2
今日はカレンデュラオイルがようやく出来上がった日。
嬉しい気持ちで訓練場を目指していたけど、その途中で見た光景はとても信じ難いものだった。
総司の姿をこの目が捉えた瞬間、彼は伊庭君の胸元に掴みかかり、今にも手をあげそうになっていて。
止めに入ろうとした私の手からは、出来上がったばかりのオイルが落ちてしまっていた。
「セラ、待ってください」
二人と別れ、総司のことを考えながら歩いていると、私の後ろから軽やかな足音が聞こえてくる。
振り返ると、伊庭君が穏やかな表情で私を追いかけてきてくれていた。
『伊庭君?』
私が足を止めると、伊庭君は微笑みを浮かべたまま近づいてきた。
「先程はすみませんでした。お怪我はありませんか?」
『うん、大丈夫だよ』
私は小さく首を振る。
確かに少し腕が痛むけど、それは全く問題ではなかった。
「そうですか……。けれど、お顔の色が優れませんね」
伊庭君は優しくそう言うと、静かに私を見つめた。
その瞳に映るのは、私を気遣う想いとほんの少しの疑問。
「先程の会話を聞いて思ったのですが、セラは沖田君を庇われるのですね」
『庇うって……そんなつもりはないよ』
「ですがあのようなことがあっても、まだ沖田君を信じているんでしょう?」
伊庭君の声は穏やかだった。
でもどこかいつもとは違う圧力があって、きっと伊庭君は総司のことを良く思っていない、そう思った。
「沖田君はセラの腕を強く引き、結果として君は瓶を落としてしまいました。それだけではなく怒りを抑えられず、僕に手を出そうとしたんですよ。もしセラが止めなかったら、どうなっていたか分かりませんよね」
確かに総司の力は強かった。
腕を引かれた時は痛かったし、瓶を落としてしまったのも私の力では耐えられなかったからだった。
でも総司は私が後ろに転ばないようにそうしてくれただけ。
咄嗟のことだったのにその手を迷わず伸ばしてくれたのは、総司が私を護ろうとしてくれた証だ。
「それでも、沖田君は理由もなく手をあげる人ではないと?」
伊庭君の問いに、私は目を伏せる。
私は二人のやりとりを聞いていたわけではないから、何が正しいのかは分からない。
でも……
『うん。私は、総司が理由もなく手をあげる人じゃないって、そう思ってるよ』
別に伊庭君を疑っているわけではない。
伊庭君は私の幼馴染であり、気心許せる騎士のうちの一人。
いつも優しくしてくれる彼に全てを押し付けるつもりはなかった。
ただそれと同時に総司だって無闇矢鱈と手をあげる人ではないと信じられる。
だからはっきりそう告げたけど、伊庭君の微笑みがかすかに切ないものに変わった気がした。
「君は本当に優しいですね」
『別に優しいとかではなくて、本当にそう思ってるだけだよ』
「でも僕は不思議なんですよ、何故君がそこまで沖田君に親切にできるのか」
『総司は私の命の恩人だからだよ。助けて貰った恩を返したいと思うのは当たり前のことでしょう?』
「ですが彼は恩人でもあり君を苦しめたうちの一人でもあります。セラがそこまで彼に恩を返す義理はないのではないですか?」
『心配してくれてありがとう。でも私はべつに義理や義務でそうしてるわけじゃないから大丈夫だよ』
そう。
総司に恩は返したいけど、だからと言って義務感があるかと聞かれればそれは違う。
ただ私は純粋に総司には幸せになって欲しいし、このアストリアで彼の居場所を見つけて欲しいと思ってるだけだ。
だからそのことを分かって欲しくてそう告げたけど、私を見下ろす伊庭君の瞳は揺らぎ、直ぐにそれは細められた。
「それはつまり、君にとって沖田君が特別だと……そういうことなのですか?」
伊庭君はそう言いながらも、端正な顔を歪めてみせる。
静かな声は感情を押し殺しているような、慎重に言葉を選んでいるような響きがあった。
『特別というか……確かに出会い方は特別だったのかもしれないけど、私はただ総司を信じたかっただけだよ』
「それが問題ですよ。出会ったばかりの沖田君をなぜそこまで信じられるんですか?」
『だって総司は私を助けてくれた人だから』
「それはただ単に、吊り橋効果ではないかと僕は考えていますけどね」
『吊り橋効果?』
「命の危機に晒された時、人はその危機を一緒に乗り越えた相手に強く惹かれることがあります。本来ならば冷静に判断できることでも、極限状態では正しく認識できないことがあるということです」
