6
王宮に来てから二週間と数日。
日々の研修は順調に進んでいて、あと数日もすれば研修期間を終えられる、そんな見通しがようやく立ちはじめた頃だった。
午後の任務を終えて通りがかった外回廊。
陽が傾きかけた時間帯で、人影もまばらな石造りの通路の向こうに、見覚えのある横顔を見つけた。
歩いていたのはセラだった。
騎士を一人連れて、妃教育の授業へ向かっている途中なのだろう。
一歩ずつ丁寧に進むその姿は、少し前まで一緒にいたセラの面影と重なりながらも、どこか凛とした大人びた雰囲気を纏っているようにも見えて、ほんの数秒目にしただけで胸の奥が締めつけられるのを感じた。
セラは足を止めて手にした紙に目を落としたかと思うと、隣の騎士に声をかけていた。
『あ、そう言えば、前回のレッスンの時に次回はこちらのお部屋で授業を行うと先生が仰っていました』
「ダリアの間、ですね。ここですと、いつもの場所とは反対の方向ですよ」
『そうなんですね。ごめんなさい、気付くのが遅くなってしまって』
「構いませんよ。まだ時間もありますし、ゆっくり向かいましょう」
『ありがとうございます』
会話の内容は他愛ないものだったけど、聞き慣れたセラの声が耳に届くたび、心がざわついて仕方がなかった。
久しぶりに見る姿があまりに綺麗で、どこか遠くへ行ってしまったように感じてしまう。
でも今はそのことよりも気にかかるものがあった。
隣にいた騎士の顔には見覚えがある。
前の世界で王女の近衛をしていた男だ。
敵意を向けられたことは一度もないけど、穏やかな顔の奥に潜んだ人を値踏みするような瞳が印象に残っている。
「王女殿下は君のことを大層お気に召しているそうですね」なんていうことを、いかにも楽しげに笑いながら言ってきた。
そして今、僕以外の男がセラのすぐ傍に立っている。
その事実がどうしようもなく気に入らなかった。
『では、行きましょうか』
今の僕の立場ではその手を引くことも、名前を呼ぶことすら許されない。
それでも一秒でも長くセラを見つめていたくて、視線だけは逸らせなかった。
でもそのときだった。
男が何気ない仕草で胸元のペンを落とした。
わざとじゃないと誰もが思うだろう。
でもその動作はあまりに自然で滑らかだったのに、僕の目にはそうは映らなかった。
だから一体何の意図があってそんなことをするのかと眉を寄せたけど。
落ちたペンがセラの足元へ転がると、彼女は綺麗な所作で、迷うことなくそれに手を伸ばした。
『あ、ペンが……』
広がるスカートの影から伸びる細い指。
俯いた彼女の胸元が浅く覗く角度になったその瞬間、男の視線がそこへ向かっていた。
逸らすことも、気づかれないように伏せることもせず、ただじっと見下ろしていた。
そしてほんのわずかに口元が動き、笑ったのだと気づくまでにさほど時間はかからなかった。
「セラ様のお手を煩わせてしまい申し訳ありません」
『いいえ、大丈夫ですよ。はい、どうぞ』
「ありがとうございます」
セラは何も気づいていない。
その笑みがどんな意図に晒されたものかも、あの男の視線がどこを辿ったのかも何も知らないまま、いつも通りに優しく微笑み礼儀正しく言葉を返していた。
それが余計にやるせなくて、ただ黙ってその場に立ち尽くしている自分が、歯痒くてたまらなかった。
今のように誰かが彼女の優しさに甘えていいと勘違いするのなら、いずれ必ずその錯覚が間違いだったと思い知らせてやる。
あの笑顔を踏みにじるような奴だけは許せないと、その男を睨みつけていた。
そしてその日の夜、訓練場に顔を出すと着替えや装備を行うアーマリーホールには二人の騎士がいた。
ホールに入る手前で僕が一度足を止めたのは、そのうちの一人がセラの護衛をしていたあの男だったからだった。
「セトさんはいいですね、アストリア家のご令嬢の近衛だなんて。羨ましいですよ」
「そう言われても、これは王女殿下の御命令だからね」
「実際護衛をしてみてどうなんです?」
「凄く素敵な方だよ。優しいし女性らしいし、傲慢な態度は一切取らない。それに笑うと本当に愛らしくてさ、彼女のような人には初めて出会ったよ」
会話だけ聞けば、主人に忠誠を誓った騎士としての普通の言葉だ。
でも僕は先程見たあの光景が忘れられない。
