5.
夕方、外での任務を終えて、セラを探して庭園に行くとふと視界の隅で動くものがあった。
でも足を止めて見上げた瞬間、心臓が凍りついたのは無理もない。
なぜならそこにいたのは、セラだった。
三階の窓の縁という不安定な場所で、細い身体を精一杯伸ばし、小さな猫を助けようとしていた。
「……は?」
足場なんてほとんどない場所で、しかも左腕には籠なんて持って、もう片方の手には猫を抱えて嬉しそうにしている。
今にも落ちそうなその姿が、背筋に冷たいものを走らせていく。
そしてその嫌な予感は的中し、セラの目が大きく見開かれたのとほぼ同時、彼女の足元が大きく揺らいだ。
「……セラ!」
僕が思わず叫んだところで、時間は巻き戻ってはくれない。
ふわりとスカートの裾が舞い、セラの身体が空へ放り出された。
「くそっ……!」
考えるより先に、地面を蹴っていた。
落ちてくる彼女を狙い、一か八かで腕を広げる。
頼むから間に合って……!
その瞬間、ふわりと柔らかい重みが腕の中に収まった。
勢いで地面に膝をついたものの、安堵する間もなく、抱きとめたセラを強く抱き寄せていた。
「……っ……は……」
怖かった。
その心情を物語るように、僕の手は今頃になって少し震えている。
もし間に合わなかったらという想像だけで、喉がひりつくように痛むようだ。
「なんであんな場所にいたの?」
低く、震えるような声が漏れた。
すると腕の中のセラが、ぴくりと震える。
そして少し驚いた様子で目を見開くと、緊迫感のない声で僕の名前を呼んだ。
『あれ?総司、どうしてここに?』
「それはこっちの台詞なんだけど」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
けれど胸の奥から抑えきれない感情がこみ上げて、言葉は止まってくれなかった。
「なんであんな危険なことをしたのさ……!」
『……っ……』
「ねえ、何考えてるの?あんなとこから落ちたら、普通に死ぬんだけど」
セラの身体が、小さく震えるのがわかる。
それでもそんなことすら今は霞み、二度とこんなことはして欲しくないという想いから、細い腕を力強く掴んでいた。
『……あそこにね、猫が……いたから……』
「猫がなに?だからって自分の命を危険に晒していいわけ?」
『ううん……』
「三階から落ちたらどうなるかくらい考えたらわかるよね。君はもうちょっと利口だと思ってたよ」
『ごめんなさい……』
「謝ればいいって話じゃないと思うんだけど」
顔を上げたセラの瞳が、今にも涙をこぼしそうに揺れていた。
唇をきゅっと噛み、僅かにふるふると震えている。
自分の腕の中で小さくなる彼女を見て、胸が締めつけられたように痛くなった。
そっと肩に触れると、セラはそれに反応してぴくりと震える。
多分この子の周りには僕のように感情に任せて怒る奴なんていなかっただろうし、彼女自身こうして責められることにも慣れていない。
そう感じたからこそ、つい捲し立てるように怒ってしまったことを後悔した。
「……ごめん、怒りすぎたね。でも本当に心配だったんだ」
なるべく優しく言ってみたけど、セラは僕を見てくれなかった。
ただ顔を俯かせたまま、首をふるふると横に振っていた。
「君が無事で、本当によかったよ」
大きな瞳が揺れて、ようやく僕を見てくれる。
思いの外、至近距離で思わず目を見開いてしまったけど、視線がぶつかった時、セラの腕の中でミャアと猫が鳴く。
その猫は呑気そうに自分の顔を前足で掻くと、ぴょんとセラの腕からすり抜け、どこかへ歩いていってしまった。
「取り敢えず、どこか痛いところは?」
『大丈夫、平気だよ。総司が護ってくれたから』
「そっか。なら良かったよ」
『ごめんなさい、総司』
そっと小声で謝ると、セラは僕の機嫌を窺うように少し怯えながら僕を見上げてくる。
やっぱり泣いてしまいそうで、でもセラは懸命にそれを耐えようと唇をきつく結んでいる様子だった。
「まったく、僕を振り回すのはやめて欲しいな。僕を心配させるのがそんなに楽しい?」
『そんなこと思ってないよ』
