8
悲しそうに歪む総司の顔を目の前に、心が今にも張り裂けそうだった。
誰よりも護りたい人なのに、私の選択が総司を傷付けている。
迷わず総司を選ぶことができない自分が、嫌いになってしまいそうだった。
でももし王家から出された婚約の話をお断りしたら、アストリア公爵家は勿論、騎士団も総司も……皆を巻き込んで恐らく大変な事態になる。
国王陛下の瞳はただの脅しではなく、従えない者は切り捨てると言わんばかりの色を含んでいた。
この家の名前を背負っている限り、私にはこの選択を選ぶより道がない。
その役目を放棄することは、とても出来ることではなかった。
ふと、以前ふざけて総司と話した駆け落ちの話が頭を巡る。
二人で一頭の馬に跨り夜の森を抜けて、遠くまで逃げようなんて話、一緒に笑いながらしたよね。
あの時はただの冗談として話していたけど、今は二人で逃げることができたらどんなにいいかと切望してしまう。
……もし、許されるなら。
全てを捨てて、総司と一緒に生きていきたい。
他の誰でもなく、総司に隣にいて欲しい。
だから私と一緒に逃げて欲しいって……今にもその言葉を言いそうになった。
でも総司に全てを捨てさせることも、罪を背負わせることもしたくなくて。
私はただ黙って、顔を俯かせることしかできなかった。
「セラ」
暫くの沈黙の後、私の名前を呼ぶ優しい声が聞こえる。
総司は柔らかく微笑むと、慈しむように私の髪を撫でてくれた。
「そんなに心配しないで。君を一人にはしないから大丈夫だよ。セラが王宮に行くなら、僕も行く。王太子の許可も貰ってるし、どこに行くことになっても僕は君の傍にいる。これからも君を護るよ」
総司は……優し過ぎる。
その優しい言葉が余計に辛く感じられて、私の瞳からは今日何度目かわからない涙がこぼれ落ちた。
そして悲しそうに笑う総司の微笑みを見て、これ以上この人の未来を縛るわけにはいかないと考えてしまう。
他の人と婚約する私が、これからも変わらず傍にいて欲しいなんて、言えるわけがなかった。
『……ありがとう、総司。総司がそう思ってくれて、私本当に嬉しい』
「お礼なんていらないってば。僕がしたくてそうしてるだけだし、当たり前のことだしね」
『ふふ、総司はいつもそう言ってくれるね』
出会った頃からそうだった。
私を護るために無茶をして、大怪我をして。
それでも総司は、僕がしたくてしてることだから護らせて欲しいって、さも当たり前のように微笑んでくれたよね。
総司の気持ちが嬉しくて、今までずっとその優しさに甘えさせてもらっていたけど、それももう終わりにしなければならない。
こうなってしまった以上、一緒にいたらお互いのためにならないと、私は意を決して言った。
『総司……?』
「うん?」
『私は大丈夫だよ。婚約してもちゃんと向こうで頑張る。立派な王太子妃になれるように努力するから』
「うん、セラなら大丈夫だよ。僕もできる限り支えるし」
『ううん、総司は変わらずここにいてこの公爵家を守ってくれる?』
「……え?」
『王宮には私ひとりで行く。折角専属騎士になってくれたのに、こんなことになってごめんね。今まで私のことを護ってくれて本当にありがとう』
泣き出しそうになるのを耐えて、はっきりと言葉を紡いだ。
総司は目を見開いたまま私を凝視したけど、すぐに顔を歪めて私に言った。
「それ……冗談だよね?」
『ううん、本気だよ。総司は王宮には来ないで』
「……なんでさ。なんでそんなこと言うの?」
『私はもう、殿下と婚約するんだよ。いずれ結婚しないといけないの。それなのに総司が傍にいてくれたら……わたし、きっと……中途半端になる。どうしていいかもわからなくなるよ……』
「それは王太子との未来を築くのに僕は邪魔って言いたいの?」
『違うよ、総司のことを邪魔だなんて思う筈がないよ。でも一緒にいたら私も総司も、前に進めなくなるよ。殿下に対しても失礼だと思うから……』
「前に進めなくなるって何?そんなの、最初から進めるわけないじゃない。それに君に無理矢理婚約を迫ったあいつを、なんで気遣わないとならないのか意味がわからないんだけど」
いつになく鋭さを含んだ言葉に、私は唇を噛み締める。
でも私だって、本心は総司と同じ。
前になんて進めないことは、自分が一番よく分かっていた。
『でも進まないといけないの。私がお妃様になるって決まった以上、役割を放棄するわけにはいかないから』
「じゃあ、僕のことはもういらないってこと?」
『違うよ、そんなこと一度だって思ったことないよ』
思わず顔を上げて、総司を見つめた。
