7

レッスン前の空き時間。
庭園で本を読んでいると、静けさの中でふわりと風が吹いた。
それに合わせるように私の手元から何かが飛ばされ、葉っぱが生い茂る木の中へと姿を消した。

それは読んでいた本に挟んでいた栞だった。
木を見上げると栞は枝に引っかかってしまっていて、思ったよりも厄介そう。


『もう……』


少し背伸びをしてみても、あと少しのところで届かない。
庭園には滅多に人は訪れないから、困ったことになったと恨めしげに栞を見上げた。

誰かを呼ぶのは申し訳ないし、もう一度強い風が吹けば栞も落ちてきてくれるかな。
飛び跳ねてみれば私でも届くかもしれないと、私は自力で頑張ってみることに決めた。


『んんっ……』


人前ではできないけど、ここなら誰も来ないから安心して飛び跳ねることができる。
思いっきり跳ねてみたら、指先に栞がかすった。


『あとちょっと』


これなら何回か試せば、私でも栞を取れる気がする。
だからもう一度、もう一度とその場で跳ねて頑張っていると、着地の時にバランスを崩し、視界がぐるりと回った。
でも倒れる思った瞬間、ふわりと温かい何かが背中に触れる。


『……あれ?』


驚いて瞬きをすると、背後からそっと支えるように回された腕が、私の身体をしっかりと受け止めてくれている。
ゆっくりと振り返ると、目の前には柔らかく微笑む総司がいた。


『総司?』


思わず私の目は見開かれる。
総司がいることにも驚いたし、こんなふうに抱きかかえられるなんて思ってもみなかった。


「そんなに無茶したらだめだよ」

『でも……もう少しで届きそうだったから……』

「もう少しで転ぶところだった、の間違いでしょ?」


くすくすと笑う総司の表情はどこか楽しそうに見える。
このままじゃ余計にからかわれる気がして、慌てて身を引こうとした。
けれど何故が腕が締まり、再び支えられてしまうからちょっと困る。


「慌てたら危ないよ」

『でももう大丈夫だよ、だから離して?』

「本当に?」

『ほんとだよ』


じっと見つめられたままだと、まるで何か試されているような気分になる。
その視線が妙に落ち着かなくて、私は視線を逸らしながら小さく頷いた。


「そっか」


少し間を置いてから、ようやく総司は私を解放してくれた。
どこか名残惜しそうに手を離す総司は、相変わらず何を考えているのかよく分からない微笑みを浮かべていた。


「で?何をそんなに頑張って取ろうとしてたの?」

『あの栞が風で飛ばされちゃったの』


少し離れた木の枝を指さす。
そこには私の手元から離れてしまった栞が、ひらひらと引っかかったままだった。


「ああ、なるほどね。でもこんな高いところにあるのに、君の背じゃ無理でしょ。さっきみたいに転んだら危ないし、素直に誰かを呼べばいいのに」


そう言いながら、総司はひょいと腕を伸ばした。
私が何度も跳ねても届かなかった栞が、あっさりと彼の手の中に収まった。


「はい、どうぞ」


目の前に差し出される栞。
あの時以来、なんとなく会うのが気まずかったけど、総司はそんな素振りを見せずに穏やかに微笑んでいた。


『ありがとう、総司』

「どういたしまして」


良かった、栞が戻ってきて。
総司に感謝をしながら彼を見上げたけど、なぜか総司の笑みが意味ありげに見えてしまう。
この前も思ったけど、総司はたまにこうして意地悪な笑みを浮かべるところがある。
その度に私は少し落ち着かない気分になってしまうみたいだ。


『もう、なあに?』

「ん?」

『なんだか、すごく怪しい笑顔に見えるよ』

「ははっ、怪しいって酷いな」


気を取り直して、手の中の栞をそっと開く。
けれどお気に入りの本に挟んでいたものなのに、少し折れ目がついてしまっていた。


『あ……どうしよう、跡がついちゃってる』

「そんなに大事なものなの?」

『うん、好きな本に挟んでた栞だから』


大切にしてたのにな。
新しいものではないけど、その分愛着もあったから少し悲しい気持ちになる。
でもそんな私を見ていただろう総司は少し考えるようにしてから、ふっと微笑んだ。


