8
王宮での生活が始まって、もうすぐ三週間。
朝の光の色も廊下を渡る風の香りも、公爵邸にいた頃とは違うもののように感じていた。
薄絹の手袋を外しながら私はそっと日記帳を開いて窓際の椅子に腰を下ろす。
教本の重みに少しだけ肩がこわばっているのを感じつつも、机の上に置かれた講義のノートに視線を落とした。
『今日は、式典における王妃陛下の立ち位置と、来賓国への献辞について学びました』
小さく書きつけてみて、私は心の中でそっと繰り返す。
こうして流れるように毎日を送っているけど、まるで違う世界に足を踏み入れてしまったみたいに感じられた。
かつて公爵邸で学んでいた礼儀作法や舞踏の稽古は、今思えば育ちとしての証明のようなもので、それがそのまま王太子妃としての資質にはならないのだと、すぐに思い知らされた。
午前の講義では、王室内での敬礼の順序、陛下の御前に進み出るときの所作、他国使節との公式晩餐での一礼の角度まで、細かく指導を受けた。
女官長は「顔を下げすぎては屈しているように見えます。次期王妃としての誇りを保ちなさいませ」と言って、私の指先の揃え方にすら目を光らせる。
けれど決して意地悪な人ではなくて、その指導の奥にある王宮の緊張感を、私は日ごとに感じ取っていた。
午後には外交儀礼の先生から、ルヴァン王国と周辺諸国の通商条約や、王族同士の縁組が国に与える影響などの講義を受けた。
本に書かれた言葉ではなく、実際に命と国を動かす重みを伴った現実の知識だった。
「貴女はただの飾りではありません。国の顔になっていただきます」という先生からの一言に、思わず背筋が伸びたのを覚えている。
本当に私はこの場所にふさわしいのかな。
そう悩みながらも、不思議なことに不安と同じくらい心の奥には熱のようなものが灯っていた。
この国の未来に、私の言葉や立ち居振る舞いが影響を持つかもしれないということ。
それはまだ少し怖いけど、誇らしいとも感じてしまう。
それにきっと毎日を必死に生きているのは私だけじゃない。
王宮にいる総司も、離れても変わらず心を寄せてくれる皆も、きっと同じように前を向いて日々を懸命に生きている。
まだ知らないことばかりの毎日だけど、それでも私の歩みはここに続いているから、努力を怠ることはしたくないと口元に笑みを浮かべた。
そしてその夜、寝支度が整い侍女の方々がお部屋から出て行くと、ようやく一人になれるホッとした時間がやってくる。
今日学んだことの復習をしておこうと教本を開いたものの、頭の中ではふと総司のことを思い浮かべた。
『総司……』
ここに来てから、総司と言葉を交わすことは一度もなかった。
その姿を見ることが出来たのも、紹介儀礼の時の一度きり。
こんなに離れたことは初めてだったから、寂しさはどうしても拭えなかった。
今日はいつも護衛をしてくださっていたセトさんに代わり、また別の騎士の方が護衛としてついていてくださったけど、総司はいつごろ研修を終えるんだろう。
『会いたいな』
だって総司に話したいことが沢山ある。
朝も夜も毎日沢山伝えたいことがあるのに、今は大好きな総司の名前を呼ぶこともなくなってしまった。
公爵邸にいた頃は声を聞くこともその手で触れてもらうことも当たり前だったのに、今はもう顔を見ることさえ叶わない。
わかっていたこととは言え悲しいという気持ちは湧き上がってきてしまうから、以前までの日々が恋しくなって視界が歪んでいくのを感じた。
けれどそんな時、部屋の扉が二回ノックされる音がする。
こんな時間に誰……?
