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王宮での生活にもだいぶ慣れ始めてきた頃、私がベッドに入ろうとすると、部屋の扉をノックする音が控えめに響いた。
こんな時間に訪ねてくる人は、限られている。
私は一度深く息を吸ってから、静かに扉の方へ歩いて行った。


『……はい』


そっと扉を開けると、案の定そこに立っていたのは薫様だった。
白いシャツの襟元を少し緩めて、いつになく柔らかい微笑みを浮かべていた。


「セラ、ただいま」

『あの……おかえりなさい?』

「折角俺が来てやったんだ、もっと喜べないの?そもそも開けるのが遅い」


今度は不機嫌そうに睨まれて唖然としていると、薫様はまるで自分の部屋のように当然の顔をして部屋へと入ってくる。
そして珍しく音を立ててソファーに座り、気怠そうに欠伸を漏らした。


『薫様、もしかしてお酒を召し上がられたのですか?』


暗い廊下の下では気づかなかったけど、今は薫様の顔が赤いことがよくわかる。
ネクタイは緩くほどかれ、少し乱れた髪の下からのぞく眼差しは少し眠そう。
彼の行動もいつものような落ち着いたものとは違う気がして尋ねてみた。


「ああ、さっきまで宴があったんだ。外からの使節団との会食でね。王族としての顔を立てるには、乾杯も断れないだろ?おかげでしこたま飲まされた」

『遅くまでお疲れ様です。今お水をお持ちいたしますね』

「そんなのはいい。お前も早くこっちに来てよ」


命令口調なのは相変わらずだけど、私は手早くお水だけ用意して薫様の前に置くと、言われた通りソファーへ腰掛けた。


「だから、なんでそんなに離れて座るの?」

『別に普通だと思いますけど』

「普通だと思うますけどって……可愛くない言い方だね」

『でも私達はまだ夫婦ではないですから。これが健全な距離だと思います』


今はまだ中途半端なことはしたくない。
薫様には失礼な行為でも、私は総司を大切にしたい。
だからはっきり告げると、また睨まれると思っていたのに、薫様は眉を吊り上げることはしないままふいとそっぽを向いただけだった。


「なんか、その言われ方は俺も傷つく」

『え?』

「お前って俺に冷たいよね」

『冷たくしているつもりはないですよ』

「俺がお前に無理矢理婚約を迫ったから怒ってるの?」


まさか薫様がそんなことを考えているなんて思ってもみなかったから、私は目を見開いた。


『怒ってなんていませんけど……』

「でも俺には全然笑ってくれないじゃないか」

『笑ってますよ?』

「それ、本気で言ってる?」


深い色の瞳に見つめられて、思わず言葉を飲み込んだ。
自覚はなかったけど、もしかしたら私はうまく笑えていなかったのかもしれないと、気まずさから視線を逸らしてしまった。


『薫様、結構酔っているみたいですから、今夜はお部屋に戻って休まれた方がいいのではないですか?』

「そうやって俺を追い払おうとしてるんだろ?」

『そんなつもりはありません。ただ……お顔も赤いですし』


再び薫様に視線を戻すと、若干目はとろんとしているし、白い肌も桃色に染まっている。


「セラが俺の顔をじっと見るのって、新鮮だね」

『見ていません。そういう意味じゃ……』

「じゃあ、どういう意味?」


意地悪そうな笑みを浮かべながら、私との距離を詰めてくる薫様の胸元をそっと手で押し返した。


『……あの、絶対に酔ってますよ、薫様』

「だからって、お前が逃げていい理由にはならないだろ」

『逃げてなんかいません』

「逃げてるよ。お前は俺のことをちゃんと見てない」

『そのようなことは……』


言い返そうとした言葉は、すぐに喉の奥で絡まって消えた。
だって薫様の目が、あまりにも真っ直ぐだったから。
いつものような余裕も軽口もなくて、ただじっと私のことだけを見ていた。