彼の瞳の奥には隠そうとしても隠しきれない苛立ちと、哀しみが浮かんでいて、その顔を見るのが何よりもつらかった。
『私は……総司が傍にいたら、また甘えちゃうと思う。でもそれはだめだと思うの。そんな気持ちで、誰かの隣に立つなんて……』
「じゃあ、僕の気持ちはどうなるの?セラはもう僕のことを忘れるつもりなんだね」
『そんな簡単に忘れられるわけないよ。だからこれ以上、優しくしないでほしい。向こうに一緒に行ったら、きっと私は総司のことをずっと諦められなくなる……』
「ねえ、セラ。離れたら何もかも終わっちゃうんだよ。会えなければ、お互いのことが何もわからなくなって、想いだって届かなくなる。君はそれでいいの?なんでそんなに簡単に諦めようとするのさ」
『簡単に諦めようとしてるわけじゃなくて……』
「僕はセラのことを諦めたつもりなんて一度もない。こうなった今だって僕は諦めてない。これからも傍にいたいと思ってるし、この先もそれは変わらないよ」
総司の真っ直ぐな言葉が私の心を揺さぶるように投げかけられる。
それでも本心は言えずに唇を噤んでいると、総司は瞳を細めて言葉を放った。
「この前、自分の気持ちに嘘はつきたくないって言ってなかった?今言ったことが君の本音なの?」
総司は今まで誰よりも私のことを真っ直ぐ見つめてきてくれた。
だから私が本心で会話していないことくらい、総司は気付いているのかもしれない。
私は一度呼吸を整えて総司を見る。
心の中で今の気持ちを整理しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『これ以上、総司を縛ったらいけないって思ったの。私のせいで総司が幸せになれなくなるのは嫌なの……』
「僕は君と離れたらそれこそ幸せになんかなれないよ。それなら王宮に行って少しでも君との時間を持てる方がずっと幸せだ」
『それのどこが幸せなの?それだと総司が……私の結婚後の生活を見守ることになるんだよ。結婚して、王妃になって、いずれお世継だって作らないといけなくなるかもしれないのに……』
「だから何?」
総司の声が強くなって、私は思わず言葉を飲み込んだ。
「君が誰のものになっても、王太子の子を身籠ることになったとしても、僕の気持ちは変わらないよ」
『でも……総司だっていい気分じゃないでしょ?私が逆の立場だったら他の人といる総司を傍でただ見てるなんて、絶対無理。そんなの絶対耐えられないよっ……』
「僕は君と離れることの方が何倍も辛いんだよ……!なんでわかってくれないのさ……!」
そう言った総司が、わたしの肩をきつく掴んだ。
総司がこうして声を荒げたのは初めてで、私はどうしようもできない感情をどうすればいいかもわからず瞳から涙をこぼした。
『……ぅ……』
「……セラ、ごめん。そんなに泣かないで」
私が涙を流せばいつもそれを拭ってくれるあたたかい手が、今日も私を慰めてくれる。
この温もりも愛情も何一つ感じられなくなるのは、とても悲しくて怖いことだと思った。
それでも、誰よりも大切な人にこれ以上辛い想いはして欲しくないと思うから。
私が言える言葉は一つだけだった。
『私のことは……もう忘れて……』
本当は忘れて欲しくなんてない。
ずっと総司の心の中にいたいけど、総司が苦しむよりずっといい。
だから告げた言葉だった。
でも総司は瞳を潤ませると、掠れた声で言った。
「セラ、お願いだから……僕を君の傍にいさせて……。君と離れて、ただ生きていくなんて……僕には無理だ」
その声はあまりにも切なくて苦しくて、胸に深く刺さった。
涙がまた溢れてくるけど、それは私だけではなくて。
私はゆっくりと手を伸ばし、総司の頬にそっと触れた。
『……ごめんね……』
総司の目元の涙をそっと拭うと、私の指先を総司がそっと包んでくれる。
ずっと私を護ってくれた、優しくて大好きな手だ。
『総司のこと、大好きだよ。これからもずっと総司だけが大好きだよ。だからこそ……総司にこれ以上、何も背負わせたくないの。私のせいで総司が何かを失うのは、一番耐えられないの』
総司が私を抱きしめた。
その腕の中は、いつもみたいに温かい。
でも今日はいつもよりずっと切なさが詰まっていて、わたしの肩に顔を埋める総司の呼吸が、ほんの少しだけ震えていた。
「僕はどんな形でもいいから君の傍にいたい。たとえ王太子の妃になるって決まってても関係ない。だって、傍にいれば君の声を聞けるし、笑った顔を見れる。困ってたらすぐに助けに行けるし、泣いてたらこうして抱きしめてあげられる。でも……もし離れてしまったら、それすらできなくなる。君が何を考えてるのかも感じられなくなって、僕の想いすら届けられなくなる。そうなったら、きっと毎日、僕はもう君に忘れられたんじゃないかって、情けないほど不安になると思うんだ。僕は……そんな毎日なんていらないよ」
