2

初めて迎えるアストリア公国の建国祭。
幸運なことに僕はセラの護衛を任され、彼女が着替える間、一人静かに待っていた。

しばらくして、ドレスルームから姿を現したセラは、柔らかなアイボリーのドレスを纏い、まるで可憐な白い花のようだった。
顔を覆うヴェール越しに見える瞳や、わずかに染まった頬が一層彼女を神秘的に映している。
隠れているはずなのに、より目を奪われる気さえしていた。


『どうかな?』


少し不安げに尋ねる声が可愛らしくて、自然と口元が緩んだ。


「よく似合ってるよ、でもさ」


気がつけば、指先がヴェールに触れていた。
そっと端を持ち上げると、隠れていたセラの顔が現れる。
驚いたように目を瞬かせた後、少し照れたように僕を見つめる瞳。
その視線に触れるだけで胸の奥が温かくなる。


「やっぱり、顔が見えたほうがいいかな」


セラは困ったように微笑み、そっと視線を伏せた。
ヴェール越しでも十分綺麗だけど、こうして表情がはっきり見える方がずっと特別に思えてしまう。


『ヴェールしてると、そんなに見えない?』

「距離にもよるかな。たとえば……」


試しにヴェールを戻し、少し距離を取ってみる。


「このくらい離れると、顔は全然見えないね。分かるのは、可愛い女の子がいるってことくらい」

『ふふ、女の子なのは髪型とドレスで分かるでしょ?』

「ははっ、確かに。でも、このくらい近づくと……」


ゆっくりと距離を詰め、少し屈み込むと、セラは思わず後ろに下がる。
その反応が可愛くて、僕は口の端を上げた。


「どうして逃げるの?」

『総司が近づくからだよ』

「そんなに僕が怖い?」

『怖くはないけど……』

「じゃあ、もう少し近くてもいいよね」


冗談めかして言えば、セラは視線を逸らし、小さく肩をすくめた。


『誰もそんなに近くで見ることはないと思うよ』

「それは分かってるけどね」


そもそも誰もこの子に近づけさせない。
セラのヴェールに再びそっと指をかけると、光に透けるその向こうで彼女の瞳がわずかに揺れていた。


『もう、また持ち上げるの?』

「うん。だって見たくなるから」


膨れたように僕を見上げる瞳は、やっぱり恥ずかしそうで、だけど嫌がっているわけでもなさそうだった。
どこか無防備で可愛くて、こんな表情一つでさえも見逃したくないと思う僕がいる。


「街の人達は可哀想だね。君のこんなに可愛い顔を見られないんだから」

『もうやめて、からかわないで』

「からかってるつもりはないんだけど」

『そういうこと言うのが、からかってるの』

「そっか。じゃあ、やめた方がいいのかな。君に嫌われたくないからね」

『ふふ』


最近、本心で言ったことすら意地悪だ、からかっていると言われるようになってしまったから、内心で苦笑いをこぼす。
ヴェールを戻そうとしたセラの手をそっと取れば、ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳が、真っ直ぐに僕を映していた。


「今日の建国祭、君と一緒に回れるのが嬉しいよ」


セラは今日、心なしかあまり元気がない。
それに今朝の彼女の口ぶりから、僕が護衛につくことを気兼ねしているかもしれないと思ったからこその言葉だった。


「時間は限られてるけど、折角の機会だし楽しもうよ。美味しいものでも食べようか」


僕の言葉で気が晴れるかは分からない。
それでも、少しでも彼女の気持ちが和らげばいいと思い、素直に言葉にしてみた。
セラと過ごせることを嬉しいと思うのは本当だし、彼女が楽しんでくれるならそれ以上に嬉しいことはない。
そう思って告げた言葉を聞いて、セラは愛らしい笑顔を見せてくれた。


『私も総司と回れること、とっても嬉しいよ。一緒に楽しもうね』


その笑顔が見られたことで、少しだけ安堵する。
余計な気を遣わせてしまっているのか気になっていたけど、今の言葉が本心ならそれでいい。


「勿論。さあ、行くよ」


そう言って、そっと彼女のヴェールを元の位置に戻してあげる。
透ける布越しに見える微笑みは柔らかく穏やかで、それを見るだけで春の訪れを感じるくらいだった。


『お待たせ致しました』


セラと並んで城の外に出ると、山南さんと山崎君が僕達を待っていた。
二人も先程より軽装になり、僕達を見て薄く微笑んだ。


「では行きましょう。俺達は念の為、距離を取ってお二人のことを見ていますので」

「私達のことは気にせず、気の向くままにお祭りを楽しまれて下さいね」

『ありがとうございます』


二人が離れた場所から見守る中、僕はセラを連れて街へと向かった。
城下の広場では、色とりどりの露店が並び、音楽が響き、人々の笑い声が絶えない。
建国祭の賑わいは、アストリア公国の活気そのものだった。
普段は整然とした街並みも、この日ばかりは自由な熱気に包まれ、どこを見ても楽しげな光景ばかりが広がっていた。
そんな中、僕はセラの護衛役を任されていたけど、厳格な騎士団の一員ではなく、あくまで彼女の付き添いとしてここにいた。

