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天体観測が行われる夜。
学院の裏手にある天文台跡地の展望庭園は、星界学の生徒だけに開放されていた。
古い石畳の小道の先、鬱蒼と茂る樹木に囲まれた小高い丘の上に、昔の観測塔の基礎だけが残された開けた円形の広場がある。
今はもう使われていないその場所は、視界を遮るものが何ひとつなく頭上いっぱいに夜空が広がっていた。


『……わあ、すごい』


望遠鏡を担いでいる僕の隣で、セラはその場に立ち止まったまま歓喜の声をあげた。
吸い込まれそうなほど濃く深い夜の藍に、くっきりと瞬いている星々。
不思議と寒くはなく、冷えた空気が僕に開放感を与えてくれているようだった。


「空気が澄んでるから、今夜は観測日和だね」

『うん、とっても綺麗』

「星が綺麗なのかセラが綺麗なのか、ちょっと迷うところだけどね」

『もう、からかわないで。今は真面目な時間なの』

「ははっ、ごめん」


僕の隣で小さく吐息をついて夜空を見上げるその横顔を盗み見るたび、胸の奥が甘く切なく締めつけられる気がした。

セラとこうして星を見上げるのは、いったい何度目になるだろう。
一度目の世界で迎えた聖夜も、記憶を失った君と並んで見た空も。
王宮に行く前夜、手を離さずに見つめたあの夜空も、僕は一つ残らず覚えてる。
それ以外にも君と過ごした思い出は数えきれないほどあって、どれだけ君を好きになって、どれだけの時間と記憶を胸に抱えて君を追いかけてきたのか、もう言葉にはできない。

だからこそ「絶対に忘れない」と言ったセラの言葉に胸が軋んだ。
その言葉が優しいほどに、どれだけ君が何も覚えていないかを思い知らされるから。

それでも……


『見て、総司』


セラの声が弾んで、僕の袖をきゅっと引いた。
顔を上げればセラが指差す先、星の海の中にふたつの明るい星が寄り添って瞬いている。


『見える?あの星……寄り添ってるみたい。まるでずっと一緒にいたいって言ってるみたいだよね』


そう言って僕を振り返るセラの瞳は、夜空よりもずっと澄んでいてやさしい光を帯びていた。


「それ、ふたご座の星だよ。カストルとポルックスって言うんだ」

『カストルとポルックス?可愛い名前だね』

「ギリシャ神話に出てくる双子でね。血の繋がらない兄弟だったんだけど、一人が死ぬともう片方も一緒にいられないなら意味がないって言って、神様に願って二人で星になったんだ」

『そんなに大切に想い合っていたんだね』

「うん。星になってまでずっと一緒にいたかったんだって。切ないけどいい話だよね」


セラは空を見上げたまま、小さく「素敵だね」と呟いた。
その声が夜気に溶けるように響いた後、セラは僕を見てふわりと笑った。
その微笑みがあまりにも綺麗で、胸の奥に残っていた痛みが一瞬にして溶けていくのが分かった。

きっと僕はこの笑顔のために、何度も過去へ戻ったんだろう。
セラがこうして笑ってくれる、ただその一瞬のために。
時間を巻き戻してでも何度でも君に会いに来たのは、それほどまでに君の存在は僕の人生のすべてになっていたからだ。


『私もこの星と一緒の気持ちだよ』


少し離れたところには同じ星界学を履修している生徒達がいる。
だからこそセラは僕にだけ聞こえる小さい声で僕に言った。
甘えたように僕を見上げる眼差しは柔らかくて、愛らしい瞳に見つめられる度に何度この身を焦がしたかわからない。


「僕も同じだよ」


この空の下で一緒に星を見て同じことを思ってくれているだけで幸せだ。
こうしてまた僕の隣で微笑んでくれることが堪らなく嬉しい。


『ずっとこの時間が続けばいいな』


僕達は星空を見上げた。
寄り添うように光るあのふたつの星は、まるで本当に僕達の姿みたいで、この星達のように僕達も永遠に一緒にいられたらいいと思ってしまった。


それから僕達は課題を取り組むために観測場所を定め、観測用のブックレットとノートを広げて黙々と作業を進めていた。

今夜の課題は、オリオン座・ふたご座・おうし座に位置する主星、ベテルギウス・カストル・アルデバランの南中時刻と仰角差から、観測地点の緯度を導き出せというものだった。
要は南中高度を測り、それと星の赤緯を使って三角関数でこの場所の緯度を求めるというちょっとした天体測量だ。

僕は計算が得意だったから、セラの観測結果をもとにベテルギウスとアルデバランの南中高度差を出し、標準時との差から時角を算出していく。
小さな電卓を手に何度も角度と時間を照合しながら、ノートに計算を並べていった。


『この角度のズレが、北緯に関係するんだよね?』

「うん。地球の傾きと星の赤緯、それに観測点の地平線との関係でね。この誤差なら誤差範囲に収まりそうかな」


セラの書いたデータはとても丁寧で補助線を引いたようにノートも見やすい。
僕が計算に集中できるのはセラのまとめ方のおかげでもあった。
しばらくして、セラがふと思い出したように顔を上げた。