そしてもう一つ、この人選が王女の指示だということにも引っかかりも感じた。
「セトさんがそんなことを言うなんて珍しいですね、余計に羨ましくなるじゃないですか」
「けれど僕だってずっと彼女の護衛をできるわけじゃないからね。アストリアから一人、彼女の護衛をしていた騎士が赴任されたから、僕はそれまでの繋ぎに過ぎないし」
「ああ、確かにそうですよね。でも珍しいですよね?こちら側で近衛騎士を選抜するのが通常ではないですか?」
「まあ、僕も詳しくは知らないけど。でも、できることならこのまま彼女の近衛を続けていたいよ」
「そんなにいい方なんですか?」
「そうだね。あまり表では言えないけど、可愛い人だよ、本当に。たまに自分が騎士だということを忘れそうになるくらいにね」
「そんな……さすがにそれは王太子殿下に聞かれたらまずいですよ」
「はは、確かにね。まあ、他意はないってことにしておいて」
穏やかな口調、正直に話しているような態度。
でもあいつの心の内は、そんな純粋なものではない筈だ。
僕は胸糞悪い気分で一つ息を吐き出し、アーマリーホールの中へと足へ進めた。
「……あ、お疲れ様です」
もう一人の騎士が、僕に気付き頭を下げる。
僕もとりあえず言葉を返し装備の調整を行おうとすると、セトと呼ばれた男が僕の方へと歩いて来た。
「はじめまして、僕はセトと申します。君は確かアストリア騎士団から赴任された方ですよね?」
笑顔で声をかえてきたそいつは、ちらりと僕の胸へと視線をやる。
恐らく僕の騎士階級を確認したのだろう。
彼の胸にも僕と同じ騎士階級特級のバッジがつけられていた。
「はい、そうですよ。僕は総司と申します、よろしくお願いします」
「総司君、ですね。こちらこそよろしくお願いします。僕は王女殿下の近衛を務めていましたが、今はセラお嬢様の近衛を担当させて頂いてるんですよ」
「そうなんですね。お嬢様がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。総司君は、研修の方は順調ですか?」
「ええ、お陰様であと数日もあれば研修も終えられそうですよ」
「それはまた……随分と早いですね」
「ええ、一日も早くお嬢様の護衛に戻りたいので」
だからお前があの子の近衛でいられる期間はあと僅かだ。
そう心の中で唱えながら微笑めば、僕達の話を横で静かに聞いていたもう一人の男が不意に口を開いた。
「なんというか、お二人は雰囲気がとても良く似てらっしゃいますね」
……は?似てる?
思わず眉を顰めてセトと呼ばれる男を見れば、彼も一瞬だけ怪訝そうな顔をしたものの、すぐにまた作り笑いを浮かべた。
「僕と沖田君って、そんなに似てるかな?自分ではわからないけど」
「似てますよ。見た目や声のトーンもそうですが、全体的な雰囲気なんかが特に。それを知っていて、王女殿下はセトさんを護衛に任命されたのかもしれないですね」
僕も自分ではよくわからない。
というより、似ててたまるかという心情の方が強かった。
「まあ……王女殿下は総司君のことをよくご存知なようだったからね」
そう言って再び僕を見つめたセトは、小さく笑うと僕に言った。
「総司君は大変野心の強い方だと聞いていますよ。だからここへ?」
あの王女とこの世界でまともに言葉を交わしたのは、学院の仮面舞踏会での一度だけだ。
彼女は僕のことを、忠誠心はないのに野心だけはある騎士だと思っているだろう。
それをセトにも吹き込んでいたとしたら、こいつの視線にうっすらと滲む見下すような色にも納得がいく。
「いえ、僕はただお嬢様をお護りするためにここへ来たんですよ」
「あれ?そうなんですか?てっきり王女殿下の近衛になることを希望されているのかと思っていました」
「それはまた、どうしてです?」
「特に深い意味はありませんよ。ただ、王宮に勤める騎士なら王女殿下の近衛になりたいと夢見る者は多いですから」
「んー、僕は興味ないですけどね」
「それはさすがに、王女殿下に対して失礼な発言だと思いますよ。それに総司君は一度王女殿下に自分を近衛にしてほしいと、頼んだことがあるそうですね。要望が叶わなかったからといって、興味がないと言い捨てるのは王宮の騎士としていかがなものでしょう?」
僕を試してるのか、それともただの皮肉屋か。
