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ディラント大公国の一件があってから数日。
教室の中、にっこり顔の千ちゃんを目の前に私は目を瞬いた。


『え……これ、ほんとにいいの?』

「うん。前に言ってたでしょ?観てみたいって」


千ちゃんが私に譲ると言ってくれたのは、私な観たくてたまらなかった演劇「月影の誓い」のチケット。
もうだいぶ前に完売していて、諦めていたものだった。


『でも……これって確か、もうセルディアでしか観られない舞台じゃなかった?』

「そう。ルヴァンの公演は全部売り切れてたし、アストリアには巡回すら来ないみたい。だから前にセルディアの分を応募してたんだけど、そしたら奇跡的に当たってたの」


セルディア国というのは、ルヴァン王国から馬車で半日程かかる、山と湖に囲まれた小さな芸術国家。
政治的な力は大きくはないけど、音楽や絵画、舞台芸術の分野では世界中から注目を集めている。
王族の監視もなく、貴族の顔も少なく、知り合いに会う心配もほとんどない場所だ。


『でも折角なのに、千ちゃんは行かないの?』

「ちょうどその日、知人の婚約パーティーに行かないといけないの。折角だから、セラちゃんが代わりに行ってくれたら嬉しいなって」


そう言って手渡されたのは、小さな白い封筒だった。
開けてみると、中に入っていたチケット二枚には「セルディア劇場・一般席」の文字と、その下に座席番号が書かれていた。


『ありがとう……!もう物凄く嬉しい!』

「セラちゃんが喜んでくれて良かった。最近少し元気がなかったら心配してたの。これを観て、沢山泣いてきて!」

『ふふ、そうだね。本当にありがとう、大切に観るね』


夢みたい……。
この演劇を観れる日がこんなに早く来るなんて思ってもみなかった。
私はチケットの入った封筒を大切に胸に抱きしめて、その日が来ることを待ち遠しく思った。


その日の夜。
ベッドの上に腰掛ける総司の脚の間に座ったまま、私はそっと総司を見上げた。


『総司、今週の日曜日は非番だって言ってたよね?』

「うん、そうだよ。久しぶりに二人でどこか出掛ける?」


良かった、総司も予定がないみたい。
私が喜びから笑顔になると、総司が私を見てくすくすと笑っていた。


「随分嬉しそうだね」

『うん。実はね、今日千ちゃんから演劇のチケットを二枚もらったの。私が観たいって前に話してた「月影の誓い」だよ』

「ああ、あの悲恋だけど感動するっていう?」

『そう!もしよかったら、一緒に行かない?』

「勿論いいよ」

『やった、楽しみだな。前日は楽しみ過ぎて眠れないかも』


演劇も楽しみだし、総司と二人でデートできることも嬉しい。
同じ日に幸せが重なっちゃって、贅沢なくらいだ。


「……セラ、可愛いね」

『え?なにが?』

「いや、凄く嬉しそうにしてる顔が可愛いなって思ってさ」


総司は優しい音色でそう言うと、そっと私の頬に手を添える。
顔を上げさせられるとほぼ同時に唇が重なって、私の心音は瞬く間に早くなった。

総司は出会った頃から、私によく可愛いと言ってくれる。
付き合い始めてからも言われなかった日はないくらい、ほぼ毎日のようにその言葉をかけてくれていた。
そのうち言われ慣れてしまうのかと思っていたけど、いまだに私は総司に可愛いって言ってもらえると凄く嬉しいみたい。
照れくさい気持ちにはなるけど、総司にずっとその言葉をかけてもらえるような女の子でいたい。


