6
保健室の一角で、平助君の帰りを待つこの時間。
私は初めてお会いした王太子殿下と言葉を交わすことになってしまった。
その瞳は少し冷たくて物言いもきついけど、彼が国を治めるために努力されていることは少し言葉を交わせば分かることだった。
その証拠に、王太子殿下は私がどれほど公務や国のことに興味があるのか知りたいらしい。
私を見上げる瞳は、ほんの少し好奇心を抱いているようにも窺えた。
「次はお前の番だよ。何かわかることを話してみなよ」
関わらないでと言う総司の顔を思い出し、嘘の理由を言って立ち去ることも考えた。
けれど相手はアストリア公国を管轄しているルヴァン王国の王太子。
失礼があればそれこそ目をつけられてしまう可能性もあるから、とりあえず今は当たり障りのない会話を続けようと思った。
『私は父から国のことをよく聞かされて育ちました。なので殿下程ではありませんが、王国のことは少しでしたら知っているつもりです』
「ふうん。公国の令嬢が、王国のことをね。どこまで知ってるの?」
試すような響きを含んだ声に私は少しだけ戸惑いながらも、ここ最近考えていたことを正直に話すことにした。
『例えば、今年は王国の穀倉地帯の収穫がよくなかったと聞きました。なので交易を通じて公国の備蓄を王都へ回す話が進んでいるとか……。ですがただ援助するだけではなく、長期的に安定する方法を考えた方がいいのでは、と私は思っています』
「確かに援助だけじゃなく根本的な解決を求めるというのは、なかなか興味深い考えだね。で、お前の考える長期的な安定っていうのは?」
突然の問いかけに、私はわずかに息をのんだ。
けれど少し考えてから、静かに口を開いた私がいた。
『農地の土壌改良を進めることで、収穫量を安定させる方法があります。それから王都周辺の流通網を見直すことも必要ではないでしょうか』
「それはなんで?」
『今は地方からの輸送が遅れがちで、特に今年のような不作の年には影響が大きいと聞くからです。それに貯蓄だけに頼るのではなく、王都自体の生産能力を高める施策を考えることも視野に入れるべきだと思います』
「たとえどうやって?」
『農具などの改良化に資金を投資することは勿論、新しい品種に目を向けることも大切ではないでしょうか。また、年々気候も変化しているので、その土地にあった作物を栽培できているのか改めて調査する必要もあると私は考えます』
話しながら、私はふと顔を上げた。
殿下は私の言葉を遮ることもなく、ただじっと聞いていた。
冷ややかに見下されると思っていたのに、どこかじっくりと観察するような眼差しを向けられている。
「……へえ、そう」
『あの……私、変なことを言いましたでしょうか?』
「そうだね。王族の前でそこまで踏み込んだ話をする令嬢なんてまずいない」
『申し訳ありません……ですが……』
慌てて口をつぐみかけたけど、それでも私は小さな声で続けることにした。
『私は公国が王国を支える立場である以上、王国のことを知らなければいけないと思っています。それに領地の人々の暮らしがどうなっているのか、本当に必要なものは何なのか、そういうことも知らずにただ命じられるままに動くのは違う気がして……』
殿下は黙って私の言葉を聞いていた。
沈黙が居た堪れなくて、怖気付きながらも私はまた言葉を続けてしまっていた。
『あの……偉そうに聞こえてしまったならごめんなさい。ただ私は、王国のことをもっと知りたいですし、公国としてどう支えていけるかをちゃんと考えられる人間になりたいんです。今はまだ勉強途中なので、色々間違った見解でお話をしてしまったかもしれませんが……ご気分を害されたなら申し訳ありません……』
言い終えた途端、ふいに殿下が小さく息を吐いた。
「いや、むしろ驚いてる。そこらの貴族令嬢みたいに大変ですねとか尊敬していますとか……そんな適当なことを並べるだけかと思ったけど、お前はそれなりに考えているんだね」
『一応公国の者ですから国のことは当然知っておくべきだと思っているだけです……』
「それだけじゃないだろ」
殿下が、少し身を乗り出して私を見つめた。
「お前、騎士団のことも詳しいんじゃないか?俺の知る限り、アストリア公国の騎士団は大陸東部の中でも随一の精鋭揃いだ。それを支えるのは公国の体制と、そしてお前たち公爵家の役割だろ」
騎士団の話。
その言葉に私の心は自然と温かくなった。
なぜなら騎士団には総司がいる。
私の一番大切な人であり、誰よりも尊敬している私の心の拠り所だ。
『はい。公国の騎士団は誇るべき存在だと思っております。皆誇りを持って日々鍛錬されていて、ただ剣の腕だけでなく人としての在り方を重んじる騎士ばかりです』