伊庭君の瞳は、真っ直ぐだった。
でも理解が追いつかなくて私が首を傾げると、彼は寂しそうな瞳を向けて再び口を開いた。
「誘拐されたあの数日間、君は恐らく極限状態にありました。その恐怖の中で、沖田君がセラを救ったんですよね。その影響が君の心に何かしらの作用を及ぼした可能性は否定できません」
私は言葉に詰まった。
だって、そんなことは考えたこともなかった。
確かに総司が助けてくれた時のことを思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚がある。
でも、それが吊り橋効果だなんて……。
「極度の恐怖や不安の中で、君は沖田君と時間を共有してしまったんです。だからそれを何か特別なものと勘違いしてしまってるのではないですか?」
『ううん、違うよ』
「違うと言い切れますか?」
『それは……』
「僕はセラを責めているわけではありません。ただ考えてほしいんですよ。沖田君が君にとって本当に特別なのか。それとも、あの状況が君の心を揺さぶっただけなのか」
伊庭君の声はあくまで冷静だった。
私の気持ちを探ろうとするのではなく、ただ問いかけてくる。
『私が総司を信じられるのは助けてもらったからっていう理由も勿論あるけど、総司がとても優しい人だから』
「あの沖田君が優しい……ですか?」
『意地悪することもあるけど、根っこの部分はすごく優しいよ。でも、それをあまり人に見せようとしない人だと思う』
思い出すのは、からかうように笑った後、ふとした瞬間に見せる優しい笑顔。
一人で剣を握り続けながらも、息をついた時に浮かぶ淋しそうな横顔。
飄々とした態度の奥に隠された、本当の総司の姿。
訓練場で見かける度に、総司が必死に何かを掴もうとしていることだけは痛いほど伝わってきた。
『誰にも頼らないし、甘えたりもしない。全部自分でどうにかしようとする。でも、本当は……』
そこまで言って、私は言葉を切った。
なぜなら勝手な憶測で総司のことを他の人に話すのは良くないし、これは私が分かっていればいいことだと思えたからだ。
『私はただ、総司ならいい騎士になれると思ったの。総司の才能を見込んで、騎士団に入って欲しいって私から頼んだんだよ。信じられない人のことを私は推薦したりしないよ』
総司は決して誰かを頼ろうとしない。
自分だけでどうにかしようとしてしまう。
でもそれはきっと、本人がそう望んでいるというより、誰かに頼ることを知らないから。
誰にも手を差し伸べて貰えず、ずっと一人で戦ってきたからだと思った。
でも、そんな総司があの日私を助けてくれた。
私にその手を差し伸べてくれた。
それは偶然ではなく総司がそういう人だからだと信じられるから、私は総司のことが知りたい。
総司が何を考えているのか、どんなことを想っているのか、こうしている今も知りたくて堪らないんだと思う。
『だからあの時助けてもらったからとか、吊り橋効果とか……別にそういうことじゃないの。私はただ頑張ってる総司を応援したいだけだよ』
「つまり君にとって沖田君は、ただの騎士の一人であって特別ではないということですか?」
『うん、そうだよ』
「……そうですか。君の気持ちはわかりました」
『伊庭君は、私が総司に何か特別な感情を持っていると思ってたの?』
「僕はセラが彼をどう思っているのかを知りたかっただけです。それに心配なんですよ、君のことが」
『……どうして?』
「僕は沖田君を信用していないからですよ。誘拐犯の一味であった彼が、君の近くで同じ敷地内で毎日のように顔を合わせている……そんなこと普通では考えられませんし、認めたくありません。そう考えている団員は僕だけではない筈です」
伊庭君の言葉を聞いて、先程総司と伊庭君が言い争っていた理由が分かった。
こうなることは予想していたことではあるけど、実際にその言葉が耳に入ってくると、私の心はとても痛く苦しくなった。
『伊庭君がそう思うのは当たり前のことだって分かってるよ。それを責めるつもりはないし、私の気持ちを分かって欲しいとも言わないよ。でも伊庭君が総司のことをそう思うのと同じで、私は総司のことは信じたいと思うし、総司は絶対立派な騎士になってくれると思う。その考えはもう変えられないの。騎士団の皆には私の独断で決めてしまったこと、申し訳なく思ってるけど……出来れば総司にもチャンスをあげて欲しい。先入観だけで総司を判断することだけはしないで欲しいの』
