3
温室の中は、ほんのりと草花の香りが漂っている。
セラは手のひらにすくったカレンデュラオイルをそっと温めると、僕の手をそっと包み込むように取り、そのまま優しく触れてくれた。
その指先はとても柔らかく、温かい。
僕はセラの小さな手が、自分の手のひらをなぞるのをただぼんやりと見つめていた。
『痛くない?』
「うん、気持ちいいくらい」
『良かった』
セラはほっとしたように微笑んで、ゆっくりとオイルを塗り広げる。
あまりに優しくなぞってくれるから、触れられるたびに妙にくすぐったく感じる。
まるで僕のことをすごく大事にしてくれているみたいだ。
『総司』
不意に、セラがぽつりと呟いた。
『無理、してない?』
「え?」
僕が思わず顔を上げると、セラは僕の様子を気にかけるように僕を見つめていた。
その瞳があまりにも綺麗で真っ直ぐで、少しだけ息を詰める僕がいる。
「無理?」
『うん』
セラはオイルを馴染ませる手を止めずに、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『総司がすごく頑張ってるのはわかるよ。でも騎士としての強さだけが、総司の価値じゃないと思うよ』
その言葉に僕の指がぴくりと揺れた。
強くなければ必要とされないと心のどこかで考えていたことは事実だから、自分の想いを見透かされてしまったような気がしたのかもしれない。
「無理はしてないよ。それにたとえちょっと無理してたとしても、強くなるためには当たり前のことじゃない?」
普段のようにさらりとかわす。
遠慮がちなこの子は、僕がこうして一線を置けばそれを汲み取ってくれているのか、いつもそれ以上聞いてくることはない。
だから今回もそうだろうと思っていた。
でも今日は何も言わないまま、少し悲しそうな瞳が伏せられる。
そして小さな声で言葉を懸命に選んでいるかのように、ゆっくりと話し始めた。
『剣の腕を磨くこととか努力することとか、そういうのも大事だけど、それだけじゃなくて……総司の言葉とか、優しさとか、そういうのも私はすごく大事だと思うの』
何かを僕に伝えようとしているのか、セラの愛らしい声が僕の心にゆっくり届く。
それはじんわりと温かいものが広がっていくようで、何故かとても心地良く感じた。
『それに……総司は一人じゃないよ』
大きな瞳はどこか少し不安気で、でもいつも以上に一生懸命な様子で揺らいでいた。
『総司は一人で戦おうとしてるかもしれないけど、私は総司のそばにいたいよ。頼りないかもしれないし、騎士団のみんなみたいに剣も振れないし、強くないかもしれないけど……それでも、私がいるからね』
セラの手が、ぎゅっと僕の手を握る。
その言葉は、まるで光みたいに胸の奥にしみ込んでいく。
『頼ってほしいよ』
僕は何か言葉を返したくて口を開くけど、うまく言葉が出てこなかった。
あまりにも真っ直ぐで純粋な言葉に、どうしたらいいのかわからなくなるくらいだった。
『総司?聞いてる?』
「うん、聞いてるよ。僕のこと心配してくれてるんだよね」
『総司は心配されるの、嫌?』
「別に嫌じゃないよ。ただ……」
セラが気にかけてくれるのは嬉しい。
そばにいたいって言ってくれたことや、私がいるよって……頼って欲しいって言って貰えたことも凄く嬉しかったよ。
でも僕だって君のそばにいたいし君に頼ってもらいたい。
そのためには多少の無理はつきものだし、僕は早く一人前になりたい。
君に心配なんてかけないくらい、立派な騎士になりたいんだ。
「あんまり心配しないで。僕はちゃんとやれてるし、今凄く充実してるんだ。ようやく自分の生きる道が見つかったからね」
初めてなんだ。
自分が心からやりたいと思うことに一生懸命打ち込めるのは。
勿論今は焦る気持ちやこの先の不安は拭えないけど、それでもこうして頑張り続けてたら、いつかきっと……
『総司の生きる道って、騎士になること?』
不意に質問が投げかけられて僕は目を瞬く。
「うん、そうだよ。誰よりも強い騎士になって、この公爵家の役に立つことかな」
『それはどうしてそう思うの?』
「どうしてって、僕がそうしたいから」
『じゃあこのアストリアの騎士団で総司が誰よりも強くなったとして、その後は?』
「え?その後はって……まだそこまで考えてないよ。だってまだ見習いだし」
『誰よりも強くなれたら、総司は幸せ?』
悲しそうな音色でそう言ったセラは、僕の手を優しく掴んだまま愛らしい顔で見上げてくる。
でもその質問に一度押し黙ってしまったのは、自分の幸せについて考えたことなんてなかったからだった。
