『見てなくていいよ。総司は見るの禁止ね』

「ええ?なんでさ。君の挨拶くらいしか楽しいことないんだから、瞬きしないで見るつもりだよ」

『ふふ、何言ってるの?変な総司』


このおかしな感覚は気のせいだと、半ば無理矢理考えることをやめた。
学院に通うことをずっと心待ちにしていたし、不安に思うより楽しみにしていた方がいいと自分に言い聞かせていた。


「セラ、この前話したこと覚えてるよね?」


総司の声質が真剣なものに変わり、私は窓の外から総司に視線を戻す。
彼の瞳は切実さを物語るような揺らぎを見せて、私を真っ直ぐ見つめていた。


『覚えてるよ。学院でも周りには気をつけるし、一人にならないようにするね』

「うん、そうして。それとこの前話した二人には絶対に近寄ったら駄目だよ」

「どなたのことですか?」


私が返事をするより早く、伊庭君が総司に首を傾げて尋ねる。
平助君も私達の話が気になっていたのか、黙ったままこちらを見ていた。


「ルヴァン王国の王太子と王女のことだよ。あの二人は危険だから、伊庭君と平助も関わらないで」


先日、総司は私の身を案じてこれから始まる学院生活のことで声をかけてきてくれた。
学院内では一人にならないこと、そしてルヴァン王国の王太子殿下と王女殿下とは絶対に関わってはいけないこと。
その二つが総司から言われた注意事項だった。


「僕も耳にしたことはあります。特に王女殿下は厄介な方みたいですね」

「へー、そうなのか?」

「いや、厄介どころじゃないよ。あの王女と関わったら最後、身も心も持っていかれるよ」


総司が静かな声でそう言った瞬間、馬車の空気がすうっと変わった気がした。
伊庭君も平助君も思わず言葉を止めて、総司の顔を見つめる。
その声音は穏やかなのに、どこか冷たい。
まるで実際に何かを見てきた人のような、そんな現実味を帯びた口ぶりだった。


「身も心もですか……。それは怖いですね」

「でもそんな嫌な奴なら、最初から俺達も仲良くはならねーから大丈夫だって」

「いや、話した感じは礼儀正しいし接し方も丁寧なんだ。だからちょっと話したくらいじゃわからないけど、実際は心の底で他人のことなんて自分を楽しませるための駒としか思ってない人だよ。人の弱さを見抜くのが上手くて、相手の感情を利用するのも平気な人なんだ。僕は、あの王女を悪魔みたいな人だと思ってるよ」


総司はそう話しながら、まるで何かを思い出すかのようにその瞳を鋭く細める。
その目線こそ合わなかったけど、話を聞いている私まで胸が苦しくなるような表情をしていた。


「誰かを陥れることも傷つけることも躊躇わない。しかもそれを笑顔でやってのける。自分が望むものを手に入れるためなら、嘘も罠も、時には王命さえも使う。だからどんな形でも絶対に関わったら駄目なんだ」

「……なんか、随分怖い王女なんだな」

「僕も噂は聞いていましたが、そこまでの話は聞いたことがありませんでしたよ……」


平助君と伊庭君まで真剣な表情になり、馬車の中は一度静かになる。
いまだに総司の顔は険しくて、私の心は少し落ち着かない気分になった。


『でも私、そのお二人の顔を見たことないから、最初はどの方達がルヴァン王国の方なのかわからないかもしれなくて……』

「確かにそうだね。でも大体二人一緒にいるんじゃない?顔が同じだからわかりやすいと思うよ。クラスが違うから接点は少ないと思うけど、見かけたら僕が教えるよ」

「ありがとう。でも総司は、王女殿下や王太子殿下のことを知ってるの?』


王女殿下の話をする時の総司は、彼女をよく知っているかのように、確信をもって話していたように感じた。
だから聞いてみたけど、総司は我に返った様子で私を見ると、ややぎこちなく微笑んだ。


