7
セラと近藤さんが王宮に出掛けた後、僕は一人自室でセラのことを想っていた。
僕の選択が本当に正しかったのか、あの子には話してあげるべきだったんじゃないかと、今更後悔ばかりしている自分自身が嫌で堪らない。
これから婚約の話を聞かされるだろうセラの気持ちを考えれば、それを知っていて何一つ教えなかった僕の行動は、あの子に対しての裏切りだと思われてしまうのではないかと不安になった。
だからこそセラが公爵邸に戻ってきたら、全てを話したい。
どうして僕がこの選択を選ぶことにしたのか、今どんな想いでいるのか、セラに会って伝えたい。
そしてセラとの未来をまだ諦めていないことも、あの子には正直に話すべきだと考えていた。
落ち着かない心情のまま早めに寝支度を整えた僕は、ただ静かに自室でセラを待つ。
きっと泣かせてしまうかもしれない、怒らせてしまうかもしれない。
それでもセラは僕に会いに来てくれると思っていた。
でも待てどもセラは僕の部屋に来ることはなく、隣の部屋からは物音一つしない。
まだ帰ってきていない可能性も考えながら、僕は思わず自室のドアから廊下を覗いた。
「あ、沖田さん。お疲れ様です」
僕が辺りを見回していると、丁度そこに居合わせたのは山崎君だった。
「山崎君、近藤さんとセラってまだ帰ってこないの?」
「いえ、戻られていますよ」
「……え?いつ頃?」
「一時間程前には戻られていたかと思います」
心音が僅かに嫌な音を立て、ドアノブを掴んでいた手に力が入る。
山崎君にお礼を告げた僕は部屋のドアを閉め、セラの部屋へと隣接しているドアの前へと向かった。
恐らくセラは僕に会いたくないのかもしれない。
その理由は明確にはわからなかったけど、少なからず僕が何も伝えなかったことにセラは傷付いているのだろう。
こうして僕に会いに来ないことが何よりの証拠だった。
でも僕はこの数日懸命に考えて、こうすることが最善だと思ったから、何も言わずに今日という日を迎えた。
だから意を決してドアを二回、控えめにノックした。
「セラ?帰ってるの?」
普段通りの返事がもらえることを期待をしていたけど、ドアの向こうからは何の返答もない。
「入るね」と一言告げてドアを開けた僕は、セラの部屋へと足を進めた。
優しい花の香りに包まれたその部屋の中、セラはベッドに身を沈めていた。
僕に背を向けたまま何も言わず、名前を呼んでも反応がない。
ベッドの脇へと腰掛けて、いつもしているように柔らかな髪をそっと撫でた。
「……黙っててごめんね。でも僕の口から言うなって殿下言われてたからさ」
何から話すべきか、自分でもうまく言葉が見つからなかった。
その理由はこうしてセラに距離を置かれることに、少なからず焦りを感じていたからだった。
でも言葉を必死に探していると、程なくしてセラの押し殺したような泣き声が聞こえてくる。
何度やり直してもこうして悲しませている自分が情けなくて、僕の視界まで僅かに歪み始めていた。
「セラ、ごめん……」
伸ばした手でセラの身体を引き寄せて、上体を起こさせるなり腕の中に抱きしめる。
震えている小さな身体はその感情を体現するかのように熱を帯び、辛そうな嗚咽が耳に聞こえてくるばかりだった。
暫く泣き止むことはなく、呼吸をするのすら苦しそうに息を吸い込もうとするその身体があまりにも儚い。
触れただけで壊れてしまいそうで、僕は一瞬、抱きしめる力を緩めてしまった。
でもほんの少しだけ彼女の指が僕の袖を掴んだのを感じて、迷いはすぐに消える。
もう二度と離さないという想いで、目の前の身体をきつく抱きしめ直した。
『どうして……』
絞るような小さな声が、ようやくセラの口から発せられる。
腕の中のセラに目線を落とせば、月明かりに照らされた愛らしい泣き顔がより僕の心中を苦しくさせた。
『……どうして殿下との婚約の話、教えてくれなかったの?』