『総司もかっこいいよ』

「あはは、ありがと」

『明日お父様と山南さんに許可を頂くね。あと服装は街娘の格好の方がいいよね?』

「そうだね。ちなみに会場の場所はどこ?」

『セルディア国だよ』

「セルディア?また随分遠いね」

『近くの劇場はもう全て公演が終わってるか、チケットが完売してるの』

「人気の演劇なんだね。じゃあ当日は早朝に出ようか、馬車の手配は僕がしておくよ」

『ありがとう』


抱きしめてくれる総司の温もりを心地よく感じながら、早くその日が来て欲しいと思う。
どんなお話なのか妄想を膨らませながら、総司の体温に身を委ねていた。



そして当日の朝。
まだ薄暗いうちから準備をして、人気のない裏門から、公爵邸の馬車に乗り込んだ。
髪をゆるく一つにまとめた私は、色の落ち着いたワンピースを着て、少しばかり丈の長い外套を羽織り、控えめな帽子をかぶっている。
貴族の気配は微塵もない商家の娘のような格好だ。

でもそれ以上に目を奪われたのは総司の姿だった。
薄いグレーの麻のシャツに、手入れの行き届いた黒いパンツ。
肩には軽いマントを掛けていて、髪も少し無造作に整えられている。
貴族らしい整いすぎた品はあえて避けてあるけど、どこか洗練された雰囲気をまとったその姿に、私は胸はときめいた。


『……総司、すごく似合ってる』

「そう?セラのほうがずっと似合ってるけどね。今日も誰よりも可愛いよ」


馬車の中、隣に座る総司にドキドキしてしまう私がいる。
セルディアまでは長い道のりでも、総司と過ごす時間はあっという間だった。


『このお芝居、悲恋なんだって。身分違いの恋人たちが、結局引き裂かれちゃうの』

「へえ。悲しい話なのに、それでも観に行きたかったんだ?」

『うん。終わりが悲しくても、気持ちが本物だったら無駄じゃないって思いたくなるから』

「そういうところ、セラらしいよね」


道中の馬車は長く、窓の外に流れる景色を二人で静かに眺めながら沢山の話をした。
学院のこと、舞台のこと、そして未来のことも。
一緒に遠出するのもこうして公の立場を離れるのも、ほんの僅かしかない機会。
だからこそ一つ一つの瞬間が宝物みたいに感じられた。

劇場に着いたのは、午後の日差しが柔らかくなる頃だった。
レンガ造りの建物は古くて美しく、壁には過去の名作のポスターがいくつも飾られていた。
入り口で簡単な案内を受けて中に入ると席は一番後ろの端っこ。
深紅のカーテンから一番遠かったけど、私たちにはそれがちょうどよかった。

周囲には他の観客もいるとは言え、誰もこちらを気に留めることはないし、何より祖国からかなり離れたこの場所には見知った顔もない。
照明が落ち客席が暗くなると、私の左手は温かい温もりに包まれた。


『ふふ……』


左を見て少し恥ずかしく思いながらも微笑む。
すると総司もくすりと笑って、私の耳元に顔を近づけてきた。


「お何かあった時のために手を繋いでてもいいですか?」


ふざけて囁かれたその甘い音色に、私はまたくすりと笑う。


『いいですよ?でも最後までずっと、離すのは禁止ですからね』

「あはは、のぞむところですよ」


絡めた指に少し力が込められて、また幸せを感じる。
他愛のないやり取りをしていたけど、舞台が始まってからはすぐに物語に引き込まれた。

燃えるような恋心と、どうしても越えられない身分の壁。
約束も祈りも、すべてを呑み込む運命の残酷さ。
言葉の一つ一つが心に沁みて、気づけば私は何度も涙をこぼしていた。
ふと左手に絡む指のぬくもりが強くなって、そっと私の頬に触れた指先が、涙を拭ってくれた。


『……ありがとう』


声にできたのか自分でも分からないほど掠れた息で、そっと伝える。
するとその言葉に総司は何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。

