8
よりにもよって今日は星界学の授業がある日。
僕は複雑な心境のまま、セラと並んで教室へと向かった。
中に入ると、珍しく先に来ていた王太子が片手をあげてこちらに微笑んでいる。
いつもの飄々とした表情の裏で何を考えているのかは、相変わらず読めなかった。
「やあ、セラ、沖田」
『殿下、ごきげんよう』
「ごきげんよう、殿下」
三人一組のこの授業では、否応なく同じテーブルを囲むことになる。
セラが王太子の向かい側に腰を下ろし僕がその隣に座ると、王太子がじっとセラを見つめて首を傾げた。
「なんだか少し元気がないね?」
『いいえ、元気ですよ?』
「そう?しょんぼりして見えるけど」
その言い回しに、セラはほんの少しだけ目を伏せる。
その様子は言いたくないことを言うべきかどうか迷っているように見えた。
『それは……殿下もご存知かもしれませんが、同じクラスの方が爵位剥奪になったと聞いて……』
「ああ、ディラント大公国の?」
『はい……』
その名を口にすると、セラの声が一段低くなった。
セラは多分、事件そのものよりも、もっと先のことを考えてる。
セラがこんな風に気に病むのは、彼の家族や周囲の人たちの心情を想像してしまうからだ。
「そんなに悲しい?あの大公子に会えないこと」
明らかに探るような視線を目の前に、僕は思わず身構えた。
この質問の裏にある意図を、当たり前にセラは知らない。
それでもセラは、柔らかい声で素直に応じた。
『会えないことが悲しいというより……彼のご家族のことを考えると胸が痛くて。どれほど無念だっただろうとか、これからのことを考えるとどうしても……』
「考え過ぎると疲れるよ。お前がどれだけ気にしても、あの家のことはお前が背負うべきことじゃないんだから」
『……はい。でも人の運命がいつ、急に変わるかわからないと考えたら少し怖くなったんです。自分のことも、周りにいる大切な人達のことも……』
セラの言葉を聞いて、王太子の視線が一瞬揺れた。
その様子から見るに、こいつはあの件に関与している。
むしろその中心にいたはずだ。
けれどそれを口に出すつもりはないのだろう。
あくまで傍観者の顔を崩さず、淡々と言葉を発した。
「……そう。まあ、あまり引きずらない方がいいと思うけどね」
「殿下、セラなりに整理する時間は必要なんですよ。優しい子ですから」
「それはわかってるよ。でも危険な奴が学院からいなくなって良かったっていうことも事実だろ?セラだっていつ狙われてもおかしくなかったじゃないか」
『はい、心配してくださってありがとうございます。私は総司が護衛をしてくれているので大丈夫ですよ』
ふわりとセラが微笑んだ時、教室には星界学の教授が入ってきて授業が始まる。
そして課題の提出の為、セラが僕達のグループの分を手に取り席を外すと、僕はそっと王太子に話しかけた。
「……あの件、まさか殿下が関係してるんですか?」
「なんのこと?」
「さっき話してたことですよ」
王太子は一度だけ深く呼吸をしてから、あくまで穏やかに言葉を紡いだ。
「学院に害を及ぼす可能性のある人物が処分された、それだけのことだ。俺は結果に満足している」
「ですが爵位剥奪の決定までが急でしたよね。あの家門相手に前例もない」
「そんなの偶然じゃない?」
「まあ……そう仰ると思ってましたけどね」
互いに視線を合わせずに、教科書の余白に無意味な線を描きながら続けるこの会話は、表面上は何気ないものに見えるだろう。
でも僕たちの間には明らかな緊張が走っていた。
「ただ……もし殿下が本当にあの件に関与していたのなら、セラにだけは知られないようにして頂きたいんです」
その一言に、王太子はようやく僕の方を見た。
「あいつが知ったらどうなると思ってるの?」
「苦しむことになりますよ。あの子は誰かの不幸を正当化するようなことに慣れていないので」
