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温かいワルツの旋律がホールに優しく広がっていく中、総司と触れている指先がじんわりと熱を帯びていた。
総司は周囲を見渡しながらも、時折こちらに目を向けては、目元をやわらかく緩めて微笑んでくれる。
それだけで胸の奥が温かくなって、私は思わず口元を緩めた。

でも総司の視線がほんのわずかに動いた時、繋いでいた手がふっと離される。
指先に残る熱が名残惜しげに薄れていくのを感じながら、私が目を伏せた時。
すぐ近くからは聞き慣れた声が聞こえてきた。


「セラ、沖田。偶然だね」


顔を上げると、仮面をつけた王太子殿下と王女殿下が、私たちの正面に立っていた。
王太子殿下は白と青の仮面、王女殿下は淡いラベンダー色のドレスに合わせた繊細な仮面をつけていて、その佇まいだけで人目を引く気品にあふれている。
王宮に出向いて以来王女殿下をお見かけすることはなかったけど、こうしてまた会うと私の胸はまた掴まれたように苦しくなった。


「殿下、王女殿下。こんばんは」


総司が先に礼を述べ、私もそれにならって一礼した。


『こんばんは、お目にかかれて光栄です。王女殿下、以前王宮にお伺いした折には、ご挨拶の場で倒れてしまいご心配とご迷惑をおかけしました。大変申し訳ございませんでした』


表情は崩さず、笑顔のままそう告げる。
けれどそれは心を整えるための精一杯の仕草で、胸の奥では小さく息を詰めていた。


「気になさらないで。あの時はテスト明けでお疲れがたまっていたのでしょう?大丈夫でしたか?」

『はい。今はもうすっかり良くなりました。お心遣い、ありがとうございます』


王女殿下の声音は柔らかく思いやりに満ちていたのに、私はなぜだか一つひとつの所作に余計な気を使ってしまう。
だからこそ、総司が傍にいてくれることだけが心の支えだった。


「セラ、俺と踊ろう」
 

不意に聞こえた声にはっとして顔を上げると、殿下の手が真っ直ぐ私に伸ばされている。
その手を見つめる私の横で、王女殿下の唇がわずかに緩んだ気がした。


「薫は私と踊ってくれないのね?」

「千鶴は沖田に踊ってもらえばいいよ」


王太子殿下の声は優しかったけど、どこか淡々としていた。
でも、そうだよね。
きっとその方が自然。
そう思ったのに、どうしてだろう。
胸の奥が、また苦しくなっていく。

仮面で顔を隠していることが、こんなにもありがたいと思ったのは初めてだった。
涙を見せるわけじゃないのに今の顔を知られたくなくて、私は目元をそっと伏せて微笑んだ。


『……はい、喜んで』


私が殿下に向かって手を差し出した時、隣では総司がすっと一歩前に出た。


「王女殿下。もしよろしければ、僕に一曲、お付き合いいただけますか?」


その声音にはいつもの穏やかさと凛としたものが混じっていた。
仮面越しの視線がふと私を一瞬だけ見て、それからまっすぐ王女殿下へと向け直される。


「ええ、喜んで」


王女殿下は微笑みがらそう答え、ためらいなく総司の掌へと手を重ねられた。
あまりにも自然に触れ合う光景を、私はただ静かに見つめる。
何も言えないまま、視線を逸らすこともできなくて、何も感じていないふりで立っていることしかできなかった。
でも胸の奥にある感情はただひとつ、総司に触れないでほしい。
そんなふうに思ってしまった自分に、息が詰まりそうだった。

総司が誰かと手を取り合うこと。
その相手が王女殿下であるということに、胸の奥に冷たい何かが触れた気がして。
その感情がどこから来るのか、自分でもよくわからなかった。

けれどいまだに時々夢を見る。
遠い世界のもう戻れない記憶のような夢。
そこでも私は同じように胸を痛めていた気がする。
覚えていないはずなのに、夢の中でだけ感じる確かな感情が身体のどこかに鮮明に残っていて、それが時折こうして私を苦しめていた。


