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「では、始め!」


号令とともに騎士団員が開けた柵の先、森の奥へと馬を駆け入れる音が広がった。
僕も馬腹に軽く脚を入れ、森の中へ入っていく。
湿った土の匂い、踏みしめた枝がわずかに軋む音。
狩猟の舞台である聖獣の森は整備されているとはいえ、油断すれば馬の足をとられるような地形も多かった。

僕の狙いはただ一つ、学年一位の座。
いや、歴代最高得点だ。
勝つためには、ただ獲物を狩るだけでは足りない。
この大会は獲物の大きさと希少性、そして仕留め方までが評価に加わる。
だから僕は森に入る前、過去の得点記録や歴代の上位者がどんな戦法で獲物を仕留めていたかを事前に調べていた。

中でも今回の狩猟で最も高得点が見込めるのは、角を持つ灰色の大鹿。
滅多に姿を現さず、気配に敏感で、数年前の大会でも一度だけ現れた記録があった。
そのとき射止めた生徒は優勝していたものの、その鹿は首元を傷つけられいたため評価を少し落としたらしい。
だから僕が狙うのはその大鹿を傷をほとんど残さず、一矢で仕留めることだった。


「……難しいけど、不可能じゃない」


そう自分に言い聞かせ、森の奥にある湿地帯の近くまで馬を進める。
静かに木々の間を進んでいくと、ほどなくして大鹿を見つけた。
立派な枝角を持ち、慎重に足を踏みしめながら水を飲もうとしている。

風向きは悪くない、ここからならやれる。
僕は馬の上で弓を手に取ると、息を殺して視線を一点に集中させた。


「……今だ」


放たれた矢は、まるで風そのもののように一直線に走り、鹿の心臓を貫いた。
苦しむことなく鹿はその場に崩れ落ち、見る限り即死だった。
鹿を固定して狩猟本部へ引き返した僕は、騎乗しながら右手に持った弓を下げ目を閉じて息を整えた。


「……大丈夫、いける筈だ」


森を出ると観客席や女子生徒たちが並ぶ広場の周囲からどよめきが上がった。
係官たちが獲物を計測し評価を読み上げていく間、僕は願うように拳を握っていた。


「灰鹿、角完全、被弾部位・胸部中心、即死確認……」


記録用紙に筆を走らせた採点官が、思わず顔を上げる。


「得点、過去歴代最高得点です!学年一位、現時点で沖田総司!」


歓声が一斉に上がる。
白いテントの方でも歓声が広がり、遠くの方で女子生徒たちが顔を見合わせていた。
セラの表情はここからでは見えなかったけど、早く会ってセラにだけはこの結果を自分の口で伝えたかった。

……これなら、勝てる。
僕が狙ったのは最も効率的で高得点を出せる獲物だ。
過去の経歴や計算上、これ以上の得点を出すのは無理な筈だと踏んでいた。


「殿下だ!」


近くから聞こえてきた声に顔を上げると、林を割って現れた一頭の黒馬とそれに跨る王太子。
姿勢はまっすぐ、表情は曇りひとつなく、堂々とした帰還だった。
そして馬の後ろにくくりつけられているのは巨大な黒猪。
通常の猪の倍はある体躯。
泥にまみれ、片方の牙が折れている。
でもその躯体はほとんど損傷がなく、矢一本が喉元に刺さっているのみ。
周囲の審査員が息を呑むのが分かった。


「黒猪、特大級、希少種確認。傷一箇所、即死」


採点官が手を止め、厳しい表情で点数をつける。
その口元が、次の瞬間わずかに綻んだ。


「得点、歴代最高を更新。王太子殿下、第一位!」


地を揺らすような歓声が広場を包み、歓声の向こうでは王太子が僕を見て笑った。
その笑みには驕りも誇りもなく、俺はやったぞと言わんばかりの笑顔だった。

僕はそれを見返し、息を呑んだまま立ち尽くしていた。
目の前の現実をすぐには受け入れられなかった。

なぜって自信があった。
いや、確信に近かった。

この森に入る前から、僕は幾度も計算を重ね、過去の記録を読み込み、あらゆる状況に対応できるよう準備していた。
それはただの勝負のためじゃない。
セラの未来が懸かっているから、誰よりも真剣だったんだ。

それにこれまでの人生、努力すれば報われた。
血の滲むような鍛錬も、苦しい夜も、全てが結果に繋がった。
剣の大会でも騎馬戦でも、勝負事ではいつだって僕が一番だった。
だからこそ今回も勝つと疑わなかった。
勝たなければならない理由が、他の誰よりも僕にはあったから。

それなのに……僕が負けた……?

握りしめた拳が震え、ただあまりにも悔しくて心が追いつかなかった。
セラの運命を賭けた勝負に乗ったのは僕だけど、その賭けに負けたのも僕だった。


「沖田もなかなかやるじゃないか。でも残念だったね、今回の勝負は俺の勝ちだ」


あくまで軽やかに王太子は言った。
その顔にはただ純粋な達成感と清々しさを湛えていたから、それが余計に胸を抉るようだった。


「そんな顔をするなよ」


自分が今どんな顔をしてるのかなんてわかる筈もなかった。
でもきっとこの結果のようにひどく情けないものだったのだろう。
何一つ言葉を発せないまま立ち尽くす僕を見てやれやれという様子で眉を下げた王太子は、「ちょっと来て」と僕を呼ぶ。
ただ黙ってついていくと、そこは本部から少し離れた湖のほとり。
僕たち以外、誰一人いないその場所で王太子は再び口を開いた。


「賭けの内容、ちゃんと覚えてるよね?」

「……覚えていますよ」

「なら良かった。沖田がどれだけ本気でセラを護ろうとしてるか知ってるからさ。お前に認められなければ意味がないからね」

「認められなければって……僕にですか?」

「そう。だから勝負に勝って、セラに相応しい相手だって証明したかったんだ」


セラに相応しい相手が誰かなんて僕にだってわからない。
ただ僕はずっと、僕との未来を望んでくれているセラの隣にいたかった。
セラに相応しいのは自分だと信じていたかった。
でもそれが朽ち果てようとしてる今、何一つ言葉は出てこない。
再び黙り込む僕を見てため息を吐いた王太子は、真剣な顔で僕に言った。


「別に意味もなく、賭けを持ちかけたわけじゃない。俺はね、沖田。お前に後ろ盾になってほしかったんだ」


その言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。

……後ろ盾?僕に?