「ふうん?」
『……総司、怒ってる?』
「怒ってるよ、もちろん」
セラの目が見開かれて、揺らいだ瞳が僕を見つめる。
本当は怒ってなんかいないけど、セラには今後危険なことをして欲しくない。
それに間近で見る愛らしい顔を、まだ少し見ていたかった。
『本当にごめんね。助けてくれてありがとう』
「どういたしまして。それで?」
『もう危ないことはしないようにする』
「そんなの当たり前のことだよね。他に言いたいことは?」
セラは悲しそうに僅かに唇を震わせている。
あんまり意地悪すると本当に泣いてしまいそうだから、そろそろ許してあげようかと思っていると。
僕の目の前にはセラが持っていた籠が差し出された。
『これ……渡したかったの』
「え?」
『クリスマスのチョコのお礼。総司にマカロン……作ったの』
僕をこんなに困らせて心配させるくせに、しゅんとした顔をして、それでもちゃんとお菓子は渡そうとする。
そんなセラが堪らなく可愛く思えてしまう。
「こんな時にマカロンね」
『……いらなかった?』
「いや、そんなことないよ」
そっと彼女の手を取り、軽く握る。
折角僕のために作ってくれたなら笑ってあげないと可哀想だから、僕はそっと彼女に微笑みを向けた。
「ありがとう」
そう言うと、セラは目を瞬かせて、それから少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見てしまえば、もう完全に怒る気すら失せてしまうから困ったものだけど。
「どんな味?」
籠の中を覗くと、淡い色のマカロンがいくつも並んでいた。
可愛らしい見た目と一緒に、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
『あのね、いちごと、ピスタチオと、ショコラ』
「へえ、三種類も?」
『うん。チョコだけじゃなくて、総司が好きそうなのも作ってみたの』
ふんわりとした声で言いながら、セラは指先で籠の縁をちょん、と触れる。
「僕の好きそうなのって?」
『ピスタチオ、好きかなって』
「ははっ、そうなんだ」
『違った……?』
「ううん、当たってる。よく分かったね」
『総司の瞳の色がエメラルド色で綺麗だから』
「あははっ、じゃあセラは僕が緑の食べ物全般好きだと思ってるの?」
『ふふ、そうかも』
セラは僕の好みを考えて作ってくれたんだ。
そんなこと今まで考えたこともなかったけど、ただ作るだけじゃなく、僕のことを色々考えてくれるこの子の気持ちが嬉しいと思う。
「嬉しいよ、せっかくだし食べようかな」
そう言って籠からマカロンを一つ取り上げると、セラがぱっと顔を上げた。
「あ、総司?お茶とかなくても大丈夫?」
「うん、別に気にしないよ」
「でもマカロンは結構甘いから、飲み物あった方が食べやすいと思うし……」
「じゃあ、一口食べてみて、飲みたくなったらお茶も用意してもらおうかな」
そう言って、いちごのマカロンをひとつ口に入れると、ふわっと甘酸っぱい香りが広がる。
しっかりした甘みの中に、やわらかな酸味があって、優しい味だった。
「美味しいよ。上手にできてるね」
そう言うと、セラは見て分かるほど顔を輝かせた。
先程までの落ち込んだ様子から一変して笑顔になるから、その分かり易い変わりように思わず笑ってしまう。
『良かった、そう言ってもらえて安心した』
「そんなに心配だったの?」
『うん、初めて作ったからちゃんと作れるか、ちょっと不安で……』
「すごく美味しいよ。折角だし座って食べようか」
そう言って近くの木陰に腰を下ろすと、セラも小さく頷いてそっと隣に座った。
「それで、さっきの話だけど」
『うん?』
「もう危ないことはしないって言ったよね?ちゃんと守れる?」
『守れる……』
「本当?」
『……多分……』
「はい?多分ってなにさ」
ちょっと意地悪に聞いてみたら、セラは膝の上で指をぎゅっと握りしめて、小さく俯いた。
『そんなに責めないで……?』
「……責めてないよ。ただ、心配だったからさ」
セラはちらりとこちらを見て、それからぽつりと呟いた。