私は目元の涙を拭うと、重厚な扉から顔をそっと覗かせた。
「良かった、まだ起きててくれて」
『殿下……』
「遅くに悪いね。今、少し平気?」
『はい、大丈夫ですよ。どうぞ』
婚約が決まってからも、私と殿下の関係は何一つ変わっていない。
学院で過ごす時のように、一人の友人として他愛のない話をする程度だった。
殿下は日々公務などで忙しいらしく、顔を合わせるのもこうして彼が部屋を訪れた時くらい。
でも今の友人としての関係が、私にはちょうどよかった。
「勉強してたの?」
『少しだけ。暗記ものは夜寝る前に勉強すると頭に入り易いと聞いたので』
「お前は真面目だね。頑張るのは感心だけど、あまり無理はしないでいい。時間はたくさんあるからね」
『お心遣いありがとうございます。でも無理はしていませんよ、知らないことを学べるのは楽しいですから』
それに何かに熱中していた方が今の寂しい気持ちも紛らわすことができる。
そんな気持ちで勉強するのは邪道なのかもしれないけど、仕方ないよね。
「ほら、こっち。座って」
笑顔で一度頷くと、私は殿下の隣へと腰掛ける。
けれどソファーの上、隣に座るだけで少し緊張するから、無意識にも離れて座ってしまう私がいた。
「いつも思うんだけど、遠くない?」
『え?そうですか?』
「そんなに警戒されると複雑なんだけど」
『別に殿下のことを警戒しているわけではないですけど……』
「あとその呼び方も。いい加減、名前で呼んでよ」
確かにいつまでも殿下と呼ぶのは堅苦しいかもしれない。
名前くらいならと、私は再び口を開いた。
『では薫様、とお呼びしますね』
「様とかいらないよ、二人の時は薫って呼んで」
『いえ、薫様で』
「なんで?沖田のことは総司って呼んでるよね」
『そうですけど……』
「薫って呼んでくれないと返事しないけど」
その少し子供みたいな物言いは、まるで総司が言いそうな言葉だったから私は思わず小さく笑ってしまった。
「何に笑ってるんだろうね」
『薫様が可愛いことをおっしゃるからですよ』
「だから、敬称はいらないって言ってるだろ」
『それはもう少し慣れてからで。今はまだ、薫様と呼ばせてください』
薫様はため息を一つ吐きながらも「わかった」と言って納得してくれたらしい。
私は少しばかり安堵しながらも、目の前に用意したお水を一口飲んだ。
「そう言えば、お前についてる騎士はどう?」
『セトさんですか?とても親切で優しい方ですよ。ですが今日は途中から他の方が護衛してくださいました』
「ああ、あいつは怪我をしたからしばらくは任務を休んで療養することになったんだ」
『怪我……?セトさんのお身体は大丈夫なんでしょうか?任務か何かで怪我をされたのですか?』
私がそう尋ねると、殿下は何故かくすりと含みのある笑い方をする。
「任務ではないよ。強いて言うなら……そうだね、喧嘩をしかけた相手が悪かったってところかな。傷はさほど深くはないから、療養すれば問題はないみたいだけど」
セトさんが喧嘩?王宮で?