王太子は僕をまっすぐに見つめてきた。
感情の色を読み取らせないいつものような無表情だったけど、その目の奥に何かが揺れたような気がした。
「お前はそこまでセラに気を回すんだね」
「別に気を回してるわけじゃないですよ。ただ僕は……」
僕はペン先でページの端を軽く叩いた。
言葉を選ぶふりをしながら、ほんの一瞬だけ王太子の顔を見る。
「セラのああいう顔は見たくないんですよね。セラが苦しむくらいなら、僕が先に手を打ちたいと思うのは当たり前じゃないですか」
王太子は返事をしなかった。
目線を外し、何も書かれていないノートの頁をゆっくりとめくっている。
その手元の動きさえ、妙に静かだった。
「それにこのことを知ったら、あの子はきっと自分のために誰かが犠牲になったって考え兼ねません。殿下だって、そんなふうに思わせたくないですよね」
「お前ってさ……」
王太子は一拍置いて、笑みとも皮肉ともつかない口調で続ける。
「本当にあいつのことを大切にしてるよね」
「当然ですよ。僕はあの子の専属騎士なんですから」
「専属騎士、ね」
その言い方に、刺すような棘が混じる。
「護衛が主を守るのは当然の務めだ。でもお前みたいに主の心にまで踏み込むのは、ちょっと違うと思わない?」
「どういう意味です?」
「本当に主従の関係ならそれでいい。でもお前の言動はどう見ても、それ以上じゃないか」
言葉にされなくても伝わる。
王太子が何を感じているのか、何を言いたいのか。
恐らく騎士風情が口を出していい領域を超えているという意味だろう。
「……もしそれが不快だとおっしゃるなら、お詫びしますよ」
僕は彼の王太子の目を見て、穏やかに言葉を続けた。
「でもセラの心まで護りたいと思うことは、僕にとって当たり前のことですから。近藤さんもそれを望まれていますし、誰に何を言われてもそれだけは曲げるつもりはありません」
王太子はしばらく何も言わず、ただこちらを見ていた。
目に浮かんでいたのは、怒りとも苛立ちともつかない複雑な感情だった。
「……あっそう。なら、せいぜいあいつの期待に応えてやればいい」
「はい、そのつもりですよ」
意味なく言ったわけではなかった。
もしセラを婚約者に望むのであれば、セラの心まで大切にできる奴以外は認めない、そう遠回しに言いたかった。
勿論、それが王太子にどの程度届いているかはわからないけど、しばらく無言が続いた後、彼は少し笑うと僕に話しかけてきた。
「そう言えば千鶴が言ってたよ。ワルツの時、冗談でお前に近衛騎士の話を持ちかけたって。お前、喜んで食いついたらしいね?」
不意に聞こえたその言葉に、僕はペンを持つ手を止めた。
教室の中では小声の会話やページをめくる音が静かに重なっていて、その中に王太子の声は違和感なく溶け込んでいた。
けれどその目だけは、真っ直ぐ僕を見ていた。
「そんなことも、ありましたね」
「千鶴は忠誠心のないお前のことを貶していたけど……敢えてだろ?」
「さあ、どうでしょうね」
「沖田がセラの傍を自ら離れるわけがない。千鶴の性格をわかってて、敢えて興味の対象から外れるように仕向けた。違う?」
王女が王太子に、自分の都合のいいように僕の話をすることくらい、最初から予想していた。
その上で、彼女の前では忠誠心の薄い騎士という役を演じた。
それができたのはこの世界の王太子は、そう簡単に僕やセラを王女に売らないと信じられたからだ。
「まあ、安心してよ。千鶴に余計なことは言ってない。折角できた学友二人をあいつの気まぐれで失いたくないからね」
それが建前か本音か、正直どうでもよかった。
彼の口から言っていないと明言された、それだけでほんの少し胸の奥が緩む。
「ご配慮、感謝致します」
「いや、別に。俺自身、お前達のことをとやかく言われるのは気分が悪いし。それにしても」
