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暗く湿った地下室に充満するのは血の匂い。
僕の短剣は悪党たちの血に濡れ、床にはうめき声を上げる瀕死の男たちが倒れていた。
そして目の前には髪を乱し、恐怖に染まった顔でこちらを見つめている少女がいる。
大きな瞳は揺れて、今にも泣き出してしまいそうだった。


「もう大丈夫だよ」


色付いた頬にそっと触れると、その場所には予想通り熱がこもっている。
体力の限界が近いだろうこの子を今すぐにでも休ませてあげたいけど、早くこの場を離れないとまずいことになるのが現状だ。


「僕と行こう」


そう言って手を差し伸べると、彼女は一瞬だけ戸惑ったように僕を見つめる。
けれどすぐに意を決したように頷くと、そっと僕の手を取った。


「走るよ」


小さく、か細い手。
だけどその握りは決して弱くなかった。
上の酒場には組織の人間が待機しているだろうから、地下室を駆け抜け狭い石の通路を進む。
誘拐した相手を地下に閉じ込めていた以上、彼らが警戒しているのは外からの侵入者だ。
ならば内側から抜ける道は必ずある筈だと僕は探した。


「……ここだ」


扉の向こうに広がっていたのは、城下町の裏道。
でもそこに待ち構えていたのは、同じ組織の奴らだった。


「おい、小僧!なにしてやがる!逃げられると思うなよ!」


鋭く光る刃が振り下ろされるも、それを短剣で受け流し、相手の足を狙って蹴りを入れる。
うめき声とともに崩れ落ちる男を尻目に、僕は彼女の手を引いて駆け出した。


『あのっ……どこへ……?』

「街の外だよ、このままだと奴らに囲まれるから急いで……!」


衛兵のいる方へ向かうのが理想だったけど、今は無理だ。
僕達を捕まえようとする組織の連中の数が多過ぎる。
行き止まりの路地に追い詰められた瞬間、視界の端に見えたのは雨に濡れる石壁。


「僕にしっかりつかまって」

『……あっ……』


彼女を抱え上げるようにして壁を蹴り、雨で滑る石を必死に登る。
手が滑ってうまく力が入らない。
でも背中に回された腕が僕に必死にしがみつこうと震えていたから、僕は奥歯を噛み締めた。
でも不意に首が引っ張られ、見れば首にかけた金貨の袋が壁の端に引っ掛かってしまっている。
それに気付いた彼女が懸命に片手で引っ張ってくれたけど、それは正に傷がある方の手だったから僕は目を見開いた。


「いいってば、傷が悪化するよ」

『でも折角の報酬が……』

「もういらないから、こんなの」


僕が首の後ろにある紐の結びを解けば、巾着はもう手の届かないところで壁に挟まったままになった。


「上がるよ。あと少し耐えて」


なんとか力を振り絞って壁を上りきり、一気に屋根の上へ飛び上がる。
雨の降る中、僕達は屋根伝いに走り続け、しばらくして城下の外へと抜けると森の入口へ辿り着いた。


「……追手が来てる。もう少し奥へ進もう」


僕の手を掴んでいた彼女の手の力が段々と弱くなる。
それでも懸命に走ってくれていたけど、後ろに身体が引かれたと同時に、どさりという音が聞こえる。
転んでしまったのだろう、地面に倒れた小さな身体を支えて声を掛けた。


「平気?あと少し走れそう?」

『ごめんなさい……もう……足が……』


彼女の身体は先程よりも更に熱を帯びていて、体力の限界が近づいてきているようだった。
それでもここまで必死走ってくれたのは、僕を信じてくれたからだろう。
それなら最後まで裏切るわけにはいかないと、僕は彼女に背を向けしゃがみ込んだ。


「僕が連れて行くよ、乗って」

『でも……』

「早くしないと追いつかれるよ。いいから乗って」


僕の言葉に戸惑っていた様子だったけど、そっと背中に身体の重みが乗ると「ありがとうございます」と囁いた。
彼女の体は小さく軽いはずなのに、どこか痛々しく感じるのは、彼女がまとっている熱のせいかもしれない。