ただ僕は、この子に必要とされたい。
誰よりも近くでセラを護ってあげたいし、そうするのが他でもない自分でありたい。
あの時僕を見捨てず掬い上げてくれた君に、僕なりのやり方で何かしてあげられるようになりたいんだ。
そのために強くなりたいし認められたい、気付けば頭の中はそればかりだった。
『私は、総司が強くなることばかり考えているのが少し心配なの』
「どうして?」
『強くなることは大事なことかもしれないよ?でもそれだけじゃなくて……総司が元気でいることも大事だと思うから』
「でも、僕は元気だよ。何の問題もなくやれてるから大丈夫だよ」
『私が言ってるのは、栄養のあるご飯を食べて、眠って、疲れたら休んで、怪我をしたら無理しないで労って……そういうことを、ちゃんとしてほしいってこと』
セラは少し唇を噛んでから、ぽつりと続けた。
『だって……総司が傷ついたり、倒れたりしたら……私は……』
声が小さくなり、潤んだ瞳が伏せられる。
その肩がかすかに震えているのがわかって、僕は息をのんだ。
『……総司は、剣を振るうことばかり考えてるみたいだけど……それだけじゃなくて……』
小さな声が、懸命に言葉を探すように続いていく。
『私は、総司が笑っていてくれたら、それだけで嬉しい。強くなることも立派な騎士になることも……大事なのかもしれないけど……でも……』
セラはふるふると首を振って、涙ぐみながら僕を見上げた。
『それよりも……私は……総司が元気で幸せでいてくれるほうが、ずっと嬉しい……』
言葉の最後は震えてしまって、セラはぎゅっと僕の手を握りしめた。
『だから無理はしないで。総司がどれだけ頑張っても、もし傷ついちゃったら……私はそれが一番嫌だよ。総司がこの場所で幸せになってくれるのが私の一番の願いなの』
「……僕が、ここで幸せになること?」
『うん。総司がここにいてくれるだけで、私は嬉しいよ。ごめんね、どれも私の勝手な気持ちなんだけど……』
こんなに真っ直ぐな言葉を、今まで誰かに向けられたことがあっただろうか。
剣を振るうことだけが、自分の価値だと思っていた。
一人で戦って、一人で強くなって、その腕を認められなければならないと思っていた。
なぜなら幼い頃、よく言われていた。
過程よりも結果が全てだ、成果を出せなければ意味がないって。
だから結果を出すことに重きを置いていたし、その途中でいくら怪我をしても身体が負荷がかかっても、そんなことは気にするに足らなかった。
でもセラはきっと、僕そのものを大切に思ってくれている。
僕が僕であることを、ちゃんと見ていてくれている。
そのことを知れば胸の奥が疼き、彼女の言葉を理解していくと共に身体中が熱を帯びていく感覚だった。
「そんなことを言われたら、さすがに照れるんだけどね」
冗談めかしてそう言うと、セラがきょとんとした顔をした。
『照れるの?』
「改まって言われるとちょっとね。逆に、セラは照れくさくならないの?」
『私は照れないよ。だって本当にそう思ってるし、私は真剣に話してるんだよ?』
確かにセラは先程から真剣な眼差しで僕をじっと見つめてくる。
でもそんな可愛い顔で見つめられても困るし、なんだかふざけられない雰囲気になってきちゃったし。
どう返そうか悩みながらも、セラの言葉は先程からすんなりと僕の心に入ってきていた。
「じゃあセラは僕が大して強くない騎士でもいいって思ってくれてるってこと?」
『総司はもう十分強いと思うよ。でも私はただ強い騎士になって欲しいわけじゃなくて、総司らしい騎士になって欲しい』
「僕らしい騎士って?」
『総司のいいところを潰さないで欲しいってことだよ』
自分のいいところなんて、それこそ剣術の腕があるくらいしか浮かばないから苦笑いをこぼしたけど、そんな僕の手を両手で包むとセラは言ってくれた。
『私は総司のことをすごく尊敬してるよ。騎士としてだけじゃなくて、人として優しいところも、真っ直ぐ努力できるところも全部、私は総司のそういうところが大好きだよ。だから総司にはもっと自分を大切にしてほしいの。剣が強いだけが、総司の価値じゃないってこと、絶対に忘れないで』
何か言わなければいけないのに、言葉にならなかった。
セラのまっすぐな想いが、僕の心を温かく包み込んでくれる。
それは酷く心地よくて、泣きたくなるほど優しくて、温かいものだった。
「……ありがとう」
胸が熱くて、苦しくて、それなのにどうしようもなくセラが愛おしく感じてしまう。
