3

僕達が乗馬を楽しんでいると、暫くして王太子がふと馬を止める。
その視線の先を見れば、誰かがこちらへ歩いて来ているようだった。


「あれ?」

『どうかされたんですか?』

「千鶴が来たみたいだ」


その聞きたくもない名前を耳にして、僕の手綱を持つ手に力が入った。


『王女殿下ですか?』

「ああ。ちょうどいい機会だ、妹のこと紹介するよ」


王太子と関わることで危惧していたのは、王太子がセラに想いを寄せることだけじゃない。
あの悪魔のような王女とも面識を持たなければならない日がいつか来るのではないかと不安に思っていた。
そしてついにそのタイミングが来て、僕は思わず黙り込む。
やっぱりこんな場所に来るべきじゃなかったと、僕はまた一つ後悔を重ねた。


『総司?降りないの?』


馬上の僕の腕の中、相変わらずおっとりした様子のセラは、小首を傾げて僕を見上げている。
この子が傷つくことにはならないように僕が気を張っていなければと、小さなセラの手をそっと握った。


「セラ」

『うん?』

「今日はなるべく早く帰ろうね」


セラにだけ聞こえる声で囁けば、わずかに頬を染めたセラは愛らしく微笑んでくれる。
その様子を見て少し安堵し、そっと馬から降りてセラに手を伸ばした。


「おいで」

『うん、ありがとう』


少し恐る恐るといった様子で馬から降りるセラを支え、僕達は二人並んで王太子のところに向かう。
少し先からは王女が従者を連れて、優雅な装いで僕達の前へとやってきた。


「沖田、セラ。紹介するよ。俺の妹、千鶴だ」


完璧に整えられた髪と上品な微笑み、そのひとつひとつの所作に王族らしい洗練が宿っているのを感じながら、僕は無言のまま彼女を見つめた。
この世界では初対面のはずなのに、胸の奥を冷たいものが撫でていく感覚が拭えないのは、前の世界で嫌というほどこの王女と時間を共有してきたからだった。

でも王女相手に挨拶をしないわけにもいかず、心のこもっていない笑みを浮かべる。
できることならこの女に会うのは今日限りにしたいと切に願った。


「初めまして、王女殿下。アストリア騎士団所属、沖田総司と申します」


僕が軽く頭を下げるのと同時に、セラが一歩前へ出た。


『初めまして、王女殿下。アストリア公爵家のセラと申します。いつも薫殿下には大変お世話になっております』

「お二人とも、はじめまして。こちらこそいつも薫と仲良くして頂いてありがたいです。お会いできて嬉しいわ」


王女は柔らかく笑い、視線をセラに注いだまま、優しい声で言葉を継いだ。


「セラさん、とても可愛らしい方ですね。ぜひ仲良くしてください」


差し出されたその手は、何のためらいもなくまっすぐにセラの方へ向かっていた。
セラも誘われたように手を伸ばしかかったけど、不意にぴたりと動きを止めた。

差し出された王女の手をじっと見つめたまま、セラの目の焦点が少しずつ曇っていくように遠ざかっていく。
視線の先にあるのは王女ではなく、まるでどこか別の世界を覗き込んでいるかのように、今ここにはいない何かを見ているような表情だった。


『…………っ』


何も言わず、震える指先をそっと上げかけたその動作は途中で止まり、空中に浮いたまま硬直している。
やがて大きな瞳には涙が浮かび、表情がみるみる蒼白に変わっていった。


「セラ……?」


異変に気づいて声をかけた時には、もうセラの足元がふらついていた。
そして次の瞬間には、彼女の身体が静かに崩れるように倒れていた。


「っ……!」


僕は即座にその身体を受け止め、胸に抱きしめるようにして支える。
力の抜けた彼女の肩は小刻みに震えていて、涙の跡が頬に残っていた。
呼吸は浅く、か細く胸が上下に動いていた。