「平気?」


彼女の呼吸は荒く、不規則だった。
背中越しに伝わる体温が、どんどん上がっていくのがわかる。
少し息を切らしながら僕が問いかけると、背中に乗った身体がぴくりと揺れる。


『はい、大丈夫です』


その返事とは反対に、彼女の手は僕の服を握りしめるどころか、もうほとんど力が入っていない。
森を抜けて衛兵のいる場所へ急ぎたいけど、このままではこの子の身体がもたない。

しかも頭上の空が不吉に鳴り、次の瞬間には雨の勢いが増し始めた。
ポツリ、ポツリと降る雨の粒が大きくなったと思えば、一瞬で土砂降りに変わる。
雨は容赦なく僕たちの体温を奪っていき、彼女のドレスはすでに雨を吸って重くなっていた。


「……どこか雨をしのげる場所……」


森の奥を睨みながら走り続ける。
やがてたどり着いたのは、木々の間にある崩れかけた古い小屋だった。
扉を押し開け中に入れば、雨の音が遠のき、ようやく一息つける空間に安堵する。
幸い薪や薪を燃やせる場所が小屋の中にはあったから、急いで火を起こし、その近くに彼女を座らせた。


「横になって」


火で乾かした自分の上着を脱いで肩にかける。
震える彼女の髪を拭いながら、僕はそっと彼女に問いかけていた。


「手の傷、痛む?」

『少しだけ……』

「見せて」


僕は短く言い放ち、今度は彼女の手をそっと持ち上げた。
白く小さな手のひらには、傷が深く刻まれ、周りの皮膚が赤く腫れ上がってしまっていた。


「……やっぱり」


そう呟くと、彼女は申し訳なさそうに俯いた。


『ごめんなさい、足手まといで……』

「君が謝る必要はないよ」


最初から嫌な予感がしていた。
傷口が化膿している。
雨に濡れて体が冷え、免疫も落ちているせいでより熱が出たのだろう。


『このくらいの傷は大丈夫です』


彼女は震えながらも、健気に微笑もうとしていた。


「消毒しないと」

『……でも、そんな道具はどこにも……』

「ないけどね」


僕は自分の短剣を取り出すと、刃先に息を吹きかけ火打石で軽く炙った。
その様子を不安そうに見つめる彼女は、僕が何をするのか分かっていない様子だ。


「ごめんね」


そう言って、僕は短剣の刃をそっと彼女の傷口に押し当てた。
余計なことを言えば、更に怖がらせるから先に行動に移した。
小さく息を詰まらせる彼女は身を縮こませながらも、大人しくしていてくれた。


「少しの間だけ、我慢して」


本当はもっと優しい方法があればよかった。
でも今は傷を消毒する手段がこれしかない。
彼女は目に涙を浮かべながらも、僕を信じるように頷いた。


「これで少しはいいかな」

『こんな方法があるんですね……』

「手荒なやり方でごめんね」

『いいえ、ありがとうございます』


そう言って僕を見つめた彼女は、不意に違う場所をじっと見て、愛らしい顔を歪ませた。


『ここ……怪我してます……』


彼女の視線が僕の腕に向いていた。
気づけば、戦いで受けた傷がじわりと血を滲ませていた。


「別に大したことじゃないよ」


僕がそう言った瞬間、彼女は起き上がるなり自分のドレスの裾を掴み、力いっぱい引き裂いた。


「ちょっと、何してるの?」

『包帯がないから』


震える手で布を細く裂き、僕の腕へと巻き付ける。
彼女の手は熱を帯び、指先だって震えているのに、懸命に僕の傷を覆おうとしてくれていた。


『ちゃんと止血しないと……』


その必死な姿に、僕の胸が痛む。
誰かにこんなふうに心配されたことなんて僕にはあっただろうかと、ふと今までの人生を振り返っていた。
彼女の手当ては決して上手ではないけど、その仕草一つ一つが優しさに満ちているように感じられた。