王太子はそこで言葉を区切り、僕の顔をじっと見た。
「千鶴とろくに話したこともないのに、よくあいつの性格を見抜いたね」
「勘ですよ。あと、王女殿下のことは噂で色々聞いてましたしね」
「……へえ、噂ね。でも沖田は噂なんかを鵜呑みにできるようなタイプじゃないだろ?むしろ全て疑ってかかるようなところがある」
「ははっ、殿下って僕のことをだいぶわかっていらっしゃいますね。その通り、よく知りもしない相手の言葉はすんなり信用できません。だからこそ、近衛騎士の話はあまりにも出来過ぎているように感じたんですよね」
「そう思ったなら尚更普通は断る筈だ。でもお前は最後まで喜んで引き受けると言っていたそうじゃないか。その言葉を千鶴が鵜呑みにしたらそれこそ大変なことになるのに、お前は最後までブレずにいた。その真理を知りたくてね」
王太子の問いかけは柔らかい口調だったけど、その奥には一つ針を仕込んだような鋭さがあった。
だからこそ僕は苦笑いをこぼして、敢えていつもより弱気に言葉を発した。
「こんなこと、本当は言いたくないんですけど。実は結構ハラハラしてたんですよね、あの時」
「お前が?とても想像できないけど」
「本当ですって。ある意味賭けのようなものでしたからね。でもあの場には殿下もいらっしゃったので、もしまずいことになったら殿下に助けて貰おうと思ってましたから」
「は?俺に?」
思いきり眉をひそめてそう返してくる殿下に、僕はあっさりと笑いながら続けた。
「だって、殿下なら王女殿下を上手く丸め込んでくださるかなって。僕が何を言うより、よほど説得力がありますから」
それは半分は冗談で、もう半分は本気だった。
この国で王女殿下を止められるのは、唯一王太子だけかもしれないと思ったから。
正直なところ、万が一の時には殿下の名前を借りてでも鎮火するつもりでいた。
だから自然に口から出てきた言葉だったけど、王太子はやや呆れたようにため息をひとつ吐いて、僕の方を見もせず言った。
「勝手に俺を巻き込まないでもらいたいね。俺だって極力あいつとは関わりたくないんだ」
「でも学院では、いつも一緒にいらっしゃるじゃないですか」
「表向きはね」
殿下の声音が、ほんの少しだけ低くなる。
その目はどこか冷えた色を帯びていて、いつもの軽口とはまるで違っていた。
「学院には、周りの目があるだろ?両親からも妹の面倒を見ろって口を酸っぱく言われてるから、そうしてるだけさ。でも俺が爵位を正式に継いだら、あいつには離宮にでも行ってもらうつもりだ。もしくは、さっさと嫁いでくれれば一番いい」
そう言ったときの口ぶりは酷く淡々としていて、そこに感情らしいものはなかった。
思えば、前の世界でも王太子は同じことを言っていた。
王女殿下を遠ざけるようなことを口にして、その言葉に王女は泣いていた。
セラのことが絡まなかったとしても、王太子は王女に対してすでに愛想を尽かしていたのかもしれない。
「お前だって気づいてるんだろうけど、あいつ、どこかで歯車が噛み合ってないんだよ。良くも悪くも子供の頃のまま時間が止まってる。俺にとっては妹だけど、あいつの中じゃ……多分違う。兄に対する愛情があるというより、ただ自分を特別な存在としてみてほしいっていう執着なんだと思うよ」
王太子の声には、珍しく疲れがにじんでいた。
僕はそれをただ聞きながら、静かに言葉を選んだ。
「……それは厄介そうですね」
僕がぽつりとそう言うと、王太子は視線を逸らしたままかすかに笑った。
「まったくだ、厄介だし疲れる。周囲にどう見られてるか何を期待されてるか。わかっていても全部に応えるのは無理だ」
王太子にとっても、あの関係はすでに負担になっているんだろう。
兄妹という名の絆がもはや縛りになっていることに、本人も気づいている。
それでも完全に突き放すことはできない。