「……いや、直接の面識はないよ。でも王族に関する噂って、否応なく耳に入るからね。特にあの王女については、いい話を聞いたことがないからさ」

『そうなんだね』

「セラは目立つから、標的にされないように気をつけないと駄目だよ。王太子だってその王女と同じ環境で育ってるわけだから危険だし、それこそ君が王太子に求婚でもされたら大変でしょ?」


総司からの言葉に思わず笑ってしまえば、不服そうな総司の視線が向けられる。


「何笑ってるのさ。笑い事じゃないんだけど」

『ふふ、だって求婚なんてされるわけがないのに』

「なんで言い切れるの?そんなことわからないでしょ?」

『私はアストリア公国の人間だよ?ルヴァン王国の王太子殿下が妃を迎えるなら、普通は本国の名家から選ばれるんじゃないかな。アストリアは確かにルヴァンの管轄下ではあるけど、あくまで自治国家で、内政にも騎士団の統制にも独立性が認められてるし』

「でも王命が出たら逆らえないよ」


総司の声が、少しだけ低くなる。
その瞳もいつもより鋭くて、私は唇をきつく結んだ。


「アストリア騎士団だって国王の要請に応じて派兵される決まりがあるじゃない。近藤さんでさえ王命が下されればそれに逆らうことはできない。いくらそれが納得のいかない命令だとしてもね」


総司の言葉には妙な重みがあったから、私は一度押し黙った。
確かに王族同士の権力争いや嫉妬、そういったものがある世界に入ることは容易いことじゃない。
それに何より私は総司の傍にいたいから、総司の言葉通り気をつけるに越したことはないと思った。


『そうだよね……総司が言ってくれた通り、私もちゃんと気をつける。何かあったら、すぐ皆に相談するね』


そう言いながら顔を上げると、総司は少しだけ安心したように微笑んでくれた。
けれどその笑みの奥にはやっぱりどこか、私には掴めない陰りがあるように見えた。

総司のあの声、あの瞳。
あれはただ、人づてに聞いただけの話をしている人のものではない気がした。

だけど……総司は面識はないってはっきり否定した。
だから多分私の気のせいだろうと、私は総司に向かって微笑みを向けた。


『それに、ありがとう。私のことを護ろうとしてくれて』

「当然でしょ。君が無事に学院生活を送れるように、僕もできる限りそばにいるよ。セラのことは絶対に護るから」


総司の言葉に伊庭君と平助君も同調してくれて、私は再び皆にお礼を告げる。
新しい環境に身を置くことは心配なこともあるけど、皆がついていてくれるなら大丈夫だと心強い気持ちだった。



それから学院に到着し入学式に参列した私は、平助君が近くで見守ってくれる中、新入生代表の挨拶を無事終わらせることが出来た。
式の後、先生方からお声を掛けて頂いたこともあり、私と平助君は皆とは少し遅れて教室がある棟に向かいながら外を歩いているところだった。


「挨拶めっちゃかっこよかった!お疲れ様!」

『ふふ、ありがとう。緊張し過ぎてあんまり記憶に残ってないよ』

「あれだけの人の前で話したら確かに緊張しそうだけど、あんまそうは見えなかったぜ」

『そうかな、内心はバクバクだったよ』


平助君と並んで歩いていると、ふと左側に中庭の入り口が見える。
心が騒つき思わず足を止めると、平助君が首を傾げて私の方を振り返った。


「ん?どうしたんだ?」

『ううん、綺麗な中庭だなって思って』

「あ、ほんとだ。今度ここで昼飯食おーぜ!」

『そうだね、ベンチとかも沢山あるみたいだし』


でも、どうしてか私はこの中に入りたくないみたい。
きっとこれも気のせいだと思いながら綺麗な中庭を眺めていると、辺りには急に強い風が吹いた。


「うわっ、今日風強いな」

『きゃ……、あっ……』


持っていた代表挨拶の紙が、私の手から離れた瞬間、風で舞って後ろに飛ばされていった。


『紙がっ……』

「大丈夫だって、俺が拾うから……!」


あの紙は私が落としたことが丸分かりになってしまうものだから、そのままにはしておけない。
走り出す私に続いて平助君も紙を追いかけてくれたけど、平助君の手がそれに届く寸前、今度は中庭の方に飛ばされていった。