「……僕だって言いたかったよ。でも、殿下がさ。セラには自分の口から伝えたいって。だから僕からは何も言わないように約束させられてたんだ」
『でも、それでも……私たちのことなのに。私たちの未来に関わる話だったのに……」
「うん、分かってるよ。でも……」
「私、総司なら、ちゃんと話してくれるって信じてたのに。大事なことは一緒に考えてくれるって。……でも、総司は何も言ってくれなかった……」
「僕にも考えがあってそうしたんだよ。今、殿下に逆らうのは得策じゃない。下手に歯向かえば、君の傍にすらいられなくなる。だったら信用を得て君の隣に立つ道を選んだ方が君を護れるって……そう思ってたから」
『総司が意味なく言わなかったわけじゃないってわかってるよ。でも、そうじゃなくて、私が……言いたいのは……』
苦しそうにセラの顔が歪み、そのこぼれ落ちる涙を見つめながら胸の奥が焼けるように痛くなる。
そして……
『……どうして、総司が一人で決めちゃうの……?』
その言葉を聞いた瞬間、目の前の景色がにわかに揺らいだ。
そして前の世界でも、涙を流したセラに同じ言葉を言われたことを思い出した。
前の世界、あの結末へと向かったあの日々の中。
王女から近衛騎士になれと命じられた時、僕はセラの気持ちを確かめもせず、自分だけで結論を出した。
そのとき、セラは泣きながら同じことを言っていた。
そして僕はまたセラを置いて、自分だけの判断で、勝手に最善を選んだつもりになって。
結果、またセラを傷つけて涙を流させている。
あのときの過ちを、同じように繰り返している。
王太子が勝手に決めて話を進めたように、僕もセラの気持ちを無視して行動してしまった。
結局僕も王太子と何も変わらないじゃないかと、酷い後悔の念が押し寄せた。
「セラ……ごめん。君を、悲しませて」
震える手でそっと彼女の頬に触れる。
その指先を伝って、彼女の涙が僕の肌を濡らしていく。
こうして傍にいるのに、ただ泣かせることしかできない現状がやるせなくて仕方なかった。
「狩猟大会の日……王太子から君との婚約を考えてるって聞いたんだよ。その時のあいつの様子から、恐らくセラや近藤さんが断れないように仕向けるつもりだろうっていうことはわかったんだ。だから僕は反対したよ、それであの日……勝負をすることになったんだ」
あの日の賭けの内容を、僕はすべてセラに話した。
賭けに僕が乗ろうと乗るまいと、王太子はセラに婚約の話をもちかけるつもりでいたこと。
賭けに僕が勝てば、セラを諦めてくれると約束したこと。
その大事な勝負で、僕が負けてしまったこと。
もちろん、セラは狩猟大会の結果は知っている。
でもその背景にそんなことがあったなんて、きっと考えてもいなかったんだろう。
セラは言葉を失ったように、僕の話を黙って聞いていた。
「僕の負けが決まって……もう、なんて言葉を王太子に返したらいいのかもわからなくてさ」
あの瞬間、僕の頭の中は真っ白だった。
そして次に王太子が口にしたのは、僕にとって想定外の提案だった。
「その時、王太子は言ったんだ。僕をセラの近衛騎士として王宮に呼んでやってもいいって。自分はセラの傍にずっといられるわけじゃないから、代わりに君を護ってほしいって。後ろ盾になってくれって、そう言われたんだよ」
王宮に行けば、少なくともセラと同じ場所にいることができる。
セラの傍でセラを護れる。
それが今の僕に残された、たった一つの道に思えたんだ。
「婚約のことを事前に君に話したら、少なからず態度の変化に王太子が気付くかもしれない。そうすれば僕は王太子からの信用を失って、セラの傍にいられる可能性が完全に絶たれる。そう考えたら、怖かったんだ」
『……総司……』
「……ごめん。君の気持ちを確かめもせずに勝手に決めたこと、申し訳なく思ってるよ。信じてくれてたのに、裏切るようなことをしてごめんね」
僕の腕の中で、セラが小さく首を振るのが分かった。