意外過ぎる返答に思わず目を瞬くと、薫様そんな私を見て再び笑っていた。
「セトは千鶴が選んだんだよ。沖田に似てるから、きっとセラも気に入るだろうってね」
確かにセトさんを一目見た時は、雰囲気が少し総司に似ていると思った。
けれど実際は全く違って、今は少しも似ているとは思えない。
総司の瞳はあの人よりもずっと誠実で優しいと思ってしまう私がいる。
『千鶴様のお心遣いに感謝です。今度お会いした時にお礼をしたいのですが、なかなかお会いできなくて』
「ああ、千鶴は今少し体調を崩していてね。また元気になったら話し相手にでもなってあげてよ」
『はい、それはもちろん。でも千鶴様、お身体のほうは大丈夫でしょうか?心配ですね』
「いつものことだから大丈夫さ。千鶴は体調のことを言われるのが嫌いだから、セラもあまりそのことに触れないでやってほしい」
『わかりました、そのように致しますね』
「悪いね」
こうして言葉を交わす時間が増える度に、薫様のことがわかってくる。
けれど私は、こうなった今でさえ薫様との未来をうまく想像することができなかった。
王太子妃になることよりも、この人の妻として生きることの方が難しく感じてしまう今、この複雑な気持ちとどう向き合えばいいのか自分の中でも答えを出すことができないでいた。
「ねえ、沖田ってどんなやつ?」
ぼんやりと未来のことを考えていると、薫様から不意にそんな質問が投げかけられた。
『総司ですか?どんなと言われても、薫様もよくご存知ではないですか?』
「セラから見た沖田がどんなやつなのか知りたいんだ」
薫様の様子からはその質問に他意はなさそう。
総司のことならいくらでも話せそうだけど、私は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
『総司はとても真面目ですよ。責任感も人一倍あって、自分にも厳しくて、アストリア騎士団の中でも一番の努力家だと思います。使命感が強過ぎてたまに無理をしてしまう時もありますけど、でも……誰よりも信頼できる騎士です』
思ったままの総司のことを伝えると、薫様は苦笑いをして再び私に言った。
「それは騎士としての沖田だよね。俺が聞きたいのは、騎士としてじゃなく一人の人間としてってこと」
その質問の意味をどう受け止めたらいいのか、ほんの少し迷ってしまう。
総司のことを人として語る、それはつまり私の心の奥にあるものに、そっと触れられるような気がしてしまうからだ。
『総司はとてもあたたかい人ですよ。さりげなく気にかけてくれたり、私が元気のない時は冗談を言って笑わせてくれたり。とにかく、とっても優しいです』
そう言った瞬間、薫様がふいに肩を震わせて笑い出した。
けらけらと、子どものように無邪気な、でもどこか皮肉を含んだ笑い方だった。
『薫様?』
私は目を瞬かせて首を傾げた。
けれど薫様はなおも口元を押さえながら、楽しげに続けた。
「へえ、セラの目には沖田はそう映ってるんだ」
『え……どうして、笑われたのですか?』
問いかけた私に、薫様は少しだけ笑みを残しながらも、その瞳をふと細めた。
けれどそれはほんの一瞬で、すぐにまた茶化すような声色で言葉が返ってくる。
「いや、別に。ただ本心でそう思ってるんだとしたらお前は沖田のことをわかってないんだね」
『……え?』
意味の掴めない言葉に、私は思わず聞き返した。
すると薫様は視線を逸らすようにして、独りごとのように呟いた。
「いや、違うな。沖田がセラには見せていないのか」
『どういう意味ですか?』
私の問いに今度は真っ直ぐに目を合わせて、薫様は言った。
「沖田は多分、セラが思ってるようなやつじゃないよ。確かに強いのは認めるし、セラへの忠誠心も本物なんだろうけど」
そこまで言って、わずかに唇の端を上げながら続ける。
「でもあいつは決して優しいとかあたたかい類いの人間じゃない。どちらかと言えば、躊躇わずに人を殺せるような奴だよ」
さらりとした声で、まるで事実を確認するように淡々と。
その言葉に私は少しだけ胸が詰まった。
『そんなことはありません』
思わず口をついて出た否定の言葉だった。
そして同時に胸の奥であの時の光景が蘇った。
初めて出会ったあの日。
私を助けるために、総司はひとり剣を抜いた。
敵を前にしても一歩も引かず、私を庇いながら必死に戦ってくれた。
確かにその時、総司は何人もの人を殺めた。
でもそれは決して快楽でも無感情でもなく、私を護るためにそう選択してくれただけだった。
『総司は護るもののために剣を振るう人です。たとえもし総司が人を殺めてしまうことがあったとしても、それには必ず理由があるはずです』
