5
王宮に来て早いもので五日が経った。
王宮独特の雰囲気にも思った以上にすんなり馴染み、そんな自分に少しうんざりした。
思い出したくもない前の世界の記憶が、勝手に蘇ってくる。
一年半の間、王女の近衛騎士として過ごしたこの場所は、僕にとってはほとんど牢獄のような場所だった。
どこまでも綺麗で完璧で、よどみのない建物。
規則と礼節に縛られた会話、剣の音さえ計算されたように響く訓練場。
外から見れば整然とした理想の秩序に見えるのかもしれない。
けれどその内側はどろどろとしていて冷たくて、どこまでも人間臭かった。
誰かを蹴落とすための言葉が微笑みの中に紛れ、上に立つ者にだけ都合のいい論理がまことしやかに語られていく。
そんな場所にセラを一人で送り込むなんて、絶対にしたくなかったからこそ僕は再びここに来た。
でも以前と違うのは、僕はセラを護る彼女の近衛騎士としてここにいられていることだった。
とは言え、今の僕は新任の扱いとして、王宮内での規律や儀礼を一から学び直す立場にある。
居住区に身を置きながら、王族に仕える者としての心得や、各部署の権限関係、王宮警備隊との連携などを順を追って叩き込まれる。
表向きはそういう建前だ。
けれど本当は、もう全部知っている。
この王宮の動線や規則も、部署の力関係も、上層部の人間がどんな癖を持っているかも、すべて記憶の中に刻まれている。
だから僕が今行っているは習うことじゃない、どれだけ自然に習っているふりをするかだけだった。
正式な近衛としての任命が下りるまでには、通常であれば一ヶ月、長ければ二ヶ月はかかる。
けれど、僕はそんなに時間をかけるつもりはやい。
必要な知識がすべて頭に入っている今、あとはどう動くかだけだ。
急ぎすぎて目をつけられるわけにはいかないけど、のんびり構えていられるほどここは安全な場所じゃない。
セラを護るためなら、王宮の規律も、訓練も、役目も全部受け入れる。
今ここにいる以上、僕がやるべきことはひとつしかなかった。
そんな僕の配属先は、以前の世界と同じ王宮騎士の中の直属近衛隊。
王太子殿下をはじめ、王族の中でもとくに要職にある者たちに仕える騎士たちが集められた、王宮でも選ばれた者だけが入る機関だった。
ここにいる騎士たちは、誰もが一級か特級持ちで、剣の腕も学識も申し分なく、礼儀作法に至ってはまるで王宮で育てられた人形みたいに完璧だった。
そして騎士達に共通して言えることは、皆見目が整いすぎている。
すらりとした立ち姿、整った顔立ち、隙のない制服の着こなし。
彼らを見ていると、戦うためだけの強さだけではなく、見られることまで含めた完成度が求められているのがよくわかる。
前の世界で王女の近衛をしていた時も、まるで舞台役者のように整った人間ばかりが集められていると感じていた。
見た目で騎士を選ぶわけじゃないと誰もが言うけど、実際はそうじゃない。
ここでは、理屈よりも王族のそばにふさわしい姿が優先される。
そんなくだらない現実に再び向き合わされるのかと思うと、正直うんざりしてしまった。
そして今日は、王宮に入ってから初めてセラの姿を目にする機会だった。
近衛騎士になるための研修を受けている僕は、まだ正式な任官を受けていない身分だけど、今日は例外的に控えの列に立つことを許された。
それは王族や高官、そして直属の近衛隊などのごく限られた者のみに知らされた非公開の紹介儀礼。
王太子が妃候補としている令嬢を内々に保護下に迎え、表向きは妃教育を受けるための滞在として扱われているものの、実質はそれ以上の意味を持っていることは誰の目にも明らかだった。
儀礼の場は王宮の奥にある、装飾を抑えた静かな応接間だった。
集まったのは二十数名ほど。
無駄な言葉もなく、空気はどこか冷たく、静謐に満ちていた。
けれど緊張した空気の中、セラが姿を現したその時、何の前触れもなく胸の奥が掴まれたような感覚に陥った。
純白のドレスに身を包み、柔らかな巻き髪を揺らして現れたセラは、まるで夢の輪郭だけをまとったように儚く、目が離せないほど愛らしかった。
少しだけ緊張の混じった儚い表情や控えめに伏せられた睫毛の影ですら、言葉では言い表せないほど目を惹く。
セラは王太子の隣に立つと、ふと視線を上げ深く一礼し、柔らかく落ち着いた声を響かせた。
『このたび、王宮に滞在の機会を賜りました、アストリア公爵家のセラと申します。このようなご配慮を頂きましたこと、心より感謝申し上げます。まだ学ぶべきことの多い身ではございますが、与えられた務めに誠実に向き合い、節度を忘れず日々を重ねてまいりたいと存じます。至らぬ点も多々あるかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます』
聞き心地の良い淀みのない声音は、あどけなさの残る甘さと共に、どこまでも静かに空気を震わせた。
たったひと言の挨拶だけで、そこにいた人々の意識は自然と引き寄せられ、その視線は一斉に彼女に向けられていた。
誰もが息を呑みその場に立ち尽くしたまま、瞬きすら惜しむように見惚れている。
その中の一人が僕だったのは、言うまでもなかった。
手を伸ばせば届くようでいて、触れられない現実の向こう側にいるような、そんなもどかしさがあった。
白いドレスに包まれて静かに微笑みを浮かべるその姿は、まるで別の世界の人みたいで……正直眩しすぎるほどだった。
ずっとあんなに近くにいたのに、今のセラは遠い。
その姿が見えるのに手は伸ばせない現実を知れば、胸が苦しくなって、思わず目を伏せそうになる。
それでも、僕は誰よりもずっとセラを見ていた。
あの子がどんな場所に立っても、僕の中で変わらないものがあると、そう信じたくて。
するとセラの睫毛がわずかに揺れた。
どこかを探すようにそっと視線を泳がせたその瞳がまっすぐに僕をとらえると、一瞬時間が止まったような気がした。
あの子は確かに僕を見ていた。
その瞳が僕を探してくれていた。
驚いたようにほんの少し目を見開いて、それからすぐに照れたように愛らしい笑顔を向けてくれた。
小さな微笑みだったけど、その一瞬に全てが詰まっていたように感じられた。
この先どれほど辛いことが待っていても、心が折れそうな時が訪れても、多分僕はこうしてまたセラに笑いかけられるだけで、あっさりと立ち上がってしまうんだろう。
もう一度同じように、心を奪われてしまうんだと思う。
そんな自分が少し情けなくて、でも同時にどうしようもなく愛おしかった。
あの子の笑顔がある限り、きっと僕は何度だって立ち上がれる。
彼女の心が、自分に向けられていると信じられる限りは何度でも。
ゆっくりと息を吐く。
胸に広がる温かさと光のような希望が、静かに僕の中に灯っていくのを感じていた。
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