3

夕方になり、レクリエーションを終えた僕たちは、学院の敷地の隣にあるグロワール邸へと移動した。
ここは歴史ある宿舎らしく、広々とした空間に重厚な調度品が並び、華やかな装飾が施されている。
伊庭君と平助、それにはじめ君と同じ部屋を割り当てられた僕は、賑やかになりそうだと思いながら、頭の片隅でセラのことを気にしていた。

夕食前、ホールへ向かうとセラの姿がすぐに目に入った。
彼女は小さな手を胸の前で組みながら、何かを考え込むようにしている。
一人少し首を傾げる仕草がなんだか可愛いくて、僕が思わず足を止めた時。
セラは隣に座る千ちゃんに声をかけると、席を立ってホールから出ようとしていた。


「どうかしたの?」


僕が近づくと、セラは目を瞬かせて、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。


『ハンカチを忘れちゃったみたいなの。膝に敷きたいから、今からお部屋に戻って取ってこようと思って』

「部屋まで?一人で?」

『うん。すぐ戻るから』

「だめだよ。暗くなりかけてるし、何かあったら大変だから僕も行くよ」


そう言うと、セラはほんの少し目を丸くした。


『……でも、すぐなのに』

「一緒に行こうよ」


優しく微笑んでみせると、セラは少し頬を染めながこくんと頷いた。
その仕草も可愛くて、僕の口元はどうしても緩んでしまう。


『ありがとう、総司』

「どういたしまして」


二人で並んで歩く廊下は、静かで少しひんやりしていた。
夕食前の時間で、人通りもほとんどない。
セラは小走り気味に僕の少し前を歩き、扉の前でぴたりと足を止めた。


『ここだよ』


セラが扉を開けると、僕も続いて中へと入る。
でもセラはすぐに違和感を覚えたのか、きょろきょろと部屋を見回しながら首を傾げた。


『あれ……?私の鞄がなくなっちゃった……』

「本当?ここ、8号室だけど合ってる?」

『え?私のお部屋、7号室だよ』


言葉を聞いた瞬間、セラはぴたりと動きを止めた。
そしてぽかんとした表情で部屋を見回し、次第に頬を赤く染めていく。


『……ごめん、間違えちゃった……』

「ははっ、何やってるのさ」


思わず笑うと、セラも照れくさそうに笑ってみせた。


『他の人のお部屋に勝手に入ったらダメだよね、早く出ないと』


セラは焦った様子で扉に手を伸ばした。
でもちょうどその時、部屋に近付いてくる複数の足音や会話が聞こえてくる。

誰かが部屋に戻ってくる。
そう直感で悟った僕は、迷うことなくセラの手を取ると、近くにあったクローゼットの扉を開け、二人で中へ滑り込んだ。


『総司?なにして……』

「しー。隠れるよ」


入学式でのこともあるし、こんなことで変な噂が立てられても困る。
だからこそ身を隠すために扉を静かに閉めると、忘れ物をしたご令嬢達が数人で部屋に戻ってきたらしい。
部屋の扉が開く音がして、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


「あ、あったわ。良かった」

「オリエンテーション、退屈かと思ってたけど意外と悪くなかったわよね」


クローゼットの中には小さな灯りがついていて、セラの表情がよく見える。
彼女はぎゅっと僕の服を掴みながら、不安そうに僕を見上げていた。


『……どうしよう、出られないね』

「しばらく静かにしていれば、大丈夫だよ」
 

小さな声で囁きながら、そっと彼女の腰に手を添え、引き寄せる。
セラは驚いたように目を見開き、頬を染めた。


『あの、ちょっと……近い……』

「仕方ないよ。狭いんだから」


僕が微笑むと、セラはますます頬を赤らめて視線を逸らした。
その表情が可愛くて、どうしたって触れたい衝動が込み上げてくる。


「セラ」


セラにだけ届く声で囁くと、セラは愛らしい瞳を揺らして僕を見つめてくれる。
頬に触れればその瞳もとろんと溶けて、どちらともなくそっと唇が触れた。
見つめ合い、そして自然と微笑みがこぼれる。
こんな状況だというのにセラのことしか見えなくて、今の時間がずっと続けばいいと思っていた時だった。


