7
王宮を離れてすぐ、馬車の揺れが始まると同時に沈黙が降りた。
僕の隣に座るセラは膝の上で小さく手を組んだまま、微動だにしない。
目元にかかる髪が、いつもより少しだけ乱れているのが気になった。
気まずいのだろう。
……いや、罪悪感か。
何かを言いたそうに唇が動きかけているのに、結局何も発されない。
その小さな躊躇いが何度も繰り返されている様子を、僕はただ静かに見つめていた。
何も言わずに気づかないふりをしながらも、セラが僕に何か話があるということはわかっている。
きつく握られた手にそっと手を重ねると、セラはびくんと肩を揺らした。
「寒くない?」
『……う、ううん、大丈夫……』
「ほんとに?」
セラは頷いていたけど、僕は自分のマントをふわりと肩にかけた。
彼女のぬくもりに、僕の香りを染み込ませるように。
『……ありがとう。でも、総司の方が寒いんじゃ……』
「僕は平気だよ。セラが風邪ひく方が、ずっと困るしね」
そう言って笑いかけると、セラはほんの少し目を潤ませて僕を見つめた。
その綺麗な瞳の奥に浮かぶのは、悲しみと後悔。
それがわかったからこそ、僕はさらに柔らかい声で続けた。
「なんだか今日は静かだね。いつもみたいにもっと喋ってくれたらいいのに」
『……喋りたいけど……』
「喋りたいけど?」
『……なんて言えばいいのか、わからなくて……』
震えた唇からようやく出たのは、謝罪にはならない曖昧な言葉。
その慎重さがいじらしくて可哀想にも思えて、そしてたまらなく愛おしい。
「それなら無理して言わなくていいよ」
僕は一回り小さなセラの手をそっと包み込んだ。
「……昨日のことだよね?それなら大丈夫だよ。僕はセラが王太子とどんな関係になったとしても、どうしたって君を好きでいるから」
『……っ……』
「それに今さら責めたりなんてするわけないでしょ。僕が誰より君の立場をわかってるんだから」
セラの瞳が大きく見開かれた。
潤んだその場所は見てわかる程に揺れていて、涙をこらえているのがすぐにわかった。
セラはきっと、僕を傷付けてしまったと思ってる。
そして昨日のことをどう弁解するべきか悩んでいる。
だから、敢えて僕は優しくする。
優しさという鎖で、セラをずっと傍に繋ぎ止めておくために。
『……私……総司に……謝りたいことがあるの……』
「うん、どうしたの?」
『一昨日の夜、薫様が部屋に来たの。酔っていらして……ソファーで話をしてたんだけど、急に私の膝の上に頭を置いて、そのまま……眠っちゃって』
「……膝に、ね」
『退いてもらおうと、思ったんだよ……?でも起こすのも申し訳なくて、少ししたら声を掛けようと思ってたんだけど……気付いたら私も……そのまま寝てたみたいで……』
やめて欲しい、聞きたくない。
途中、どうしても言い淀んでしまう彼女の言葉の続きを、僕の想像が補ってしまうのが辛い。
無防備過ぎるセラの行動に対する苛立ちを抑えながらも、僕の指先には力が入る。
夜に男を部屋に入れるな、男の隣で平気で寝るなと言いたい気持ちを飲み込んで、ただ黙って彼女の話を聞いていた。
『朝……先に目を覚ました薫様が私をベッドに運んでくれていて。私……その時、どうしてか寝ぼけて……総司だと思っちゃったみたいで』
「…………」
『薫様に……少し……擦り寄ってたみたいなの……。そのことを謝りたくて……本当にごめんなさい……』
王太子が昨晩言っていたことの詳細が、セラの言葉を聞いて鮮明になる。
寝ぼけてあいつとを僕と間違えて甘えたなんて、笑えるほど滑稽だ。
それでもセラに怒りをぶつける気にはならなかった。
セラを責めるなんてできるわけがないし、この子が悪いわけじゃない。
この子が本当に甘えたかったのは、僕だったはずだ。
そして今、そのことでセラは苦しんでいる。
それがわかっていて、この子を傷つけるかもしれない言葉を吐き出せるわけがなかった。
それに僕は君を放したくない。
どんなに矛盾していても、君をこの手に繋ぎ止めておきたくてたまらない。
だから僕はできる限り静かに、優しく声をかけた。
「そっか。全部、今のセラの言葉でわかったからもう大丈夫だよ」
セラがはっと顔を上げて、僕を見る。
その目が不安定に潤んでいるのを見て、胸の奥が軋んだ。
「話してくれて、ありがとう」
『……怒ってないの?』
「怒ってないし、君を責める理由なんてどこにもないよ。本当にね」