そして、唇がふわりと触れる。
羽が舞い降りるように優しくて、胸の奥が温かくなるようなキスだった。


『……ここ、外だよ?』

「ごめん。でも、セラが可愛すぎて我慢できなかったんだよね」


困ったように眉を下げたその笑顔に、また胸がきゅっと締めつけられる。

観ていた劇のラストシーンでは、登場人物たちが別れを選びながらも、愛し合っていたことを確かめ合っていた。
悲しくて堪らないのに、心には深く残る静かな幕引き。
切なさと愛しさが重なって、物語が終わっても私はしばらくその場から動けなかった。


「セラ、大丈夫?」


私が物語の余韻に浸かってぼんやりしていると、総司がそんな私の顔を覗き込んできた。


『うん。なんか……感動しちゃって。胸がいっぱい……』

「いい話だったよね。でも僕的には最後は結ばれて欲しかったかな」

『そうだね。でもあそこまで誰かを好きになれるって幸せなことなんだなって思った。だから今総司といられて、すごく幸せだよ』


総司は珍しく少し頬を染めると、少しだけ瞳を細めて睨んでくる。


「そんな可愛いこと言わないでくれる?今直ぐ抱きしめたくなるんだけど」

『……それは、だめ』


物語は悲しい結末だったけど、どこかで私自身の気持ちにも触れていたから。
そして大好きで堪らない人とこうして手を繋げることが、どれだけ幸せなことかを改めて教えてもらった気がした。


「ねえ、セラ」

『ん?なに?』

「さっきキスしちゃったこと怒ってない?」


不意に囁くような声でそう言われて、私は一瞬言葉に詰まった。


『……怒ってないよ?』

「そっか。良かった」

『でも、びっくりはしたよ。ここ、一応外なのに……もうだめだからね』

「ですよね」


そう言って、総司はくすっと喉の奥で笑った。
その笑い方がいつもよりずっと優しくて、胸が熱く締め付けられる。


「セラが泣いてたから、ついね」

『でも演劇のことだって、わかってたでしょ?』

「もちろん。でもセラが泣いてるとなんだか可哀想になっちゃうんだよね。だから止めたくなったんだよ」


そんな優しい言葉を言われると、どうしたらいいかわからなくなるのに、嬉しいと思う私がいる。


「それに、君も悪いと思うけど」

『え……?』

「隣で目を潤ませて指をぎゅってしてくるくせに、ずっと物語に夢中でさ。僕のことなんかまったく目に入ってなかったよね」

『そんなことはないけど……』

「ちょっと嫉妬しちゃったよ、あの登場人物に」


私は思わず吹き出してしまった。
少し拗ねた様子が可愛くて愛おしくて堪らなかった。


『じゃあ……これからは、総司のこともちゃんと見るって、約束する』

「本当かな」

『うん。舞台も綺麗だったけど、今日一番ドキドキしたのは総司だったから』


彼はその言葉に、また少し目を細めて私を見た。


「お願いだからこれ以上可愛いこと言わないでくれる?今すぐセラに触りたくなるんだけど」

『だめって言ったでしょ』

「はいはい。分かってるけど、そう言いたくなるくらい君のことが大事なんだから仕方ないじゃない」


照れくさくて恥ずかしくて、でもその言葉があたたかくて。
好きになった人が総司で、本当に良かった。
こんなに私の心を動かしてくれる人は、生涯でこの人しかいない。


『私も……大事に思ってるよ。すごく』


目を伏せながら伝えた言葉に、総司は一瞬だけ黙って、それから私の手をそっと握り直してくれた。


「セラ、大好きだよ」


耳元で聞こえた言葉の響きが優しすぎて、涙がまた溢れそうになるのを必死でこらえた。
外はもう、夕暮れの光が柔らかく差し込んでいて、劇場のステンドグラスが壁に淡く影を落としていた。

この一日は、私と総司だけの小さな秘密。
でもきっと心の中ではずっと綺麗に光り続ける。
この時間が終わってしまわないようにと、私はもう一度総司の手を握りしめた。

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