王太子はただ冷たいように見えて、芯のどこかで不器用に律義なのかもしれないと感じた。
「でもそれでも離宮に行かせるって言えるのは、ある意味優しさだと思いますよ」
「どこがだよ」
「見捨てたりはしないだけいいっていう意味ですよ」
「まあ、一応……家族だからね」
「いいお兄ちゃんじゃないですか」
「……お前、殺すよ?」
「えー酷いな。本心なんですけどね」
その言葉に、王太子はわずかに目を伏せた。
否定も肯定もしなかったけど、しばらくの静けさの後、王太子がふと顔を上げた。
「俺の愚痴ばかり聞かせて悪い。つい余計なことまで喋ってたね」
「別に構いませんよ。殿下の愚痴はなかなか面白いので」
「お前、性格悪いな」
「お互い様でしょ?」
そう言って笑うと、王太子も小さく苦笑いを浮かべた。
たぶん本当は、誰かに頼りたいのかもしれない。
けれど王太子という立場が、それを許さない。
いや、王太子自身が自分にそれを許さないだけなのかもしれないけど。
「……俺さ」
王太子がふいに声を落とす。
「正直、まだ分かんないんだよ。あいつをどうするのが正解なのか。冷たくすれば泣くし怒るし、手を伸ばせば必要以上に縋ってくる。でもそのどっちも間違いなんだろうなって」
その言葉には、珍しく迷いがにじんでいた。
僕は一拍だけ間を置いて、穏やかに言葉を返す。
「正解なんて、最初から誰にもわかりませんよ。でも間違ったと思った時に向き合う覚悟があるなら、殿下はきっと大丈夫なんじゃないですか?」
王太子は小さく笑って、首を横に振った。
「お前は時々、やけに優しいよな。気持ち悪い」
「僕が優しく見えるってことは、殿下の目が曇ってる証拠です。早めに診てもらった方がいいですよ」
言いながら、僕は苦笑いを浮かべた。
軽口に乗せて返したつもりだったけど、胸の奥が妙にざわめいていた。
王太子が、いつか本当に孤独にならなければいい。
そう思った自分に、自分でも不意を突かれたような気がした。
前の世界でセラの心を求めるあまり、僕を消そうとした王太子のことを許したわけじゃない。
あの選択が正しかったとも思っていない。
それでもあの時の王太子の叫びは耳から離れなかった。
ようやく見つけた大切なものを必死に掴もうとしていたあの姿は、あまりにも痛々しくて、そして少し僕と似ていた。
「……怖かったんでしょうね」
失うことが。
誰かの心から、こぼれ落ちていく自分の存在が。
たとえ間違った形でしかそれをつなぎ止められなかったとしても、王太子はきっとずっと不安だったんだろう。
あの日のあの叫びは、そういう人間の一番脆い部分が剥き出しになった声のように感じた。
そしてその感情は僕にも痛い程わかってしまうから、僕は王太子に完全には背を向けられない。
どこかで似たもの同士だと、そう感じてしまう自分がいるのもまた事実だった。
「で、今のは何の独り言?」
「さあ、何か言いましたっけ?」
「……ま、いいけど」
王太子はそれ以上追及することもなく、再び僕から視線を逸らす。
そして遠くから聞こえてきた柔らかくもはっきりとした音色に、僕はゆっくりと顔を上げた。
『総司、殿下』
僕たちを呼ぶ声が、また一歩現実を引き寄せてくる。
柔らかく微笑んたセラが、両手にノートを抱きしめ僕達の元へと戻ってきた。
『グループ全体でA評価をもらえましたよ。すごいですよね、最高評価なんて』
ノートを胸に抱えながら、小さく嬉しそうに笑う。
その笑顔はどこか安堵も含んでいて、この課題にどれだけの思いを込めていたかが、そこから伝わってきた。
この笑顔を守りたい、他の誰のものにもならないように。
誰かの野心や不安に曇らされないように。
そのためなら、僕はなんだってするとセラのことを見つめていた。
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