「……わかってるよ。お前が俺に壁を作るのは、あいつのことがあるからだろ」

『あいつ……?』

「セラはまだあいつのことが好きなの?」


誰……?
まさか総司への気持ちに気付かれてる……?
頭が真っ白になって固まっていると、薫様は悲しそうに私を見つめた。


「あれは……悪かったよ。でも、仕方ないじゃないか。お前があんな奴を好きだなんて許せなかったんだ」

『違っ……別に好きなわけじゃ……、その……仲は良いですけど』

「仲は良いって……まさかまだあいつと繋がってるの?」

『……え?』

「あんな奴のどこがいいんだよ。確かに俺が大袈裟に証言するように指示を出したことは認める。でもあいつが令嬢達に不貞を働いていたのは事実だ」


全く話が読めなくて、首を傾げる。
とりあえず薫様は総司のことを言っているわけではなさそうだから、私はそっと安堵の息を吐いた。


「ねえ、聞いてるの?」

『聞いてますよ。でも薫様はどなたのことをおっしゃってるんですか?』

「は?ディラントの元大公子のことに決まってるじゃないか」

『え?』


思わず、間の抜けた声が漏れた。
ディラントの元大公子……彼の名前が出てくるなんて思ってもみなかった。


「沖田には言うなって言われてたけどさ、お前が落ち込んでるのを見てずっと引っかかってはいたんだ」

『その……どういう意味ですか?』

「言葉の通りだよ。あいつのことが好きだったって知ってる。沖田が教えてくれたからね」


その一言を聞いて一度思考が停止する。
何かが噛み合っていないような、奇妙な違和感。
総司が……そんなことを?

考えている私の横で暫く無言になった薫様は、独り言を呟くようにぽつりと言った。


「あ……まずい。これも沖田に言うなって言われてたんだったな……」

『…………』


度々出てくる総司の名前に、薫様が言う私の好きな人……
そして、ディラントの元大公子の話。
まさか総司が、わざと誤解させるようなことを言ったの?
それが気に食わなくて薫様が動いたのだとしたら……


『……ディラントの大公子様が爵位を剥奪されたのは、もしかして……私のせい……なんですか?』


思わず零れ落ちた声に、薫様ははっとしたように私を見つめ、表情を僅かに歪めた。


「違う。お前のせいじゃない。全部、俺が勝手にやったことだ」

『ですが……』

「嫌だったんだ。お前が他の男に心を寄せてるって思うだけで、耐えられなかった。しかもあんな奴を……」


その声には抑えようとしてもにじみ出る苛立ちと、どうしようもない葛藤が含まれているように感じられた。


「気に食わなくてあいつのことを調べたら、貴族の娘をたぶらかして、泣かせて、裏で金を巻き上げて……そういう証言が、いくつもあった。俺はただそれを報告しただけだ。陛下もお怒りになって、爵位を剥奪する決定をなさった。それだけだよ。だからお前のせいじゃない、そうは思わないでくれ」


あの件……ディラントの元大公子が爵位を剥奪されたあの騒動は、確かに私にとって心の痛む出来事だった。
けれどそれは彼自身に向けられた感情ではなく、ただその家族や縁ある人々の運命を思うと胸が苦しくなった。
彼が本当に罪を犯していたのなら、裁かれるのは当然のことかもしれないけど、まさか自分がその一端に関わっていたなんて。
そんなことは考えてもみなかったから、すぐに言葉は出てこなかった。

けれど何も言えずにいた私の前で、薫様がふいに目を伏せる。
それまで強張っていた表情が少しだけ崩れて、ぽつりと弱い声がこぼれた。


「……セラ、ごめん。俺のこと、嫌いになった?」


その一言が、胸の奥を深く抉った。
まっすぐに謝罪を口にし、心の底にある不安を吐き出してくれる薫様の姿を見て、私は胸が締め付けられるような気持ちになった。

だって本来なら私の方こそ、謝るべきなのに。
私はこの人を欺いてるのに。
真実を伝えずに何もなかったふりをして罪を隠して、傍に立ち続けている。
それなのに薫様が私に向けてくれる想いは、どこまでも真摯で優しくて真っ直ぐだった。

婚約しているとはいえ、まだ正式な夫婦ではない。
だから距離を置くことは許されると思っていた。
でもそれは決して免罪符にはならないと突きつけられる。
誰にも気付かれなければ、誰のことも傷付けずにやり過ごせる……そんな都合のいい幻想にしがみついているだけだから。


『……嫌いになる筈がないです』


そう口にした私の声は、震えていたかもしれない。
でもこれだけは、絶対に伝えなければならないと思った。
私はこの人を、嫌いになんてなれない。
私のために正直に行動してくれる人のことを、どうして嫌いになれるんだろう。


「俺さ……もっと器用に立ち回れる人間だったらよかったんだけど」


思いがけない呟きに、私は少しだけ首を傾げた。


『殿下は、器用な方だと思いますよ?』


私がそう言うと、薫様はすぐに否定するように首を振った。


「そんなことはないよ。その時は自信を持って選んだつもりでも、後からあれで本当によかったのかって悩むことばかりだ。特にお前のことになると、どうすることが正解だったのか今でもよくわからない」

