6
課題がすべて終わった頃、私はそっと鞄を開いてひとつの水筒を取り出した。
夜風は思っていたよりも冷たくて、手先がかじかむくらい。
だから少しでもみんなの身体が温まればと思って、こっそり用意しておいた。
『温かい飲み物、持ってきたんです。良かったら帰る前に皆で飲んでいきましょう?』
総司と殿下の少し嬉しそうな視線がちょっとくすぐったくて、私は水筒を胸に抱えたまま微笑んだ。
でもすぐに気づいてしまったことは、カップがひとつしかない。
慌てて鞄の中をもう一度探ったけど、入っていたのは手のひらにすっぽり収まる小さな銀のカップがひとつだけ。
『あ、カップがありませんでした……』
思わず漏れた声に、殿下が苦笑を浮かべた。
「お前は気が利くんだか利かないんだか、よくわからないね」
『ごめんなさい、うっかりしていました……』
俯きかけた私のすぐそばで、総司の声が軽く割って入る。
「セラを虐めないでくださいよ、殿下」
「俺は虐めてはいない、事実を言っただけだ」
「この子を泣かせたら、いくら殿下でも許しませんよ」
総司は言いながら、私の頭をぽんと軽く撫でてくれる。
そんな私達を横目で見ていた殿下は呆れたようにため息を吐いて、少し気怠そうに立ち上がった。
「まったく……お前はほんとおせっかいな犬だな、沖田」
「忠犬って言ってください。セラにはいつだって忠実ですからね、僕」
「よく言うよ、お前だってよくセラをからかって遊んでるじゃないか」
「僕はいいんですよ」
『もう……おふたりとも、やめて……』
困ってそう言うと、殿下が私を見て少し目を細めた。
「カップ、探してくる。カフェテリアの裏に予備があったはずだ」
『え?いえ、それは私が持ってきますので殿下は……』
「今日はお前達に借りがあるから、特別に俺が動いてやってもいい。なにより寒いだろ。待ってなよ」
そう言い残して、殿下は夜の広場を足早に去っていく。
その後ろ姿をぼんやり見送ってから、私はそっと総司の顔を見上げた。
『殿下って……そんなに悪い人ではなさそうだよね?』
私がぽつりと呟くと、隣で総司がふっと鼻を鳴らす。
「そう決めつけるのは、まだ早いと思うけど?」
『……うん。もちろんこれからもちゃんと気をつけるよ』
「そうして」
それきり会話は終わって、静かな空気が戻る。
総司はそっぽを向いたまま何も話してくれなくなったから、視線を落としたまま水筒をそっと抱きしめた。
なんでもいい、何か総司と話していたくて、総司の横顔をちらっとまた見上げてみる。
「なに?」
『ううん。今日、楽しかったね?』
「楽しかったね、途中までは」
『もう……またそんな言い方』
「仕方ないじゃない、心配なんだよ」
総司はきっと、殿下のことを嫌ってるわけじゃない。
ただ私のことを心配してくれているのだとわかった。
だからこそ心からは楽しめないし、私が無防備にならないようにずっと気を張ってくれている。
殿下に向かって軽口を叩くのも、わざとそんなふうにして私を庇おうとしてくれているのだろう。
『……ありがとう』
そっとつぶやいた言葉に、総司はほんの少し目を丸くしてすぐに優しく笑った。
「何に対してのお礼なの、それ」
『総司が私のこといつも気にかけてくれるから、ありがたいなって思ったの』
「お礼を言われることじゃないよ。僕が好きでそうしてるだけだしね」
短く笑った総司が、そっと水筒を受け取る。
「まだ温かいね」
『ね。夜は寒いから、ちょっとでも温まるといいなと思ったの』
「優しいね、セラは」
そんなふうに言われると、胸がくすぐったくて、私はちょっとだけ顔を伏せた。
『優しいのは総司の方だよ』
総司のようなさりげない優しさは、表立って優しい行為よりも更に優しく感じてしまう。
私はいつもそんな総司の優しさに救われてきたんだよね。
「やれやれ……見つけるの、案外手間取ったぞ」
石畳を踏む足音が近づいてきて、殿下が私達の元へと戻ってくる。
