5
馬車に乗り込み、公爵家の城へ向かう道すがら。
ようやく周りの貴族達の視線から解放され、僕たちはほっと息をついた。
馬車の中は思ったよりも広く、快適な作りになっている。
外では山崎君が馬を操りながら護衛を続けてくれていた。
「お嬢様、今日の演奏は本当に素晴らしかったですよ。会場中が聴き惚れていましたね」
「ああ。音楽会が終わったあとも、皆がセラの話で持ちきりだったぞ。誇らしいことだ」
山南さんが微笑みながら温かな声をかけ、近藤さんも満足気に頷いている。
『ありがとうございます。緊張はしましたけど、皆さんが見ていてくださったから最後まで頑張れました』
そう言ってセラが微笑むと、僕の目の前に座る平助が、少し身を乗り出して口火を切った。
「てかさ!まじ本当にすごかった!俺、演奏中何度も鳥肌立ったし!」
「僕もセラの演奏を聴いて、世界で一番美しい音楽だと思いましたよ。心の底から感動しました」
「ちょっと待ってよ、伊庭君。何さらっと先に言ってるのさ、僕も今同じこと言おうと思ってたんだけど?」
「何か問題でも?言いたいことがあるなら、早く言えばいいじゃないですか」
「言おうと思ったよ。でも平助が先に話しかけたから、出鼻をくじかれちゃったんだよね」
「おい、総司。俺のせいにすんなよな」
「あーあ、台無し。じゃあ、改めて僕が言うね。君の演奏は世界で一番……」
「それは僕がもう言いましたよ……!」
「つーか俺だって、世界で一番ってやつ思ってたし!」
「三人とも。落ち着いてください」
山南さんが苦笑しながらなだめる。
セラが可愛らしくクスクスと笑うと、近藤さんも楽しそうに笑ってくれていた。
『皆にそう言ってもらえて良かった。ヴァイオリンは自信なかったけど、少しは自信ついたかな』
「あんな賞まで貰ったのに、自信なかったの?」
『うん、私はピアノの方が得意だから』
「お嬢様はピアノでも何回か賞を頂いていますからね。ヴァイオリンは今回が初めてですが、本当に素晴らしい結果でしたよ」
優秀だろうとは思っていたものの、まさかここまでだとは思わず、驚きからセラを見つめる。
セラはえへへと笑って照れくさそうにしてるけど、こういう姿だけ見てるとあまりにおっとりしていて、とてもそうは見えないから意外だ。
『わあ。王都の光、きれい……』
セラの声に誘われて馬車の中から外を見れば、夜の闇の中、綺麗な光がいくつも広がっている。
僕も王都には初めて足を運んだけど、周りの人々がせわしなく動くこの場所は僕的には落ち着かない。
やっぱり僕にとっては、アストリア公国が一番居心地の良い場所みたいだ。
「それにしても、先程は平気だったのか?貴族の令息達に囲まれていたと聞いたが、余計なことは言われていないな?」
『余計なこと?』
小首を傾げて、近藤さんの言わんとしていることを理解をしていないセラに、近藤さんも困った様子で微笑んでいる。
それを見兼ねて、山南さんが代わりに言葉を続けた。
「近藤さんは、お嬢様が変なちょっかいをかけられていないか心配しているのですよ」
『変なちょっかい……ですか?特には何も。皆さんとはご挨拶をしただけです』
「そうですか。それならいいのですが、例えば何かに誘われたり、無理に何かの約束をさせられそうになったらすぐに報告して下さいね」
『はい、分かりました。大丈夫ですよ、皆さん、とても親切でしたから』
「ちなみにどのように親切だったのですか?」
窓の外から、不意に話に入ってきた山崎君が、馬を操りながらセラに問いた。
『えっと、おいしいケーキのお店があるから今度ご案内してくださるとか。あと中々手に入らない劇場のチケットを手配してくださるとか?』
「それは……決して親切心ではありませんね」
『え?そうなのですか?』