「……セラ、大丈夫?」


声をかけても何の反応も見られない。
気を失ってしまっただろうセラを案じていると、後方からは鋭い声が飛んできた。


「……おい、千鶴」


振り返ると、王太子の表情からはいつもの余裕が消えている。
その視線は王女へと向けられていて、王太子の声音にははっきりと怒りが宿っていた。


「まさか、セラに何かしたわけじゃないよね?」


王女は目を丸くして、それでも冷静な微笑みを浮かべたまま首を傾ける。


「何を言っているの、薫。私は何もしていないわ。今日が初対面なのよ?」

「だったら、なんでセラはお前を見て、あんなに怯えてたんだよ」


王太子は一歩前へ出ると。苛立ちを隠そうともせず声を荒げた。


「お前を見るなり、涙を浮かべて倒れたんだぞ?理由もなくそんな反応すると思うのか?」

「知らないわ。私はただ挨拶をしただけじゃない」

「ただ挨拶しただけであんな反応するわけがない。そもそもセラは今日ずっと元気に笑ってたんだ。だからこそ余計に、お前の前でこうなった理由が気になって仕方ないんだよ」

「まさか、私を疑っているの?私があの方に何か悪意を持っていたとでも言いたいの?」

「そうじゃないなら説明してくれ。どうしてあんなことに……っ」

「巻き込まれて困っているのは、むしろ私の方よ。突然倒れられて、気まずい思いをしているのは私なのに……会って早々、本当に迷惑な方」

「千鶴、お前っ……」


殿下はまだ何か言いかけていたけど、僕は一歩進みやんわりとその間に入るように口を開いた。


「……殿下。僕とセラは王女殿下とは今日が初対面ですよ。先ほどからこの子、少し顔色も悪かったですし……きっと緊張や疲れが重なっていたんだと思います」

「俺が見る限り、セラは今日一日、元気そうにしてたけどね」

「陛下にご心配をおかけしてすみません。ですが今は静かな場所で休ませてあげることを優先したいので、どこか部屋を貸して頂くことは可能ですか?」


僕はそう言い切り、抱えたままのセラを見下ろした。

きっとセラは王女と会ったことで、前の世界のことを何か見てしまったのかもしれない。
そう考えると不安や心の痛みが僕の胸を締め付けて、言いようのない節操感に苛まれそうだった。
でも僕が今護るべきものは、何よりもこの子の心だ。
そう考える僕の前、王太子は唇を噛むようにして深く頷いた。


「……分かった。応接室を用意させる。案内するよ」


僕は一礼し、そのままセラを抱きかかえて歩き出す。
背後から王女の視線が追ってきているのを感じながらも、彼女の方を見ることは一度もしなかった。



「ここで休ませてあげよう」

「ありがとうございます」


静かに礼を述べて足を踏み入れた部屋は、王宮の一角にある応接兼休養室らしく、陽を遮る重厚なカーテンが落ち着いた陰をつくり、香の焚かれた空気にはどこか静謐な匂いが漂っていた。
部屋の奥、天蓋のない広めのベッドの上に、僕はそっとセラを横たえた。

白い頬に触れると、熱はないものの眉間にはわずかな緊張の跡が残っている。
こうして眠っている顔はさっきまでの様子が信じられないほど穏やかに見えるけど、あの時の涙に滲んだ瞳は簡単に忘れられるものではなかった。
僕がベッドの脇でセラを見つめていると、王太子も静かにその様子を見守っていた。