『でも私が悪いの……。しっかり断れなかったことも、寝ぼけて余計な行動をしたことも……全部私が悪くて……』
「でもセラは僕だと思っちゃっただけなんでしょ?」
『そうだけど……でも……』
「セラがその時僕を求めてくれてたなら、それだけで僕は嬉しいかな。だから、それでいいよ」
それは嘘だった。
もしあいつがもう一度セラに触れたら、僕はきっと冷静ではいられないかもしれない。
でもそんな気持ちはセラには見せたくない。
あくまで優しく、セラにとって一番戻ってきたくなる場所になれるような僕でいたい。
「てことで、この話は終わりね」
先程のセラの言葉の一言一言が、ナイフのように胸に突き刺さる。
その時の様子を聞いてしまえば、僕の頭の中でその情景が勝手に組み上がっていくようだった。
柔らかい光に照らされた寝室。
彼女の膝に頭を預けて眠る王太子。
目を閉じたセラの頬に、あいつの吐息がかかるほどの距離。
その白い頬が安心したように緩んで、僕にしていたようにすり寄る姿。
僕が閉め出されたセラの時間の中に、僕の知らない夜があった。
知ることができたのはきっかけがあったからで、セラは自分からその話をしなかった。
きっとこれから、そんな夜は積み重ねられていくのだろう。
僕の知らないところで、何回も。
それを考えてしまえば、心臓の奥がぐつぐつと音を立てて煮えたぎる。
胃がひっくり返りそうなくらいの不快感に、はらわたが焼けただれるようだった。
……どうして、あんな男が。
僕じゃなく、あいつが。
その光景を想像するだけで、何もかも滅ぼしたくなるほどの怒りがこみ上げてきた。
僕はセラの部屋にすら入れない。
セラの髪に気軽に触れることも、眠る顔を見守ることも許されない。
ただ遠くから護るだけの存在で、僕が求め過ぎてしまえばきっとセラを苦しめてしまうとわかっているから、無理には踏み込まないって誓ったのに。
それなのに、僕の場所を奪ったあの男は堂々とセラの私室に入り込んで、その柔らかな身体を枕にして眠り、身体に触れ、それを何の咎もなく受け入れられている。
そんなのは理不尽だと思ったし、悔しかった、憎かった。
セラの柔らかな声を、肌の熱を、あいつが知ってしまったことがどうしようもなく許せなくて。
思わず王太子の喉元に手をかける自分を想像してしまったくらいだ。
……殺したい。
あの男をこの手で殺したい。
できるなら跡形もなく消し去ってやりたい。
セラの優しさを利用して、この子の中に踏み込んだその存在を。
怒りが自分の身体の中にこんなに広がるものだなんて知らなかった。
吐き気がするほど熱くて、身体の奥から音を立てて燃え上がる。
これ以上感情が暴走すれば、あいつを殺すためにこのまま馬車を降りて、王宮に駆け戻ってしまう気がした。
けれど、そんな時。
僕の中で燃え盛っていた怒りは、セラの震える声でふっと刃先を鈍らせた。
『総司……本当にごめんなさい……もう、絶対にしないから……』
その声がまるで何かに怯える小さな子どものように細くて必死で、僕の胸を抉った。
思わず顔を上げてセラを見れば今にも泣き出しそうな瞳で僕をまっすぐに見つめている。
縋るような、許しを乞うような懸命な瞳だった。
「うん、もうわかったから。そんなに気にしないで大丈夫だよ」
怒りの火種は、まだ消えていなかった。
でもそれよりも、セラのこの泣きそうな顔の方が、よほど僕の心を乱してしまう。
だから優しく声をかけたつもりだったのに、セラはぽつりと震えた声で言った。
『どうして怒ってくれないの……?』
「え……?」
『どうして……総司は……私にちゃんと、怒ってくれないの……』
その言葉は、まるで思いがけない場所から矢を放たれたようだった。
僕の目の前で、セラが愛らしく顔を歪めて泣き始めてしまう。
堰を切ったようにあふれた涙に、僕はただ呆然とした。
「セラ……」
思わず彼女の肩を抱き寄せて、その小さな身体をそっと胸に引き寄せる。
細く震える背中が、手のひら越しに伝わってくる。
心中を渦巻く怒りよりも、セラのこの涙の方が何倍も重くのしかかっていくようだった
「何言ってるのさ。セラに怒る必要なんてないし、怒りたくないよ」
『……ぅっ……』
「ねえ、どうしたの?本当にもう気にしないでってば」
何度も頬の涙を拭ってみたけど、それでも彼女の涙は止まらなかった。