ただの下心を親切だと受け取るセラに、山崎君がげんなりするのは無理もないと思う。
僕も含め皆で苦い顔をしていると、山南さんがため息を一つこぼして言った。
「近藤さん。お嬢様を大切にし過ぎたのかもしれませんね。私はお嬢様が清廉潔白過ぎて、変な輩に唆されないか心配ですよ」
「そんなことを言わんでくれ。関わらせないのが最善の策だと思わんか?なあ、総司!」
「え?僕ですか?えっと……、そうですね。確かに関わらなければ、そもそも危険な目に遭うこともないですし、近藤さんのご意見はごもっともだと思いますよ」
「そうだろうとも!」
「沖田君。近藤さんのご機嫌を取りたいからと適当なことを言わないで下さい」
「いえ、山南さんの仰ることも分かりますけどね。でも僕達三人の目が黒いうちは、セラに変な輩は近寄らせませんから安心してください」
「ええ、勿論頼りにしていますよ。間違えても君達がお嬢様を口説くことがないよう、気をつけてください」
山南さんの微笑みに、僕達三人は若干顔がひきつり笑いになる。
先日の建国祭のこともあるし、僕にとっては特に耳が痛い話だ。
「山南君、さすがにそれはないだろう。君達のことは誰よりも信用しているからな!セラに不埒な感情を抱くことなど、決してないだろうと言い切れるぞ!」
「……え、ええ。勿論ですよ、近藤さん。僕達はセラをお護りする立場なのですから」
「お、おう。俺だってそうだって。そんなことがあったら駄目だって、ちゃんと分かってるしさ」
若干動揺している二人に苦笑いをこぼしていると、山南さんが僕を見て眼鏡の奥の瞳を光らせている気がする。
「沖田君はどうでしょう?」
「勿論僕も、騎士として使命を全うすることだけ考えてますよ。余計な感情は一切ないです」
「ほう、一切ですか。随分と言い切りましたね」
「いや、だって……当たり前じゃないですか。そうじゃないとまずいですからね」
「では、まずくなければまた違うということでしょうか?」
「やだな、山南さん。そんなわけないですって」
やけに詰めてくる山南さんに、若干気まずい心情になりながら笑顔で言葉を返していると、左肩に柔らかな重みがかかる。
見れば僕の左側に座るセラが眠ってしまったらしい。
僕の肩にもたれて、すっかり夢の世界に旅立ってしまっていた。
「あー、総司狡いじゃん。俺が隣に座れば良かった」
「藤堂君、そのような発言もどうかと思いますよ」
「あ、はい……。すいません……」
「セラは寝てしまったか。昨晩は緊張してあまり眠れなかったと言っていたからな」
「あれだけの場で演奏をすれば、疲れも出てしまいますよね。セラもようやくホッとできたのではないでしょうか」
「そうですね。このまま寝かせておいて差し上げましょう」
「俺の予想では、城まであと一時間はかかるかと。皆さんもお疲れでしたら、休まれてください」
山崎君の気遣いをありがたく思いながらも、僕はあまり人前で眠れない。
子供の頃から警戒心が強かったせいか、この歳になった今も他人の前で寝たことなんてないに等しい。
だからぼんやりと窓の外の景色を見ながら、左側の体温を心地良く思っていた。
それからどれくらい経った頃だろう。
気付けば、馬車の中は静かだった。
発表会の余韻が残る心地よい疲れと、夜の穏やかな風が、まるで全てを包み込むかのように優しく揺らめいている。
そんな中、セラはすやすやと眠っていた。
移動の揺れが心地よかったのか、彼女はいまだ僕の肩にもたれかかるようにして、完全に夢の世界へと落ちてしまっている。
「そろそろ着きますね」
窓の外の景色を確認した伊庭君がそう言うと、平助がセラを覗き込んだ。
「セラのやつ、完全に寝ちまってじゃん」
「ここまで熟睡されてしまうと、起こすのが可哀想ですね」
馬車が城門をくぐったところで、山南さんが柔らかく笑いながら言った。
