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復学初日の日。
千鶴様が部屋に来たのは、夕食のあと少し経ったころだった。
扉を静かに開けると、灯りの影が揺れる中、千鶴様は優しく微笑み部屋の前に立っていた。
「セラさん、まだお休みではありませんでしたか?」
『はい、起きていましたよ』
「それなら良かった。セラさんにお渡ししたいものがあったの。もしよければ、しばらくお貸しするので是非お使いになって」
千鶴様がそう言って私に手渡してくれたのは薄桃色の細長い木箱だった。
蓋には小さな金色の模様が散りばめられ、まるで宝石箱のように可愛らしい。
手に取ると、ほんのりと甘く優しい香りが漂ってくる。
「今、貴族のご令嬢の間でとても人気のお香なの。安眠効果はもちろん、気持ちを落ち着かせてくれる作用もあって、髪や衣服にふんわり香りが移って、翌朝も心地良いんです。他にも緊張を和らげてくれる効果があるから、舞踏や発表の前にも向いているらしいの」
『とっても可愛い。こんなに素敵なお香をお借りしてしまってもよろしいのですか?』
「もちろん。いくつかいただいたから、私も毎晩使っているの。セラさんにも是非使ってほしいと思って」
千鶴様はそう言って微笑むと、続けてお香の扱いについて教えてくださった。
「少し炊き方にコツがいるから、私のお部屋で慣れている侍女を一人、お部屋に向かわせますね」
ほどなくして小柄で穏やかな雰囲気の侍女の方がやってきて、机の端に小さな香炉を置いた。
火を入れると、桃色の煙がゆるやかに立ちのぼり、部屋いっぱいに柔らかな香りが広がっていく。
それはただ甘いだけではなく、どこか深みのある優しい香りで、胸の奥までじんわり染み込んでいくようだった。
『とても素敵な香りですね。ありがとうございます、千鶴様』
「気に入っていただけて嬉しいです。きっとよく眠れると思いますよ」
そう言って千鶴様は、私が香りを吸い込むたびに瞼をゆるめていく様子を、柔らかく見守ってくれていた。
この贈り物は、きっと私のことを想ってわざわざ持ってきてくださったのだろう。
その優しさに胸の奥が温かくなっていく。
『本当に良い香り……それに不思議なくらい眠くなってきてしまいます』
「ふふ、私もこの香りを嗅ぐと安心してすぐ眠りにつけるの」
『千鶴様のお気持ちがとても嬉しいです。大切に使わせて頂きますね』
「是非。明日からは薫もしばらく宮廷を留守にするみたいですから、私がセラさんを独り占めしちゃおうと思って」
そう言って笑う千鶴様の笑顔があまりにも可愛くて、心がときめいてしまう。
今度何かお返しさせて頂こうと考えながら、千鶴様に微笑みを返した。
その後、千鶴様がお部屋を出て行かれると部屋には静けさが戻る。
香りを胸いっぱいに吸い込むと、不思議なほど心が落ち着き、張り詰めていた気持ちがふわりと解けていくようだった。
そして、いつの間にか総司のことを考えていた。
あの穏やかな笑顔、私を見つめる優しい眼差し。
全部が大好き……。
『総司……』
早く明日になって、また総司に会いたい。
もし今そばにいてくれたら、この香りの中でどんな話をしてくれるだろうと考えながら、私は自然と瞼を閉じた。
香りに包まれたまま、総司の面影と一緒に静かな眠りへと落ちていった。
そして翌朝。
目を覚ました時、部屋の空気にはまだ昨夜のお香の名残が漂っていた。
ほんのりと甘く、温かな香りが枕や髪に染みついていて、目を開けた瞬間から心がふわりと和らぐ。
いつもなら朝は少しだけ体が重くて、寝起きの支度も時間がかかってしまうのに、今日は不思議と軽かった。
胸の奥まで澄んだ空気が流れ込むようで、窓の外の光さえいつもより柔らかく感じられる。
『……すごい。本当に昨日の千鶴様のお香のおかげみたい』
鏡の前で髪を整えながら、自分の頬がわずかに紅く染まっていることに気づく。
眠りの質が良かったせいなのか、肌の調子まで良くなった気がする。
胸の奥には温もりが残っているようで、それが妙に心地よくて離れなかった。