「別にいいのに。この程度の傷は日常茶飯時だよ」

『どうしてですか?』

「どうしてって、見ての通り真っ当に生きてないからね」


今までは専らタチの悪い商売をしている商家を襲ったり、適当に盗みを繰り返して生活していた。
自分に似た境遇の年少の子達に食べ物を分け与えることもあったし、僕なりのルールの中で悪事を働くことはそこまで罪悪感を抱くことにはならなかった。
でも今夜の出来事は、そのルールからはみ出した醜いものに思えて、損得感情より前にこの子を助けることを優先したけど。
道を外したことのないこの子からしたら、僕もそこらのごろつきと大差ない。
そう思ったからこそ正直に告げた言葉だった。
でも彼女は悲しそうに瞳を揺らしながら、首を懸命に横に振る。
そして迷いのない優しい声で言ってくれた。


『でも私はあなたに助けて頂きました。だから、ありがとうございます』


僕のことを何も知らないだろうこの子に、否定されても肯定されても複雑な心情になっていたと思う。
けれど目の前の彼女は余計なことは何一つ言わずに、ただ一言そう告げた。
その言葉には真心が込められているように感じてしまうから、色を失くしていた筈の僕の心が少し色付く。
自分でもよく分からない感情が湧き立つ理由まではわからなかったけど、何故か僕まで素直な言葉を口にしていた。


「こちらこそ、手当てしてもらえて助かるよ」


僕の言葉を聞いて彼女は目を瞬かせた後、ゆっくり微笑んだ。


『お名前は、総司……さん?』


不意に呼ばれた名前に弾かれたように顔を上げる。
少し上目で僕を見つめる顔はやっぱりとてつもなく愛らしくて、意識すれば急に気恥ずかしくもなるから、僕は素気ない返事をしながら視線を逸らした。


「そうだけど」

『ここから出たら、助けて頂いたお礼をさせて下さい』

「いらないよ。僕だって見張り役だったんだから」

『でも助けて頂いていなかったら、きっと私は殺されていました』

「ただ無意味に殺すのは違うと思っただけだよ。僕は単にお金が欲しかっただけだしね」

『でもそのお金、さっき捨ててましたよね』

「あー……、重くて邪魔かったからさ。まあ、もういいよ」


人生、余計に詰んだな。
このままだとこの国から直ぐに出るのも難しいだろうし、街であいつらに見つかったら何をされるかわかったもんじゃない。
あいつら、僕達を追うことを諦めてくれてたらいいんだけど。


『優しいんですね』

「いや……優しくなんかないってば」

『お礼は絶対にさせてください。そうでないと、私の気が済まないんです』


先程から彼女の方を見てもいないのに、彼女の視線はずっと真っ直ぐ僕に向けられている。
複雑な心境のままもう一度彼女を見れば、その瞳は僕と目が合うなり大きく揺れた。


「じゃあお礼は今貰ってもいい?」

『今?』

「うん。君の名前、教えてよ」


この夜が終われば、きっと僕とこの子の接点はなくなる。
下手すれば僕は捕えられるだろう。
それはもう構わないけど、最後に名前くらい聞いておきたい。
だから彼女を真っ直ぐ見つめ、尋ねていた。


『名前はセラです』

「セラお嬢様、って呼べばいいの?」

『お嬢様なんてつけなくても大丈夫ですよ』

「じゃあセラって呼ぶね。僕のことも総司でいいよ、敬語もいらない」


もう何年も前の話だけど、元々貴族の出であるからこそ堅苦しい敬称や言葉遣いは好きじゃない。
だからそう告げてみれば、目を瞬いた彼女は少し照れくさそうにしながら微笑んだ。


『総司……?』

「なに?」

『あ、えっと……呼ぶ練習をしてみました。お名前だけで呼ぶのはあまり慣れなくて、少し……恥ずかしくて……』


……あーあ、可愛い。
そう一度認めてしまえば、僕の心は一気に温かみを増す。
はにかんで笑う顔を眺めながら、見納めとばかりに彼女を見つめてしまう僕がいた。


「身体、少しは楽になった?」

『うん』


彼女は弱々しく微笑んだ。
でもいまだ体調が良さそうには見えなくて、僕は自分の上着をさらにしっかりと目の前の小さな身体に巻きつけていた。


『これ、総司が使って?総司が風邪引いたら困るから』

「僕は大丈夫だよ、君よりか体力はあるからね」


そう答えながら、僕は自分の膝を折り、セラの頭をそっと支えてその場所に横たわらせた。


「横になって」

『え?でも……』

「寝ないと治らないでしょ。雨が止んだら行こう、それまで少し休んで」


セラはゆっくりと瞳を閉じ、微かに微笑む。


『ありがとう、総司』


その言葉は今まで生きてきた中で一番温かみのあるものに感じたからこそ、心の奥に深く広がっていく気がした。
彼女の微かな呼吸が、僕の膝の上で静かに安らいでいく。
その姿を見つめているだけで、妙な幸福感に似た感情が僕の心を満たしていくようだった。