「セラ、どうかした?」


王太子殿下の声に、ふと我に返る。


『いいえ、殿下。参りましょうか』


私はそっと手を差し出し、王太子殿下の掌に重ねる。
そのまま導かれるように、ダンスフロアの中央へと進んでいった。

すぐそばでは、総司と王女殿下も踊りの位置につこうとしていた。
二人が手を取り合い、仮面越しに視線を交わす姿。
その光景が視界に入った途端、ほんの数歩しか離れていないのに総司の背中が遠くに感じられた。


「今日は元気がないね?」


ワルツが始まると、不意に殿下がそう尋ねてくる。
その問いかけは優しくて、初めてお会いした頃のどこか近寄りがたかった雰囲気はもうなかった。


『いいえ、元気ですよ。ただ殿下のお相手だと思うと少し緊張してしまって』

「緊張する必要はない。今日は無礼講だろ?」

『では、私が殿下の足を間違えて踏んでしまっても怒りませんか?』

「お前がそそっかしいのは初めて会った時から知ってるからね。その程度じゃ怒らないよ』

『ふふ、良かった。でもあの日はたまたまそうなってしまっただけで、普段は違いますよ』


自信を持ってそう答えると、殿下は少し微笑んで言ってくれた。


「へえ、そう。でもまあ、お前のワルツは悪くない。むしろ上手いんじゃない?」


思いがけない言葉に、私は少しだけ瞬きをした。
いつもの殿下らしくないような、でもどこかくすぐったくなるような響きにも感じられた。


『こうして踊れているのは、殿下のおかげです』


初めてのはずなのに、王太子殿下とのワルツは不思議とぎこちなさを感じなかった。
無理なくついていけるのは、殿下のリードがとても自然だからだと思う。
決して強引ではなくて、だけどしっかりと導いてくださっていて。
相手を気遣うその優しさが手を重ねる指先にも宿っている気がしたからこそ、初めてお会いした頃とはまた一つ、違う印象を抱いていた。

こうして少しずつ関わりが増えていくたびに、知らなかった一面に気づいていく。
そのこと自体はきっと素敵なことなのに、総司以外の人とこうして踊ることに胸の奥に小さな重みが落ちてくるようだった。

それに、きっとデビュタントを迎えた後にはこういうことは当たり前になっていくのだろう。
総司以外の誰かに手を取られて、総司以外の誰かと踊って。
それを一つひとつ気に留めることもなくなるくらい、毎日のように当たり前に。
そういう世界で私は生きていくのだと思ったら、胸の奥が締めつけられたように苦しくなった。
もうそんなことはとっくの昔にわかっていたはずなのに、おかしいよね。

でも目の前の殿下は、私の中にあるそんな気持ちには気づいていない様子で、変わらず丁寧にステップを導いてくださっている。
仮面の奥にある表情はわからないけど、その所作の一つひとつが落ち着いていて、冷静で。
この人だってきっと、私よりずっと重いものを背負っているだろうに、誰に対してもきちんとした姿勢で向き合っている。
そのことを思うと、胸の奥がまた少しだけ痛くなった。


『……殿下は、凄いですね』

「何が?」

『時期国王として、日々たくさんの努力をされていて。毎日公務でお忙しいのに、ワルツもとてもお上手で、勉強もおできになって……』

「それ、嫌味?主席のお前に勉強が出来るとか言われても、ちっとも嬉しくないんだけど」


仮面の下の殿下の瞳が細められていて、思わずくすっと笑ってしまう。
でも私の言葉に嘘は一つもなかった。


『いえ、本心です。私は、まだほんの少しずつでしか公務に関わらせてもらっていなくて、まだまだ公女として力不足なんです。ですが殿下は何に対しても手を抜かずにきちんと向き合っていらして……そんな殿下を見ていると、私も頑張らなければいけないと思います』