昨夜のお香の香りを思い出すと、胸の奥に甘い波が広がる。
あの香りに包まれれば、きっとまた深く眠れると思うと、今日の夜が少し楽しみになるほどだった。
本当に不思議なお香だと感動しながら、私は学院に行く準備を整えた。
それから程なくして、総司が私を迎えに部屋の前まで来てくれる。
馬車の待機場所に着いたものの、公務で王宮から離れている薫様は勿論、千鶴様も今日は学院に向かわれないらしい。
お香のお礼を言えないことに残念な気持ちになりながらも、私は総司と一緒に馬車へ乗り込んだ。
「昨日はよく眠れた?」
馬車の中、カーテンが閉められると、ここは私と総司の二人だけの空間になる。
頬を撫で私をまっすぐ見つめてくれる瞳を私はじっと見つめ返していた。
『うん、とってもよく眠れたよ。今日はすごーく気分がいいの』
「はは、それなら良かったよ。学院も始まって大変だと思うから無理はしたら駄目だよ」
『うん、大丈夫。総司が傍にいてくれるから、私はなんでもできちゃう気がするんだ。頑張ることって楽しいし、総司が見守っててくれるから毎日が幸せだよ』
どうしてだろう。
今日は気持ちが穏やかで、凄く落ち着いていられる気がする。
最近は総司の顔を見るたびに切ない気持ちになっていたのに、今日は違う。
未来への不安も些細なことに思えて、ただこうしていられる幸せに心を満たすことができていた。
「本当にセラは可愛いよね」
頬に添えられていた手が私の顔を上げさせると、柔らかく唇が振ってくる。
私の唇に温かい熱が触れて、もっとその熱で身体を満たしたくなった。
奥まで触れたい衝動に駆られて自ら舌を差し入れると、私を抱きしめていた総司の腕がぴくりと揺れる。
そしてぐっと身体を引き寄せられると、総司も応えるように舌を絡ませてくれた。
『……ん……』
総司に自分から触れにいくなんて、いつもの私なら考えられないこと。
けれど、胸の奥に広がる温かさに背中を押されて、恥ずかしさよりも触れていたいという気持ちが勝ってしまっていた。
総司の腕に包まれると、その熱が全身に伝わって心も身体も溶けてしまいそうになる。
けれどしばらくして総司の唇が離れていってしまうから、私は総司の襟元をぎゅっと掴み、そのままぐいっと引き寄せた。
驚いたように目を瞬かせる総司の唇に、迷いなくもう一度唇を重ねる。
深く、深く……総司の息が少し荒くなるのを感じながら舌を絡め、彼の温もりを確かめるように求め続けた。
やがて長いキスに満足して唇を離すと、総司の瞳がわずかに潤み、頬がほんのり赤く染まっている。
「今日はどうしたの?」
『うん?』
「朝からあんまり可愛いことされると、辛いんだけど」
そう言いながらも、総司は微笑み、優しく私の髪を撫でてくれる。
その手のひらの温かさに、胸の奥がより温かくなった。
『だって総司とこうできる時間に、総司にたくさん触ってもらいたかったから』
「そういうの、ずるいよね」
『ずるい?どうして?』
「僕が我慢しないといけない立場だって、わかっててやってるでしょ」
『そんなことないよ?本当にそう思ったから言っただけだよ』
「へえ、ほんとに?」
総司の視線が、少しだけ探るように私を見つめる。
その瞳を見つめ返すと、ふっと力が抜けたように微笑んでくれた。
でも私を抱きしめる腕は離れていってしまうから、それが寂しくて膝と膝をそっと寄せると、総司の袖口に自分の指先をかけた。
「またそうやって近くにくる」
『総司がくっついててくれないと、落ち着かないから』
「……困った子だね」
眉尻を下げて笑いながらも、総司は私の手をそっと握ってくれる。
その温もりに胸の奥まで熱が広がり、気づけばまた唇を重ねていた。
最初は触れるだけの甘い口づけだったのに、総司の吐息が頬にかかると、それだけでは足りなくなる。
唇の隙間からそっと舌先を差し込むと、総司の舌がゆっくりと迎え入れてくれた。
『……は……ぁ……』
ぬるりと絡む感触に、背中が震える。
舌と舌が何度も触れ合い、濡れた音が馬車の中で静かに響いた。
甘く、熱く、時間の感覚が溶けていく。
総司の片腕が私の背を引き寄せ、もう片方の手が頬に触れる。