「はあ?なんだよ、それ」

『あははっ、惜しかったね』

「ははっ、勘弁してくれって」


紙一枚に振り回されて、私達は行ったり来たりしている。
思わず二人で笑っちゃったけど、取り敢えず拾いに行かなければならないから平助君と並んで中庭に入っていった。


「うわあ、綺麗な中庭だな」

『本当綺麗。でも公爵邸の庭園の方がもっと綺麗だけどね?』

「ははっ、何競ってんだよ」

『ふふ、自分のお城贔屓なんだ』


軽く冗談を言いながら話していると、先程の胸のざわめきが落ち着いて、沢山のお花や植物に囲まれた綺麗な中庭が目に入る。
でもベンチに脚を伸ばして座っている男子生徒がそこにはいて、彼は私の落とした紙を拾ってくれたのか、それを読んでいる様子だった。


『どうしよう……私の原稿読まれちゃってる……』

「本当だ。でもこれ以上飛ばされるよりかは良かったよな」

『うん。私、行ってくるね』


制服のリボンやネクタイの色で学年が分かる。
総司達と同じネイビーのネクタイをしていることから彼も私と同じ一年生ということが窺えた。
私が小走りで彼の目の前に行くと、大きな瞳が私を見上げる。
綺麗な顔立ちなのに少し冷たい瞳や耳にかかる黒髪が印象的で、どこか高貴な雰囲気を醸し出していた。
どうしてかこの人のことをどこかで見たような気がするけど、私は他家との交流はいまだ殆どしていない。
少し不思議な気持ちのまま彼を見つめ、私は少し微笑みを浮かべた。


『はじめまして。アストリア公国、近藤家が娘、セラと申します。そちら、拾って頂きありがとうございます』


胸の紋章が紙で隠れて見えないけど、取り敢えず初対面の方には丁寧な挨拶は基本。
綺麗にカーテシーを作って頭を下げると、彼は私をじっと見上げて暫く何も話さなかった。


『とても助かりました。今日は風強いですよね、先程向こうで歩いている時に飛ばされてしまって、ずっと追いかけていたんです』

「…………」

『届きそうになってもなかなか掴めなかったので、拾って頂いて本当に助かりました』

「…………」

『あの……そちら、頂いても宜しいですか?』

「……ああ、これお前のなんだ。そう言えばさっき、代表挨拶してたしね」


ようやく喋ってくれたことに安堵するけど、彼は挨拶の紙をいまだに読んでいるのかそれを見つめて返してくれないまま。
思わず平助君に視線を送れば、彼も苦笑いして私の近くまで歩いて来てくれた。


「ほら、セラ。早くそれ貰って教室行こーぜ」

『うん……』

「もしかして、これ……返して欲しいの?」

『はい、ありがとうございま……』


私がそう言いかけると、彼は見るからに意地悪な笑みを浮かべた。
その顔に目を瞬いたのも束の間、彼は風が吹いたそのタイミングで紙からその手を離してしまった。


『あっ……』


また飛んでいっちゃう……!
それを阻止するため、私は空中に浮き上がった紙に勢いよく手を伸ばした。
でも紙ばかりに気を取られて、足元を見ていなかったのが災いしたらしい。
ベンチの脚に自分の足を引っ掛かけて、気付いた時には思い切り転んでいた。


『いた……』

「おい!平気か……!?」


平助君の声が聞こえたから、取り敢えず大丈夫と呟いたけど、振り返ると平助君は何故か顔を赤らめていた。


『平助君……?』

「お前、下着が丸見えだよ」


その男子生徒の言葉に驚いて、慌てて捲れ上がったスカートを直す。
顔に熱が集まってしまったことがわかったから、恥ずかしくて顔を上げられなくなってしまった。


「本当、貴族の令嬢って馬鹿ばっかりだよね。首席なのに、それ?」


物凄く意地悪なことを言われて目を見開いたけど、彼はそのまま背を向け中庭を出て行ってしまう。
平助君は私を起こして、近くに落ちてしまった紙を拾ってくれた。


「つーかなんなんだよ、あいつ。すっげー感じ悪い。セラ、大丈夫か?」

『うん……、ありがとう』

「げっ……膝、血出ちまってるぞ」

『本当だ。でもこのくらい大丈夫だよ』

「手当てしねーと駄目だって!ほら、保健室行こうぜ!」


総司程ではなくても、ここ最近総司に感化されてきているのか平助君や伊庭君も若干過保護な気がする。
大丈夫だと何回言っても私の手はぐいぐい引かれて、平助君に連れられるまま保健室に来ていた。