「君ってなんか、本当に面白いよね」

『え?なにが?』

「飛ばされた栞を必死に取ろうとしたり、ちょっと折れたくらいでしょんぼりしたり。そういうところが、すごく君らしいなって思うよ」


総司の言いたいことがよく分からなくて思わず首を傾げてしまったけど、総司は何も言わずににこにこ私を見下ろしているだけ。
私が庭園のベンチに戻ると、後をついてくる総司は当たり前のように私の隣に腰を下ろした。


『総司が庭園に来るなんて珍しいね?どうしたの?』

「んー、庭園が綺麗だって聞いたから?」

『ふふ、この前もそう言ってたよ。総司もここが気に入ったの?』

「そんな感じかな。静かでいい場所だし、セラもよくここにいるって聞いたしね」

『私?』


確かに私は雨の日以外は毎日のように庭園に来てるけど、総司の口から私の名前が出てきたことに目を瞬く。
そんな私を見つめていた総司は、何故がにやりと口の端を上げた。


「うん、君がここでどんなふうに過ごしてるのか気になったんだよね。それに面白いものが見られるかもしれないし」

『面白いものって?』

「例えば君が唸りながら背伸びしてるところとか、ぴょんぴょん跳ねてるところとか」

『まさか、ずっと見てたの?』


含みのある笑顔で何も言わないところをみると、多分ずっと見ていたみたい。
思わず眉をしかめてみても、そんな私を見て総司は嬉しそうにしている。


『もう、わざわざそんなこと言わなくてもいいのに』

「でも別に悪い意味じゃないよ。君が背伸びしてるところは、可愛かったしね」


こんな風にさらりとそういうことを言うのはずるいと思う。


『私、総司はもっと真面目で、落ち着いてて、優しい人だと思ってたけど……』

「違った?」

『違ったっていうか……すぐからかってくるし、ちょっと意地悪な人だった』


勿論訓練をしている時の総司は真面目だし、なんだかんだ気にかけてくれるところは優しいと思う。
でも敢えてそれは言わずに言い切ってみると、総司は私の言葉を楽しむように微笑んで軽く肩をすくめてみせた。


「あーあ、せっかく猫被ってたのにバレちゃったか」

『やっぱり猫被ってたんだね』

「でも君だってそうじゃない」

『私は猫被ってなんてないよ?』

「そう?でも君も、僕が思っていた子とは違ったよ」

『え?そうなの?』


自分のことは客観視できないからよく分からない。
総司にどう思われているのか少し気になって彼の言葉を待ってしまう私がいた。


「最初見た時はすぐ泣いちゃいそうだし頼りなさそうだし、あんな場所で四日間も過ごすなんて大丈夫なのかなって思ってたんだ。でも君は泣きもしないし、その佇まいすら崩さなくて凄いなって思ったんだよね。あと僕を助けてくれた時も、筋が通った提案を考えてくれたから正直驚いたよ」


総司の言葉を聞いて、私は思わず安堵の息を吐く。
アストリアの公爵令嬢として恥じない振る舞いをできたのなら良かったと思った。


「だから君のこと年齢のわりに大人びてて、優秀で、しっかりしてて、隙がない子だと思ってたんだけど、案外違ったかな」

『え?』

「膨れたと思ったら僕をおいてどっか行っちゃうし、誰もいないところだとぴょんぴょん跳ねてるし、意外と子供っぽい面があるよね」

『………』

「ああ、あとさっきも転びそうになってたから、やっぱり君ってちょっと頼りないところもあるかな。公爵邸の中だと隙だらけで無防備だしね」

『そんな言い方しなくてもいいのに……』

「じゃあ反論があるなら聞いてあげるよ」


少しだけ得意げにそう言いながら、総司は少し意地悪く微笑んだ。
反論したい気持ちは山々なのに、強ち間違っていないから言い返す言葉がない。
なりたい自分には、なかなかうまくなれないみたいだ。


