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昼下がりの光が、学院の敷地を柔らかく照らす中。
オリエンテーションは自由時間を迎え、学生たちは思い思いに過ごしている。
僕がセラと他愛ない話をしていると、不意に現れたはじめ君がセラに静かに声をかけた。
「セラ、少し時間があるなら、学院の図書館を見に行かないか?」
『図書館?』
セラは小首を傾げ、興味深そうに瞬きをする。
「以前、本が好きだと言っていたのを覚えている。学院の図書館は蔵書が多いらしいからな、一度見ておくといい」
初めて城で会った時から思っていたことだけど、はじめ君はセラを見つめる時だけはその瞳があたたかい。
口調すらいつになく柔らかくて、僕は一人苦笑いをこぼしていた。
『うん、とても楽しそう。行きたいな』
そう言って、セラは僕の同意を得るように僕を見上げる。
はじめ君の誘いに乗るのは面白くないけど、本好きのセラが楽しく過ごせるなら悪くない。
「じゃあ行こうか。セラが行くなら、僕もついていくよ」
「あんたは行く必要がないだろう」
「なんで?僕はセラの護衛騎士だし、一緒に行動するのは当然のことだと思うんだけど」
僕が軽く微笑むと、はじめ君は短く息を吐いた。
そして、眉を寄せたまま静かに言う。
「俺は剣術の腕であんたに劣るとは思っていない。護衛が必要だと言うのであれば、俺がその役割を引き受けよう。故にあんたが来なくても問題ないと思うが?」
はじめ君は僕がついてくるのは面白くないらしい。
まあ、はじめ君の気持ちはわかるよ。
セラと少しでも二人で過ごしたいんだろうね。
でもそんな提案には乗ってあげない。
僕はにこやかに微笑んだまま、さらりと言葉を返すことにした。
「僕は近藤さんから学院でもセラの安全を確保するよう言われてるんだ。だからはじめ君の独断でそんなことを言われても困るな。公爵閣下から直々に与えてもらった任務を、簡単に放棄するわけないじゃない」
言葉は穏やかでも、僕の意思は変わらない。
はじめ君は暫く沈黙したあと、小さなため息を吐き出していた。
『二人とも、仲良くしてね?』
セラが困ったように微笑んでいるけど、こればかりは難しい。
にっこりと微笑みを浮かべてみればはじめ君には視線を逸らされてしまったから、苦笑いをこぼした僕がいた。
学院の図書館は、想像以上に広かった。
高い書架が整然と並び、静寂に包まれた空間には、紙とインクの落ち着いた香りが漂っている。
その光景を前にして、セラはぱっと表情を輝かせた。
『すごい……こんなにたくさんの本があるんだ』
彼女の頬がほんのりと上気し、目をきらきらと輝かせている。
その嬉しそうな姿に、僕は思わず笑みをこぼした。
「気に入った?」
『うん、とっても。どうしよう、どこから見ようかな』
夢中になって書架を見上げるセラは、まるで宝石箱の中を覗き込む子どものようだった。
その様子を、はじめ君は穏やかな笑顔で見つめている。
僕はゆっくりとはじめ君の隣に立ち、ごく小さな声で囁いた。
「はじめ君ってさ、セラのこと大好きだよね」
「なっ、あんたは何を……」
「違うの?」
目を見開き、明らかに動揺しているはじめ君に、僕はわざとらしく首を傾げてみせた。
するとはじめ君は少し先を歩くセラの様子を気にしながらも、僕の制服のネクタイをぐいっと引っ張った。
「余計なことを言うな……!」
「えー?どうして?」
「あんたには関係のないことだ」
「関係あるよ。僕の大事なお嬢様だし」
さらりと言えば、はじめ君の眉がぴくりと動いた。
「あんたこそ、まさか他意があるわけではないだろうな?」
今度は、僕の目をじっと見つめる。
まるで真実を見抜こうとするかのように、インディゴ色の瞳は細められた。
「さあ、どうかな。どうだと思う?」
「はっきりしない物言いはやめろ。あんたがセラにどんな感情を持っていようと、騎士としての立場は変わらないはずだ」
「うん、そうなんだけどね」
わざと言葉を濁しながら笑みを深めると、はじめ君はますます警戒を強める。
「何が言いたい」
「何でもないよ。ただはじめ君がセラのことをどう思ってるのか、ちょっと確かめたかっただけかな」
「……くだらないことを聞くな」
彼はそう言い捨てると、セラの方へ視線を移した。
でも山南さんから聞いた過去の話を思い出せば、恐らくはじめ君はセラの隣に立つことは出来ない。
そしてそれは僕も同じだからこそ、自嘲気味た笑みをこぼしてセラを見つめた。
『んー……』
本棚を見上げていたセラが不意に振り返り、僕達を見つめる。
『何のお話ししてたの?』
純粋な瞳に見つめられて、僕はふっと微笑む。
「んー?たいしたことじゃないよ。ね、はじめ君?」
「ああ。他愛ない話をしていただけだ」
『そうなの?』
首を傾げるセラは、相変わらず無邪気で愛らしい。
