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テストや文化祭が近づいてくる中、今夜は星界学で出された夜間課題に取り組むため、私と総司は夜の学院へ出向くことになった。
日が沈んでから時間が経ったせいか、城の石畳にはほんのりと冷えが降りていて、夜気に触れるたびに肌がわずかに震える。
そんな中、玄関ホールの前には私達を見送るためにお父様と山南さん、それに山崎さんが揃って立っていた。
皆、お仕事の合間を縫って待っていてくれたんだろう。
お父様は腕を組み、やや仰々しい表情で佇んでいた。
「この時間から学院へ出るとは、大変だな」
眉を少し下げたお父様は、私の足元から視線を這わせるようにしてじっと見つめた。
「少し薄着じゃないか?夜は冷えるから、これを羽織っていきなさい」
柔らかなローブを私の肩にふわりと掛けてくれるお父様の手は大きくてあたたかい。
城の侍従に持たせていたそのローブは深い紺に銀糸の縁取りがされた上品なもので、夜の学院の空気にもよく馴染みそうだった。
『ありがとうございます、お父様』
「ああ、それよりも遅くならないようにしてくれ。夜は特に何があるか分からないからな」
お父様の横で山南さんが、ふっと微笑を浮かべて補足するように続けた。
「どうかお気をつけて。学院の展望庭園は風が強くなりますので、あまり長く屋外にいらっしゃらぬように。防寒には気を配ってくださいね」
『はい。気をつけます』
山南さんは優しい声音ながら、どこかいつもより少し心配そうに見えた。
そして山崎さんは、私の隣に控えていた総司をちらりと見てから、わずかに口調を強めて言った。
「沖田さん、お嬢様をお護りするのはあなたです。くれぐれも過信せず、慎重に行動を」
「はい、僕に任せてください。何があってもセラを一人にはしませんよ」
そうきっぱりと答える総司の声は冷静で頼もしくて、けれど私にはほんの僅かに滲む緊張がわかった。
そんな私達の様子をお父様は静かに見つめたまま、ふと目を細めて総司に声をかけた。
「頼んだぞ、総司。この子は寒くても笑ってるような子だ。風邪を引かないよう気を配ってやって欲しい」
「ええ。わかりました、近藤さん」
『あの……私は大丈夫ですから。あまり心配しすぎないでくださいね』
「とは言ってもこんな時間から外出なんて心配なのだ。見送らないわけにもいかんだろう」
お父様の言葉には山南さんも笑みを浮かべ、山崎さんも小さく頷いていた。
「では、そろそろ行きますね。行ってまいります」
『行ってまいります、お父様。山南さん、山崎さんも』
「うむ。気をつけてな」
「お気をつけて」
「行ってらっしゃいませ」
玄関の扉が開かれ、外の夜気が肌に触れた。
冷たいはずなのに背中に掛けられたローブがあたたかくて、少しだけ心が落ち着く。
隣を歩く総司の横顔は月明かりに照らされていて綺麗だった。
『ふふ』
馬車に乗り込み、真っ暗な夜道を眺めていると新鮮でドキドキする。
横に総司がいて、こんな時間にお屋敷以外の場所で二人きり。
こんな経験はもう早々ないと思うから、嬉しくて頬が緩んだ。
「なんだか楽しそうだね」
『うん、今凄く楽しい』
「ははっ、そんなに天体観測が楽しみ?」
『それもあるけど、こうやって総司と夜に二人で出掛けられることが嬉しいの』
「確かに新鮮だよね」
『でしょう?なんだか悪いことしてる気分。駆け落ちしてるみたいじゃない?』
思ったことを素直に口にすると、総司は目を瞬いてから笑い出した。
「あははっ、何言ってるのさ。こんな堂々とした駆け落ちは中々ないと思うけどね」
『勿論そうなんだけど……』
「本当に君と駆け落ちするとなったら、馬車は使えないかな。馬一頭と最低限の荷物、それに君を乗せて夜道を走るようになると思うよ」
『そうなの?』
「当たり前じゃない。馬車でゆっくり呑気に向かってたら追っ手にすぐ捕まっちゃうでしょ?」
『あ、確かに』
「君の頭の中の駆け落ちは随分のんびりとしてそうだね。旅行と勘違いしてるんじゃない?」
『もう、そんなことないもん』
そう言いながらも、確かに駆け落ちなんて自分とは無縁のような気がして具体的に考えたことはない。
総司は窓の外に流れていく景色を横目にしながら、片肘を窓辺に預けてくすくすと喉の奥で笑っていた。
「じゃあ、君の駆け落ち計画をもう少し現実的に練ってみようか。まず足の速い馬を選んで、街道じゃなく森を抜ける必要があるよね。できれば月の出ていない夜に出発したいし」
『そんなに具体的なの?』
「うん。君を連れ出すときに必要になるかもしれないから、今からちゃんと考えておかないとね」
さらりとそう言う総司の声はいつもと同じ柔らかさなのに、不意に心臓が跳ねた。
冗談のはずなのに総司は時々こうして何でもない顔で真剣な音色を混ぜてくる。