こんなふうに想われることがあるなんて、そして自分がこんなふうに誰かを想うことがあるなんて思ってもみなかった。
心が通う、ひとりじゃないって、こういうことなんだとようやく分かる。
気づけば伸ばされた僕の手は、目尻に溜まったセラの涙を拭うようにそっと頬に触れていた。
「君のおかげで、大事なことに気づけた気がする」
セラの想いを聞いたからには、僕は変わらなければならない。
独りよがりで戦うのではなく、しっかり周りを見なければならない。
そして騎士としての強さを追い求めるだけではなく、人として大切なものを忘れてはならないと気付かされた。
「もう無理はしないよ。君がいるだけで僕はきっともっと強くなれるからさ」
僕はそっとセラの手を包み返す。
するとその言葉を聞いたセラは、一度唇を結ぶと少し上目で僕を見上げた。
『本当?もうぼろぼろになるまで身体をこき使わない?』
「そんなにぼろぼろになってるように見えた?」
『うん……』
「そっか。セラがそう言うなら、ちゃんと気をつけるよ」
『約束だよ』
セラは僕の手をぎゅっと握りしめ、まっすぐに見つめてくる。
大きな瞳にはまだ涙の名残があって、そんなふうに心から僕のことを思ってくれていることに心が温かくなる。
「うん、約束するよ」
僕が頷くとセラは嬉しそうに微笑み、ふわりと周りの空気が和らぐ。
少し恥ずかしそうに髪を耳にかけるその仕草があまりにも可憐で、思わず見惚れてしまうから困ったものだけど。
『このお花、カレンデュラっていうの。総司の傷に塗ったオイルも、この花の花弁から作られてるんだよ』
「じゃあ、さっきのオイルの元ってこと?」
『そうなの。乾燥させた花びらをオイルに浸して、ゆっくり時間をかけて抽出するの。それを塗ると、傷の治りが早くなるんだって』
セラがそう言いながら、指先でカレンデュラの花びらをなぞった。
「なんか、セラが触ってると花も嬉しそうに見えるね」
『ふふ、なにそれ』
セラが楽しそうに笑うのを見て、僕の口元も自然と緩むから不思議だ。
『そうだ、今度総司に何か作ってあげたいな。ラベンダーの花びらを乾燥させてポプリにすれば、お部屋でもいい香りが楽しめるよ』
「へえ、それも良さそうだね」
『うん。花びらを摘んで、乾燥させて、香りのいいハーブと混ぜて袋に詰めるの。寝る前に枕元に置くと、お花の香りが気持ちを落ち着かせてくれると思う。ラベンダーは安眠効果があるんだって』
「ふうん。それって、僕のために?」
『え?うん……だって総司、疲れてる時もあるよね?少しでも休めるようにって思って』
「そっか。なんか君にそうやって気にかけてもらえるの、すごく嬉しいかな」
『本当?よかった』
セラはほっとしたように微笑む。
その笑顔があまりにも可愛くて、僕は思わず目を細めた。
「ねえ、セラ」
『ん?なに?』
「今僕、幸せだよ」
ふと口にした言葉に、セラが驚いたように目を瞬かせる。
からかい半分で言ってみたけど、口から出た想いは本当のことだった。
『私も、幸せだよ』
ほんのり頬を染めながら、セラはそう言った。
なんてことのない会話なのに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
こんなふうにただ一緒にいるだけで心が満たされるなんて、生まれて初めてだ。
「ははっ、本当かな」
『本当だよ』
「じゃあセラはなんで幸せなの?」
『だって総司が、嬉しそうに笑ってくれたから』
「え?」
『なんだか、私も嬉しいみたい』
まるで心から溢れるように、セラはそう言った。
その笑顔を目の前に、胸が一瞬で高鳴る。
心臓が跳ね上がる音がして、僅かに呼吸も苦しくなる。
そして……僕は、セラが好きだ。
たった今、その感情を自覚した。
セラの傍にいると無理をしなくてもいいと思える。
強くなることだけが全てじゃないと、そう思える。
僕の気持ちそのものを大切にしてくれるこの子が、愛しくてたまらなかった。
こんなに優しい子を、僕はちゃんと大切にできるだろうか。
そう不安には思うけど、何があっても大切にしなければならない。
僕はもう、この温かさを失いたくないと思ってしまったから。
だから明日からはただ強くなるためじゃない、セラの笑顔を護るために僕は剣を握りたい。
それが一番僕自身を強くさせてくれるだろうとようやく気付くとができたから、僕は変わってみせる。
またセラの笑顔をたくさん見せてもらえるように。
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