問い返す言葉が浮かばず、ただ黙って王太子を見つめ返した。
けれど彼は迷う様子もなく、真っ直ぐに僕へと視線を寄越す。


「セラが王宮に入っても、あいつを変わらず見守ってくれる存在が必要だ。俺は忙しいからいつもあいつの傍にいてやれるわけじゃないからね。だからお前みたいな奴にしか、それは頼めないと思ってる」

「……僕に、ですか?」

「ああ。これは勝負だっただろ?お前がそれを受けた以上、約束は守ってもらう。形式的でも構わない。セラの味方として俺の傍にいてくれ」


王太子の声音は静かだったけど、その中には曲がらない意志が感じられる。
でも王太子の言いたいことがよく分からずその意味を頭で考えていると、王太子は付け加えるように言った。


「お前もセラと一緒に来ればいい。俺がセラの近衛騎士としてお前を呼んであげるよ。騎士として変わらず傍にいられるように」


その言葉に僕は目を見開いた。
まさかそんな提案をされるとは思っていなかった。

セラが王家に入るなら、僕は当然その傍にはいられなくなる。
専属騎士の任を解かれ、アストリアの一騎士として別の任務に就くだけ。
きっとあの微笑みを間近で見ることも、言葉を交わすことも許されない。
それが当然だと覚悟していた。
だからこそ王太子の言葉は僕の想像のはるか外側にあった。


「そんなことをして殿下に何の得があるんですか?」

「得とか損とか、そんなことで人を傍に置くわけじゃない。ただ俺はお前を信頼してる。それだけだ」

「……どうしてそこまで僕を評価してくださるんです?」

「セラが心を許しているのがお前だからだ。それにお前の目を見ればわかる。誰よりも誠実で、誰よりもあいつを大切にしてる。だからこそ俺はお前に傍にいてもらいたいんだよ。セラの幸せを共に護る者としてね」


僕はセラとの未来を護るためにこの勝負を受けた。
その結果負けて全てを失うことを恐れていた僕に、王太子はその手を伸ばして共にいてくれと言っている。
それがどれほど酷な提案か、王太子は気づいていないのかもしれない。

大好きなあの子が別の男の妃となり、いずれ子を産み、その手で抱く。
その姿を間近で見つめ続ける日々が来るのだと想像した瞬間、息が詰まりそうになった。

触れてはいけない。
想いを伝えることも叶わない。
僕にできるのは、手の届かない場所へ行ってしまったセラにただ忠誠を尽くすだけ。
出会ったばかりの頃はただそれを目標にしていた筈なのに、今はそんな理屈で割り切れるものではなかった。


「沖田、どうするの?別に無理強いするつもりはないけどさ」


心が千切れそうだった。
今すぐセラの手を引いて、連れて逃げてしまいたい衝動すらあった。
だけど僕は知っている。
前の世界でセラと離れたことがどれほど辛く、間違いだったか。
彼女の笑顔や声がそこにない日常がどれほど味気なく寂しいものだったか。

……離れたくない。
名前を呼ばれなくなるのは嫌だ。
あの笑顔が見られなくなるのはもっと嫌だ。
でも、あの愛らしい笑顔が僕以外に向けられることが何よりも許せない。


「……っ……」


いや、まだだ。
セラを奪われたとは思っていない。
セラの笑顔が、本当に王太子の隣で変わらず咲くかどうか。
それを見届けるまでは僕はまだ諦めたわけじゃない。
もしその光が少しでも陰るようなら、その時は全部壊してでも、あの子を奪い返すつもりでいる。

だからこそ今は静かに牙を隠すしかない。
忠誠の皮を被って、傍に居続けるための演技を続けるしかないんだ。

僕はゆっくりと息を吐き心を静かに整えると、一歩前へと出た。
そして王太子の前に跪いた。
草の上に膝をつけ、背筋を伸ばし、顔を上げる。
殿下が目を見開くのが視界の端に映ったけど、それでも僕は迷わず確かな言葉で口を開いた。
例えそれが偽りだとしても、これは紛れもなく僕の意志だ。


「沖田総司、ただいまより殿下に忠誠を誓います。この命が尽きるまで、殿下とその妃となるセラの安寧と幸せのために剣を振るい、盾となり、影となりましょう。彼女の笑顔を護り抜くとここに誓います」


言葉を口にするたび、心が軋む音がする。
それでも迷わなかった。
セラの傍にいるためならどんな嘘でもついてみせる。

殿下がゆっくりと僕に近づき、その前で立ち止まる。
少しの沈黙の後、王太子は僕の肩にそっと手を置いて低く呟いた。


「ありがとう、沖田。よろしくね」


僕は黙って目を伏せた。
僕の言葉が信じられているうちは、まだ動ける。
まだ、セラを傍で見護っていられる。
ただ一人、セラの笑顔のために立ち続けると決めたのだから。
だからあれは忠誠の誓いなんかじゃない。
静かな僕の反逆のはじまりだった。


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