その支えに安心し、私はさらに舌を絡め、彼の温もりをもっと確かめた。
一度離れてもすぐに再び求め合い、深く、深く互いの呼吸が混じり合っていった。
「今日は随分積極的なんだね」
『だめ?』
「駄目じゃないし、そんな君も好きだよ」
『私も、総司が大好き』
その言葉の後、また強く引き寄せられ唇が重なる。
舌と舌が絡み、吸い合い、まるでこの瞬間を永遠に閉じ込めたいかのように離れられなかった。
「朝からこんなことしてたら、勉強どころじゃなくなりそうだよ」
『勉強はちゃんとしないとだめだよ』
「僕を骨抜きしておいてよく言うよね」
『だって総司とこうしていられる時間は限られてるでしょう?』
そう言うと、総司は少し目を細めて、私をじっと見つめた。
「……そうだね。学院から帰ったらそれぞれやることがあるから、馬車の中以外ではゆっくり話す時間はなさそうだし」
『だから、その前に総司のことを大事に思ってるって、きちんと伝えておきたかったの』
私の言葉に総司は小さく笑い、手を伸ばして私の頬に触れた。
「大丈夫だよ、セラの気持ちは伝わってるから」
『良かった。でもね、本当はもっと伝えたいの。総司が好き過ぎて、伝えても足りないくらい溢れちゃうから……ちょっキスしたくらいだと全然満足できなくて、もっと触って欲しくて足りないの』
「………」
『ねえ、総司?聞いてる?』
「聞いてるよ。そんなことまで今日は言ってくれるんだね」
『おかしい?』
「いや……、嬉しいよ」
総司は私を抱きしめ、ゆっくりと指先で髪を梳くように撫でてくれる。
その温もりに身を委ねながら、頬を彼の肩にすり寄せた。
鼓動の音と、彼の匂い。
それだけで胸の奥がじんわり満たされていく。
「今日は随分甘えてくれるけど、何かあったの?」
『何かって?』
「例えば僕に疾しいことがあるとか、それを隠そうとしてるとかさ」
『え?』
思わず小首をかしげて、総司を見上げる。
そんなこと、あるはずがないのに。
『何もないよ?』
「ふうん、本当かな」
『どうしてそんなこと言うの……?私は総司が好きだから、こうしていたいって思っただけなのに』
自分でも理由は分からないのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、視界が滲む。
潤んだ瞳で総司を見上げると、彼は少しぎょっとした顔をしてから、眉尻を下げた。
「ごめんね、そんなこと思ってないから。だから泣かないで」
『あんまり意地悪、言わないで』
「セラがいつもと少し違う気がしたんだよ。普段はここまで甘えてくれないでしょ?だから少し心配になっただけ。本当に疑ってるとかじゃないよ」
自分ではいつもと違う自覚はなくて、ただ今日はいつもより少し自分の気持ちに正直に行動しただけ。
普段なら恥ずかしくてできなかったけど、今日はほんの少し細かいことは気にせず想いのままに行動できる気がしたから。
『私は総司だけが好きだよ。総司には心配かけ申し訳なく思ってるけど……でも、私は本当に総司のことだけ特別に思ってるし、何かをごまかすために甘えたりなんて、そんなこと絶対しないよ』
「……うん、わかってるよ。変なこと言ってごめんね。セラに甘えてもらえるのは嬉しいから、これからも今日みたいに甘えてよ」
『うん……』
総司の言葉にほっとして再び総司にすり寄ると、温かい腕が私を労わるように優しく包んでくれる。
大好きで堪らない、私の心の大切な居場所だ。
「あーあ、セラが可愛すぎて辛いな。もうすぐ学院に着いちゃうだろうしね」
『一緒にいられない時も、私はいつも総司のことを想ってるよ』
「ありがとう、僕もだよ」
抱き寄せられたまま、耳元に彼の息が触れる。
思わず目を閉じると、総司の鼓動が規則正しく響いてきて、私の心まで同じリズムで動き出すようだった。
総司がいてくれれば、私はいつだって前に進んでいける。
学院に向かうまでのわずかな時間が、何よりも大切な宝物のように思えた朝だった。
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