『……ごめんなさい。今度からはちゃんと気をつけるね』
「うん、わかればいいよ」
そっと彼女の頭を撫でる。
僅かに肩を揺らしたけど、少し恥ずかしそうにしながらも微笑んでくれていた。
『あのね、実はね』
「うん?」
『このマカロン、私が全部一人で作ったわけじゃないの』
「へえ、そうなの?」
『マカロンって時間かかるからね、なかなか最近まとまった時間がとれなくて……相談したら料理長が助けてくれたの』
「そっか。でも構わないよ、セラが一生懸命作ってくれたことには変わりないしね」
セラは少しほっとしたような表情を浮かべるけど、なんて言うか……正直に話すところが可愛いと思う。
いつも一生懸命で優しくて真っ直ぐなところは、出会った頃から変わらないみたいだ。
だからこの子が思わず猫を助けてしまった気持ちはわかる。
でもそれで彼女が危険に晒されるのは、もう二度と見たくない。
『あ、猫ちゃん』
セラの声につられて目線を下にずらすと、先程セラが助けた猫が僕達のところに擦り寄ってきた。
セラの手に懐いた猫は、彼女の腕の中に大切に抱き上げられた。
『ふふ、可愛い』
僕からしたら猫を抱きしめているセラの方が何百倍も可愛いわけだけど、それは言わずにそっとその猫を撫でてみる。
でもセラは僕なんかに目をくれず、ひたすらにその猫を愛で続けているから少しばかり面白くない。
「そんなに気に入ったの?」
僕がそう言うと、セラは猫を腕の中に抱えたまま、ふわりと微笑んだ。
『うん、とっても可愛いよ。猫ちゃん、とってもいい子だもんね』
甘えるような柔らかな声に、猫も安心したように喉を鳴らす。
彼女の細い指がそっと猫のふわふわした毛を撫でるたび、満足そうに目を細めるその様子を見ていると、やっぱりこの子は動物にも好かれるんだなと思う。
優しくて穏やかで、触れる手つきも丁寧で。
だから、猫も安心して身を任せているんだろう。
『総司も撫でてみる?』
セラが少し顔を上げて、僕の方を見つめてくる。
その瞳はどこまでも澄んでいて、僕のことをただ真っ直ぐに見つめているだけなのに、なんだかとてつもなく癒されてしまう。
「さっき撫でたよ」
『もう一回撫でてあげて?ふわふわしてて気持ちいいし、猫ちゃんも総司に可愛いがってもらいたいって』
「ははっ、そんなこと言ってるの?」
『うん、言ってる。だから撫でてあげて?』
そっと差し出された猫の柔らかな毛に、僕は指先で軽く触れてみる。
確かにふわふわしているけど、正直なところ、やっぱりセラの方がふわふわし可愛いと思う。
『気持ちいいでしょ?』
嬉しそうに微笑むセラの表情があまりにも愛らしくて、無意識のうちに指が猫の毛をなぞるふりをしながら、ほんの少しだけ彼女の指に触れた。
するとその一瞬、セラがぴくりと小さく肩を揺らす。
セラはすぐに視線を落とし、猫を撫でる仕草を続けたけど、僅かに意識しているようにも見えたその様子が少しばかり気になってしまった。
勿論、僕のただの気のせいかもしれない。
でも指先が触れてから、セラの頬がほんのりと色づいた気がした。
僕がじっと顔を覗き込むと、彼女は少し驚いたように瞬きをする。
「なんか、顔赤いけど」
『え、そうかな?きっと、猫ちゃんがあったかいからだよ』
慌てて視線を逸らしながら、ぎゅっと猫を抱きしめる仕草がどことなくそわそわしているように見える。
「そっか」
『あ……』
急に小さな声が漏れたかと思うと、セラが猫を抱いたまま、慌てたように手を動かした。
「どうしたの?」
『えっと、葉っぱがついてて』
セラが自分の髪に手を伸ばそうとするけど、猫を抱いているせいで上手く取れないらしい。
「じっとしてて」
僕はそっと手を伸ばし、彼女の髪に絡まっていた小さな葉っぱを摘み取る。
『ありがとう』
「まだ少し絡まってるね」
そのまま指先で彼女の髪をすくように梳かすと、セラの肩がぴくんと揺れた。
「…………」
一瞬、セラが息をのむ気配がする。
その反応が妙に初々しくて、思わず僕の方まで落ち着かなくなってしまう。
もしかして、僕のこと意識してくれてる?