総司のことを知った上で、認められない、相容れない、そう思うならそれは仕方ないことだと思う。
でも総司を知ろうともしないで、彼の存在を否定されるのはあまりに悲しい。
彼がどういう人なのか、どういう想いでここにいるのか、それを知らないまま決めつけることだけはしないで欲しかった。
「……君は本当に、沖田君を信じているのですね」
伊庭君は静かに私を見つめた。
その瞳には、納得しきれない感情と、どこか諦めのような色が混ざっていた。
『うん。信じてるよ』
迷いなくそう言うと、伊庭君は微かに眉を寄せた。
「ですが、沖田君は本当に信じるに値する人物でしょうか?」
『それはこれから皆が決めることだよ。私が信じてるからって、総司が認められるわけじゃないし、それは総司自身が証明しないといけないことだと思う』
「それなら、沖田君が騎士にふさわしくないと証明された時、君はどうするのですか?騎士団の皆が彼を受け入れず、彼がこの場に留まるべきではないと判断された時、君はそれを受け入れられますか?」
伊庭君の問いに、私は息をのんだ。
考えたことがなかったわけじゃない。
でも今その言葉を突きつけられると、胸が強く締めつけられた。
だって、私は総司にここにいてほしい。
ここで騎士として頑張る姿を見ていたい。
総司のひたむきな姿を思い出せば尚更、彼の努力が報われて欲しいと思ってしまう。
『私はどういう結果になったとしても、総司の頑張りをちゃんと見ていたいし最後まで向き合いたい。でもそれは総司に甘くするっていうこととは違うよ。彼がこの場所に相応しくないと決まったなら、私はその結果をちゃんと受け入れる』
伊庭君はじっと私を見つめた後、ふっと小さく笑った。
「分かりました。それがセラの考えなら、僕はそれを尊重します」
『ありがとう……』
「僕は君が冷静であるなら、それでいいんですよ。どうか君が後悔することのないような選択をしてください」
伊庭君はそう言い残し、静かに踵を返した。
伊庭君は伊庭君で私とは考え方が違う。
私が何か言ったところで彼の気持ちは変わらないだろうし、彼の気持ちを変えることができるとしたらそれは総司しかいないと思った。
だからこそ敢えてその後ろ姿に背を向けて、私は温室へと歩き出す。
いつか二人が分かり合えることを願うことしか出来なかった。
たどり着いた温室の中には、静寂が満ちていた。
カレンデュラの甘くやわらかな香りが、どこか切なさを誘うように漂っている。
私は瓶の底にわずかに残ったオイルを、小さな容器へ移し替えた。
残っているのは一回、手のひらに塗れるかどうかのほんの少しの量。
総司の傷を癒したくて作ったのに、たったこれだけになってしまった。
『全部私のせい……』
あの時、もっとしっかり持っていればよかった。
もっと慎重にしていれば良かった。
総司の喜ぶ顔が見たかったし、少しでも総司の役に立ちたかったのに、結局私は彼のために何もしてあげられない。
本当に役立たずだと自分を責めていると、知らず知らずのうちに熱いものが頬を伝っていた。
『……ぐすっ……』
静かな温室に、ぽつりと雫が落ちる音がする。
久しぶりに心が悲しくて、涙は次から次へと溢れてきた。
でもその時だった。
温室の扉が荒々しく開く音がして、私ははっと顔を上げた。
するとそこにいたのは息を弾ませ、少し乱れた様子の総司。
驚いて涙は止まったけど、そんな私を総司はまっすぐ見つめていた。
『総司?』
私を見て辛そうに顔を歪めた総司はゆっくりと歩み寄り、作業台に乗ったガラス片に目を向ける。
そして私が小さな容器を握っていることに気づいたのか、視線がそこで止まった。
「それ、残った分?」
頷いた私を見て、総司の表情がまた少し歪んだ。
「今山崎君に聞いたんだ。君が僕のために作ってくれたものだって」
その声音があまりにも真剣で、私は思わず瞬きをした。
「僕のせいだね。ごめん」
『違うよ、総司のせいじゃないよ』
私がすぐにかぶりを振ってそう言うと、総司が再び私を見つめた。
『私が手を離しちゃったからいけないの。私がしっかり持っていればよかっただけだし。そもそも何かに入れて持ち運べば良かったのに』
「セラは悪くないよ。僕が君の腕を思い切り引っ張ったからこうなったわけだしね」
