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朝の光が柔らかくカーテン越しに差し込む頃、私は侍女の方に手伝っていただきながら、静かに身支度を整えていた。
今日は礼拝堂で、王家に伝わる信仰や儀礼についての授業がある。
王宮の端にある王立礼拝堂までは少し距離があり、移動には馬車を使うため、いつもより少し早く部屋を出なければならなかった。
柔らかな水色のドレスに袖を通し、髪には白いリボンを編み込んでもらって、鏡の前で軽く一礼する。
朝の支度を終えた私は、あとは護衛の方が迎えに来てくださるのを待つだけだった。
昨日代理で来てくださった方なのか、それともまた違う方が?
そんなことを思いながら部屋の扉の前で小さく息を吸った、その時。
ドアをノックする控えめな音が部屋の中に響いた。
私は少し心臓が跳ねるのを感じながら、そっと扉に手をかける。
そしてゆっくりと扉を開けた先、そこに立っていた人を見上げて私の瞳は見開かれていった。
目の前にいたのは近衛騎士の正装に身を包んだ総司だった。
濃紺の上着に金の飾り、胸元に記章をあしらったその姿は凛々しくて、見慣れたはずの彼がまるで別人のように見えた。
でも目が合った瞬間にわかった。
私を見つめるあたたかな眼差しは、私が知っている総司のまま。
私の大好きな人が、すぐ目の前に立っていた。
「おはようございます、セラお嬢様。お迎えにあがりましたよ」
穏やかな声が静かに耳に届いた。
けれど私はその場で立ち尽くしたまま、胸がいっぱいになってしまってすぐに言葉が出てこなかった。
そんな私の様子を見て総司はくすりと笑うと、片膝を折り丁寧に頭を下げた。
「僕、沖田総司は本日より王宮直属の近衛騎士として、セラお嬢様の護衛任務を拝命いたしました。騎士としてどんなときも傍に在り、あなたの安全と尊厳を守ることをここに誓います。どうかこれからもよろしくお願いいたします」
少しだけ照れたような、でも誠実な音色で告げられた言葉。
総司が顔を上げたとき、その目元がふわりと綻んだ。
「……お待たせ、セラ」
その微笑みはどんな勲章よりも眩しかった。
ここに来てからずっと張りつめていた心が、自然とほどけていく。
泣きたくなんてなかったのに、どうしてだろう。
総司のその顔を見た瞬間、目の奥から熱いものが込み上げてきて止められなかった。
喉の奥が熱くなって、息さえうまく吸えなくて。
私は震えるまつげを伏せながら、こぼれそうになる涙をごまかすように笑った。
『総司、待ってたよ。私の近衛騎士になってくれて……ありがとう』
言葉にしたら、涙が一雫こぼれ落ちてしまった。
それでも総司はまるでそれさえも見通していたみたいに、優しく笑ってくれた。
「泣くの、早すぎじゃない?」
『だって……こんなに早く近衛騎士になってくれるなんて思ってなかったから……』
総司のあたたかい手が私の頬にそっと触れた。
親指の腹で涙の跡をぬぐうように撫でて、人目を気にするようにすぐにそれは離れていく。
「ほら、もう泣かないで。今日は礼拝堂に行くんでしょ?王宮の一日は長いんだから、泣いてたら体力もたないよ」
『……うん。でも、安心したの』
「安心って?」
『総司が隣にいてくれると、それだけですごく心強いんだ』
顔が熱くなっていくのが自分でもわかったけど、目を逸らしたくなかった。
だって総司が笑ってくれている。
とても優しい眼差しで私を見つめてくれるから。
「そう思ってもらえるのは、すごく嬉しいよ。僕もやっと君の傍に戻れたから」
『うん……。おかえり、総司』
「ただいま、セラ」
総司の笑顔は穏やかで、私の心の奥に静かに沁みこんでくる。
私は手を胸の前に重ねて、小さく一礼した。
『どうか今日からよろしくお願いします。私も総司と一緒にがんばるね』
「うん。君のことは僕がちゃんと護るよ」
王宮の廊下にふたりの足音が静かに重なっていく。