僕はちらりと寄り添って眠るセラの横顔を見た。
長い睫毛が静かに伏せられ、形の良い唇が小さく上下に動いている様子が無防備で愛らしい。
ふわりと揺れる髪から、甘い香りが微かに漂っていた。
「昔からお嬢様は、一度眠ってしまうと中々起きませんでしたよね」
馬車が止まり、外から山崎君が扉を開けてそんなことを言う。
彼の柔らかい瞳からは、昔を懐かしむような温かさが滲み出ていた。
「ああ、そうだな。よくセラを抱き上げて馬車から下ろしたものだよ」
「セラにもそんな時期がありましたね。僕も覚えています」
「起きないのであれば僕がこのままお運びしますけど、どうします?この子、起こします?」
「いや、こんなに気持ちよさそうに眠ってるのに、それはちょっと可哀想じゃん」
「無理もないですね。今日は本当にお疲れだったでしょう。よく頑張りましたからね」
山南さんが眉尻を下げて優しく微笑む。
伊庭君も納得したように微笑み、近藤さんが腕を組みながら僕に言った。
「総司、悪いが運んでもらえるか?」
「もちろん。僕で良ければお運び致しますよ」
「では沖田君にお願いしましょう。部屋までは山崎君と一緒に行かれてくださいね」
「わかりました」
「じゃあ、俺達は先に降りてるぜ」
平助がそう言いながら、伊庭君とともに馬車の外へ。
近藤さんと山南さんもそれに続き、最後に山崎君が「沖田さん、頼みますよ」と僕に外から声をかけた。
馬車の中には僕とセラだけが残されて、一気に静けさが降りた。
「……さて」
僕は、まだ自分の肩にもたれたままのセラに視線を落とした。
こうして間近で彼女の寝顔を見る機会は滅多にない。
普段はきちんとしている彼女も、こうして眠っているとまるで幼い少女のようで、その愛らしさに思わず頬が緩んでしまう。
「……君は本当に無防備だよね」
小さく呟きながら、僕はそっと彼女の身体を自分の肩から引き離し、馬車の壁へともたれかかるように寄りかからせた。
動かさないようにと慎重に手を添えながら、彼女の頭をゆっくりと安定した位置へと移動させる。
でもセラは熟睡しているのか、ふにゃっとした動きで軽く首を傾げ、また深く俯いてしまった。
「本当によく寝てるね」
思わずくすりと笑いながら、僕は彼女を抱き上げる体勢へと移行する。
両腕をそっと差し入れ、片方の手は膝の下、もう片方は背中へと添える。
そして少し身体を屈ませ、力を入れてゆっくりと持ち上げたその瞬間。
ふわりと浮いたセラの頭が、支えを失ったことで、勢いよくぐらりと後ろに傾いた。
予想外の動きに、一瞬だけ思考が遅れる。
本来なら胸元に収まるはずだったのに、彼女を抱え起こそうとしていたせいで、そのまま僕達の唇は重なった。
それがただの偶然だと理解するよりも早く、唇に残る温もりがじんわりと広がっていく。
柔らかくて、甘くて、温かい。
たった一瞬触れただけのはずなのに、まるで時間が止まったようだった。
だけど、これは事故だ。
このまま何事もなかったのようにセラを運び出してあげればいい。
理性ではそう告げるのに、僕の腕の中、身を預けて眠るセラの顔を目の前に、僕の身体は微動だにしない。
そして今の一瞬だけじゃ足りないという考えが一度でも過ぎってしまったら、堰を切ったようにどうしようもない衝動が溢れ出し、気づけば自分からそっと唇を重ねていた。
角度を変えて、何度も。
柔らかな感触に、胸が焼けつくようだった。
「セラ……」
名前を呼びながら、そっと息を絡めるように唇を合わせる。
温もりや甘さが深く染み込んでいくようで、止めることができなかった。
もっとこの甘い温もりを感じていたい。
セラの全てを僕だけのものにしたい。
そんな欲に支配されてしまいそうで、怖いくらいだった。
でもそんな僕の想いを知るはずもないセラは、静かな寝息を立てたまま、無防備に僕の腕の中にいる。