『違うよ、本当に私のせいだから。だから総司はそんな顔しないで』
私は頑張っている総司の手を守りたかった。
痛そうだったし、少しでも早く治ればいいなって思ったから、このオイルを作ったの。
あとは渡すだけだったのに私がしっかりしていないせいで、それが叶わないどころか日々の訓練で疲れている総司に余計な心労を与えてしまっている。
そのことが悲しくて涙がまたこぼれそうになったから、それを懸命に耐えていた。
「僕だってセラにそんな顔して欲しくないよ」
総司はそっと私の頬に手を伸ばすと、指先が優しく涙の跡をなぞる。
少しかたくて、でも温かい総司の手。
いつも頑張っている総司の手が、私を慰めようとしてくれていた。
「君が僕のために作ってくれたってだけで十分だよ。それだけで嬉しいんだからさ」
その言葉が、心の奥に染み込んでいく。
きっと総司は本心で言ってくれてると分かったからこそ、私の中のちょっとした甘えが口を割って出てくる。
『本当にそう思ってくれてる?』
「本当だよ。だからそんなに悲しそうにしないでよ。泣かないで」
総司の声はいつになく優しくて、でもどこか切ない響きを帯びていた。
淋しそうに笑うから、しんみりした空気を拭いたくて私は総司に言った。
『私、全然泣いてないよ』
「泣いてたじゃない、さっき」
『総司の前では泣いてないよ』
「泣いてたってば」
『それは……私が泣いてるところに総司が勝手に入ってきちゃったんでしょ?私は総司の前で泣いてないもん』
しらっとそう言ってみれば、目を瞬いた総司は笑い出す。
「頑固なんだね。別に泣いたっていいのに」
『でも、総司が泣かないでって言ってくれたんだよ?』
「君が悲しむ必要はないからそう言ったんだよ。でも悲しい時は泣いていいよ。僕が慰めてあげるからさ」
総司からの言葉は温かくて、なんだか少し照れくさかった。
総司は普段、思ったままを口にするし意地悪だって言う。
でもさりげなく気遣ってくれながらも、時々こうしてとてつもなく優しくなる。
私はきっと、総司のこういうところが好きなんだろうな。
『ありがとう』
結局また私ばかり励ましてもらっているから、そんな自分に気付いて心の中で苦笑いをする。
でも唇を結んだ私に微笑みを向けると、総司は穏やかな声で話しかけてきた。
「残った分、僕に塗ってくれる?」
私は、きょとんと目を瞬かせる。
『でも、もうほんの少ししか……』
「それでもいいよ。手に塗る分くらいあるんじゃない?」
総司は私の手の中の小さな容器を見つめながら、少し微笑んだ。
「君が作ってくれたものを君の手で塗ってほしいんだけど、だめ?」
『私が塗るの?』
「そうだよ。そうしたらたとえ少しでもすごく効きそうな気がするんだけど」
『ふふ、そうなのかな』
「そうだよ。だから塗ってよ」
総司の提案は私を気遣ってくれるものだと分かったから、胸が温かくなる。
私はそっと容器の蓋を開け、指先に少しだけオイルをすくった。
『じゃあ……塗りますね?本当にいいんですね?』
「ははっ、なんでそんなにかしこまるの?」
『だって私が触って痛くないか心配だよ。大丈夫なのかな……』
「大丈夫だよ。好きにして」
『ふふ、好きにしてってどういうこと?』
「豆を潰してもいいし、傷を抉っても構わないよってこと」
『もう、そんな可哀想なことしないよ』
「セラにならそうされてもいいよってことだよ。だから気楽に塗って」
今の変な会話も私が気にしないようにするための総司なりの配慮だったのかな。
私は総司の手をそっと取り、怪我をしていた部分にやさしくオイルをなじませる。
甘くて優しいカレンデュラの香りが、ふわりと空気に溶けていくようだった。
『総司?』
「うん?」
『また、作るからね』
その言葉を聞いて、総司はエメラルド色の綺麗な瞳を瞬かせる。
その様子がなんだか可愛いらしくて少し笑ってしまいながらも、私は言葉を続けた。
『だから、今度はちゃんと受け取ってね』
「うん、勿論」
優しく、けれどどこか切なげに微笑む総司を見て、私は頬が少し熱くなるのを感じた。
それはこうして総司の手に触ってるからかもしれないし、ここが温室だからかもしれないけど。
今度こそ総司にきちんと届けたい、そう強く思った。
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