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私の王宮での暮らしが、静かに始まった。
けれどその始まりは、ひとつ深呼吸をしてもまだ胸の奥が締めつけられるような緊張の連続だった。


「セラは今日からこの宮廷の住人だ。父上も母上も君が来ることを望んでいたよ。もちろん俺もね」


王太子殿下に連れられて、国王陛下と王妃陛下の待つ玉座の間へと向かう。
重厚な扉がゆっくりと開いて、長く磨き上げられた床に音もなく足を踏み入れると、遠くに玉座の影が見えた。
心の奥で何度も練習したはずなのに、少しだけ指先が冷たくなるのを感じてしまう。

でも私は、総司と約束した。
彼も今、王宮で必死に努力している。
だから私もこの場所で一歩ずつ進んでいこうと、息を静かに吸い込んだ。


『アストリア公爵家嫡女、セラにございます。このたびは謁見の光栄を賜り、心より感謝申し上げます。我が家門に連なる者として、王家のご厚情に報いるべく、誠心誠意務めを果たす所存にございます』


緊張をまといながら、私は裾を美しく払って膝を折り、床に届くほど深く頭を垂れた。
玉座の間は息を呑むような静けさに包まれ、紅と金を基調とした絢爛な装飾の中、王と王妃の気配だけが厳かに漂っている。
私は背筋を伸ばし目線を床に落としたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
一つ一つの動作を丁寧に、流れるように。
アストリア家の名に恥じぬようにと、何度も練習を重ねてきた礼法だった。


「顔を上げよ、セラ嬢」


国王陛下の声音は低く、よく響いた。
私が静かに視線を上げると、玉座の上で陛下はまっすぐ私を見据えていた。


「……やはり、良い顔をしておるな。薫が選んだ相手がそなたであると知った時、私は心から納得した。良い縁であろうと感じたよ。私もこの縁を後押しして正解だったと感じている」


それは表向きは称賛の言葉だったけど、それと同時に君は王家にふさわしいと見込まれたのだという、はっきりとした圧力を感じた。


「この婚約が王家とアストリア家、そして我が国にとって良きものであることを余は願っている」

『有難きお言葉、身に余る光栄にございます。何卒、今後ともよろしくお願い申し上げます』


私の言葉に、陛下は小さく頷かれた。
そして隣に控える王妃陛下が、静かに口を開かれた。


「お会いできて嬉しく思いますわ、セラ嬢。あれ程婚約を嫌がっていた薫が、自ら一人のご令嬢を選んだと聞いた時は正直少し驚いたの。けれどこうしてお顔を拝見して納得いたしました。やはりとてもお綺麗な方ですのね」


その声は柔らかく微笑みもたたえてはいたけど、その瞳の奥には何かひやりとしたものがあった。
まるで薄い氷の張った湖面のように冷たくて、美しい。
柔らかな絹の手袋で撫でられながら、その下に棘が隠されているような、そんな感覚。
王太子殿下と千鶴様は、王妃殿下によく似ているように感じられた。


「これからはあなたもこちらの者になるのですから、ふさわしい立ち居振る舞いを自然に身につけていかれることを願っておりますわ」

『ありがとうございます。王妃陛下のお言葉、深く胸に刻ませていただきます』
 

私の声は静かに揺れたけれど、笑顔は崩さずにいた。
ふと隣を見ると、殿下はどこか楽しげに私を見ていた。
まるで私の反応一つ一つを観察しているかのようで、少しばかり居心地が悪かった。


「堂々としていたね。さすがだよ、セラ。その姿勢、父上と母上もきっと気に入ったと思う」


部屋を下がったとき、ようやく肩の力が抜けて小さく息を吐く。
そんな私に声を掛けてくれた殿下にお礼を告げて、再び廊下を進んでいった。


「じゃあ次は、部屋に案内してあげるよ」

『殿下がしてくださるのですか?』

「お前はよく頑張ったからね、特別だ」


殿下はいつになく悪戯な笑みを浮かべると、私の手を取り少し早足で歩いて行く。
殿下ですら国王陛下と王妃陛下の前とは様子が違うから、その少しはしゃいでも見える姿に私は微笑みを浮かべた。