「みんなは誰か気になる人いた?」

「私はアストリア騎士団所属の沖田さん、素敵だと思うの」


突然クローゼットの外から聞こえてきた言葉に、僕は一度目を瞬かせた。


「わかるわ。一級騎士だし、立ち振る舞いも完璧だし、本当に理想的な騎士様よね」

「うんうん。かっこよくてスマートよね。もう縁談は決まっているのかしら?」

「もし決まっていなかったら、お声をかけてみようかな」


思いもよらない話題に、僕は呆気に取られた。
自分がそういう対象で見られていたなんて、考えたこともなかったからだ。

ふとセラを見ると、彼女は静かに目を伏せている。
そっと顔を覗き込むと、セラは僕のシャツをぎゅっと握りしめていた。


「セラ?」


彼女の不安そうな瞳を見てしまえば、胸の奥が疼くような言いようのない感覚を覚えた。
正直周りの女の子達のことはどうでもいいけど、こうしてセラに気にしてもらえるのは悪くない。
しゅんとした顔も可愛いからそっと頬に手を伸ばしかけたけど、それは更に続いた彼女達の会話を聞いてセラに届く前に止まってしまった。


「あのね、実はさっきね。沖田さんに可愛いですねって言ってもらったの」


……ん?可愛い?
可愛いなんてこと、誰にも言った覚えもないし、言うわけがないんだけど。

思わず固まったまま聞いていたけど、きゃーきゃー言う他の女の子たちの盛り上がりに、その女子生徒の声は嬉しそうに弾み、さも楽しそうに話し続けた。


「私、ハンカチを落としてそれを拾ってもらったんだけどね。それで少しお話した時に、可愛いですねって言って頂けて。沖田さん、私のことを意識してくださってるのかな?」

「凄いわ、沖田さんを射止めるなんて羨ましい」

「やっぱり沖田さんって女の子の扱いが上手なのね。女性慣れしていそうだもの」

「…………」


物凄い勝手なことを言われて、当たり前に絶句する僕がいる。
でも思い返してみれば、今日目の前でハンカチを落としたご令嬢がいた。
それを拾って渡した時、彼女は「このハンカチ、一番のお気に入りなんです」って言ったんだよね。
そのハンカチにはうさぎの刺繍が施されていて、それを見た瞬間セラのことが思い浮かび、つい「可愛いですね」って口にしてしまったけど……。
それはハンカチの刺繍に対して言ったことで、そのご令嬢に向けた言葉じゃない。
その誤った解釈には、僕も思わず苦笑いをこぼした。

でも今はそんなことより、気にしなくてはいけないことがある。
目の前のセラを恐る恐る見れば、彼女は僕をじっと見つめた後、キッと僕を睨みつけた。


「…………」


まずいな。
無言の圧力が、息苦しいほどに伝わってくる。

僕が髪を撫でようと手を伸ばすと、セラの小さな手がそっと僕の手を掴む。
そしてそのまま握るのではなく優しく退けるようにして、すっと僕から距離を取った。


「…………」


セラは涙目になりながら、そっと顔を伏せて唇を噛み締めている。
ようやく令嬢たちが部屋から出て行ったものの、セラはまだ俯いたままだった。


「ねえ、違うってば」


声をかけても、セラはゆるく首を横に振るだけで、僕のことを見てもくれない。
不安を抱えた表情が儚く見えて、どうしようもなく胸が締めつけられた。


「セラ、あのさ」

『総司は、やっぱり他の女の子にも可愛いって言うんだね』

「違うよ。そういう意味で言った可愛いじゃないから」

『前に総司が、可愛いって言葉は私にだけって言ってくれたから……凄く嬉しかったのに……』


うるうると瞳を揺らしてそんなことを言われたから、心を完全に持っていかれた。
今すぐ抱きしめたいのにそれをする資格すらないような気がして、ただ必死に言葉を探す僕がいた。