変わってしまったことも、変わらずにいてくれることも、全部を胸に抱えて私はこれからの毎日を歩き出す。
あの日公爵邸の庭園で私の頬にそっと触れた指のぬくもりを、今もちゃんと覚えているから、これからも私の隣にいて欲しい。
そう祈るように幸せを噛み締めていた。
私と総司は王立礼拝堂に向かうため、馬車の中へと乗り込んだ。
カーテン越しに漏れる陽射しに目を細めると、すぐ隣でそっとカーテンが閉じられる。
遮られた光に瞼をゆっくり開けた私が「ありがとう」と言いかけたそのとき、静かに寄せられた身体に息が詰まった。
『……そ、うじ……?』
思わず名前を呼んでしまったほどの、突然の抱擁だった。
けれど驚いたのはほんの一瞬で、その腕の中に漂う懐かしい香りと、変わらない体温に包まれた瞬間、全身から余分な力が抜けていくのがわかった。
この空間には、誰の視線もない。
王宮では絶対に許されないことでも、この小さな馬車の中だけは私たち二人の世界だった。
「セラ、会いたかったよ」
『私も……すごく会いたかった。毎日、総司のことばかり考えてたよ』
抱きしめる腕の力が弱まり、そのかわりに頬が優しく撫でられる。
あたたかい手の温もりに、胸の奥がほんの少し痛くなるのを感じた。
いけないことなのに。
わかっているのに、総司を見つめるとこの気持ちを止めることはできない。
総司が私を見つめるたび、ほんのわずかに潤んだように熱を帯びていくその瞳に、息を吸うことさえ忘れてしまいそうになる。
「セラ、好きだよ」
その視線に引き寄せられるように、私の唇にそっと触れるキスが落とされた。
熱を確認するように、何度もゆっくりと繰り返されるキス。
息が重なるたびに心まで蕩けていくみたいだった。
それはただの触れ合いじゃなく想いを伝えるための言葉のようで、そのすべてが愛しくて胸がいっぱいになった。
やがて名残惜しそうに唇が離れた。
目を開けるとすぐそばに総司の顔がある。
ただそれだけのことがどうしようもなく愛しくて、今まで会えなかった分を埋めるように思わずじっと見つめてしまう。
すると総司がふと眉を下げ、少しだけ頬を赤らめるから、私の心まで熱くなった。
「そんな可愛い顔で見つめられると困るんだけど」
『え……?』
「我慢できなくなるでしょ」
再び唇が重ねられる。
けれど今度はさっきよりも深くて甘くて、体の奥に火がともるような感覚に思わず目を閉じた。
舌先がそっと触れて、震えるくらいの甘さが広がる。
その優しさも熱も全部、ただただ幸せだった。
私の心の中には総司のことしかなくて。
この一瞬のために生きていると感じてしまうことが少し怖いと思うくらい、私は総司のことが大好きだった。
『総司、大好き……』
「僕もだよ。良かった、少しでも二人になれる場所があって」
『うん……』
王宮の中では、私たちに自由はない。
部屋に総司を通すこともできないし、人の目がどこにあるかわからないから、廊下を歩くだけでも必要以上の距離を取らなければならない。
ほんの少し目が合っただけでも誰かに気付かれてしまいそうで、それが少し苦しかった。
でも、この馬車の中だけは違う。
誰の目も届かない、私たちだけの場所。
窓の外で響く車輪の音が囁き声さえも攫っていってくれるから、こんなふうに甘えることさえも許されるような気がした。
胸に寄せられたまま総司の服越しに鼓動の音を感じながら、私は小さな声で呟いた。
『このままどこにも着かなければいいのにな』
いつか扉が開いてまた遠慮と規律の世界に戻らなければならないのだと思うと、思わず指先に力が入ってしまう。
でも総司はそんな私の不安をすべて受け止めるように、優しく耳元で囁いてくれた。
「また帰り道も一緒にいられるよ。それに今日が終わっても、明日がある。明日が終わっても、また明後日がある。そうやって毎日少しでも君と過ごせたら、僕はそれだけで幸せだよ」
その言葉に胸の奥が掴まれたように痛くなる。