「さあ、入って。今日からここがお前の生活する部屋だ」


案内された部屋は二面の窓から光が差し込む広々とした空間で、天井には細やかな金の装飾、白を基調とした壁と床には繊細な刺繍の入った絨毯。
机も椅子も、棚もドレッサーも、まるで絵本の中に出てくるような調度品ばかりで思わずため息が出てしまった。


『ここが……私のお部屋?』

「どう?気に入った?」

『はい、とっても素敵です』


小さな声でそう呟いた時、近くに控えていた侍女の方が微笑んで頷いた。


「セラお嬢様には、今後はこちらでおくつろぎいただきます。何か足りないものがあればすぐにご用意いたしますので、どうぞご遠慮なくお申し付けくださいませ」


にこやかな笑顔が、少しだけ緊張を和らげてくれる。
けれど鏡の前に置かれていたドレスの数々を見た時、思わず息を呑んでしまった。

淡いラベンダー、薔薇色、金糸を織り交ぜた白。
どれもふんわりと広がるスカートに、繊細な刺繍が施されていて、裾を少し持ち上げるだけでもきらきらと光を反射する。


『こんなにたくさん……とても綺麗……』


私がぽつりと呟くと、侍女の方が丁寧に説明をしてくださった。


「こちらは日常のお召し物でございます。今後、朝の集いや茶会、晩餐会など、それぞれの場面に合わせてご用意しておりますよ」

聞いているうちに頭がふわふわしてきてしまって、つい小さく首を傾げた。


『私、ちゃんと着こなせるのでしょうか……』

「大丈夫です。お手伝いいたしますので、ご安心くださいませ」


大丈夫、とは言っていただけたけど、やっぱり少し不安でその場に立ち竦んでいると、その様子を見ていた殿下がくすくすと笑い出した。


「あははっ、なんでそんなに不安そうなの?」

『お部屋もドレスも何もかも私には立派過ぎて……緊張してしまうんです』

「そんな必要はない。これなんてお前によく似合いそうだ」


殿下は白いドレスを一着手に取ると、私にあてて微笑んだ。


「ほら、似合ってる。綺麗だ」


侍女の方が直ぐ傍で聞いているのに、綺麗だなんて言われたら反応に困る。
思わず目を逸らして「ありがとうございます」と呟くと、殿下は眉尻を下げてまた笑っていた。


「まあ、最初は居心地悪いかもしれないけどそのうち慣れるよ。お前が一日も早くここでの暮らしを楽しいと思ってもらえるように、俺にできることならするつもりだ。だからあまり構えなくていいよ」


いつか王宮での暮らしに慣れて、ここで過ごす毎日が当たり前になったら、この場所も居心地の良いものに変わるのかな。
毎日が楽しいと思えるようになるのかな……。
今の私にはそんな日々はうまく想像もできないけど、こうして私のために優しい言葉をかけてくれる殿下の気持ちには応えたいと思う。
一生懸命に学び、王太子妃としての役割を精一杯こなしていかなければと考えていた。


『ありがとうございます。一日も早くここでの生活に慣れるよう、日々精進していきたいと思います』

「だからさ、なんか硬いんだよね。俺と二人の時は作法とか言葉遣いとか、あまり気負わないでくれる?俺だって使い分けてるんだから、お前も学院にいる時のように気兼ねなく接してよ」

『ふふ、わかりました。ではお言葉に甘えて、殿下と二人の時はいつも通りにさせてもらいますね』


その後、公務があると言って殿下が部屋を出て行かれてから、しばらくの間私は部屋を見て回っていた。
ベッドの大きさにも目を瞬いていた時、不意に部屋の扉がこんこんと控えめに鳴った。