そんな考えが頭をよぎって、思わず期待しかけたけど、ふとさっきのことを思い出した。
セラが危険な目に遭ったとき、僕はだいぶ強い口調で怒ってしまったけど。
そのときセラは若干怯えていたようだから、まだ気にしている可能性もあると、胸の奥がちくりと痛んだ。
「さっきはきついこと言って、ごめん」
僕は小さく息を吐いて、できるだけ優しい声で言う。
セラの顔を見つめると、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。
「君を怖がらせちゃったよね。僕のこと、少し嫌いになった?」
冗談めかして言いながら、セラを見つめる。
するとセラは小さく目を見開いて、慌てたように首を横に振った。
『全然そんなふうに思ってないし、総司のことを嫌いになるなんてあるわけないよ』
「そう言って貰えて良かったけどさ。多分怖かったんだろうなって思って気になったんだけど」
『総司のことは怖くないよ?ただ少し驚いただけ。いつもの総司と違ったから……』
ぽつりとそう呟いたセラは、気まずそうに目を伏せている。
「そっか。でも、それくらい心配したってこと、わかってくれる?」
『うん。総司が私のために心配して怒ってくれたこと、嬉しかったよ』
少し照れたように、けれど言葉通り嬉しそうに微笑んでくれる。
その笑顔が可愛くて思わず触れたくなったけど、今日もただその衝動を抑えることしかできなかった。
「もう怖がらせたりしないから、安心して」
微笑んで頷いたセラは猫を抱えたまま、少し恥ずかしそうに僕を見上げていて。
頬に残る淡い紅が、僕の心音まで早めていくようだった。
「この猫、幸せそうだね」
『どうして?』
「セラにいっぱい可愛がられてさ。見てよ、凄い気持ち良さそうにしてるよ」
『懐いてくれて可愛い。撫でられるのが気持ち良いのかな』
目を細めて完全に身を預けている様子を見れば、正直この猫が羨ましいくらいだ。
でも僕はどちらかと言えば、愛でられるより愛でたい方。
伸ばした手でセラの髪に触れ、彼女が猫にしてあげるみたいに、そっと柔らかな髪を梳いた。
『え、なに?』
「セラが猫を可愛がってるから、僕は一人で退屈でしょ?だからせめて君を可愛がって暇潰しでもしようかと思って」
『いいよ、そんなことしてくれなくて』
「どうして?気持ち良いでしょ、こうされるの」
一度は心地良さそうに瞳を細めてくれるけど、指先が耳を掠めると見て分かるほどに身体を揺らす。
「なんだか今日はやたらとびくびくしてるね。どうしてさっきから様子がおかしいの?」
『……う、ううん。おかしくないよ』
セラはふるふると小さく首を振って、ぎこちない笑みを浮かべる。
「でも、なんとなく無理をしてるように見えるのは気のせい?」
『そんなことないよ。私は本当に平気だから、心配しないで』
少し慌てたように、猫の柔らかな毛を撫でる手に力がこもる。
その仕草が可愛らしくて、思わずふっと笑いそうになった。
「そう言われると、余計に怪しく思えてくるんだけど」
『そんなことないってば』
「ふーん?」
『なあに?その反応』
「別に。ただいつも以上にセラが可愛く見えるなって思っただけ」
『そういうことは言わないで』
「可愛いって言われるの、そんなに嫌?」
『……嫌なわけじゃない、けど……』
「じゃあ、素直に受け取ればいいのに」
『……それは、ちょっと……』
何かを言いかけて、結局言葉にできないまま、もじもじと俯く。
こんな歯切れの悪いセラの姿を見るのは初めてかもしれない。
「まあ可愛いものは可愛いから、仕方ないよね」
くすっと笑いながら、彼女のふわふわとした髪をそっと撫でる。
すると、セラは驚いたように瞬きをして、目を伏せた。
『そんなこと言って、どうぜまたいつもみたいにからかってるんでしょ?』
「そんなつもりはないけどね」
『だって、総司はいつもそういうことを言って、私をからかうって知ってるもん』
「そうかな?僕はただ、思ったことを言ってるだけだけど」
『……もう』
拗ねたように頬を膨らませて、ぷいっと視線を逸らす。
彼女の頬がわずかに染まっているのを見て、なんとも言えない気持ちになった。
セラが何を考えているのか、全部はわからないけど。
今のこの空気がどうしても大切で、しばらく目を離せない僕がいた。
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