『それは……私と婚約したことを、後悔していらっしゃる気持ちもある、ということですか?』

「それは違う。お前と婚約したことを後悔したことなんて一度もない。たとえ時間が戻ったとしても、俺はきっとまた同じ選択をする。だって……俺はお前が好きだから」


さらりと告げられたその言葉に、思わず私は目を見開いてしまう。
言葉が出ない私を見て、薫様は小さく笑った。


「何を驚いてるの?好きじゃなければ、あんなふうに婚約なんて持ちかけないだろ。普通は」

『……で、ですが、薫様はそんなこと、一度も……』


私が戸惑いながらそう返すと、薫様は少しだけ視線を逸らして、肩をすくめるようにして言った。


「お前が俺のことを友人としてしか見てないのは分かってたから、焦っても仕方ないと思ってた。でも他の奴に取られるのはどうしても嫌だったから、早急に婚約を持ちかけたんだ。婚約すれば一緒に過ごす時間が増えるだろ?そのうち俺のことを少しずつでも好きになってもらえれば、それでいいと思ったんだ」


そこまで言って、薫様はふと口をつぐむ。
そのまま私の顔をじっと見つめて、何かを探るような瞳をしたあと、ため息を吐いて少しだけ表情を緩めた。


「……でも、婚約してからの方がお前との距離が遠くなった気がする。だから正直、どうしていいか分からないんだよ」


その言葉に私の心は深く揺れた。
薫様はきっと、以前から変わっていない。
それなのに私の方が少しずつ心を閉ざしていった。
それは彼が悪いのではなく、私自身が罪悪感に耐え切れなくなっていたからだと自分が一番よくわかっていた。


『……ごめんなさい』


やっとの思いで絞り出したその声は、自分でも驚くほど小さくて震えていた。


「それは何の謝罪?俺を好きになれないことへの謝罪なの?」

『そうではなくて、薫様の気持ちに気付いていなかったことにです……』

「そんなことか。別に構わないよ、お前は鈍感そうだと思ってたから」

『鈍感……なんでしょうか』

「鈍感で危なかっかしいけど、お前は優しい。お前の人の立場になって考えられる優しいところが俺は好きなんだ」


その言葉が、鋭い楔のように胸に突き刺さる。
優しいと言ってもらえる資格なんて私にはないのに。


『私は優しい人間ではないです。それは薫様の勘違いです……』

「勘違いじゃない。俺なりにずっと見てきたつもりだよ、お前のこと」

『違います。私はただ薫様の前で猫をかぶっていただけなんです。本当の私を知ったら、きっと……薫様は私のこと、好きではなくなります』


視線を落としたままそう告げると、しばらくの沈黙があった。
けれどその静けさのあとに返ってきたのは、驚くほど穏やかな優しい声だった。


「もしお前が猫をかぶってて、俺が思ってるようなやつじゃなかったとしても……俺はお前が好きだよ」


その言葉を聞いて、私は唇をきつく結ぶ。
どんな言葉を返せばいいかもわからない私に、薫様は再び言った。


「俺にはあまり笑ってくれないけど、でもお前が笑ってると、それだけで俺まで嬉しくなる。何かお前のためにしてやりたいって、自然にそう思うんだ。これが好きじゃないなら何なんだよ?」


その気持ちは私もよく知っている。
だってそれは私が総司に対して抱いてきた感情と、どこか重なって見えたから。

でも私はきっとこれから先、薫様を傷つけるばかりかもしれない。
曖昧な優しさで逃げて、向き合わずに誠実にもなれずにいる。
それなのに彼は変わらない眼差しで、真っ直ぐに私を見てくれていた。


「俺はさ、一人でいるのが好きだった。誰にも気を遣わなくていいし、楽だったから。でも……誰かと一緒にいたいって思えたのは人生で初めてなんだよ」


ぽつりと呟いたその声は、まるで自分自身を確かめるようだった。
でも私はどんな言葉を返せばいいのかもわからなくて、結局何も言えないまま拳を握ることしかできないでいた。


「……やっぱり、酔ってる時に大事な話はするもんじゃないな」


わざと明るく言ったその声が、かえって胸に刺さる。

でもその直後、薫様はふいに身体を預けてきた。
私の膝の上に頭を乗せると身を横たえたから、私は少し身体を硬くしてしまった。


『……か、薫様?』


思わず小さく声が漏れる。
驚いて薫様を見下ろすと、酔ってほんのりと赤みを帯びた頬のまま、彼は私を見上げて笑った。


「お前といるのは居心地がいいんだ。だから多分、これからも頻繁にここに来ると思う。いいよね?」


その問いに返事をする前に、薫様はそっと目を閉じる。
そして穏やかな寝息が少しずつ響き始めた。

僅かな重みを膝に感じながら、私はただ黙って彼の髪にそっと触れた。
総司とはまた違う、柔らかくて細い毛。
胸の内に渦巻く罪悪感が静かに重く積もっていく夜、あどけない寝顔を見つめながら、ずっと目を背けてきた自分の罪に心を苦しくさせることしかできないでいた。


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