『殿下の分も、私達で進めておく?』

「えー?なんで王太子のために?」


思わず口を尖らせた僕に、セラは困ったように微笑む。


『でもグループで協力し合う課題だから。全部ひとりで仕上げるのはきっと大変だと思うよ』

「まあね。後から手伝えとか言われる方がよっぽど面倒か」


渋々とため息をついたけど、内心ではセラの誰かの立場まで考えて行動できるところに、僕は昔から惹かれていた。
任務が立て込んでいる時、セラはどの世界でも僕の課題を手伝ってくれていたよね。


「じゃあ、殿下用にもう一枚ノートを作るね。計算は僕がやるよ」

『ありがとう、総司。私はまた図と補足をまとめておくね』


僕はノートの端に計算用のページを作り、王太子の分も別に書き出していく。
星の位置は今夜だけのものだ。
だから観測データも時間と共にずれていくし、数値の正確さが求められる。
でもこういったことは僕の得意分野だった。

セラも丁寧な手つきで色鉛筆を取り出し、カストルとベテルギウス、アルデバランの位置関係を小さな図にまとめ始めた。
色を分けて注釈を添え、理論の補足も加えられたそれはまるで一枚の天体図。
星座の配置図みたいにわかりやすくて、正直僕一人じゃこうは仕上げられない。


「ほんと、セラのまとめ方ってわかりやすいよね」

『えへへ。総司の計算が完璧だから、安心して書けるんだよ』


その笑顔を見て、嬉しくなった。
そうして課題が終わりかけた頃、遠くの道から足音がして僕はちらりと顔を上げた。


『あ、殿下』

「悪い、公務が立て込んでて思ったより遅れた」


王太子は肩にかかったマントを軽く払って、こちらへ歩いてくる。
少し疲れた様子だけど、王太子は軽く額に汗をにじませながら手にした手帳を開こうとして、僕らの前に置かれたノートに目を落とし、僅かに目を見開いた。


「……これ、まさか」

「セラが殿下の分もって言い出したんですよ」


僕はやや不満げな声で答えたけど、視線の先では王太子がノートを手に取りじっと見つめている。


「すごく分かりやすいな。角度の図と式の関係がすぐに見て取れる。これ、お前たちで?」

『私がまとめて、計算は全部総司がしてくれたんです』

「すごいな。まるで天文院の記録書みたいだ。数式も正解だし無駄がない」

『ふふ、私と総司で頑張りましたよ』

「僕達、こういうの得意なんですよね」


セラが少し得意げに僕を見る。
僕はその横顔をちらりと見て、口元だけで小さく笑った。


「ありがとう。助かった」


その声はいつになく素直で、飾り気のない本物の礼のように聞こえた。
前の世界での王太子を思い出せばどうにも変な気分だけど、僕は僅かな沈黙の後、わざとらしく言葉を継いだ。


「いえいえ。お礼は、そうですね……王宮の温室で育ててる星露茶ひと壜でいいですよ。あれ一度飲んでみたかったんですよね」


セラがくすっと笑いを漏らし、王太子は明らかに呆れた顔で僕を見た。


「沖田、お前はどれだけ図々しいんだよ。あれは希少だから王族の客人にも滅多に出さないって知ってるだろ」

「でもこの課題はそれくらいの価値はあると思うんですけどね。星の観測データをここまで正確に処理するの、意外と時間かかったんですよ。ね、セラ」

『うん。観測の記録も二人で見直して、誤差が出ないように何度も計算したんだよね』

「そういうことなんで、せめてお茶くらいあってもバチは当たらないと思うんですけどね」


僕がそう言い切ると、セラが小さく吹き出した。
王太子も、半ば呆れながらも口元だけで笑う。


「……まったく、お前達といると調子が狂うな」

「じゃあそれ、褒め言葉ってことで受け取っておきます」

『ふふ』


三人で笑い合うなんて、少し前の僕なら考えられなかった。
ましてや王太子と肩を並べて話すなんて。
でもこうして並んで空を見上げ笑っているセラの姿を見ていると、彼女に優しい空気が流れていることが今は何より大切な気がした。


「ところで殿下。課題の残り、感想文だけですよ」

『明日までですよね?もしよければ、私が書いたものを見本に残しておきますけど』

「まさかそこまで用意されてるとはね」

「でも写すときは文体を変えた方がいいですよ。セラの書き方、すぐバレますから」

『そんな言い方しなくても……。でも本当に全て同じだと困るので少し崩しておきますね』


僕たちのやりとりに、王太子は思わず笑って肩をすくめてみせた。


「じゃあせめて星露茶は無理でも紅茶くらいで許してくれ。沖田が文句言いそうだから、王室御用達のものを手配しとく」

「それは楽しみですね。じゃあ、殿下の顔を立ててそれで手を打ちます」

『ふふ、取引成立ですね』


遠くで他のグループの笑い声が聞こえた。
寒いはずの冬の夜なのに、不思議とこの場だけは温かかった。

星空の下で見上げるふたご座は、今日も変わらず寄り添って輝いている。
その光を見つめながら僕はふと願っていた。
この夜の穏やかさが少しでも長く続きますようにと。

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