それが愛しくてたまらなかった。
「好きだよ」
セラの唇にそっと囁き、また口づける。
でも、これ以上は駄目だ。
これ以上セラが望まない形で、この温もりを奪いたくはない。
そう思った時だった。
『……んん……』
微かにセラが身動ぎし、熱に浮かされていた僕の意識が一瞬にして引き戻される。
僕は咄嗟に唇を離し、思わずその場で息を押し殺した。
『そ……じ……?』
僕の名前を呼ぶかすかな声とともに、セラがうっすら瞼を開く。
……これは、まずい。
そう思った時、セラはまだ少しぼうっとした顔で小さな指先を唇に添えた。
『いま……』
たった一言。
でもその声が、どうしようもなく甘く響く。
これは絶対に誤魔化さなければならないと、僕は焦りを隠して何でもないように笑ってみせた。
「良かった、起きたんだ。今ちょうど皆も降りて、君を運ぼうと思ってたところだよ」
できるだけ普段通りに、何気ない笑顔を作る。
頼むから、今の出来事を夢だと思ってほしい。
セラは僕の言葉を聞いた後も、まだ半分夢の中みたいにぼんやりと僕を見つめていた。
『そうだったんだ、ありがとう』
ふわりと微笑むその笑顔があまりにも可愛くて、息が詰まった。
何もなかったように振る舞おうとしている自分の狡さに、罪悪感が込み上げてくる。
それでも、君が僕の愚かしい行動を知らないままでいてくれることを願うしかなかった。
「どういたしまして」
穏やかな声を作って答えた直後。
セラはとろんとした瞳で僕を見つめると、その瞼は再び閉じられ、小さな身体がふわりと僕の胸に倒れ込んだ。
「……え」
腕の中で再び眠りに落ちたセラは、一瞬にしてまた控えめな寝息を立て始める。
こうして安心しきって眠る姿を見せてくれるのが嬉しくて、こういう一面を知っているのは僕だけであって欲しいと思いながら、胸の奥が妙に熱を持つのを感じていた。
「君は本当に、僕を困らせるのが上手いね」
小さく呟いて、彼女の身体に回したままの腕に力を入れる。
優しくしっかりと抱き上げると、セラは僕の腕の中で心地よさそうに身を委ねた。
このまま、ずっとこうしていたい。
それが不可能だと自覚するたび、どうしようもなく胸が痛くなる。
セラはまだ、僕の気持ちなんて知らないんだろうけど。
僕はどうしたって君を誰にも渡したくないと思ってしまうみたいだ。
思わずそっとセラの額に口付けて、つい今しがたの出来事を思い返して彼女の唇を見つめた時。
「沖田さん、まだですか?」
馬車の外から、山崎君の声がして我に返る。
「まさか寝ているお嬢様に何か変なことをしていませんよね?」
「してるわけないから」
即答するも、脳裏に鮮明に蘇る唇の感触。
まさに何もしてないとは言い切れない事態だった。
雑念を振り払い、セラをしっかりと抱えたまま外へ降りると、山崎君がすかさず隣に並んだ。
「沖田さん?」
「何?」
「……顔、赤くないですか?」
「そう?気のせいだよ」
僕は努めて平静を装いながら、セラを寝室へと運んだ。
「ここで大丈夫です」
山崎君の声を背に、そっとセラをベッドにそっと寝かせると、彼女は小さく寝息を立てながら、再び穏やかに眠り続けていた。
「おやすみ、セラ」
声に出さず、そっと唇を動かしながら、僕はその場を後にした。
僕の唇にはさっきの感触がまだ鮮明に残っていた。
この夜が明けても、この感触だけは多分消えそうにない。
それくらい僕は君が好きなんだろうと自覚した。
でも今夜のことはどうか君には思い出さないで欲しいから。
理性より衝動に突き動かされるこの未熟な感情を胸に、あの温もりを幾度となく思い出してしまう僕がいた。
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