努力はしているつもりだった。
勉強も公務も、多々ある習い事や公女としての立ち振る舞いも。
努力した分それが自分の自信に繋がり、いずれ総司の横に立つ自分を想像することが何よりの励みだった。

けれど今の私は、こうして殿下とワルツを踊っていても、少し先の総司と王女殿下ばかりを気にしてしまう。
楽しそうに微笑み合って何を話しているんだろう。
総司は今、何を考えて王女殿下と踊っているんだろう。
そんなことばかりが頭に浮かんで、本当に自分が嫌になる。
私には自信なんて最初からなかったのかもしれないと考えてしまえば、無意識に唇をきつく結んでいた。


「あのさ、ワルツの最中にしんみりするのはやめてくれる?」

『あ、ごめんなさい……』

「多分お前は根が真面目なんだろうね。それ自体は悪いことじゃないと思うけど、あまり無理をすると自分を潰すよ」

『潰す……ですか?』

「別に完璧である必要はないってことだ。少なくとも俺はお前のことを努力不足だなんて思ったことないし、お前のことをちゃんと評価してる。それにお前の真っ直ぐなところは……まあ、そんなに悪くないと思うから、そこだけは潰さないようにするんだね」


舞踏会の煌めきの中、仮面の奥にある殿下の瞳が真っ直ぐ私を見ていた。
どこか厳しく、でも温かい眼差し。
この人は他人に興味がないようで、相手をちゃんと見てくれているのだとわかり、心が少しあたたかくなった。


『ありがとうございます、殿下。そう言って頂けて、肩の力が少し抜けた気がします。無理しない程度に努力しようと思います』

「それならいいけど」


視界の端に王女殿下と踊る総司の姿が見えても、私はそれを見ないように、ただ微笑みを浮かべることにした。
私が私を信じてあげないことには何も変わらない。
だから今は余計なことに囚われずに、この時間を楽しみたいと思えた。
でも……穏やかな空気の中、殿下の瞳がふと私を覗き込むように動いた。


「で、お前はさっきからどこを見てるの?」


その問いかけは軽く笑うような口調だったけど、仮面の奥の視線が、私の目線の先を探ろうとしているのがわかった。
咄嗟に私は、微笑みを浮かべたまま視線を王女殿下の方へ向け直す。


『王女殿下に見惚れておりました。あまりにもお綺麗で……まるで絵本の中のお姫様みたいで、先日お会いした時からずっと、私の憧れなんです』


それは嘘ではなかった。
総司と手を取り合いながら微笑む王女殿下の姿は本当に美しくて、優雅で、誰もが目を奪われてしまうほどだった。
ただ私が本当に見つめていたのは、王女殿下の隣で微笑む総司のこと。
悟られないようにそう話すと、殿下は小さく肩を揺らして笑った。


「千鶴に憧れるなんて、お前も相当見る目がないんだね」


その声音はどこか意味深で、柔らかいのにどこか棘のような冷たさが潜んでいた。


「俺からしたら、お前の方がよっぽど綺麗だと思うよ」


さらりとした声で、何気なくそんなことを言われて、私はつい苦笑いのような表情になってしまった。


『……嘘ばっかり。さすがにその冗談は笑えませんよ?』

「別に冗談でも嘘でもない。本心さ」

『百歩譲って今の言葉が本心でしたら、殿下の目は少しおかしいのですね』


ほんの少しだけ肩を落として、げんなりしたようにため息を吐くと、また王太子殿下はくすりと笑った。


「酷いな。俺はお前のことは結構気に入ってるんだけどね」


睨むでもなく詰るでもなく、殿下はそう言って口元に笑みを浮かべた。
その音色がいつになく優しく聞こえて殿下を見つめた時、ワルツは終盤にさしかかってきた。


「お前と踊ると、時間が早く過ぎるね。もうすぐ曲が終わるのが惜しいよ」


冗談なのかからかっているのか、殿下はそんなことを言う。
曖昧に笑顔を返した私は、何も答えないまま殿下の手の中で残りのワルツを踊っていた。

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