はじめ君はそんなセラのそばで足を止めると、穏やかな声で問いかけた。
「セラは普段、どんな本を読むのだ?」
突然の問いかけにセラは少し考え込むように視線を巡らせたものほ、すぐに真面目な表情で答えた。
『歴史書や政治論の本はよく読むよ。それから、戦略や戦術について書かれたものも』
「戦略や戦術の書?」
意外だったのか、はじめ君がわずかに目を見開く。
『うん。騎士団の指揮を執る立場になるかもしれないから、知識だけでも備えておいたほうがいいと思って』
セラの慎ましくも聡明な声が、静かな図書館に心地よく響く。
まるで知識そのものを慈しむように語る姿は、彼女らしかった。
はじめ君は暫く黙り込んでいたけど、やがてふっと口元を緩めると、どこか懐かしむような柔らかな笑みを浮かべた。
「さすがだ。お前は昔から勤勉だったが、今も変わらず努力を怠らないのだな」
『えへへ……そんなことはないよ。でも、勉強するのは好きなの』
「いいことだな」
尊敬の念を滲ませながら感心する彼を、僕は静かに観察する。
まったく、はじめ君はセラのことが好きで仕方ないみたいだけど。
だからこそ、少し意地悪をしたくなる僕がいる。
「でもセラはよく、ロマンス小説も読んでるよね」
僕が軽い口調で言うと、セラの大きな瞳が見開かれた。
『えっと、それは……たまにでしょ?』
普段の上品な声音とは打って変わって、どこか気まずそうな小声で返す彼女。
その頬が僅かに赤く染まっていくのを見て、僕は小さく笑いそうになる。
「そう?よく読んでるから、セラは恋愛に関してすごい知識が豊富なのかと思ってたけど」
何気なくそう続けると、セラはみるみるうちに頬を赤らめるし、はじめ君まで少し驚いたように彼女を見つめた。
「そうなのか?」
『え?違うよ。私ただ物語として楽しんでるだけで……』
「前に君がどんな本を読んでるのか見せてもらったけど、三冊ともロマンス小説だったよね。題名はなんだっけ。確か、ロンドン橋で抱きしめて、とか」
『あの時は偶然そうだったけど、別にいつもそういう本を読んでるわけじゃ』
「えー?でも寝る前はいつも読んでるって君が言ってなかった?」
『え……?』
追い詰められた彼女は、困ったように視線を泳がせる。
「ははっ、そんなに慌てなくてもいいのに」
『もう……総司、意地悪だよ……』
困り果てたように唇を尖らせるセラがあまりにも可愛らしくて、ついからかいたくなってしまう。
でも僕を少し睨みつけると、ぷいっと背を向けて歩き出してしまった。
でもふと背筋に嫌な予感が走り、咄嗟に視線を巡らせると、セラの背後にある巨大な本棚がぐらりと不自然に傾いていた。
誰かが無理に高い位置の本を引き抜いたのか、それとも積み上げられた書物の重みでバランスを崩したのか。
いずれにせよ、このままではセラの上に倒れてくることは明確だった。
「セラ!」
僕が駆け出したのとほぼ同時に、はじめ君も動いた。
ドンッ、と背中を押される感覚。
でも、それだけでは間に合わない。
僕達は迷わずセラを庇うように腕を伸ばし、その小さな身体を抱き寄せた。
直後、轟音とともに巨大な本棚が倒れ、大量の分厚い本が雪崩のように降り注ぐ。
鈍い衝撃が背中を打ちつけ、息が詰まりそうなほどの重みがのし掛かる。
それでも、腕の中にいるセラだけは絶対に護らなければと、僕は歯を食いしばった。
「……っ、大丈夫?」
本棚の向こう側では、数人の生徒が慌てふためきながらこちらを見ている。
彼らの足元には小さな台車が転がっていた。
どうやら台車の上に積まれていた本がバランスを崩して崩落し、その衝撃が棚の支えを緩ませてしまったらしい。
セラは僕の胸にしがみつき、小さく震えていた。
「セラ、どこか痛むところは?」
僕とはじめ君でなんとか本棚を元に戻して尋ねると、セラはかすかに顔を上げた。
彼女の額に薄く血が滲んでいるのが見えだから、すぐに彼女の頬に手を添えて、傷の具合を確かめる。
『大丈夫だよ』
彼女はかすれた声でそう呟いたけど、額に滲む血が大丈夫ではないことを物語っている。
「ごめん、護れなくて」
「俺もすまなかった。応急処置が必要だな」
『ふふ、私は本当に大丈夫だよ。ごめんね、二人こそ大丈夫?』
「平気だよ」
「平気だ」
僕達の声が被り、僕とはじめ君は思わず顔を見合わせる。
セラはくすりと笑って、僕達を嬉しそうに見上げた。
『助けてくれてありがとう。私は二人のお陰で本当に大丈夫だよ』
微笑む顔を見れば少し安堵するものの、取り出したハンカチをそっとセラの額にある傷口にあてる。
「痛い?」
『全然。総司とはじめは本当に大丈夫なの?』
「問題ないよ」
「問題ない」
またしても言葉が被り、互いに顔を見合わせてしまう。
僕が思わず吹き出せば、はじめ君も僅かに微笑んでいた。
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