「セラ、ごめんね。でも本当に誤解なんだよ」


僕はそっと彼女の肩に触れて、静かに言葉を続けた。


「さっきの子に言ったのは、その子のハンカチのことだったんだ。うさぎの刺繍がなんだかセラみたいでさ、それでつい可愛いですねって言っちゃっただけで、別に他の意味はないんだよね」


セラのイメージは、僕の中ではうさぎに近かった。
ふわふわと柔らかそうな髪に、愛らしくて大きな瞳、ちょこちょこと動く仕草。
ほっといたら泣いてしまいそうな頼りないところや、無防備だけど警戒心もあって、でも一度心を開けば擦り寄ってきてくれるところ。
そのすべてが僕には小さなうさぎのように見えて仕方なかったから、以前もうさぎの置物を作ってこの子に渡した。
だから本心でそう言ったのに、セラの眉はすっかり下がりっぱなしだ。


『私がうさぎみたいってどういうこと?別にいいよ、無理に言い訳してくれなくても』

「本当に違うんだってば。僕が可愛いって思うのはセラだけだから。他の子のことなんてどうこう思うわけないし、ましてや可愛いなんて言うわけないよ」

『……うん……』

「うんって、ちゃんとわかってくれてるの?」

『大丈夫だよ、もうわかったから』


セラは優しいから、こんな時すらさほど責めることはしないで微笑んでくれる。
でもその笑顔にはどこか頼りなく、ほんの少しだけ不安が拭いきれないような、そんな表情に見えた。


「そんな顔させてごめん。僕があの子に余計なことを言わなければ良かったよね」

『ううん、それは総司の自由だから。私こそ、こんなことで子供みたいにやきもちやいて……ごめんなさい……』


そう言った直後に唇は震えて、それを隠すように俯いてしまうから僕は決意する。
セラを悲しませないように、僕はできる限りのことはしたいと思う。


「今からさっきの子に誤解を解いてくるよ」


そう言ってクローゼットの扉に手をかける。
でもいざ一歩踏み出そうとした時、細い指が僕の袖をきゅっと掴んだ。


『待って。そんなことしたら、おかしく思われちゃうよ』

「でもセラに心配かけたくないからさ」

『本当に大丈夫だから、私は気にしてないから』

「でも僕はセラのことが何よりも大事だから、このままは嫌なんだよね。そんな悲しそうな顔させたくないし」


その言葉にセラの瞳が大きく揺れる。
唇をかすかに噛みしめ少しだけ視線を逸らしたかと思うと、そっと爪先立ちになって僕の頬に柔らかな唇を押し当てた。

一瞬、何が起こったのかと時が止まる。
そんな僕の目の前でセラは静かに微笑み、そっと囁いた。


『他の子に可愛いっていう言葉、もう使わないって約束してくれたらそれでいいよ』

「うん、約束するよ。セラ以外にその言葉は絶対に使わない」


迷いなく言い切ると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
恥ずかしそうに頬を染めながらふわりと笑う様子が、あまりにも愛しくてどうしようもなくなる。


「本当にセラのことしか可愛いって思ってないから。それは信じて」

『それはどうなのかな』

「本当だよ。命懸けたっていいしね」

『それだと総司、今夜中に死んじゃうんじゃない?』

「ちょっと、それどういう意味?僕は本当にセラしか見てないよ。セラより可愛い子なんてこの世にいないしね」


はっきり伝えた言葉を聞いてセラの顔はまた赤く染まっていく。
でもいつものように曇りない笑顔を見せてくれたから、僕もつられて笑顔になった。


『あ……ハンカチ、取りに行かないとだね』


そう言ってクローゼットの扉に手を伸ばそうとするセラの腕を、思わず引き寄せる。


「待って」


ふわりとセラを抱きしめ、そのまま重ねた唇。
優しくなぞるように甘噛みしながら、何度も小さい唇にキスを落とした。


「……まだ、足りないかな」


最初は驚いたように身を固くしていたけど、次第にセラも力を抜いて僕に身体を預けてくれる。
そっと僕の制服の袖を掴む様子がまるで離れたくないと言っていくれているみたいで、僕の鼓動も早くなっていった。