総司のことを想うと、自然と口調が柔らかくなるのが自分でも分かる。
殿下はそんな私の様子をじっと見つめていたけど、何か考え込むようにわずかに目を細めると、ふと問いを投げかけた。
「お前から見て、アストリア騎士団の強みは?」
『剣の技術も、戦略の練度も、きっとどの騎士団にも負けないものを持っています。ですが一番の強みはそこではないと思います』
「じゃあ何?」
『きっと……人です』
「人?」
『はい。私の知る限り、アストリア公国の騎士団の方々は皆、決して驕らず何よりも護るべきもののために剣を振るう方ばかりです。誰かを傷つけるための強さではなく、誰かを護るための強さを持っている。それこそが、私たちアストリアの誇りです』
私は自然と総司の姿を思い浮かべていた。
ただ強いだけではなく、優しくて、誠実で、誰よりもまっすぐな人。
彼がいる限り公国の騎士団は決して揺るがないと、私は心の底から信じている。
「……なるほどね」
彼は短くそう言うと、ふっと笑って私を見上げた。
「お前、他の奴らとは違うね」
『え?』
「普通は王太子を前にすれば、あれこれ持ち上げるか媚びるか、あるいは畏れ多そうに縮こまるかのどれかだ」
薫殿下の唇がわずかに歪む。
けれどそれはどこか少し楽しそうにも見えた。
「睡眠の邪魔をされて苛立ってたけど……まあ、いいさ。お前の話はなかなか面白かった」
『そう言っていただけるなら、光栄です』
そう答えた私に殿下は口元に笑みをこぼしたけど、今度は先程までのような意地悪なものではなかった。
その笑顔をやっぱりどこかで見たことがある気がしてその様子を見つめていると、殿下はふと目線を下にずらして僅かに眉を顰めてみせた。
「……血、出てるけど?」
殿下の視線が、完全に私の膝に向けられている。
膝の傷口には、先程転んだときの名残がまだ赤く滲んでいた。
『大丈夫です。この程度、大したことありません』
「その傷をこれみよがしに俺に見せてどうしろって言うの?」
『え……?いえ別に……何も?』
「なら、黙って処置すれば?」
ぴしゃりと言い放たれ、私は思わず眉尻を下げる。
やっぱり王太子殿下の物言いは冷たいけど、不思議と今はそれほど嫌な気はしなかった。
『でも、少し驚きました』
「何が?」
『殿下が、私の怪我に気づいてくださるなんて』
「別に気づきたくて気づいたわけじゃない。目の前にあるんだから、見えるのは当然だろ」
そっけない言葉とは裏腹に、先ほどから殿下の視線は時折、私の膝のあたりに向かっている。
当人の私より気になっているようにも見えるから、私は殿下の向かいの椅子に腰掛けながら再び彼に話しかけていた。
『もしかして、血が苦手ですか?』
「は?」
『でしたら、見ないほうが……』
「別に苦手じゃない。俺のこと、血を怖がる軟弱者だって言いたいの?」
『いいえ、そう言うわけではないのですが……それなら良かったです』
「そんなことより、早く手当てしろよ」
『します。けれど、その……』
私はちらりと直ぐ近くの棚を見上げた。
消毒液も包帯も目に見える場所にあるのに、あんなに遠い。
『少し、高いところにあるみたいなんです』
「……は?」
自分で取りに行こうと試みたものの、棚は思っていたよりも高い。
それに椅子の上に乗って取るなんてはしたない行為は出来ないから、何も出来ないまま今に至るというわけだ。
「あの程度も届かないの?」
呆れたような声が降ってくる。
私は困ったように小さく笑って、肩をすくめた。
『お恥ずかしいことに、背があまり高くなくて……』
殿下は眉を寄せ暫く私を見つめていたけど、やがて何かを考えるように視線を巡らせた。
「……どけ」
『え?』
「邪魔だから、どけ」
そう言うや否や殿下は私の横を通り抜けると、棚の前に立った。
そして何も言わずに手を伸ばし、軽々と消毒液と包帯を取り出して下さった。
「ほら」
『ありがとうございます、王太子殿下』
受け取ろうとした瞬間、殿下の手から包帯が転がった。
そしてそれは立ち上がった私が今正に踏み出した場所に落ちたから、それを踏んでバランスを崩してしまった。
『ひあっ……』
「……っ、おい!」
転ぶと思った次の瞬間、腕を強く引かれた。
気づけば私は殿下の腕の中に引き込まれていて、私を庇うように下に回ってくれた殿下ごとベッドの上に沈んだ結果、私は殿下の上に覆いかぶさるような形になっていた。
『……申し訳ありませっ……』
「……おい、動くな」
焦って体を起こそうとすると、再び殿下の低い声が降ってきた。
『ですがっ……』
「無駄に動いたら余計に変なことになるだろ……!」
その言葉の意味が分かったのは、慌てて頭を上げたら私の頭に痛みが走ったからだった。