あるいはセラの傍にいる自分の立場を、僕に誇示したかっただけなのか。
彼の笑顔が胡散臭いほど綺麗に整っているのが、逆に何より雄弁だった。
「申し訳ありません、言葉が良くなかったですね。ですが僕は純粋にセラお嬢様をお護りするためにここに来たんですよ。なのでその他のことは考えていないと言いたかっただけです」
そう返すとセトは一瞬口元を引き結んだ後、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「なるほど。ですが……もし宜しければ、王女殿下の近衛を目指されるという選択肢も考えてみてはいかがでしょう?」
唐突な提案に、手にしていた鞘の調整が止まる。
「僕が王女殿下の近衛にですか?」
「ええ。やはり折角王宮に上がられたのであれば、一度は王家の方に就かれてみるのも良い経験になると思うんですよね」
涼しい顔で言うセトに、喉の奥で静かに息を吐く。
「それはありがたいお話ですけど、僕には分不相応だと思いますよ。王女殿下の近衛になれるほど、僕は器の大きい人間ではありませんから」
やんわりと断るつもりで言葉を返すと、彼は小さく肩を竦めて見せた。
「それは謙遜では?僕から見れば、総司君のような野心の強い方こそ相応しいと感じますけどね。正直なところ、セラお嬢様の護衛だけで終わってしまうのは、あまりにも狭い役目だと思いますし」
「……狭い役目、ですか」
声の調子は抑えたままだけど、内心では既に苛立ちがじわりと広がっていた。
「もちろん、僕はセラお嬢様にとても好感を抱いていますし、日々の護衛にもやり甲斐を感じています。ですが……そうですね、セラお嬢様の護衛は、誰よりも繊細な感性と、穏やかな対応力が求められる。僕にはそれが合っていると思っているんです」
ちらりと、こちらを横目に見ながら言葉をつなぐ。
「その点、総司君はもっと大舞台で力を発揮できるお人柄ではないでしょうか?君ほどの人材が、一人の方の護衛で終わってしまうのは経験の面で言っても勿体無いのではないかなと……そう思うんですよ」
一見穏やかで理にかなった提案のように見えるけど、その本音ははっきりしていた。
セラの傍に立ちたい、だから僕には他の場所へ行ってほしい。
その願望が言葉の節々に滲んでいたから、僕は面倒に思いながらも苦笑混じりに返した。
「僕はそれほど野心家ではないんですけどね」
「総司君は王女殿下の近衛では、ご不満ですか?」
……これは、簡単に答えられる質問じゃない。
不満だと言ってしまえば、王女殿下に対する冒涜になる。
だからと言って光栄ですと言えば、それこそセラを手放すような言葉になってしまう。
「難しい質問ですね。なぜなら僕をセラお嬢様の近衛にと仰ってくださったのは、王太子殿下なんですよ」
言葉を選びながら、微笑んだまま返す。
「僕の立場は、殿下のお考えとご命令によって定められたものです。勝手に他の役目に移るなんて、僕にはとてもできませんよ」
やわらかく、けれどきっぱりと。
その場を壊さずに、一歩も引かない返答を選んだ。
「……なるほど。つまり君にとって大切なのは命令ということですか」
セトの声は少しだけ低くなったけど、すぐにまた柔らかい口調に戻る。
「まあ、それも騎士としては正しいあり方ですね。失礼しました、強く勧めすぎましたね」
「いえ、ご提案どうもありがとうございます。考えるきっかけにはなりましたよ」
やり過ごすために表向きは笑って見せたものの、夕方に見たこの男の行動や今の言葉は僕を苛立たせるものでしかなかった。
こんな奴にかまってる暇なんて僕にはないし、僕にはまだやるべきことが沢山ある。
それなのに、こいつ……邪魔だな。
「とは言え、また気が変わりましたらいつでも仰ってくださいね。僕から王女殿下に口利きをすることも可能ですので」
僕が王女の近衛をしていた時とは違って、今回はやけに必死に話しかけてくる。
その理由がはっきりしていたからこそ、この男には嫌悪感しか抱けなかった。
あと数日で研修が終わるというのに、こんなところで足を引っ張られたら最悪にも程がある。
こいつが余計な行動をしないことを願いながら、去って行く後ろ姿を睨んでしまう僕がいた。
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