その声に込めたのは、理解と信頼と言葉にはできない深い想い。
護ることを選ぶ人だからこそ、背負ってしまう重みもある。
誰かのために無理をしてしまう人だから、私は心配になる。
だけどそんな彼を知っているからこそ、私は信じている。
「へえ、随分と沖田のことを信頼してるんだね」
『私は何年か前に誘拐されて、今にも命を奪われそうになったことがあるんです。その時に命懸けで助け出してくれたのが総司でした。ですから私には総司に返しきれない恩がありますし、誰よりも信頼している騎士なのです』
「それは大変だったね。でも……そうか。それを聞くとセラが沖田を信頼する理由にも納得した。それに、確かにあいつなら逆境にも屈しないでお前を助けられそうだ」
薫様も総司の腕は認めてくださっているのか、他意はない様子で頷くと私を見て口元に笑みを作った。
「沖田はだいぶ危険な奴だと思ったけど、まあいいさ。セラはあいつをちゃんと飼い慣らしてるみたいだし、番犬は強い方がいいからね」
『そんな……犬みたいな言い方……』
「でも沖田はセラの言うことなら、尻尾振って素直に聞くんじゃないの?」
『ですから、総司は犬ではありません』
「ははっ、犬みたいに可愛げはないか。でもセラはちゃんと沖田の手綱を握っておいてよ。あんな危険な野犬を野放しにされたら堪らないからね」
思わず片方の頬がぷくりと膨らんだのが自分でもわかった。
悪気はないのだと頭ではわかっていても、なんだか総司のことをそんなふうに言われるのは癪だった。
私が睨むような目つきになってしまったのだろう。
薫様が少し意外そうに、けれど愉快そうに目を細めて言った。
「なに、その顔」
『え……あ……』
慌てて目を伏せ、表情を引き締め直した。
そんなつもりじゃなかったのに。
薫様は王国の未来を担うお方、感情を露わにするような態度はあってはならないのに。
『申し訳ありません、薫様。私、少し生意気でした……』
「いいよ、そんな風に謝らなくて。俺には遠慮しないで、素のお前を見せてよ」
『素の私……ですか?』
「そう。たとえば沖田といる時みたいにさ。あいつの前だともっと自然に笑ってるだろ?」
私は言葉に詰まってしまった。
総司といるときの私……それはきっと、気を張らずにいられる私だった。
ふとしたことで笑ってしまったり、気が緩んで泣きそうになったり。
うまく言葉にできないけど、あの人の前では無理に飾らなくてもいいような気がしていた。
『……はい。総司といる時は、少しだけ肩の力が抜けているかもしれません』
「ふうん」
薫様はどこか面白そうに頷いたあと、わざとらしく首を傾げてみせた。
「でもさ、俺にはその顔は見せてくれないわけだ?」
『そんなことは……ないですけど……』
うまく言えない。
私には薫様のように、飄々とした言葉で人の懐に踏み込むようなことはできない。
けれど少しだけ正直な気持ちも混じってしまっていた。
『薫様の前では、失礼のないようにって、いつも気をつけていたんです』
「それはわかってる。でも俺が知りたいのは取り繕った笑顔じゃなくて、本当のセラのほうだよ。だからさ、怒った顔も拗ねた顔も全部ちゃんと見せて。俺に遠慮する必要なんかないから」
静かな声音に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
王太子としての立場でなく、一人の人として私に向き合おうとしてくださっているのだと感じた。
『……それでも、私は薫様の前ではきちんとしていたいんです』
「きちんとしてるよ。セラは真面目だし、いつも頑張りすぎるくらい頑張ってる。それはもうよくわかってるけど、でもね……」
そこで言葉を区切ると、薫様は少しだけ声を低くした。
「沖田の前でだけ笑ってるお前を見ると、少し羨ましくなるんだ」
『……え?』
薫様はすぐに表情を戻し、にこりといつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「ま、いいけどね。あいつにだけ見せる顔があるっていうのも悪くない。けど、俺にも少しは見せてくれると嬉しいよ」
『……はい』
自然と微笑んでしまった。
まるで子どものように無邪気に言葉をぶつけてくるこの人は、どこか不思議な存在だ。
それにこうして心を覗き込まれるような会話をしていると、少しずつ薫様との距離が近付いている気がしてしまう。
そしてそういう自分に気づかされるたび、私の心のどこかで、静かに波が揺れていくようだった。
ページ:
トップページへ