「なんだよ、先生いねーじゃん」

『そうだね。でもそろそろ教室に行かないと、ホームルーム始まっちゃいそうだよ?』

「でもホームルームよりセラの身体の方が大事だろ」

『ホームルームの方が大事だよ。初日から遅刻になったら……』

「俺、先生呼んでくる!ついでにホームルームに少し遅れることも話してくるからさ、セラはここで待っててくれよな!」

『え?でも……、あっ……』


平助君はとにかく行動が早い。
呼び止める暇なく、保健室から出て行ってしまったから、そんな子犬みたいなところが可愛らしいと思わず笑ってしまった。
取り敢えず自分で手当をしておこうと思い保健室の中を見渡すと、私の瞳はオキシドールを捉える。
でも棚の一番上にあるそれは、私の身長だと届きそうになかった。


『うーん……どうしてあんな高いところに?』

「またお前なの?煩くて迷惑なんだけど」


直ぐ側のカーテンが勢いよく開いたから、いきなり人が現れたことに驚いて言葉を失う。
そしてベッドの上に寝転んでいた彼は先程中庭で会ったばかりの人だったから、二度驚いてしまった。


『あ……、またお会いしましたね……』

「お前は何回俺の睡眠の邪魔をすれば気が済むの?さっきも顔の上に紙が落ちてきたせいで、飛び起きる羽目になったんだ。本当に最悪だね」

『ご迷惑をお掛けしてしまってごめんなさい……。ですが、教室には行かれないのですか?』

「行くわけないだろ、怠いだけだしね。お前の話も死ぬほど怠かったよ」

『それは……申し訳ないです』


なんだかとてもとっつきにくい人に出会ってしまったみたいだと苦い気分になる。
会話がなくなり、やっぱり見覚えのあるようなそのお顔を見て、私は思わず口を開いていた。


『あの、違っていたらごめんなさい。どこかでお会いしたことありますか?』


彼の瞳は、人そのものをあまり好んでいないような冷たい瞳をしている。
それなのに私はどうしてか、この人の優しく微笑む姿を想像することが出来る気がした。
その理由が分からず思わずじっと見つめて考えていると、彼は眉を顰めて私を睨んだ。


「なにそれ。それがお前の口説き文句なわけ?」

『いえ、違います。口説いてはいませんけど』

「そもそも、さっきから俺を見下ろすなんていい身分だよね」

『別に好きで見下ろしているわけではありません。あなたが座っていたり寝ていたりするからそうなってしまうだけだと思います……』


先程はベンチで座っていたし、今はベッドに腕をついて寝転んでいる。
私はただその場に立っているだけなのに、理不尽な言われようだと思うのは仕方のないことだと思う。


「お前、アストリアの令嬢だって言ってたけど俺のこと知らないの?」

『はい、存じ上げません』

「それ、本気?」

『やっぱり以前、どこかでお会いしたことありますか?』


じっと彼を見つめていると、その人は上体を起こして私の目の前に立った。
でもようやく目にすることが出来た紋章に視線を移せば、私の瞳は再び見開かれることになる。
彼も私のその様子でわかったのだろう、冷たい笑みを浮かべて私を見下ろした。


「もうわかったみたいだけど、一応教えてあげるよ。俺はルヴァン王国の王太子だ」


王国の防衛を担っている我がアストリア公国は、王国の中でも半独立的な地位を持つものの完全な独立国ではなく、最終的にはルヴァン王国の支配下にある。
とはいえ、王太子殿下のお姿を拝見するのは今日が初めてだったから、私は思わず言葉を失った。