それが総司の本心ではないことはわかるからこそ、総司を幸せにしてあげられない自分の立場が重くのしかかった。
でも今という一瞬を慈しむような総司の言葉に、心が救われる気持ちもある。
私にできることはこの僅かな時間に、精一杯の愛情を総司に届けることだと思った。
『私はね、もっと一緒にいたいって思っちゃうんだ。それは公爵邸にいた時からずっとそう。総司には伝えたいことがたくさんあるから、どんなに時間があってもまだ足りないって思うの。私、欲張りだよね』
本当はもっと一緒にいたいなんて、軽々しく口にしていい立場ではないことくらいわかってる。
でもそれでも、言わずにはいられなかった。
総司がどれほど優しく微笑んでくれても、その奥にある本当の気持ちに気づいてしまうから。
今は私の隣でこうしてくれているけど、この時間が終われば私たちはまた何食わぬ顔でそれぞれの役目を演じなければならない。
そしてそんな日々はきっと、これからもずっと続いていく。
「別に欲張りなんかじゃないよ。僕だって君の言葉ひとつひとつが、何よりの贈り物みたいに思ってる。そんなの、足りなくなるのが当然だよね」
そう言いながら、総司は私の髪を優しく撫でてくれた。
その指先が耳の裏をなぞって、少しだけ首筋に触れる。
くすぐったくて、切なくて、ただ触ってもらえるだけで心はこんなに明るくなる。
「僕も本当は全部聞きたい。君が思ってることも感じてることも、毎日全部、逃さずに知りたいって思ってるよ」
『本当に?』
「うん、どんな小さなことでもね。たとえば今日見た夢の話とか、朝食のジャムの味とか、そういうのでも全部。君の言葉なら何だって嬉しいんだよね」
そんなふうに笑って言われたら、もう何も言えなくなってしまう。
ほんの少し潤んでしまった瞳で見つめると、総司は照れたように眉を下げて、小さく息をついた。
そして私の手をもう一度、両手で包むようにして握ってくれる。
「でも、全部聞くには時間が足りないからさ。できれば、君のそばに長くいたいなって思ってるよ」
総司はそっと、私の指先に唇を重ねた。
その仕草がまるで私を大切に包み込もうとするようで胸が熱くなる。
「だから、また次の時間に続きを聞かせて。君が伝えたいこと、今日だけで足りないなら、明日。明日でも足りなければ、またその次の日に。君の全部を聞けるまで、僕はずっと君のそばにいるから」
そんなに優しいことを言われたら、涙が零れそうになる。
それに今日も明日も明後日も、これから先もずっとこの人に好きだって伝えたいと思う。
『……もう。総司って、ずるい』
「はは、ずるいってなんでさ」
『だって、そうやって全部受け止めてくれるから、余計に総司のことが好きになっちゃうよ。どうすればいいの?』
涙ながらに微笑むと、総司も少し困ったように笑って何も言わずにまた私を抱き寄せてくれた。
この時間が永遠ではないと知っているからこそ、触れる体温や聞こえてくる心音がたまらなく愛おしかった。
「僕も君が可愛いことを言ってくれるたびに、もっと好きになっちゃうんだけど、どうすればいいの?」
『総司に好きになってもらえるのは凄く嬉しいから、存分に好きになっていいですよ』
「ははっ」
総司が笑ってくれると安心する。
総司の笑顔を見ると、私まで嬉しくなる。
この時間があれば私はきっと大丈夫。
そう自分を励ますことができた。
『総司と話すと元気になれる。今のこの時間がたとえ短くても、ずっと忘れないって思えるよ。だから私、今すごく幸せだよ』
「僕もだよ。今日の君の言葉も温もりも、全部覚えてる。ずっと忘れないよ」
ずっと触れていたいと思った。
他の誰にも見つからない場所で、私だけに向けられる眼差しと声に包まれていたいと願ってしまった。
馬車はまだゆっくりと、王立礼拝堂へと進んでいる。
扉が開くその瞬間までもう少し、夢の中にいたかった。
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