彼が手に提げていたのは、小さな金属製のカップが二つ。
取っ手がついた、備品らしい質素なつくりのものだった。
『ありがとうございます、殿下。寒かったですよね?』
「別にこれくらいどうってことない」
そう言いながらも殿下の指先は赤くなっていて、私はそっと彼に湯気の立つお茶を差し出した。
「いい香りだな。これはなに?」
『はちみつと、ほんの少しジンジャーを混ぜた紅茶です』
「へえ、悪くないね」
そう言って、殿下はカップを軽く傾ける。
私も総司も温かいお茶を手にして、それぞれがそれに口をつけた。
紅茶をひと口飲むと、ほのかな蜂蜜の甘さが舌に残った。
冷たい空気の中に、ジンジャーの香りがやさしく広がっていく。
頭上には無数の星々。
その明るさにふと息を呑んだ。
殿下も空を見上げていたけど、視線はどこか遠く星の向こうを見ているようにさえ思えた。
「こういう時間に、慣れていないんだ」
『慣れていない、とは?』
「静けさにだよ。何もしなくていい時間は時々不安になる。取り残されてるような、そんな気がするって言えばいいのかな」
私は少し考えながら、紅茶を見下ろした。
湯気がゆらゆらと昇っては消えていく様子を見つめていると、今度は総司が口を開いた。
「何かしていないと落ち着かないっていうのは、それだけ殿下が重い責任を背負っていらっしゃるからじゃないですか?」
「それもある。けど、責任よりも証明し続けなければならない、という意識の方が強いのかもしれない。自分がここにいる意味を常に示し続けろと教わってきた。生まれた時からずっとね」
「僕も似たような境遇で育ってきたんで、なんとなくその窮屈さはわかる気がしますよ」
「窮屈か。確かにそうかもね。でもそれ以上に、自分が自分でなくなっていく感じがあるんだ。見られている目が多いほど、輪郭がぼやけていく。何を選んでも誰かの意図を背負わされるようで、それが自分の意志だったのか、ただ期待に応えただけなのかわからなくなるっていうね」
殿下の言葉にかすかに滲んでいたのは孤独だった。
きっと、上に立つ者には上にいる者だけの重荷があるのだろう。
総司が以前話してくれた子ども時代のことを思い出しても正にそう。
何かを得るたびに、代わりに何かを失っていたような……そんな記憶の断片のような気がした。
周囲の評価に晒されて、自分の輪郭すら見失いそうになる日々。
私ですら時折感じてしまう不安を、きっとお二人は常に背負って生きてきたんだと思う。
その苦しみのすべてを理解することはできないけど、ただ一つ、伝えたくて口を開いた。
『夜空の星って、どこにあっても自分の位置を変えたりしないのに、人から見ると名前も意味もすぐに変わってしまいますよね。昔の人たちは同じ星を神様にしたり、道しるべにしたり、運命の象徴にしたり……でも星そのものはきっと何も変わらず、ただそこにあるだけです』
少し間を置いて、私はゆっくり言葉を重ねた。
『だから……誰かに名前をつけられたり意味を押しつけられたとしても、自分の軸を失わずに輝き続けられたらそれってすごく強くて美しいことだと思うんです。そしてそれが、本当のその人自身だと私は思います』
少なからず私も周りの人からどう思われているのか、何を求められているのか……考え過ぎて自分自身がわからなくなる時がある。
でも心の奥底にぶれない大切な芯があれば、いくら迷ってもまた自分の道を進むことができる。
それを繰り返して今の私が作られたように感じていた。
「お前はそういうふうに考えるのか」
『はい、そう思いたいだけですが』
「そういう考え方、セラらしいよね」
総司の声は静かだったけど、柔らかく微笑む顔にはあたたかみが宿っていた。
「僕も時々分からなくなるときがあるんですよね。自分がどう見られてるのかとか、どうあるべきかとか。でも誰かが言葉をかけてくれると、ふっと自分の形が浮かぶことがあって。そんな時、その人の言葉が無性に大切に思えるんです」
殿下は黙って夜空を見上げていた。