雨の音と火が燃えるパチパチという音が混じってそれ以外は何も聞こえない。
ぼんやりと今後のことを考えながら、雨が止むのを待っていた。
そして雨が上がり再び動き出さないとまずいと思ったのとほぼ同時に、組織の奴らの声が聞こえてくる。
どうやら僕が金を持ち逃げするために犯行に及んだと思っているらしい、金を返せだなんだと叫んでいる声がもう近くまで届いていた。


「起きて、そろそろ行かないと」


眠ってしまっただろうセラの肩を掴んでみても、その瞳は開かれることはなかった。
かわりに揺れた身体を支えると、酷い高熱で意識もない。
この子はもう、走ることはおろか歩くことすら厳しいだろうという現実から、冷や汗が額を伝っていくのを感じた。
それでも聞こえてくる奴らの声が僕を追い詰めるから、迷っている暇はもうないと彼女を背負って小屋から走り出していた。


「……ごめんね」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。

セラを傷つけた連中を見逃すつもりはない。
そしてそんな連中と手を組んでいた僕自身も許されるべきじゃない。
だからこのまま全員、裁かれるべきだ。
そのためには組織の連中諸共、騎士団の前に引きずり出す。
そう決めた僕は、進むべき道を見定めた。

遠くに、騎士団の松明が揺らめいている。
彼らはセラを探して、森の奥へと進んでいた。
そのまま接触すれば、僕は間違いなく捕まる。
でも単に捕まるのではなく、組織の奴ら諸共捕えさせるのが目的だった。

僕は慎重に立ち止まり背後を振り返る。
奴らはまだ追ってきているはずだ。
だからここで一気に引き寄せようと、僕は一瞬だけセラを抱える腕を緩め、意図的にガサリと大きな音を立てた。


「……おい! いたぞ!」


狙い通り、追手が即座に反応する。
わざとらしく足音を立てながら走り出し、騎士団のいる方角へ誘導することにした。
騎士団の松明が近づいてくる一方で、悪党たちの怒声もすぐそこまで迫っていた。


「今度こそ逃がすな!」

「二人とも殺しちまえ!」


僕はもう一度、彼らの気を引くために声を張る。


「ははっ、ずいぶん執念深いですね。そんなに僕を捕まえたい?」

「てめぇっ!!」


案の定、奴らは全力で向かってきた。
でもすでに罠は完成している。


「そこまでだ!」


鋭い声が響いた瞬間、騎士団が松明を掲げ、森の中へと踏み込んできた。
組織の連中は、突然の事態に動きを止める。


「貴様ら!何者だ!」


騎士たちが剣を構え、取り囲む。


「……くそっ!」

「まずい、撤退するぞ……!」

「させないよ」


僕は一瞬の隙を突いて目の前の男の膝を蹴り砕いた。


「ぐあっ!」


男が悲鳴を上げると、それが合図になった。


「捕えろ!」


騎士たちがそれぞれに剣を抜き、混乱する組織の連中を取り囲む。
僕はそのままもう一人の腕を掴んで背後に投げ飛ばし、抵抗する時間を奪った。


「クソガキ、裏切ったな!」


一斉に向けられた視線に怯まず、彼女を背負ったまま騎士団の目の前に走り出る。
その途端一気に向かってきた騎士達に取り押さえられた僕は、彼女と引き剥がされ捕えられた。

その後、セラが無事に保護されたことで、騎士団が一斉に犯人の捜索を行うことになった。
結局僕を含め、組織の奴ら全員が捕えられ、ここ一帯を混乱させただろう事件はこうして幕を閉じた。

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