「好きだよ」


唇を離すたびに囁く言葉に、セラの頬がどんどん染まっていく。
それでもセラは恥ずかしそうにしながらも、僕を見つめて微笑んでくれた。
どんなに時が経っても、何度生まれ変わっても、この愛しさは変わることがないだろうと思うほどだった。


「心配しなくても、僕が好きなのはセラだけだよ」

『本当?』

「勿論。ごめんね、不安にさせて」


セラはふるふると首を横に振る。
そして少し言いにくそうにしながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。


『不安になるのは総司のせいとか、周りがどうとかじゃなくて、私の問題だよ。総司のことが好きだから、少しだけ悲しくなっちゃたみたい。こんなでごめん』


僕だって同じだからこそ、セラの気持ちは理解できた。
セラが僕だけを見ているってわかっていても、誰かが彼女を見つめるたびに胸がざわつく。
理屈ではどうにもならないその感情を、未熟だと切り捨てて、気づかれないよう幾度も押し殺してきた。
でも何回それを繰り返してみても、セラが誰かと笑い合うたび、また心には嫉妬心が渦巻いてしまう。
そんなことはもう、嫌という程経験済みだった。

だからもしセラも同じように感じているのなら、どれだけ想いを伝え合っていても、心が揺れる瞬間はきっとあるのかもしれない。
そしてそれが誰かを想うということなんだとしたら、こういう感情も悪くはないと思えた。


「……そっか。セラがそんなふうに思ってくれてるなんて、僕は幸せ者かもしれないね」


セラの頬がほんのり赤く染まり、その表情を見ただけで幸福感に包まれる。
今はまだ素直に全てを曝け出したりは出来ないけど、せめてこの子の不安だけは拭えるような自分でいたいと思った。


「セラが不安に思った時は、僕に教えてよ。その時は僕が好きだってことをちゃんと君に伝えるし、安心できるまで何度でも言うよ」


セラの指先がそっと僕の袖を掴む。
そのか細い力がまるで無意識に僕を繋ぎとめようとしているみたいで、どうしようもなく愛しかった。


『そう言ってくれてありがとう。総司って優しいね』

「当たり前じゃない。セラにはもっと好きになってほしいしね」

『もうとっくに大好きだよ』

「まだ足りないって言ったら?」


セラはくすくす笑っていて、その笑顔にはすっかり曇りがなくなっていたから安堵する。


『私ばっかり好きになるのは嫌だよ。私だって、総司にもっと好きになってもらいたいもん』

「僕はこれ以上ないくらい君が好きなつもりなんだけど」

『私もね、これ以上ないくらい総司のことが好きって思ってたけどね。それでも毎日、もっと総司のことが好きになるよ。だから私のことも、もっと好きになっていいんですよ?』


照れくさそうに、少しふざけた素振りで言われた言葉があまりにも甘くて、心の奥まで沁み渡る。
求められることがこんなにも嬉しいなんて、今まで知らなかった。
セラが許してくれるなら、僕はどこまでも欲張りになってしまいそうだ。


「そう言うからには、その責任は取ってくれるんだよね」

『責任?』

「君のことをこんなに好きにさせた責任だよ」


細い腰を引き寄せると、セラは驚いたように目を見開く。
そのまま唇を奪って、それでもまだ足りないと小さな身体を引き寄せた。
こうして触れ合えることの幸せを噛み締めながら、可愛いく微笑みを浮かべるセラに繰り返し唇を落とす。
どうか彼女の気持ちがこれからも僕にありますようにと願わずにはいられなかった。

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