『総司……』
「そうなったらもう、生きてる意味もないな……」
真っ直ぐ届いたその言葉があまりにも本気に聞こえて、怖くなった。
私は思わず、震えてしまった指先で総司の服を掴んでいた。
『……そんなこと言わないで……』
「じゃあ、どうして僕を突き放すの?僕がどれだけ君を想ってるか、君だってわかってるよね?」
『知ってるよ。痛いくらいに、わかってる。でも……』
言葉に詰まる。
息をするだけで胸が痛かった。
何も言えないまま下を向いていると、いつもより少し低い総司の声が、不意に降ってきた。
「君が同行を許してくれないなら、この世界はもう終わりにするよ」
その言葉が何を意味しているのか、最初はよく分からなかった。
けれど言葉の端にあった総司の静かな決意が、私の心をゆっくりと凍らせていく。
顔を上げた私に向けられた瞳は、いつもと同じ優しさを湛えたままだったから余計に。
「ここで君を殺して、僕も死ぬ」
総司の表情はあまりにも穏やかで、心臓がどくんと鳴り、指先まで冷たくなっていく。
それなのに私はただ黙ったまま、ベッドの上で身じろぎひとつできなかった。
総司はゆっくりと立ち上がると、隣接されたドアを開けて出ていった。
その姿が扉の奥に消えていくのを、私はただ見ていることし出来なかった。
しばらくして自室から戻ってきた総司の手には、見慣れた彼の剣があった。
細い鞘から少しだけ刃が覗いていて、まるでそのまま何かを断ち切るつもりでいるように見えた。
そして私の目の前に立った総司は、ほんの少しだけ顔を伏せるようにして私を見下ろしている。
その瞳には悲しみと絶望の深い底を宿していて、私のことを大事に想ってくれているからこそ、こんなにも苦しんでくれているのが伝わってきた。
『……総司、本気なの?』
震えそうになる声をどうにか押し殺して言ったその一言に、総司はふっと目を細めて、かすかに首を傾げる。
「本気だよ。だからもう一度聞くよ。僕の同行を許可してくれる?」
こんな方法で首を縦に振ってしまうのは、総司にとっても私にとっても、間違っていると思った。
だから私はそっと、首を横に振る。
ごめんなさいと心の中で何度も呟きながら。
総司の瞳が揺れて、迷いと傷ついた色が滲んでいた。
それでも総司はそれに耐えるかのように瞳を細め、私の肩にそっと手を添えてきた。
私は抵抗することもできず、そのままベッドに背を預ける。
身体が横たわった途端、総司が私の上に跨った。
心臓の音が早くなっていくのはわかるのに、不思議と怖くはなくて。
かちゃりと鞘から剣が抜かれる音と聞きながら、ふと昔のことを思い出した。
騎士団見習いを卒業して、この剣を手渡された時に見せた総司の嬉しそうな顔。
この剣に私の手で名前を彫ったあの頃の日々が酷く懐かしく感じて、瞳にはまた涙が湧き上がった。
「こんな世界、このまま生きていてもまた君が苦しむだけだ。だから、僕が終わらせてあげる。僕が……君を殺してあげるよ」
その声はとても優しくて、まるで子守唄みたいに温かく響いた。
本来なら怖い筈でしかない言葉なのに、どうしてか安心してしまう私がいた。
なぜって私を見下ろす瞳は、その想いが溢れて流れ込んでくるかのようにとても優しい。
この悲しみや苦しみから私を救ってくれようとしていることが、痛いほど伝わってくるものだった。
だからこの人に殺されるのなら構わない。
それで総司の悲しみと苦しみが終わるなら、その方がずっといい。
そしてどうか次に会えた時は、総司と幸せに過ごせる未来が欲しい。
『……うん、いいよ』
言葉にしてみると、少しだけ涙が滲んだ。
総司の構えていた腕がぴくりと震えたのが見えた。
『また……会えるよね?』
「……うん、会えるよ」
『総司、ありがとう。大好きだよ』
これが最期の言葉になるかもしれないのに、不思議と後悔はなかった。
だってこんなに誰かを想えて、こんなにも誰かに想ってもらえるなんて、きっと生きてる中で一番幸せな瞬間だと思えたから。
私はそっと瞳を閉じて、次こそは離れずにいられる世界で出会えますようにと強く強く願った。
でも、いつまで経っても何も起こらなかった。
頬の上にぽたりと落ちた温かいものに気づいて、私はそっと目を開ける。
すると目の前で、総司が泣いていた。
震える手で剣を構えたまま、顔を歪めて静かに涙をこぼしていた。
「……なんでさ……」
掠れた声で呟いたその言葉は、誰に向けられたものだったんだろう。
私に?それとも総司自身?