通りを歩きながら、ふとセラの横顔を窺う。
青色の瞳が屋台に並ぶ色とりどりの商品や料理に向けられ、微かに輝きを宿しているのが分かった。
普段は落ち着いた雰囲気を纏っているセラだけど、今は年相応の少女のように、祭りの賑わいに心を弾ませているようだった。
それがなんだか微笑ましくて、このまま少しでも、セラが無邪気に楽しめる時間が続けばいい。
そんなことを、ふと考えてしまう僕がいた。


『ねえ、総司。あれ、とっても美味しそう……!』


袖をそっと引かれ、セラが指さす方を見やる。
焼きたてのパイが並ぶ屋台。
バターの香ばしい匂いが風に乗って広がり、確かに食欲をそそるものだった。

けれど祭りの熱気に頬を染め、目を輝かせながらきょろきょろと周囲を見回す様子はどうしても目を引く。
華美な装いでなくとも、セラは自然と人の視線を集めてしまうから、護衛として付き添う以上、僕は警戒を緩めるわけにはいかなかった。


「そんなに食べたい?」

『うん。だって、すごくいい香りがするんだよ?総司は食べたくない?』


セラの視線の先には、焼きたてのパイがこんがりと並んでいて、確かにいい香りだ。
けれど、人混みの中で長く立ち止まるのは得策じゃない。
さりげなく周囲を窺えば、群衆の中にこちらをじっと見ている男達が数人いる。
セラの身分を知る者はいないにしても、佇まいや雰囲気、ちょっとした仕草で、普通の娘とは違う何かを感じ取る者はいるのかもしれない。


「セラ、あまり目立たないほうがいいよ。美味しそうなのは分かるけど、きょろきょろしてはしゃいでると、それだけで人の目を引いちゃうから」

『あ……ごめんなさい。気をつけるね』


小さく呟いて、そっと視線を落とす。
その少し寂しそうな顔を見て、言い方が悪かったかもしれないと胸を痛めた。

セラは普段、こんな些細なことで気を落とすような子じゃない。
それなのに今、どこか寂しそうに俯いたのは、きっと僕の言葉が彼女の楽しみを奪ってしまったせいだ。
セラがこうして街を自由に歩く機会なんて、ほとんどないに等しい。
ましてや、何も考えずただ目に映るものに喜んで、無邪気に心を弾ませる時間なんて今日くらいしかないのに。


「別に責めたわけじゃないよ、だからそんな顔しないで」

『うん……』

「ここは人が多すぎるから、違うところで選ぼうか。似たようなものがあるかもしれないし」

『うん、ありがとう』


セラの声が和らいだ気がして、僕はほっと息をついた。
でも安心するのも束の間だった。
突然、人の流れが大きく動き、僕達の方にどっと押し寄せてくる。
咄嗟にセラの背中に腕を回し、彼女の身体を自分の方へと引き寄せた。


「ごめんね、ちょっとこのまま抜けよう」


混雑の中でセラを護るように抱き寄せながら、足早に人波を抜ける。
その途中、ふと視線を向けた先である屋台が目に入る。
良い香りで誘う、焼きたてのパイ。
セラが食べたそうにしていたものと、よく似たものだった。


「これで許してくれる?」


人混みも抜けたし、ここなら買っても問題はなさそうだ。
僕は屋台の前でパイを二つ買い、そのうちの一つをセラに手渡した。


『わあ、ありがとう』


セラはヴェール越しでも分かるくらい嬉しそうに笑ってくれるから、僕の口元は弧を描く。
両手でそっとパイを受け取る仕草がどこか慎重すぎる気がして、僕は彼女の表情を見つめていた。


「どうしたの?固まってるけど」

『立ったまま食べること、したことがなくて』


セラは、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
確かにセラは屋台で買ったものを立ち食いするなんていう経験はないのだろう。
僕は、くすっと笑いながら言った。