『ううん、確かに私はまだ頼りないしそう言われても仕方ないのかも。総司をがっかりさせちゃってたらごめんね』


総司の思い描いていた人と違ったから、総司は私の専属騎士になることには興味ないのかもしれないとふと思った。
それにこの前は頑張っている総司に対して、ずっと見習いのままかもね、なんて酷いことを言った挙げ句に総司を置いてお城に戻っちゃったし。
自分の言動を情けなく思いながら総司に微笑んでみたら、総司が眉尻を下げて少し困った様子で微笑んだ。


「僕はがっかりなんてしてないし、そんな風に思ったことは一度もないよ」

『そうなの?』

「勿論。うまく言えないけど、僕はいい意味で言ったんだよ。セラは公女らしくしてる時はいつも笑顔を崩さないけど、僕が何か言えば素直に表情をころころ変えてくれるからさ。君のそういう一面を見るのが最近楽しいんだよね」


総司の言葉は優しくて、心がじんわりと満たされていく。
子供扱いされている感は否めないけど、総司が微笑んでくれるから、私も自然と笑顔を返した。


「あと全部完璧な人なんていないんだから、頼りない部分があったってむしろ人間らしくていいじゃない」

『そうなのかな』

「そうだよ、だからそんな顔しないで』


総司の言葉はありがたいけど、頼りないままではいたくないから、やっぱり少し複雑な気分だった。
でもこれからもっと頼もしくなればいいし、私にはそのための時間もまだ沢山ある筈。
努力は怠りたくないと考えながら、横にいる総司を見上げた。


『でも私、もっと総司に頼りにされるようになりたいな』


私が口にしたその言葉に、総司は一度目を瞬いた後、すぐに柔らかく笑った。


「僕はもう君を頼りにさせてもらってるよ」

『ふふ、絶対嘘。さっき頼りないって言ってたのに』

「嘘じゃないってば。それに君の成長を傍で見守りたいとも思ってるよ」


その言葉に、再び胸が温かくなる。
だって正に私も総司に対して同じことを思っていたから。


『私も同じだよ。総司が騎士としてこれから強くなっていくところを傍で見守りたいって思ってるよ』


だからこそきっと私は頼りないままは嫌だし、彼を支えられるようになるためにも強くありたいのかもしれない。
ここ最近、以前にも増して学業やその他のレッスンに身が入るのは、総司が頑張ってる姿を見て刺激を受けたからだ。


「セラがそう思ってくれるのは嬉しいかな」

『私も嬉しいよ。あと総司が頑張ってる姿を見ると、私も頑張ろうって思えるんだ。だから待ってて?いつか総司を支えられるように、私も立派になるから』


私が総司を騎士団に引き込んだんだもん、総司がこの公国の騎士で良かったと思えるような、彼が誇れる主でいたいと思う。
総司がアストリアで幸せになってくれたら私も本当に嬉しいから、そのために私も出来ることはしたい。


「セラってさ」

『うん?』


珍しく意地悪な笑みを浮かべず真剣な顔をしている総司は、風に舞う私の髪をそっと指で払ってくれる。
けれどまるで品定めするかのように私をじっと見つめるエメラルド色の瞳は、私と目が合って数秒後に少し不服そうに細められた。


「みんなにそうやって優しいの?」

『え?別に、普通だけど』

「ふーん?でも他の騎士達にも同じようなこと言ってたりしないの?」

『言ってないよ。それにそんなに騎士の人達とは普段話さないよ』

「そう?それならいいけどね」


総司は真顔のまま、私の髪の毛を手の中で遊ばせてそんなことを言ってくる。
落ち着かないからさりげなくその手を払い、少しでも距離を取ろうと座ったまま後ろに下がると、まるでそれを見越していたかのようにまた距離を詰められた。


『………』

「そんなに避けなくてもいいのに」

『別に避けてないけど……』

「はは、困ってる」

『あんまり意地悪しないで、やめて』

「君の反応が可愛いから、意地悪したくなるのかもね」


総司から言われる可愛いという言葉には恥ずかしさを感じてしまうから、まともに彼の顔を見れそうになくて視線を逸らした。
それなのに総司はそんな私をまた面白そうに見つめてくすっと笑う。