こんなにも悲しそうに泣く理由がよくわからなくて、苦い気持ちのままどう声を掛けるべきかもわからなかった。
馬車の中には、セラの小さなすすり泣きがぽつぽつと響いていた。
それは泣くというより、むしろ息を飲み込むような苦しそうな音で。
肩が上下に揺れ、呼吸をうまく整えられずにいるのが見て取れた。
喉の奥で掠れるような音を立てながら、言葉にならない想いをただこぼれた涙で伝えようとしている。
「セラ……」
僕が呼ぶとセラは頷くように小さく身体を震わせて、それからやっとのことで言葉を吐き出した。
『……総司のこと……本当に大好きなの……』
かすれた声だったけど、その一言に込められた真っ直ぐさが胸に刺さった。
『……でも……私の気持ちが……この先……真っ直ぐ総司に届かなくなるかもしれないって……そう考えたら、凄く怖くて……』
「うん……」
『でも、そうなっても……きっと総司は一人で背負って……私には何も言わないで……優しくしてくれるのかもしれないって思ったら……それが余計につらくて……』
少しずつこぼれる言葉は、まるで胸の奥をそっと裂いてそこからまっすぐな想いを見せてくれているようだった。
『……私は、もっと……総司に感情をぶつけてほしい。全部、私にも分けてほしいのに……。なのに、総司は、何があっても優しくて……だから……私の知らないところで……総司がいつも一人で、耐えようとするのかと思ったら……それが凄く怖いの……』
セラはそう言って、ぽろぽろと涙を流した。
呼吸を細く切りながら、声を押し殺すように。
その様子はまるで泣いてはいけないと自分を責めながら、それでも感情が堰を切って溢れてしまったかのようだった。
「ああ……もう、そんなに泣かないの」
『ごめん……ね、……私が泣くから……総司は私に……優しくしなくちゃって、そう思っちゃう……んだよね……』
「違うよ。好きな子には優しくしたいって思うのは当たり前でしょ?」
『私は……総司の全部を見せてほしい……怒ってる時はちゃんと……怒ってほしい……。だって、辛い時はちゃんと話すって、約束したでしょう?』
その姿が胸に迫って苦しくなる。
どれだけ僕のことを想ってくれているんだろう。
どれだけ僕の痛みを一緒に感じようとしてくれてるんだろう。
こんなふうに泣いてまで僕の心を案じてくれるなんて、本当に可愛くて堪らない。
頬を伝う涙が止まらないまま、セラはぎゅっと胸元を握る。
全身で自分の想いをぶつけてくれるその姿に、息が詰まるような愛しさがこみ上げてきた。
「君って酷いね」
『……え?』
「僕にかっこつけさせてもくれないの?」
その言葉の意味がわからないのか、セラは泣きながらも僕をじっと見つめてくる。
その様子にくすりと笑って、僕はまた言葉を続けた。
「セラが気にしてるだろうと思ったから、僕は気にしてないよって……余裕のあるとこ見せたかったんだけどね」
それなのに君は、僕の全部を見たいという。
感情をぶつけて欲しいという。
そんなことは絶対にできないし、したくない。
だってこうなることは、君についていくと決めた時点で当にわかりきっていたことだったから。
それなのに不覚にも僅かに揺らいでしまった自分の感情に自覚して、苦笑いをこぼした。
「……セラ」
そっと手を伸ばしてその小さな顔を両手で包むと、セラの瞳がゆっくり僕を見上げた。
涙の滲んだその目に、柔らかく微笑む自分の姿が映っていた。
「……ありがとう。君の気持ち、ちゃんと伝わってるよ」
優しく囁きながら、そっと額を重ねた。
震える吐息が頬に触れるたび、胸が締めつけられるのに、それと同時に嬉しくもあった。
「僕の方こそごめん。ちゃんと話さなかったから、君を不安にさせたよね」
セラは小さく首を振って、涙の声で言った。
『違うよ。謝ってほしいわけじゃないの。私……総司にもっと気持ちを言ってほしくて……どんな気持ちも、一緒に感じていたいの。だからあんまり優しくしないで……』
「でも僕は優しくしたいよ。セラが好きだから」
頬に触れたまま、ゆっくりと顔を近づける。
瞳をそっと閉じる彼女の仕草に胸が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと唇を重ねた。
柔らかくて、温かくて、壊れてしまいそうなくらい愛しくて、どれだけ触れても足りなくなる。