「ここにある椅子、お借りしますね」


僕がそう言うと、薫殿下は「俺も」と頷き、二人でテーブルを挟んで腰を下ろす。
しばらく沈黙が流れたあと、王太子が不意に口を開いた。


「さっき、千鶴とは初対面だって言ってたけど、本当なんだよね?」

「ええ、初めてお会いしましたよ。王女殿下に何かされたということはないので、ご心配には及びませんよ」

「そうか。それなら、良かった」


殿下はふっと肩の力を抜いたように息をついたものの、その表情からは完全な安心は見て取れなかった。


「正直、焦ったよ。セラが倒れた時、完全に千鶴が何かしたのかと思った」

「さっき王女殿下に凄い剣幕で怒ってましたもんね」

「仕方ないだろ、千鶴はよく問題を起こすんだ。まあ……今回は取り越し苦労で済んだから良かったけどね」

「王女殿下は今頃腹を立てていらっしゃるのではないですか?」


僕が少しだけからかうように言うと、薫殿下は苦笑しながら肩をすくめた。


「千鶴にはあとで謝っておく」

「僕達からも今日のことを謝罪していたと伝えて頂けます?」

「ああ、わかった」


あの王女のことだ、きっと自分が怒鳴られる原因を作ったセラや僕のことを面白く思っていないに決まってる。
だからこそ穏便に済ませるべきだと、僕は前の世界の冷たい王女の瞳を思い出していた、


「王女殿下って、気に入らない相手には徹底的に牙を剥くって噂でよく聞きますけど、実際はどうなんですか?」


僕が悪びれもせずに核心を突くような問いかけをすると、王太子は眉を寄せながらため息をつき、思わず笑いをこぼした。


「……お前さ、よくそういうことを俺に聞けるよね」

「殿下だからこそ聞くんですよ。王女殿下の実際のご性格を知っているのは殿下だけですから」

「まあ、そうか。確かにね」


彼は指先でテーブルを軽く叩きながら、真面目な顔で続けた。


「前にも少し話したと思うけど、あいつは厄介なところがある。自分に逆らったり、気に入らないと判断した相手には、本当に容赦がないんだ。言葉だけじゃなく、人の評判を潰すような真似も平気でするからね」

「そうですか。それを聞くと尚更心配なんですよね、王女殿下の怒りの矛先がセラに向かないとは言い切れませんから」

「セラに何かあれば、俺が千鶴を許さない。あいつには絶対に手を出させないよ」


僕はしばらく黙ったまま、テーブルの木目をなぞるように指を滑らせながら、ゆっくりと視線を上げた。


「その言葉……信じていいんですよね?」

「ああ、信じてくれ」

「……それなら、安心しました。殿下が味方でいてくれるなら心強いですからね」


僕の声は穏やかだったものの、心の中では警鐘が鳴り止んでいなかった。
この世界でも王女は健在で、あの冷たい目も変わっていない。
彼女の前で震え、涙を浮かべたセラを思い出せば、この世界では絶対に手出しはさせないと拳を握った。

でもこうしている間も、王太子は眠るセラを遠目から見つめている。
王女から護るためにこいつの存在はいい盾にはなりそうだけど、王太子がセラを欲しいと思ったらそれはそれで最悪な結末になる。
それを避ける方法が見当たらないからこそ厄介で、僕の胸は軋むばかりだった。


「ねえ、沖田」

「はい?」

「セラはまだ、誰とも婚約はしてないんだよね?」


王太子のその質問に僕の眉はぴくりと揺れる。


「……どうしてそんなことお聞きになるんです?」

「別に深い意味はない。ただ少し気になっただけだ」

「婚約はしていませんよ。近藤さんがあの子の将来を早々に決めてしまうことを好まれない方ですから。セラの意思を出来る限り尊重したいとお考えのようです。なので、少なくともデビュタントを迎えるまではそういった話も積極的には出てこないんじゃないですかね」

「へえ、珍しいね。貴族なら大抵、家の利益を優先させるものだけど。近藤公は随分とのんびりされているんだな」

「家の繁栄も勿論大事ですけど、それだけが全てじゃないですしね。一生を共にする相手を軽々しく決めるべきじゃない、という考えを持っているのはむしろ良いことだと思いますよ」

「でもデビュタントを迎えたら、それなりの家の男と縁談を勧められるんじゃないの?仮にセラが平民の男か何かを連れてきて、この人と結婚したいんです、なんて言い出したら……近藤公はそれでも笑って受け入れるのかな」


