3

温かい腕の中で、私は幸せな夢を見ていた。
頬に触れるシャツの柔らかな感触も、心臓の鼓動に似た振動も心地良い。
それはどこか懐かしくて優しくて、大好きな総司に抱きしめられている夢だった。

柔らかな場所に背中が触れて、そのまま身を任せるように身体が沈んでいく。
支えてくれていた腕がゆっくりと私の下から離れていこうとして、私は思わず手を伸ばした。
そのぬくもりが消えてしまわないように。
そうすることが当たり前のように、私は腕を回して頬を寄せた。
大好きな香りに包まれたくて、首筋に甘えるようにすり寄ってしまった。

けれど、ふと鼻先に触れた香りに小さな違和感が胸をよぎる。
いつも感じていた陽だまりのような、あの香りではなかった。
頬に触れた髪も、指に感じた質感もどこか違う。
ゆるやかに覚醒していく意識の中で、その違いに気付きはじめた私の耳に、低く囁くような声が届いた。


「……寝ぼけすぎじゃない?」


不意に聞こえたその声に、私はびくんと身体を強張らせた。
声の主が総司ではないことに気づき、まるで頭の中に冷水を浴びせられたように眠気がすっと引いていく。
目の前にいる人が総司ではないとわかった瞬間、背筋にひやりとしたものが走り抜けていった。


「そんなことされたら、勘違いするだろ」


低くて少し苦笑を含んだ声が耳に届き目を開けると、目の前にあったのは少し困ったように頬を染める薫様の顔だった。
私は咄嗟に腕を引いたけど、身体が強張って動けない。
気まずさと恥ずかしさが一気に込み上げて、総司の微笑みを思い浮かべれば罪悪感が胸を締め付けていくようだった。


『……ごめんなさい……寝ぼけていて……』


震えそうになる声を、なんとか抑えながら呟く。
すると薫様はふっと息を吐くように微笑んだ。


「寝ぼけてたとしても、お前に甘えてもらえるのは……嬉しいよ」


その言葉が、あまりにも優しくて。
驚いて薫様の顔を見ると、彼は少しだけ照れたように目を逸らしたあと、ベッドへとそっと腰を下ろした。


「悪かった。俺があのまま寝たから、お前までソファーで寝かせることになって」

『いいえ……。私こそうっかりあのまま寝てしまって……ごめんなさい』

「お前が謝る必要はないと思うんだけど」

『一時間くらい経ったら薫様を起こしてさしあげないとと思っていたんです。それなのにその前に私が寝てしまったので……』


昨日はあの後、これから先のことを一人悶々と考えていた。
考えて考えて……考え過ぎた結果、思考が停止して、気がついたら眠っていたなんて自分が嫌になりそう。
上体を起こした私は、俯いたままベッドの中で拳をきつく握りしめた。

何をしているんだろう、私……。
総司を裏切らないと心に決めたはずなのに。
それなのに寝ぼけていたとはいえ、こんなにもあっさりと他の人に甘えるような仕草をしてしまうなんて。
先程のことを思い返せば、胸の奥が痛くてうまく呼吸ができなかった。


「お前も疲れてるんじゃない?休学している分、妃教育が詰め込まれてるし、新しい環境に慣れるだけでも大変だろ」

『いいえ、難しいこともありますけどその分やり甲斐も感じています。ここでの生活にもだいぶ慣れてまいりましたよ』

「それならいいけど、無理はしたら駄目だ。特に俺の前では、力を抜いててくれていい。その方が俺も嬉しいからね」


薫様が優しい言葉をかけてくれる理由を知ってしまった今、これから彼とどう向き合っていけばいいかわからなかった。
薫様が私に求めるているのは、未来の王太子妃としての役割だとばかり思っていたけど、昨晩の話を聞く限りきっとそれだけではない。
薫様の眼差しは王族としての義務ではなく、一人の人として私自身に向けられていた。
本来なら私はその気持ちに応える立場にあり、彼を支え、心を寄せる者でなければならないのに。
私の心には総司がいて、これから先もそれは変わらないことは私自身が一番よくわかっていた。


『ありがとうございます、薫様。無理はせず、頑張ってまいります』


薫様の優しさが、痛いくらいに沁みる。
それでも薫様に応えられない私は、きっと酷い人間なのだと思う。

だけど総司といることを選んだのは私の意志だ。
総司と過ごした日々、繋いだ手、そっと名前を呼んでくれる声……その全てを諦めることはどうしてもできない。
だって私は総司が好きだから。

あの人をこれ以上傷つけることだけはしたくない。
だから私はちゃんと隠し通さなければならない。
誰にも気付かれないように、自分の気持ちを殺さなければならない。
総司と過ごす時間を守るために私はどれだけ強くなれるのだろうと、そっと唇を噛んだ。


「ああ、そうして。あと、昨晩言い忘れてたんだけど今夜は夕食を一緒に摂ろう。お前がここに来てから、なかなか時間が取れなかったから」

『お気遣いありがとうございます。夕食、楽しみにしていますね』

「俺もだよ。ただ千鶴も体調がようやく回復したみたいなんだ。お前と話がしたいって言ってるんだけどあいつがいても平気?」

『勿論です。初日以降、千鶴様にお会いできていなかったので私もお会いしたいです』

「そう言ってもらえて助かる。じゃあ、時間になったら呼びにくるよ」


薫様はそう言ってベッドから立ち上がると、私を見下ろしながら薄く微笑んだ。


「俺はもう行くけど、お前はまだ寝なよ」

『え?今何時でしょうか?』

「まだ朝の五時だ」

『薫様はもう起きられるのですか?』

「今日はやることが山積みなんだ。折角起きたし、風呂だけ入って取りかかるよ」

『こんな早い時間から……薫様はお忙しいのですね。もし私にお手伝いできることがあれば仰ってくださいね』


私がそう告げると、薫様はふっと目を細めて微笑んだ。


「何を言ってるんだろうね。お前は今、自分のことで精一杯だろ?俺のことは気にしないでいい」

『ですが二人で取り組めば早く終わることもあるかもしれませんよ?』

「ありがとう。でもお前が今できる一番の手助けはちゃんと休むことだよ、いいね」


頭にぽんと手が置かれて、それはすぐに離れていく。
少しだけ意地悪な笑みを浮かべた薫様は、そのまま部屋を出て行った。

一人になった部屋はやたら静かに感じて、私は膝を抱えてため息を一つこぼす。
総司の顔を思い浮かべればこうして他の男の人と過ごしている事実が心に重くのし掛かり、そっと唇を噛みしめる私がいた。


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