その横顔は端正で整っていて、それなのにどこか寂しそうな影を背負っているようにも見える。
しばらくして手元のカップを軽く傾け、ふっと息を吐くように呟いた
「あーあ。お前たちとこんな会話をする日が来るとはね」
その声音には、かすかに笑みが混じっていた。
けれどそれは誰かを嘲るような笑いではなく、自分でも驚いているといったような、どこか静かな自嘲だった。
「僕は嬉しいですよ。殿下が弱音を吐いてくれて」
「は?俺は弱音なんて吐いていない。ただ少し思ったことを口にしただけだ」
「そうですか?気持ち悪いくらい、しんみりしてましたけど」
その言い方があまりにあっさりしていて、私は目を瞬き、殿下は瞳を細めた。
「お前……俺にそんな口をきくなんて、いい度胸してるね」
「いや、敬意は持ってますよ。殿下がもし剣を抜いたら、僕は多分、歯向かわずに逃げますし」
『ふふ』
思わず笑ってしまった私に、二人の視線が向けられる。
殿下は少し眉を上げ、総司は少しだけ困ったように頬を掻いた。
『ごめんなさい。でもなんだか面白くて』
「俺は全然面白くないんだけど」
『でも総司は割と誰に対してもこのような感じなんです。殿下も早く慣れるといいですね?』
「慣れるといいですねって……。お前も大概どうかしてるよ」
「僕達はいつもこうなんで、殿下と話しててもどうしても冗談の一つや二つ言いたくなるんですよ。刺されない程度に、ですけど」
「本当に一度くらい、試してみるか?俺の本気の怒りというやつを」
「勘弁してくださいって。せっかく綺麗な星空なんですから」
二人の応酬に、またふっと笑ってしまった。
他愛のないやりとりが心地よくて、あたたかくて、どこか安心できるもののように感じられた。
でも、そのときだった。
ふいに空の一角をすっと白い光が横切った。
『……あっ』
思わず声が出る。
夜空に一瞬の煌めき。
細く、白く、鋭く流れる星の軌跡。
私は慌てて両手を胸の前で組んで、ぎゅっと目を閉じた。
『えっと……ええと……願い事……願い事……』
必死に心の中で言葉を探して、私がやっとの思いで唱えたのは、みんなが幸せでいられますように。
漠然としているけど、それでも本気で願った。
叶いますようにって。
満足して目を開けると、総司と殿下がふたりしてじっとこちらを見ている。
総司は肩を揺らして笑っていて、殿下はあきれたように眉を少し寄せていた。
「あっはは、すっごい慌てて願い事してたね。今の必死な顔、忘れられないかな」
「何をそんなに焦っていたのか、理解に苦しむけど」
『だって流れ星って一瞬なんです。間に合うかどうかわからなくて……』
私が恥ずかしさを誤魔化すように口をとがらせると、総司が目を細めて覗き込む。
「ねえ、ちゃんと願えたの?それとも願い事、願い事って繰り返してるうちに終わっちゃった?」
『ちゃんと願えたよ、心の中で』
「そっか、それならよかったね」
総司はふっと笑って、それ以上は聞かずに空へ視線を戻した。
「あんなのに縋ったところで願いなんて叶うはずないだろ。馬鹿だね」
『……殿下、ひどいです。信じる気持ちは大事だと思いますよ?』
「俺は事実を言ったまでだ。けど、まあ別に責めているわけじゃない。あんな一瞬に願いを託そうとするなんて、ある意味馬鹿正直で羨ましくもある」
『それ、いい意味で言って頂けてるのでしょうか……』
私が眉尻を下げて聞いてみても、殿下はふいっと顔を逸らす。
でも彼の言葉はどこか皮肉混じりではあったものの、冷たいものではなかった。
総司は紅茶のカップを手にしながら、殿下をちらりと見て何も言わない。
それでもその横顔には、ほんの少しだけやわらかな色が浮かんでいた。
私もそっと空を見上げる。
流れ星はもう消えていたけど、願いを託したその一瞬が、心にまだあたたかく残っているようだった。
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