いつもの如く優しいセラは、それ以上僕を責めることも、悲しいとか、辛いとか……そういった言葉も何一つ言ってこなかった。
『私のために、勝負までしてくれてありがとう……』
「いや……、お礼なんて言わないでよ。負けて……本当にごめん……。僕が勝てていたら君を護れたかもしれないのに」
『総司が私のためにそうしてくれただけで嬉しいから、もう十分だよ』
涙を拭って微笑むセラの顔を見たら、今度は僕の方が込み上げてきてしまって思わず顔を逸らす。
何度回帰を繰り返してもこの子の心すら護ってあげられないことに不甲斐なさを感じていると、そんな僕にセラは言った。
『私は……総司に護ってもらってばかりで、何もできなくてごめんね……』
泣き笑いの顔でそんなふうに言われた瞬間、喉の奥が熱くなって声が出なかった。
どんなに苦しくても、人を責めたりしない子だということは分かっていたけど。
それでも、そう言わせてしまったことが辛かった。
「違うよ、セラ。何もできなかったのは僕の方なんだ。君は何も悪くないよ」
『ううん、私……総司に護ってもらうばかりで……。いつも助けてもらってばかりで……総司が一人で悩んでいた時に、気付いてあげられなくて、ごめんなさい……』
再び涙をこぼしたセラの涙を拭っても、それはまた落ちてくる。
こんなに可愛い泣き顔なのに、その悲しみが伝わり僕の視界もまた歪んでしまった。
「僕が言わなかったんだから、君が気付かないのは当然でしょ?」
『でも、私は気付いてあげられる人でいたかったよ』
「僕は君が傍にいてくれるだけで救われてたよ。それに一つでも多く、君の笑った顔が見たかったんだ。だからさ、この数日間、君が変わらず僕の隣で過ごしてくれたことが僕にとっては大切なことだったんだよ」
婚約の話を知れば、セラは嫌でも表情を曇らせるだろう。
僕の前で幾度となく涙を零すだろう。
だからその前に、君の愛らしい笑顔をぎりぎりまで見ていたかった。
それは僕がこの話を言わないでいたもう一つの理由。
どうしようもない僕のわがままだ。
『ありがとう、総司……』
聞くことは怖いけど、今日のことを聞かなければならない。
僕はセラを真っ直ぐ見つめて、穏やかな声で彼女に尋ねた。
「今日はどうだった……?どんな話をされたの?」
『最初は当たり障りないお話だったよ。でも……最後は婚約の話をされて……お父様が私の気持ちを汲んで何度も断ってくださったの。でも……』
セラはきつく唇を噛み締めると、少しばかり震えた声で言った。
『国王陛下は、王家の申し出に異を唱えるというのは、王家の意志を退けるということと相違ないと言われて……婚約を断ることは王家を敵に回すということだとおっしゃられたの」
「……そんな言われ方をしたの?」
『だから私もお父様もきっぱりお断りすることができなくて……どうにか了承を頂けたのは、考える時間を与えて欲しいっていうことだけだったんだけど……』
そう言って苦しそうに顔を歪めたセラはぽつりと言った。
『一週間……』
「え……?」
『一週間しかお時間を頂けなかったの』
「そんな短い期間で決めろって言われたの?」
『うん……』
「近藤さんは?何て言ってるの?」
『王家からの申し出を断ることは簡単ではないって。私の決定は今後の公爵家の未来を大きく左右するということだけは忘れないで欲しいって言われたの……』
思っていた以上に、王太子がセラを完全に囲い込んだことが今の会話でよくわかった。
そしてセラはきっと断れない。
断ることなんてできないところまで追い詰められたのだということもわかった。
『総司……、私……』
セラはぽつりと呟くように言った。
言葉の最後までは聞かなくても、セラが出す答えなんてとっくにわかっていたはずだった。
でもそれでも、心のどこかで期待してしまっていた自分がいる。
もしセラが全てを捨てて僕を選んでくれるなら、僕は君を連れてどこまででも逃げてみせると考えていた。