どうして、君はそんな顔で僕を見てくれるんだろう
まるで、僕がきれいな心を持っているとでも思っているように。
「本音を言うとね……僕だって苛立ちはしたよ」
やや肩をすくめて、軽口のように言葉を継ぐ。
「でもそれは君にっていうより、王太子にだよ。好きな子が他の男といたら、それは……ね。いい気分しないし」
僕は何度も思ったよ。
あの夜、王太子の首をこの手でへし折ってしまいたいと。
その喉をぐちゃぐちゃ潰して、君の名前を二度と口にできなくしてやりたいと。
今だって喉元までこみ上げるどす黒い怒りを奥歯で強く噛み潰している。
あの顔やあの声を思い出す度に迫り上がる殺意は、とても消せるものではなかった。
実際この手は、人を殺すことに慣れている。
躊躇わず、迷わず、何も感じずに、その命を断つことができる。
それは僕にとって特別なことじゃない。
僕は物心がついた頃から、人の死と隣り合わせの生活を送ってきているからだ。
だから王太子一人、この場から消すことなんて造作もない。
その一瞬で、君の隣にいる資格を取り戻せるのなら。
君の寝台に触れたあの男をこの世界から消すことができるのなら、むしろ願ったり叶ったりだ。
そんなことばかり考えている僕は、君が思うような優しい人間なんかじゃない。
ただ君が好きだから優しくしてるだけだよ。
君の世界を護るためなら人を殺すことにも迷わないし、君の心を護れるならいくらだって嘘を吐ける。
その残忍さは自分でも自覚してるし、それが本来の僕だからだ。
けれどそれをしてしまえば、セラが苦しむ。
公爵家の娘として、王太子に逆らった者として、どれほどの重荷を背負わせることになるか……僕はどうしても想像せずにはいられない。
こんな僕でも、君を傷つけるようなことだけは絶対にしたくないんだ。
だから僕は君の前で、優しいふりをする。
いつも通りに笑って、穏やかに話して、君の知っている僕を壊さないように振る舞う。
少し苛立ったように見せたとしても、それも計算のうち。
そうすれば、君は安心するだろうから。
そして、そんな僕を君は優しいと信じてくれる。
その優しさの中に、僕を置いてくれる。
それがどれほどの救いになっているか、君にはきっとわからないだろうね。
だからこそ、この醜い感情だけは君に見せるわけにはいかない。
誰かを殺したいと思う程の憎しみも、嫉妬も、怒りも。
そんなもので、今日まで必死に積み上げてきた君が信じている僕の姿を、僕自身が壊してしまうわけにはいかないんだ。
それを失ったら、君の隣に立つことすらできなくなる気がするから。
だから君が信じてくれる僕を守るために、多少の偽りは許して欲しい。
たとえその裏側でどれほど醜い感情を握りしめていたとしても、それだけは変えられそうになかった。
ふっと息をついた。
僕はわざとらしく目を細めて、少しだけ声を尖らせた。
「それにさ……セラが、あの可愛い寝顔をあいつに見せたって思うと、それも苛つくんだよね」
セラは泣きながらも顔を上げる。
少し揺らいだ瞳が、僕の怒りを確かめるように僕を見つめていた。
「あと、あいつに甘えたって言ってたよね?それも正直どうかと思うけど。だって君は、僕のなのに」
言葉の端々にわざと刺を立てる。
本当の怒りの熱はもっとずっと深くて重くて息苦しいほどなのに、僕が今見せてるのはそのほんの上澄みだけだった。
『……怒ってるの?』
「うん、怒ってるよ。君が誰に笑いかけても、誰の傍にいても、それがどんなに短い時間でも……僕は腹が立つ。だって僕には君を独り占めする資格なんてないから、余計に悔しくなる。そんなの当たり前でしょ」
これは嘘じゃない。
でも感情のほんの一部しか語ってない。
セラが望むから、僕はただ少し怒ったふりで言葉を紡いだだけだった。
『ありがとう、話してくれて……』
ぽつりとセラがそう言った。
僕を見つめるその目は、少し安堵したように揺れていた。
怒りを向けられても怖がることなく、むしろ少し嬉しそうに。
『ちゃんと総司の気持ちが聞けた気がして、少しほっとした……』
「僕は怒ってるのに、ほっとしたって言うのも変じゃない?」
『変じゃないよ。だって総司が本当の気持ちを話してくれること、嬉しいから』
どうして君は、そんなふうに信じてくれるんだろう。
僕の嘘まで優しく包み込むような笑顔が、あたたかくて痛かった。