『その時は、ちゃんと私も自分で走るよ。だいぶ乗馬にも慣れてきたから』
「だめだよ、君のことは僕に護らせて。危ないことは全部僕がやるから、君は僕の後ろにいてくれればいいです」
その一言や頭にそっと置かれた手が胸の奥をじんわりと温める。
気づけば私はそっと総司の袖を摘んで、小さく呟いた。
『今日は駆け落ちじゃないけど、やっぱり凄い嬉しい。馬車の音も窓の外の風の音も全部、いつもよりずっと心地良く感じる気がする』
「うん。僕も今の時間がすごく好きだよ」
総司はそう言ってから、ちらりとカーテンを開けて前方を盗み見る。
御者の背が影になっているけど、私達の小さな声は当たり前だけど届いていない。
総司はそれを確認すると、そっと私の方へと身体を傾けてきた。
「ねえ、セラ」
『なに?』
「小さい声でしか話せないから、ご褒美ひとつだけもらっていい?」
耳元で囁かれたその声は、くすぐったくて思わず笑ってしまう。
『なにが欲しいの?』
「わかるでしょ?」
総司の瞳は柔らかく細められ、総司の親指の腹がそっと私の唇を撫でる。
思わず唇を結んだけど、その温もりを待ち侘びるように何も話すことが出来なかった。
それを了承と受け取ったのか、総司はそっと顔を寄せてきた。
彼の指が今度は私の頬に触れて、音も気配も立てないままそっと唇が重ねられる。
触れたのは一瞬だったのに、長い時間世界が止まったみたいに感じた。
「ありがと。今夜はすごくいい夜になりそうだね」
『……うん。綺麗な星空たくさん見れるかな?』
「星もいいけど、僕はセラを観測しようかな」
『私を観測しても何もないでしょ?』
「わからないよ。まだまだ僕の知らないセラを知ることができるかもしれないし」
『ふふ、私はもう総司に全部見せてるつもりだけどね』
そう言った後、頬が熱くなるのが分かった。
だって全部という言葉にはあまりにも多くの意味が含まれていて、恥ずかしいくらい私の全部はもう総司の中にある気がしたから。
他の人には見せられない泣き顔も、他の人には言えない甘えやわがままも、総司には隠さず見せてしまってる。
でもそんな私の情けない部分を知っても、好きだと言ってもらえることが嬉しかった。
「そうだね。僕もセラのことはよくわかってるつもりだよ。ずっとセラのことだけ見てきたからさ。でも知ってると思っても、君って時々それを軽々と越えてくるから侮れないんだよ」
『え?そう?』
「泣き顔も、拗ねた顔も、意地を張るとこも、君の弱さも、そのどれもが僕には可愛くて仕方ないんだよね。だからどんな君でも知りたいって、どんどん欲が出てくるから困るけど」
そんな風に思ってもらえることは嬉しくもあり、恥ずかしくもある。
本当に一つも残さず総司にさらけ出したとしても、総司は私のことを好きなままでいてくれるのかな。
『そう思ってもらえて嬉しいな……』
静かな馬車の中。
声を潜めながらも心の奥まで届くような総司の言葉は、また心に積もって私の中で大切な宝物になる。
夜の澄んだ空気や空に瞬く星と一緒に、優しく胸を満たしていくようだった。
街灯の光が遠のくほどに澄んでいく空。
そして窓の外に瞬く星々と、横にいる総司のあたたかな気配。
全部が今日という一夜を、特別なものにしてくれていた。
『私ね、総司に言ってもらった言葉とか、優しさとか……そういうの全部、忘れたくないって思ってるんだ。今言ってくれたことも本当に嬉しかったから、私、絶対に忘れないね』
そう口にしたとき、隣にいた総司の瞳がふいに揺れた。
ほんの一瞬だったけど確かに揺らいだ気がして、私は思わず小首を傾げた。
『総司?』
私がその名前を口にすると、総司は私をふわりと抱き寄せる。
腕にぎゅっと力が込められると、優しい声が耳元に届いた。
「僕も忘れないよ。もし君が僕とのことを忘れてしまったとしても、僕が君の代わりに全部覚えてるから」
『ふふ、忘れないって言ってるのに』
「でも大事なことだよ。もし君が忘れても、僕がちゃんと覚えてれば失われることはないでしょ?」
『うん、そうだね。ありがとう、総司』
「セラに出会ってから、僕は大切なものばかり増えたんだ。だから僕の方こそ感謝してるよ」
総司があまりにも優しいことを言うから、私の瞳は次第にぼやけてしまった。
あまり泣きたくはないからそれをグッと堪えていると、総司は私の顔を覗き込んで笑っていた。
「ははっ、また泣きそうになってる」
『だって総司が優し過ぎるからだよ』
「僕はいつも優しいでしょ?」
『優しいけど……最近優しくされ過ぎてちょっと困るんだよね』
ため息混じりにそう言った私の言葉を聞いて、総司はまた笑ってる。
こうして隣に座っていられるだけで、胸がいっぱいになって。
夜の闇に包まれた馬車の中は、世界でいちばん甘くて幸せな場所になった。
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