今朝、馬車であれだけ総司に気をつけるよう言われていたのに、まさかこの人が王太子殿下だったなんて……。
これはまずいことになったと、私は内心で動揺しながらも失礼のないよう頭を下げた。


『……大変失礼致しました。お初にお目にかかります、王太子殿下』


彼の方に向き直ったものの、よくないことは重なるらしい。
私が丁寧なカーテシーを作ろうとスカートを翻した時、手は直ぐ近くのテーブルに置かれていた薬瓶を倒してしまった。


「あ」

『……あっ』


カタカタと音を立て、小瓶が転がる。
慌てて拾い上げようとしたところ、殿下が先に小瓶へと手を伸ばした。


「つくづく間抜けだね」

『申し訳ありません……』


きつい物言いに何も言い返せないまま謝ると、彼は薬瓶を戻しながら小馬鹿にしたように小さく笑った。


「公爵令嬢ってもっと優雅なものかと思ってたけど、お前の場合はそうでもないんだ」

『普段はこのようなことはあまりないつもりですが……』

「そう?さっきも思い切り転んでたけどね」


思わず言葉を濁してしまったせいで、余計に怪しまれてしまった。
でも今一番大切なのは、早くここから立ち去ること。
ご挨拶だけして保健室を出ようと考えていると、殿下の方から私に話しかけてきた。


「それ、何の柄?」


自分の袖を見れば、そこには繊細な金糸で刺繍された文様がある。
返事をしないわけにはいかずに、私は淡々と言葉を返した。


『公国の紋章をアレンジしたものです』

「紋章?それ百合と剣と盾……いや、交差した槍か」

『はい。公国では、戦術の象徴として使われることが多いです』

「ふーん」


軽く相槌を打ちながらも、殿下の表情にはわずかに驚きが滲んでいる。


「お前、戦術のこととか興味あるの?」

『はい。心得はないのですが、幼い頃から父の話を聞く機会は多かったので』

「どんな話?」

『例えば、国境近くの防備の配置や、騎士団の運用についてなどです』


どうしよう、なかなか話が終わらない。
質問の答えだけ返していると、殿下は少し目を細めてみせた。


「お前、見た目は頼りなさそうなのに、思ったよりかはしっかりしてるんだ?」

『そうでしょうか。しっかりしているかどうかは分かりませんが……』

「まあ、しっかりはしていないか。急に転ぶし、物は落とすしね」


結局私を貶したいだけなのか、殿下はまた小馬鹿にしたような顔で私を見下ろしている。
そして今度は先程まで寝転んでいたベッドに足を組んで座ると、私を見定めるような瞳で見上げてきた。


「で?お前はルヴァン王国のことをどれくらい知ってるの?」

『どれくらいと言われましても……』

「俺のことすら知らなかったみたいだし、何も知らないんだろうけどね」

『王太子殿下のことは存じ上げておりました。ただお会いしたことはなかったのでお顔が分からなかっただけです』

「まあ、アストリア公国は軍事貴族だからね。あまり社交の場には出てきてないみたいだけど」

『殿下はアストリア公国のことをご存知なんですか?』

「アストリア公国はルヴァン王国の防衛を担い、王国一の騎士団を持ち、戦時には真っ先に最前線に立つ。もともとは独立した国だったが、数代前の国王が王婚姻政策で王国の一部に組み込んだ。現在も自治権を保ちつつも、王命には従う。これくらいのことなら俺も知ってる」


さらりとそう言われて、私はただ目を瞬かせる。


「何に驚いてるの?」

『あ、いえ……随分お詳しいので』

「王太子だから当然さ。国の管轄下にある公国が何をしているかも知らずに、この国を治められるわけがないからね。まあ、こんなものは無駄な知識かもしれないけど」


物言いはきついけど、この人もきっと将来のために様々なことを学んでいるのだろう。
それこそいずれ国王となる身におかれた殿下は、私よりも遥かに努力を重ね国の為に尽力されているのだろうと思いながら、目の前の彼の話を聞いていた。

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