『……私ね、少しでも総司の支えになりたいの。護ってもらうだけじゃなくて……総司のつらい気持ちも、ちゃんと受け止めたいって思うよ』
思えばまだ僕が見習いだった頃、捨て身で無茶ばかりしていた僕に頼ってほしいとセラは言ってくれたよね。
あの言葉があって僕は少しずつ変わり、この子には自分の弱さを見せられるようになった。
それは僕の中で奇跡に近くて、誰かに心を許せること自体が初めてだった。
だからセラにだけはありのままの姿を曝け出していたつもりだったけど、回帰を繰り返し、その世界を憎む度に思い出してしまった本来の自分。
親すら捨てて、他人の命をどうとも思わなかった以前の自分が、心の奥底に根付いていることに気付いた。
「ありがとう、そんなふうに思ってくれて」
セラをそっと腕の中に抱きしめて、もう一度優しくキスを落とす。
その香りや愛らしい眼差しに心が安らいで、醜い感情も全て消えてなくなってくれたらいいのに。
『……好き、総司……本当に大好き……』
「うん。僕も君が好きでたまらないよ」
セラの不安と僕の痛みが、唇のぬくもりで溶け合っていく。
どんな言葉よりもあたたかく、ふたりを結びつける時間のように感じられた。
『総司を悲しい気持ちにさせて……本当にごめんね』
「もういいよ。それに王太子がいくら君にちょっかいをかけたとしても、君の心までは渡す気はないしね」
そう、絶対に。
セラの心は誰にも渡さない。
僕の手の中にあると思えることだけが、唯一の救いだった。
あいつが君に触れようとしても、どんな言葉をかけてきても、君の心はこれから先も僕だけを見ていてくれる。
そう信じたい。
そうでなければ、きっともう立っていられない。
それなのに、ふと脳裏をかすめてしまう。
もし君が僕以外の男と口づけを交わす日が来たら。
大切に護ってきた身体が、僕以外の男に触れられたら。
セラの心だけを手にしている僕と、心だけを手に入れられない王太子とではどちらの方が不幸なんだろう。
そんな取り止めのない疑問が頭をよぎった。
『うん、私はずっと総司のことだけを想ってるよ』
「王太子との関係が深まったとしてもそう想ってくれる?」
『……そんな、深まったりなんてしないよ……』
「でも結婚したら避けて通れないことでしょ。同じ寝所を使うようになるのに、何もないわけがないよね」
セラだって、きっとわかっているはずだ。
いずれそういう日が来るかもしれないことを。
だからいくら僕がセラとあいつとの接触を嫌だと怒ったところで、その怒りに何の意味もないことはわかりきっている。
だから……
「でも、嫌だな……。セラが僕以外の男とキスをしたり、それ以上のことをするのは」
そう言って、そっとセラの唇に親指を滑らせる。
あたたかくて柔らかい、僕だけが知っているその感触を。
誰にも触れさせたくない、そう願わずにはいられなかった。
すると目の前の大きな瞳はまた涙で潤み、辛そうに細められた。
『総司……』
「そういうことをする時は、必ず僕を思い出して。僕のことだけ考えて。あいつのことなんて見ないでよ」
そうすることで、君はきっと王太子に触れられる度、僕のことを思い出す。
他の男に触れられながら、今日の僕との会話を思い出す。
それはある意味、一番残酷なセラを縛る鎖になる。
でも、そうしていればどんなに奪われても僕の心は君に繋がっていられる。
それはきっと僕のなかで唯一の救いになるから、身勝手なことを告げる僕を許して欲しい。
「僕のお願い、聞いてくれる?」
『うん、ずっと総司のことだけ考えるよ。総司のことしか見てないよ。でも、他の人といる未来なんて……私はいらないよ……』
セラは辛そうにそう呟くと、ただ頷くように目を伏せた。
その姿が切なくて、胸の奥がまた軋むように痛んだ。
でも僕はまだ諦めていない。
もし周りの目がない絶好の機会があれば、この剣が悲しみの根源を断ち切れるかもしれない。
その日が来てくれることを、今はただ待ち望むことしかできなかった。
だから今は誰にも言えないこの怒りも殺意もすべて飲み込んで見せないままでいるよ。
そして誰よりも優しいふりをして、セラの傍にいよう。
そう考えながら、僕はまた彼女の額に静かに唇を落とした。
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