「また膨れてくれたら、もっと可愛い顔が見られるかな」

『膨れてる顔のどこが可愛いの?』

「んー、どんな顔でも君は可愛いと思うよ」


そんなことを言って私の反応を見て楽しんでいる総司は、やっぱり意地悪だと思う。
だからこそ軽く言われた言葉に心が揺れてしまう自分がいることを、私は認めたくなかった。


「冗談はさておき、ありがとう。僕も頑張って強くなるよ。それで君を護れる騎士になる。だから待ってて」


総司は私の目をまっすぐ見つめたまま、急に真剣な音色でそう言ってくれた。
その視線は妙に優しくて、私は無意識に唇をきつく結んだ。


『うん、待ってる』


本当にずっと待ってるよ。
そしてやっぱり私は、いずれ選ぶ専属騎士に総司がなってくれたらいいのにと願わずにはいられなかった。


『最近、訓練はどう?』


何気なく問いかけると、総司は小枝を手に取り、指先で器用に回しながら軽い調子で答える。


「まあ、順調ってところかな」


その言葉のわりに、どこか気の抜けたような響きにも聞こえる。
その様子は飄々としていて、軽く受け流すような態度だからそれが本心かどうかは私にはわからなかった。


『そうなんだ、やっぱり総司は凄いね。良かった』

「なんか、もっと食いついてくるかと思ったんだけど」

『え?』

「たとえば、本当に順調なの?とかちゃんと鍛えられてるの?とか、君ってそういうの気にしそうなタイプじゃない?」


総司はわざとらしく首を傾げながら、私をからかうような笑みを浮かべる。


『そんなこと言わないよ?』

「ふうん?」

『だって総司が順調って言うなら、きっとそうなんだろうなって思うから』


そう言うと、総司の手元の動きがぴたりと止まった。
私はたまに総司の訓練の様子を陰から見守っているから、毎日誰よりも厳しい練習をしていることはわかる。
あれだけのことをして、ひたむきに頑張る総司に何の悩みもないわけがないからこそ、もし彼が順調だと言うのならそのまま受け止めてあげるべきだと思った。


「へえ、セラってあんまり人を疑わないんだね」

『どうして?』

「だって僕が適当に言ってても、きっと信じるでしょ?」

『え?適当なの?』


思わず聞き返すと、総司はくすくすと笑いながら肩をすくめた。


「さあ、どうだろうね?」

『もう……』


少しだけ膨れながら視線を逸らすと、総司は楽しそうに小枝をぽんっと投げ捨てた。


「なんて、本当にちゃんとやってるよ。だからあんまり心配しないで」

『うん』

「でも、ちょっとだけ困ることがあるんだよね」

『困ること?』

「うん。君のせいで余計なこと考えちゃうっていうか」


何のことかわからず見つめると、総司は私の髪の毛先を指で軽く弄びながらいたずらっぽく微笑んだ。


「僕、意外と単純だからさ。信じてもらえると、それだけでちょっと頑張ろうって思っちゃうんだよね」

『それは良いこと?』

「うん。でも、あんまり頑張りすぎると空回りしちゃいそうだから、ほどほどにしないといけないんだけど」


そんなことを言いながらも、総司の目はどこか遠くを見つめるように細められていた。
多分私が想像するよりもずっと多くのことを考えているんだろう。
訓練のこと、強くなること、騎士としての自分の在り方。
だけど、そういう想いを簡単に口にはしない。
きっと総司は、そういう人だ。
だから私はそれ以上深くは聞かずに、静かに微笑んだ。


『無理はしないでね。何かあればいつでも話、聞かせて?』


そう呟くと、総司は私に視線を戻し、少しだけ目を細めた。


「うん、そうするよ。ありがとう」


その声が優しく響いて、私の胸の奥がくすぐったくなる。
風がそっと吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てた。
庭園の静かな午後、ただ並んで座ったまま私達は穏やかな時間を過ごしている。
その間中、総司はずっと私の髪の毛を指先で遊んでいるから落ち着かなくて。
総司にいるとまるで魔法にかかったかのように、この心は揺れ動く気がしていた。

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