長い髪の一部が殿下の制服のボタンに絡みついていたらしく、引っ張ってみても全然取れない。
「そんなやり方じゃ駄目だ」
『ですが、いつまでも殿下を踏み潰しているわけにはいきません』
「貸して」
『あ……申し訳ありません……。ありがとうございます』
「一回頭、下ろして」
後頭部に添えられた手にぐいと引き寄せられて、殿下の胸の上で寝る体勢になってしまった。
居た堪れなくて目をきつく瞑っていると、「取れた」と呟く殿下の声。
私は即座に彼の上から飛び退いて、ようやく離れられたことに安堵の息を吐いた。
『あの……申し訳ありませんでした。大丈夫ですか……?』
「どっちかって言うと、それはお前のほうじゃない?」
『私は大丈夫です。殿下のおかげで助かりました、ありがとうございます』
「まったく、お前は……なんでそんなにそそっかしいんだよ」
殿下が不機嫌そうに言う。
そこで私はようやく、転びそうになった原因を思い出した。
『ごめんなさい。でも殿下が落とした包帯を避けようとしたらこうなったんですけど……』
「俺のせいみたいに言うな。お前は他の令嬢たちみたいに取り繕うってことを知らないのか?」
『え?ですが……何を取り繕えば良かったんですか?』
「……もういい、お前が変わってることはわかった。次からは気をつけろよ」
『は、はい……』
顔を上げると、殿下は呆れたようにため息をついていた。
でもその顔はほんの少し和らいでいるようにも見えたから、取り敢えず怒られなくて良かった。
「怪我してるのにこれ以上増やす気とか馬鹿なの?」
『そんなつもりはないですけどね』
「まったく、どこまで頼りないんだろうね」
そう言って渡された包帯を受け取りながら、私は少し不思議な気持ちになった。
構えていた割に、怖い人じゃない。
勿論、まだ出会ったばかりだからわからないけど……。
「ほら、さっさと手当てしろ」
やたら私に手当てを勧めてくる殿下の言葉に頷いて、取り敢えず消毒してガーゼをあてる。
そして包帯を巻いていてふと気づいたことは、ほどけないようにしっかり結ぼうとしたら、思ったよりきつく締めすぎていたことだった。
『……あれ?』
殿下がじっとこちらを見ているからやり難い。
冷めたような、それでいてどこか面白がるような視線だから余計に。
「何をやってるんだか」
『ちょっときつく締めすぎました……』
「包帯も満足に巻けないわけ?」
『出来ますよ?ちょっと力加減を間違えてしまっただけです』
試しに動かしてみると、思った以上にぎゅっと締められていて、逆に血が止まりそうだった。
もう少し緩めたほうがいいかもしれないと、ため息を一つ吐き出した。
『解いて結び直しますね』
笑顔でそう告げて指先で結び目をほどこうとしたのに、なぜかうまくいかない。
余計に絡まってしまったから思わず眉を顰めていると、ため息とともに、殿下の手が伸びてきた。
『あ、殿下?』
「貸せ」
無理やり取り上げるでもなく、それでいて拒めないような動きだった。
私が戸惑っている間に器用に結び目をほどいていく殿下は、髪の毛が絡まった時も思ったけれど器用な方なのかもしれない。
「何でも自分でやろうとするのは感心だけど、できもしないことまで手を出すのはどうかと思うね」
『出来ないわけではないですけど……』
「ほら、じっとして」
そう言いながら、思ったよりも優しい手つきで彼は包帯を巻き直してくれた。
こんなに身分の高い方に手当てをして頂いていいのか複雑な心境だったけど、殿下は中庭で言葉を交わした時よりは険の取れた表情をしている。
意外と優しいところもあるのかもしれないと、素直に感謝することに決めた。
『ありがとうございます。とても丁度いいです、お手間取らせてしまってごめんなさい』
「気にしなくていい。お前が余計なことをするより、俺がやったほうが早いからね」
ぶっきらぼうだけど、手を貸してくれたことには変わりない。
私はそっと視線を落としながら、小さく彼に微笑んだ。
「お前の相手も疲れたし、俺はそろそろ行くよ。お前、クラスはどこ?」
『私はシャルマンです。殿下はどちらですか?』
「俺はヴェルモンだ。まあ、またどこかで会うかもね」
立ち上がった私は、手当てをして頂いたお礼を再び述べて頭を下げる。
そして保健室から出て行こうとする殿下の後ろ姿を見送っていると、彼は不意に少しだけ後ろを振り返った。
「お前、名前はなんだっけ」
『セラです』
「セラだね。覚えた」
そう言って微笑む顔は、最初に話した時とはまるで別人のように柔らかく見えた。
けれど入学初日に総司との約束を破ってしまったことが、心に重くのしかかっていた。
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