言葉を選びながら、僕は唇をわずかに引き結んだ。


「そこまでは僕もわかりませんけどね。でもセラがそう望んだなら、近藤さんは真正面から向き合う人です。少なくとも表向きの名目だけであの子の気持ちを否定するようなことはしないと思いますよ」

「……そう。じゃあもし沖田とセラがそういう関係になったとしたら、許しが出る可能性もゼロじゃないってことだよね?」


その声音に無邪気さと探るような鋭さがないまぜになっているのを感じる。
冗談めかしているようでいて、決して聞き流せる類の問いじゃない。
王太子の眼差しは、まるで僕の中の何かを読み取ろうとするようだった。
だからこそ僕は一瞬だけ考えて、敢えて口元に笑みを浮かべた。


「もしそうなったら、僕としてはそれ以上に嬉しいことはないですけどね」


思いのほか素直な言葉だったのか、王太子の瞳がわずかに見開かれる。


「へえ?意外と真面目に答えるんだ」

「僕はいつだって真面目ですよ。ちなみに……」


僕は軽く肩をすくめ、少し冗談めかす。


「もしお許しが出るのなら、恐らくうちの騎士団の若い連中は、皆こぞってセラに求愛しますよ。なにせ、皆セラのことが大好きですから」

「は?皆?」

「はい。可愛くて、優しくて、誰にでも礼儀正しくて、それでいて芯がある。騎士団でセラに憧れてない者はいないです。セラを想う資格があるなら、それこそ平助や伊庭君も、誰だって真っ先に名乗り出るんじゃないですかね」

「平助や伊庭って、学院でセラの護衛してる騎士達?」

「ええ。でも不思議ですよね。近藤さんが寛容な方だと知っていても、誰一人としてそんな素振りは見せないんです。どうしてだと思います?」

「さあ。何で?」

「皆、わかってるからです。身分の違いがどうしようもない隔りを生むって。たとえ近藤さんが許しても、周囲が許さない。その先にある現実はきっと理想よりずっと冷たいって、知ってるんですよ」


これはかつて、あの世界の終わりに王太子自身が僕に言った言葉だった。
そしてこの世界では、僕がそれをこいつに返す。
セラを好きになったとしても、それを振りかざすようなことはしない、そう伝えるために。


「……まあ確かに。仮に近藤公が許しても、王家としては反対させてもらうだろうね。セラが誰と婚姻するかは、我が国の防衛にも関わる問題だから。変なのとくっつかれて、団の士気や規模が下がったら俺達も困る」

「ええ。だからこそ、僕らがどれほど望んでも騎士とセラとの間に夢物語のような未来は存在しない。わかりきった話です」

「沖田って、普段はずいぶん図々しいくせに……案外、身の程はわきまえてるんだね」

「当然です。何かあって騎士免許を剥奪されれば、即日路頭に迷うのは僕自身ですから。セラを好きだなんて身の破滅に繋がるようなこと、表には出せませんよ」

「ふうん……」 


王太子は、目を細めて僕を見た。
その視線にはまだ、どこか疑念が残っている。
それでも僕の言葉の端々をじっくりと噛み締めているようにも見えた。


「見直したよ、沖田。お前は良い騎士になれそうだね」

「なれそう、じゃなくてもうなってるんですけどね」

「自分で言うか、それ」


王太子は呆れたように言いながらも、わずかに表情を和らげる。


「でもまあ……セラの側に仕えてるのがお前みたいに身の程をわきまえてる奴で、俺としても安心したよ。万一、セラに変な気を起こすような男だったら、俺は多分、黙っていられないからね」

「それはきっと僕も同じです。セラを大事にしない相手なら、身分がどうであっても、黙って見過ごすつもりはありませんし」

「そう。それならこれからも、セラをちゃんと護ってやるんだね」


王太子は納得したのか、それ以上は何も聞いてくることはなかった。
再び僕達の間に静かな空気が流れた時、セラのか細い声が後方から聞こえてきた。

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