「今日くらいはいいんじゃない?」


そう言って、彼女のヴェールをそっと持ち上げた。


「ほら、これで食べられるでしょ?」


セラの瞳は大きく見開かれて、その愛らしい表情を目の前に口元に笑みがこぼれる。
彼女は少し迷ったように僕を見上げたあと、恥ずかしそうに微笑んだ。


『いいのかな?』

「いいんだよ。それに立って食べないと今日は何も食べられないことになっちゃうかもしれないからね」

『そうだよね』

「これも人生経験だよ。立って食べたって死ぬわけじゃないし、罪に問われるわけでもないし?」

『ふふ、その通りだね。じゃあ……いただきます』


ゆっくりとパイを口に運んだセラは、小さな口で上品な仕草のまま一口かじる。
その一連の所作が綺麗で思わず見惚れていると、僕を見上げて目を輝かせた。


『うん、おいしい……!』

「良かったね」

『うん。ありがとう、総司』


ヴェール越しではなく、こうしてセラの顔を直接見られるのはやっぱり嬉しい。
しかも無邪気に微笑んでくれるから、なおさら堪らなくなる。
けれど言葉を交わしたその直後、周囲の空気がわずかに変わったのを僕はすぐに察した。


「うわ、今の子……すごい可愛いんだけど」

「え、あの子ってどこの子?」


若い男たちの視線が、一斉にセラに向けられている。
当の本人は気づきもしないまま、目の前のパイに夢中になっているけど、僕にはその視線が妙に気に障った。
僕は彼女のヴェールを元の位置に戻し、何も言わずに手を引いた。


『え?総司?』


セラはパイを片手に持ったまま、急に歩き出した僕に戸惑った声をあげる。


『どうしたの?パイ、食べないの?』


セラの頭の中はパイのことでいっぱいらしい。
僕は立ち止まることなく、さらりと答えた。


「君のこと、見てる人が多くて困るんだよね」

『え?』

「気づいてなかった?さっき、周りの男達が君をじっと見てたよ」


人の少ない別の場所で足を止め、セラの方へ振り返る。
すると僕の言葉を聞いた彼女は、驚いたように視線を彷徨わせた。


『……でも私の食べ方、そんなに変じゃなかったよね?』


セラは心配そうに僕を見上げてくるけど、その反応が無自覚で余計に可愛いから苦笑いをこぼした。


「ううん、むしろ逆だよ。だからこそ、君の顔を見せるのはやめたほうがいいかなって思っただけ」


僕がそう言うと、彼女はヴェールをそっと押さえながら、さらに頬を赤くした。


『じゃあパイはどうやって食べればいいの?』

「そこに壁があるでしょ。壁の方を向いて食べようよ」

『壁と向かい合うの?総司の顔、見れないよ……?』

「いや、まあ、そうなんだけどさ。仕方ないよ。君の身元が知られたら厄介だしね」


僕がそう言うと、セラはそっと周囲を見回しながら、小さく息をついた。


『せっかくの建国祭なのに、ごめんね』

「なんで君が謝るの?」

『私が一緒にいるせいで、総司が警戒しないといけなくなってるから……。のんびりお祭り、楽しめないよね』


申し訳なさそうに僕を見上げるその姿が、なんだか儚げで、再び苦笑が漏れる。


「君と一緒にいるのは、そんなに迷惑そうに見える?」

『そういうわけじゃないけど、総司にとっては初めての建国祭なんだよ。楽しんで貰いたいなって思うから』

「僕は初めての建国祭を君と過ごせて嬉しいし、今だって物凄く楽しいって思ってるんだけど?」


セラの瞳が、ふわりと揺れる。
少し潤んだ瞳が、甘えるように僕を見上げてくるから、このままもっと優しくしたくなる。
でもセラの素直な反応が可愛くて、もう少し意地悪を言いたくなる僕もいた。


「それとも、セラは僕と歩くのがそんなに嫌?」

『ええ?そんなことないよ』

「じゃあ嬉しい?楽しいって思ってくれてるの?」


僕がそう尋ねると、セラは少し口を開いたまま、きょとんとした表情を浮かべた。
言葉に詰まっているのか、それとも答えを考えているのか。
けれどその様子すら可愛らしくて、僕は思わず口元を緩めてしまう。


『もちろん、とっても嬉しいし楽しいよ』


彼女は小さな声でそう言って、ヴェールの奥で視線を伏せた。
かすかに染まった頬を隠すようにもじもじとヴェールをいじる仕草が、なんだか照れ隠しみたいで思わず笑いがこぼれた。


「ははっ、そっか」


セラはちらりとこちらを見て、少しむくれたように唇を尖らせた。
どうやら、からかわれていると察したらしい。
こういう表情もまた好きだから、つい意地悪をしたくなるけど、これ以上からかうと拗ねてしまいそうだし、ほどほどにしておこう。
そう思いながら、目の前の愛らしい仕草を眺めていた。

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