『はい?』


そっと扉を開けると、そこに佇んでいたのは、見慣れない一人の騎士だった。
茶色の髪が光をうけてやわらかく揺れ、瞳は深いヘーゼル色をしている。
けれど不思議と鋭さはなく、むしろ涼やかで澄んだ印象を与えていた。
そのまなざしの奥にひんやりとした静けさを宿しながらも、どこか総司に似た雰囲気を感じさせる背の高い男性だった。
その人は軽く微笑むと、一歩こちらに近づき、丁寧な所作で頭を下げてくれた。


「初めまして。僕はセトと申します。このたびご縁がありまして、しばらくの間、貴女様の護衛を務めさせていただくことになりました」


その物腰は柔らかく、声質もどこか総司と似ている。
だからふと総司を思い出し、無性に会いたくなってしまった。


「これまで王女殿下の近衛騎士を務めておりましたが、王女殿下のご意向により本日から護衛交代までの期間、王宮内の移動の際は同行させていただきます。至らぬところもあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」


静かな声が部屋に落ちる。
その響きに私はすぐに背筋をのばし、少しだけ緊張を込めて彼に向き直った。


『はじめまして。アストリア公爵家が娘、セラと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします。王女殿下の近衛の方に、私のような者をお守りいただけるなんて、身に余ることで恐縮ですが、よろしくお願いいたします』


言葉を選びながらも、できるだけ笑顔をたたえて伝えると、セト様はふっと微笑を深くし、ほんのわずか目を細めた。


「光栄なのはこちらの方です。セラ様のことは、お噂で存じております。安心して僕にお任せください」


そう返してくださった声も、言葉の調子も穏やかで落ち着いた人だという印象を受けた。
きっと、信頼して大丈夫な人なのだと思う。
ただその佇まいに総司の姿がほんの少し重なって見えて、私は気づかれないように小さく息を整えた。

これから先、総司がここに来るまで、私はこの人と行動を共にすることになる。
あとどのくらいで総司に会えるのだろうと考えながら、微笑みの奥で総司のことを思い浮かべていた。



そしてその日の夜。
城内の見学を終えた私が自室へと戻ると、湯浴みの準備がすぐに整えられた。
案内された浴室にはこれまで見たこともないような大理石の大きな浴槽があって、その広さにもそっと息を飲んでしまった。


『あの、自分でできますから大丈夫ですよ』

「ですが、お身体を冷やさぬうちにお背中をお流ししたいのですが」

『え……あ、ありがとうございます……』


慣れない侍女の方々の手に戸惑いながらも、お礼を伝えて、身を任せるしかなかった。
この場所での生活は、間違いなくこれまでとはまるで違う。
誰もが私を姫のように扱ってくださって、細やかな気配りをしてくださるけど……それがまた、なんとなく居心地の悪さにも繋がっていた。

私は今、学院を休学して、しばらくの間この王宮の中で暮らすことになっている。

それは私だけじゃなく総司も同じ。
彼も私の護衛としてここに来たけど、正式な任務に就くまでには研修期間が必要で、その間はお互いに自由に会うことは許されていなかった。
それが今、とても寂しい。

公爵邸にいた頃は、少し離れた場所にいても、気配を感じるだけで安心できたのに。
今は広すぎる王宮の中で、総司がどこにいるのか全くわからない。

もしかしたらすぐ近くにいるのかもしれないのに……そんなことを考えてしまうのも、少し切なくて。
湯上がりに侍女の方が用意してくださったガウンに身を包みながら、私は窓辺に座って、そっと空を見上げた。


『……総司』


誰にも聞こえないように、大好きな人の名前を呼んでみる。
返事はないけど、心の中で総司のやさしい声が思い出された。

彼に会えない夜は、こうしてそっと名前を呼んでしまうのかもしれない。
それだけで少しだけ心があたたかくなるから、これくらいなら許されるよね。

総司に早く会いたい。
その想いを胸の奥にそっとしまって、明日からの日々を懸命に生きようと唇をきつく結んだ。


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