6

夕食の席で皆に優しく声をかけてもらったことは、本当に嬉しかった。
山南さんの柔らかな眼差しも、山崎さんの真面目でまっすぐな言葉も、総司の優しさも……全部今の私には贅沢なくらい温かくて。
でもそれが心に沁みれば沁みるほど、逆に少し苦しくなってしまった。

こんなに大切にされているのに、不安になるなんてきっとおかしい。
それなのにどうしてもあの光景が、胸の奥で霞のように残っていた。

総司が王女殿下の頬に手を添えて、大切そうに何度も深く唇を重ねていたあの記憶。
現実かどうかも分からないし、未来のことかもわからない。
それでも一度頭に流れ込んできた記憶は、簡単には消えてくれなかった。


夕食のあと、私は総司と一緒にいつものように自室へ戻った。
テーブルに紅茶を置いて、ゆっくりソファに腰を下ろすと、総司もすぐ隣に座ってくれる。
二人きりになれるこの時間が、私はとても好きだった。

でも今日は少しだけ違う。
会話の中身は他愛もないことばかりだったのに、どこか心がふわふわと宙に浮いているような感じがして、言葉の端々で総司の声が遠く思えた。

そんな私の様子に気づいたのか、総司が私をじっと見つめる。
そして何の前触れもなく彼の腕がそっと私の腰に回り、ふわりと引き寄せられていた。


『……え……?』


あまりに自然な仕草で、心臓が大きく跳ねる。
総司の端正な顔がすぐ近くにあって、視線も体温も全部、私に向けられていた。


「セラ、好きだよ」


私を見つめるその瞳は、何ひとつ疑っていないまっすぐな光で満ちていた。
だからきっと何も考えず受け止めていれば良かった。

だって大好きな人なのに。
いつもならこのまま静かに瞳を閉じて、総司の唇を受け入れていたはずなのに。
それなのにふいに脳裏にあの記憶が蘇り、まるで情景反射のように思わず顔を背けていた。


「……セラ……?」


その声には驚きが混じっていた。
それと同時に傷ついた色も滲んでいた気がして、心の奥がずきんと痛んだ。

私は何も言えなくなって、下を向いたまま黙り込んでしまった。
総司は何も責めなかったけど、その静けさが余計に苦しかった。


『あの、ごめんなさい……。私……お風呂、入ってくるね?』


ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
目も合わせられず逃げるみたいに立ち上がろうとした時。


「何かあったの?さっきまで普通だったのに」


私の手首を掴むようにして、総司の指先がやわらかく留まる。
総司の声は、どこか困惑しているような音色に聞こえた。


「……僕、君に何かした?」


その声はいつもよりも少しだけ熱を帯びていて、私の答えを必死に探ろうとしているように感じられた。


『ちがうよ、そうじゃなくて……』

「じゃあ、どうして?」

『ただ……今は……一人になりたいの……』


そう言いながら、総司の手をそっと振りほどいた。
触れたくないわけじゃないのに、今の私のままだとうまく笑えそうにない。
だから一度一人になることで、自分の不安と向き合って心を落ち着かせたかった。


『……ごめんね。ちょっと、お風呂、入ってくるね』


立ち上がってバスルームの方へ歩き出すと、背中からふたたび総司の声が届いた。


「……引き止めたいけど、無理させたら君がもっと苦しくなっちゃうよね」


どこか寂しげに言われて、胸がぎゅっと締めつけられた。
こんなふうに思わせてしまうことが、何より辛かった。


『……ありがとう、総司』


小さく呟いて、私はそっとドアを閉めた。
湯船に浸かっても、頭の中は静かになってくれなかった。
お湯のあたたかさは確かに身体を包んでくれるのに、心の中はずっとどこか冷たいままだった。

そして思い出してしまう、王女殿下には男なら誰でも心を奪われてしまうだろうというお父様の言葉。
他愛のないその言葉が、こんなに痛いなんて思ってもみなかった。

総司も……もしかして、いつか。
そんなふうに王女殿下を見てしまうことがあるのかな。
私が見たあの光景のように、総司のあの眼差しはいずれ王女殿下に向けられてしまうのかな。
総司があの人に唇を重ねたくなるほどに惹かれてしまったら、私はどうしたらいいんだろう。
泣きたくないのに気づけば目元がじんわりと熱くなって、そっと手で押さえた。

でも、ずっとこうしているわけにもいかない。
ちゃんとわかってる、落ち込んでばかりいても何も変わらないこと。

それに総司を信じてる。
それでもこんな風に揺れる自分が嫌になるけど、それでも信じるしかないと思う。
だって私は、総司が好き。
誰よりも心から、どんなに不安が押し寄せてもその気持ちはずっと変わらない。

だからお風呂を出たら、ちゃんと総司の目を見て話そう。
今はまだ全部は伝えられなくても、せめて「ごめんね」ではなく「ありがとう」を伝えたい。
自分の心にふわりと蓋をして、私は湯船の中でゆっくりと深呼吸を繰り返した。