でも……
『王太子殿下との婚約……お受けすることになると思う……』
唇を噛んで涙をこぼしながらも、セラははっきりとそう言った。
まるでその決定は、もう変わることがないと伝えるように。
『ごめんなさい……』
……そうだよね、当たり前だ。
最初からセラがアストリア公爵家を捨てて王家の意向を退けることなんてできないということは、嫌という程理解していた。
だから僕はその時が来たら彼女の近衛騎士として共に王宮に上がるという話を、迷いなく受け入れたんだ。
でもセラの口からそれを聞くのは、思っていた以上にずっと苦しかった。
それでも一番辛いのはこの言葉を選ばなければならなかったセラ自身だということは、決して忘れてはいけないと思った。
「うん、わかったよ」
『総司……』
「セラがそう決めたなら、僕はそれに従うよ」
泣きたくなるような気持ちをなんとか押し込めて絞り出した声は、情けなく少し震えていたかもしれない。
セラは目を見開いて顔を歪めると、僕の胸に縋るとそのまま声を上げて泣き始めた。
『ごめ……なさい……っ、うぅ……』
「大丈夫だよ……」
『本当は、やだ……よ……私は……総司と……』
肩を震わせて泣くセラの背中に手を回すと、その身体は小さくとても儚かった。
この世界でもまたこの温もりが僕の手の届かないところに行ってしまうんじゃないかと考えれば、こうしている今も不安で堪らなくなった。
いくら互いを想い合っていても、何度やり直しても僕達は結ばれない。
この世界でも結局こうなるのかと、心が折れそうになった。
でも目の前には僕を想ってくれる君がいる。
僕との未来を求めて泣いてくれる君がいる。
それなら諦めることは絶対にしたくない。
僕はセラの頬を優しく包み、その涙を指先でそっと拭った。
「セラ、大丈夫だよ。婚約しても君はまだデビュタントも迎えてないんだから、実際に結婚するまで、あと一年半はあるでしょ?」
『そう……だけど……』
「それまではここで一緒に生活出来るんだからさ。まだ何か解決策があるかもしれないし……僕もちゃんと考えるから」
ほんの少しでも、希望になればと思って言った言葉に、セラはふと驚いたような顔をした。
その反応の理由が分からず僕が首を傾げると、彼女は震えた声で言った。
『……総司は……結婚まで、私がここにいられると思ってたんだね……?』
「……え?」
『婚約したら私は、妃教育を受けるために……王宮で生活しなければならないの。だからここにいられるのももう、あと僅かで……』
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
確かに以前、王太子は妃教育の話をしていた。
でもこんなにも早くセラが宮中に移されるなんて考えたこともなかった。
目の前がぐらつく。
胸の奥が冷たくなって、指先がかすかに震えた。
自分が近衛騎士として王宮に行かなければならないと聞かされた時より、ずっと辛く感じられた。
『……ごめんね、こんな話ばかりして……』
たとえ王宮についていけるとなっても、恐らく日中の護衛はできても、こうしてセラの隣で気兼ねなく過ごせるわけではないだろう。
部屋にも入れないだろうし、人の目を盗んで髪を撫でることすらもう叶わないのかもしれない。
そんな日々がもう目先まで迫ってきていると思えば、あまりにも急に突きつけられた現実に言葉すら出てきてくれなかった。
でもセラからしたら、婚約の話ですら先程聞いたばかり。
その身体にとてつもない心労がかかっているのだろう。
だからこそ、僕が弱気でいてはだめだと奥歯を噛み締めた。
実際に結婚するまでの期間、僕にできることがあるかもしれない。
絶対にこの子を取り戻してみせると心を強く持って、セラにそっと手を伸ばした僕がいた。
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