私が何も言えないままでいると、総司はそっと私の上から身を引いた。
手にしていた剣が、カチャリと音を立てて床に落ちる。
その音がやけに大きく感じて、静まり返った部屋にその重たさだけが残されていくみたいだった。
私に背を向けるように腰を下ろした総司は、顔を隠すように俯いたまま、微かに肩を震わせていた。
泣いている……そう気づいた時、私の瞳にも涙が湧き上がった。
「君を護ることさえできなくて……僕は、何のためにここまで……」
震えた声が胸に突き刺さる。
そして総司がここに来たばかりの頃、必死に鍛錬を続けて自分と戦ってきた姿を思い出した。
全て私のためだったと知ったのは少し前のことだけど、私は今までたくさん総司に支えられてきた。
でも今は、その言葉を口にするには喉が詰まってしまって、うまく声にならなかった。
でもね、私が今こうして生きていられるのは、全部総司のおかげなんだよ。
出会った時もそれ以外でも、危ない場面に何度も遭って、もう駄目かもしれないと思った時だってあった。
でもそんな時、必ず総司が傍にいてくれた。
体を張って私を護って、笑って、冗談を言ってくれて。
そんなふうに命を懸けて私の傍にいてくれようとする人の想いを、どう受け取ればいいんだろう。
私はもう……総司のために何もしれあげられないかもしれないのに。
「僕を勝手に切り離そうとしないで。決めるのは君じゃない。僕なはずだ」
その声は絞り出すように弱くて、それが余計に私の胸を締めつけた。
私が総司を置いてここを出てしまえば、総司は本当に命を絶ってしまうかもしれない。
そう疑ってしまうくらい、今の総司は危うく見えた。
あたたかくて、頼りがいがあって。
強くて優しくて、私が何よりも安心してすがっていた人の背中なのに。
その背中が今は誰よりも傷ついていて、どうしようもなく脆く見えてしまう。
私はたまらず手を伸ばして、その背中にそっと触れた。
『総司……泣かないで……』
言葉が震えてしまって、総司に届いたのかわからなかった。
でも総司の肩が微かに揺れた気がして、私はそっとその背に額を預ける。
その体温を肌で感じてしまえば、閉じ込めようとしていた愛おしさが溢れてしまった。
『……本当に、いいの……?私と、これからも一緒に……いてくれるの?』
背中越しに問いかけた私の声に、総司はゆっくりと振り返ってくれた。
瞳が赤く濡れていて、それでも優しく私を見つめるその目が、ただひたすらにまっすぐだった。
「僕は、どんな形でも君の傍にいたいよ」
その瞳はまだ涙の痕を残していたけど、そこには確かに強い想いが宿っていた。
私のために、総司はすべてを懸ける覚悟をしてくれている。
私といることで、どれだけのものを犠牲にしなければいけないかわかってるのに、総司は迷わず私といることを選んでくれていた。
唇をぎゅっと結んで何も言えずにいた私を、総司は抱きしめて頬に触れてくれる。
震える指で涙の跡を拭ってくれるその仕草が優しすぎて、また涙がこぼれそうになる。
「離れるくらいなら、全部背負うよ。君の未来も、君の痛みも。全部、一緒に背負わせて」
その言葉を聞いたとき、堪えられなくなった涙がぽろぽろと溢れる。
そして震える声で、本当の気持ちを口にしてしまった。
『ありがとう、総司……。これからも、私の傍にいて。ずっと離れないでいて……』
心の底にずっとあった本心だった。
誰にどう思われてもいい。
間違いだとしても構わない。
どんな形でも私は総司と生きていきたい。
それが私の出した答えだった。
「……うん、僕はずっと君の傍にいるよ」
総司が、優しく微笑んだ。
その笑顔は今まで見たどんな笑みよりも優しくて温かくて、私の心の深いところまで溶かしてくれるようだった。
総司の顔がゆっくりと近づいてきて、そっと唇が重なる。
互いの想いを確かめるように何度も唇を重ねて、二人だけの時間に身を委ねた。
絶対に離れたくない。
たとえこの気持ちが間違っていたとしても、誰に否定されたとしても、私はこの人と生きていきたい。
そう願う心の奥で、私は自分の中に生まれた悪の心に目を背けた。
たとえどんな未来が待っていても、私は総司の手を離さない。
そう心で決めてしまったこの夜、辿りつく未来に不安を抱きながら、大好きな人の腕の中で眠りに落ちた私がいた。
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