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お茶会の日以降、千鶴様は度々声をかけてくださるようになった。
総司と私の関係に触れることもなく、私達がする会話は他愛のないことばかり。
構えていた分、拍子抜けしてしまうくらい千鶴様は穏やかで。
私自身も以前より、千鶴様と気兼ねなく過ごせるようになっていた。
そして学院の復学もあと数日という時。
夜に部屋の扉が控えめにノックされる音がする。
そっとドアを開けると、そこには薫様が立っていた。
「セラに話があるんだ。少し入ってもいい?」
あの日以降、薫様は私に多少気を遣ってくださっているのか、夜に部屋へと来ることは格段に減った。
私達が会話をするのは専ら昼間ばかりで、こうして夜に会うのは久しぶり。
勝手に部屋に入ってこないところも、以前より少し変わったと思う。
『はい、どうぞ』
薫様はふっと柔らかく笑って、私の許しを得ると静かに部屋の中へ足を踏み入れた。
夜の灯りに照らされた横顔は、昼間よりもずっと穏やかで柔らかく見えた。
「学院のことなんだけど、復学は予定通りで大丈夫なんだよね?」
『はい、あと三日なので楽しみにしてます』
「そうか。よかった」
短く告げられたその言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
婚約を決められた時はあんなに強引だったのに、ここへ来てからの薫様は、私を思いやる言葉を選んでくれる。
だからこそ、この温かさは同時に罪悪感へと変わってしまうのだ。
「クラスは変えないでおいたよ。その方がお前も友人がいて心強いだろ?」
『はい、ありがとうございます。とても心強いです』
「それと、お前の妃教育についてなんだけど」
薫様は少し口元を綻ばせて、紅茶を一口含む。
その笑顔には、何かを嬉しそうに語りたがっている雰囲気があった。
「講師たちが皆揃って、お前のことをすごく褒めていたよ。真面目で吸収が早く、礼儀や立ち居振る舞いも美しいって。努力家だって評判だ」
『そんな……私はまだまだです。いつも必死で、間違えないようにと考えるだけで精一杯なんです』
「でも、それは結果にちゃんと出てるだろ。俺は嬉しいよ。自分の婚約者が、そうやって努力してくれるのは」
薫様の瞳が、少し柔らかく細められる。
褒められたことに素直に嬉しさは感じるけど、胸の奥底では別の想いが疼いていた。
『私は本当にまだ未熟ですが、将来薫様と添い遂げることになった時、しっかり隣に立って支えられるように今から楽しく学んでいきたいと思っています』
「楽しく学ぶ……か。いい言葉だな」
薫様の笑顔がさらに深くなる。
けれど私の言葉は、総司への想いを隠したままの、あくまで役割としての覚悟だった。
だって私の心は、もうずっと総司にしか向かない。
総司だけが特別で、薫様にはどうしても友人としての気持ちしか持てなかった。
けれどせめて役割は果たしたい。
王太子妃になるのなら、王太子妃として政治的にこの人を支えられる存在になることは最低限の礼儀。
そのための努力だけは怠らないでいたいと、自分に言い聞かせていた。
「お前がいてくれると、心強いよ」
微笑む薫様のその表情が、どこか寂しそうに見えた。
どうしてだろうと考えていると、薫様の手がそっと私の手に重ねられた。
「でも……正直俺はお前が優秀じゃなくても、優れた妃じゃなくてもいいんだ」
『それは……どういう意味ですか?』
「俺はお前が傍にいてくれたらそれでいい。できれば俺を好きになってもらえたら嬉しいし、それ以上は何も望んでないよ」
その言葉は胸に重くのしかかるものだった。
薫様の望みは、決して叶えてさしあげられないことだと私自身が一番わかっていることだったから。
『……私は、薫様のお傍にいますよ』
それしか返す言葉が見つからなかった。
これ以上踏み込めば、それは総司への裏切りになる。
総司が苦しそうにしている姿はもう二度と見たくないからこそ、どうしても薫様との間に一線を引いてしまう私がいる。
「お前は……普段は気が利くのに、俺を好きになりたいとか、そうなれるように努力するとか、そういうことは一切言ってくれないよね」
『…………』
「それがたまに、すごく不安になる。お前のその態度が……最初から俺を好きになるつもりはないって、そう言ってるみたいで」
まるで心の奥を覗かれたようで、息が詰まるのを感じる。
私はこの先あと何回、薫様にこのような顔をさせてしまうのだろうと胸が痛くなった。
『薫様のことは尊敬しています。友人としてですが、ちゃんと好意もあります。ただ……まだすぐには……今は毎日の生活に精一杯で、他のことを考える余裕がなくて……時間が欲しいのです』
本当はただ逃げているだけだ。
けれど今はこれ以上の言葉を言う勇気がなかった。
「……わかった。でも俺は諦めない。お前とは本当の意味で夫婦になりたいと思ってるから」
その言葉は私が本当の意味での伴侶になるつもりがないことを見透かしているようで、痛みを伴う。
それでも私は小さく「はい」と答え、頷くしかなかった。
薫様の手はいまだ私の手を包んだまま重ねられている。
温もりが優しいのと同時に、逃れられない現実を突きつけてくるようだった。
「学院に通うようになれば会う時間が減るな。それにあと数日したら俺は公務で他国に行かないとならない。恐らく一ヶ月程は戻って来れないと思うんだ」
ほんの少し寂しそうに呟かれた声が、夜の静けさの中でやけに近く響く。
「少しは寂しいと思ってくれる?」
視線を向けると、薫様はまっすぐに私を見ていた。
その瞳は深い水面のように静かだけど、覗き込めば底の見えない影を抱えているようだった。
「セラ、言ってよ」
私の名を呼ぶ声が、低く熱を帯びて耳に残った。
ふいに伸ばされた指先が、私の頬に触れる。
ゆっくりと躊躇うように撫でられ、その仕草に胸の奥がまた締めつけられた。
『薫様に会えないのは、寂しく思いますよ』
「じゃあ俺の帰りを待っててくれるよね?」
『はい、もちろん。なので体調を崩されないよう、元気で過ごされてくださいね』
「ああ。しばらく会えなくなるけど俺のこと忘れないでよ。戻ったら真っ先にお前に会いに行くから」
その言葉が甘くて、同時に切なくて、返事をしようとしても喉が詰まって声にならなかった。
ただ頷くことしかできない私を、薫様はほんの一瞬だけ抱き寄せた。
「じゃあ俺は行くよ。ゆっくり休んで」
『はい、薫様も。おやすみなさい』
「おやすみ」
すぐに温もりは離れ、薫様は薄く微笑み部屋から出て行った。
薫様が私に優しくしてくれればしてくれるだけ、私の背負っている罪が大きくなっていくようだった。
でも私はとっくに総司を選んでいる。
総司を手放せなかったあの夜の私が、今も総司を好きだと叫んでる。
だからこの先どんなに胸が苦しくても、心だけは決してぶれずにいたい。
どんな未来でも全部受け止めて、前だけを見つめて行こうと思っていた。
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