お風呂から上がった私は足早に身支度を整えて、総司の部屋の前に立つ。
内接しているドアを二回叩けば、数秒後にゆっくりドアが開いて総司が顔を出した。


「セラ?」


翡翠の瞳がほんの一瞬驚いたように揺れて、それからすぐにやわらかくなる。
見慣れた安心する笑顔だったけど、どこか少しだけ不安が滲んでいるような気がした。


『あの……お邪魔してもいい?』

「うん、もちろん」


すっと身を引いて扉を開けてくれた総司の横を通り抜けると、いつもと変わらない香りがした。
灯りは少し落とされていて、部屋の中はやさしい橙色に包まれていた。


「じゃあ折角来てくれたセラのために、僕特製のゆずはちみつでも作ってあげようかな」


私の前まで歩いてくると、総司は私の方を振り返ってくすりと笑う。
いつも通りにしてくれる総司の優しさが嬉しくて、私も思わず笑顔になった。


『ふふ、ありがとう。たっぷり甘くしてね?』

「仰せの通りに」


かちゃりと食器の音がなり、総司はいつものようにゆずはちみつのお茶を作ってくれる。
その後ろ姿を見つめながら、総司はどんな時もこうして私を受け入れてくれていたことを思い出した。

総司は毎日忙しいし、仕事柄体力だって沢山使う。
私が部屋に来た時、本当は眠かったり疲れていた時もあったかもしれない。
それでも総司は一度だって私を拒むことはしなかった。
いつも私を快く受け入れてくれて、だからこそ私は安心して総司の隣にいることができた。

それなのに私は自分の中のおかしな感情に振り回されて、身勝手に総司を拒んでしまった。
逆の立場になって考えればそれがどんなに傷付く行為かわかるはずなのに、それに気付くことも出来ないまま総司を置いて部屋から出てしまった。
その自分の行為を後悔すると共に総司に触れたくなって、私は壁際に立つ総司を後ろからぎゅっと抱きしめた。


『総司、いつもありがとう……』


溢れてくる感情をうまく言葉にできなくて、総司のお腹に回す腕に力を込める。
少しでも私の気持ちが伝わるように、想いと一緒にぎゅと力を入れた。


「うえ、苦しっ……」

『え?あ、ごめんなさい……っ』


慌てて腕の力を緩めると、総司は私の方に振り返ってにやりと笑ってみせる。
 

「なんてね」

『……もう、苦しいのは嘘だったの?』

「うん、嘘だった」


あっさりと認めるその顔が少し得意げで、私は思わずくすりと笑ってしまった。
すると総司の瞳が私の顔をじっと見つめたまま、ふっと少しだけ細められる。
そのやさしさが胸に沁みて、言葉にならない想いがまたこみ上げてきそうになった。
そんな私の心を見透かしたように、総司がぽつりと囁いた。


「さっきのこと、まだ気にしてるの?」


その声はとても静かで、でも私の心の奥にすとんと落ちるようなあたたかさがあった。


『……うん』


素直にうなずくと、総司は少しだけ笑ってから優しく頭を撫でてくれた。


「こうして来てくれただけで、十分だよ。セラが僕のところに戻ってきてくれて嬉しいからさ。もう全部帳消しかな」


傷付けたのは私の方なのに、私が泣いたら絶対にだめだ。
だからぐっと涙を堪えて、総司に向かって微笑みを浮かべた。


『いつも私のこと受け止めてくれて……本当にありがとう』


きっと総司は私が何も言わなくてもこのまま許してくれるつもりなのかもしれない。
でも総司にはごまかしたり嘘をついたりはしたくないから、私は言葉を探しながらぽつりぽつりと話し始めた。


『私ね、さっき……自分でもよくわからなくなって。急に心がぐちゃぐちゃになっちゃって……』


私の中にある不安の正体なんて、うまく言葉にはできない。
でも昼間に見たあの記憶がずっと頭の片隅に残ってて、まるで現実のように胸を締めつけてくる。
いつか総司の隣にいるのが私から王女殿下に変わってしまうのかもしれないと考えたら、彼女に対しての劣等感が自分を押し潰していくようだった。


『総司の隣に……私がいていいのかなって考えたら……段々自信がなくなっちゃって……』


そう言った途端、涙がぽろりと落ちてしまった。
それを慌ててぐっと飲み込んだけど、私の頭の中にはまたあの二人が浮かび上がってきてしまう。
私の心にまとわりついて離れなくて、でもそれは残酷な程綺麗で絵になる光景だった。


『今日王女殿下に会ったら……総司には……王女殿下の方が似合ってる気がしたの……』


言うつもりのなかった言葉が思わず口から出てしまえば、支離滅裂なことを言ってる自分が嫌になった。
でも自分でも自分の身に何が起こってるかもわからなくて、どう伝えていいかもわからない。
ただこの胸に渦巻く不安や痛みは紛れ間なく本物だからこそ、溢れ落ちる涙を止めることができなかった。

でも総司はそんな私を見て、何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれた。
言葉なんて要らないくらいに、温かくて強くてやさしい腕だった。


「僕はね、ずっとこうしていたいって思うくらい、君のことが好きだよ。だから君が泣いてても笑ってても、どんな時もちゃんと傍にいる。何も責めたりしないし、僕の隣には君以外あり得ないよ。だから王女殿下の方が似合うなんて……そんな悲しいこと言わないでよ」


耳元で囁かれた声がふわりと髪を揺らして、心にまで沁みてくる。
総司の優しさに触れて、今にも崩れてしまいそうだった心が少しずつ戻ってくるような気がした。

- 333 -

*前次#


ページ:

トップページへ