5
私がお香を使い始めてから数日。
あの日以来、初めてお香を焚いてくれた侍女の方が、夜になると決まって私の部屋を訪れるようになった。
毎晩、同じ時刻に焚かれるその香は、朝まで途切れることなく漂い続ける。
その香りを胸いっぱいに吸い込むと、どうしようもなく心が解けていくような、深く温かな安らぎに包まれる。
「では、ゆっくりおやすみくださいませ」
『ありがとうございます。あの……』
「どうかなさいましたか?」
『千鶴様はお元気でしょうか?ここ数日学院にも顔を出されていないので気になってしまって』
いきなりお部屋を訪ねるのもいかがなものかと考えて、侍女の方に尋ねてみた。
すると彼女は優しく微笑み、私に言った。
「王女殿下は変わらずお元気でいらっしゃいます。学院へ通われないのは、王太子殿下がご不在だからだと。お二人はいつもご一緒に通学されておられますから」
『そうなんですね、体調を崩されていないのでしたら安心しました。ですがこちらのお香、毎晩のように私が使わせて頂いてよろしいのでしょうか?』
「もちろんです。王女殿下が是非セラお嬢様にと仰せですので、どうぞお気になさらず。ですがそのお気遣いは王女殿下にもお伝えしておきますね」
そう言って一礼し、侍女の方は静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音とともに、部屋にはお香の甘やかな香りが、よりはっきりと広がる。
柔らかく漂う煙がカーテン越しの月明かりにゆらゆらと揺れ、その様子をぼんやり眺めているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる気がした。
『あと少しだけ、勉強しようかな』
最近は妃教育に加えて学院での勉強もあるから、空いた時間は机に向かってばかりいる。
本来なら眠らなければいけない時間だけど、もう少し取り組まないと少しばかり心配だった。
けれど文字を目で追っても、思考はすぐふわりと別のところへ流れてしまう。
『きっと、今日は少し疲れたから……』
まるで頭の中が春の陽だまりに包まれているようだから、今夜は早くベッドで休んだ方が良さそう。
柔らかい寝具に身を沈めた私はゆっくりと瞼を閉じると、いつの間にかそのまま眠りに落ちていた。
「お嬢様、セラお嬢様……」
『ん……』
「朝でございます。どうかお目覚めくださいませ」
まだ瞼が重く、胸の奥に甘い霞が漂っているような感覚があった。
声のする方へ視線を向けると、侍女の方々がどこか慌ただしい様子で立っている。
普段なら声をかけられる前に自ら起き、身支度を始めているはずなのに今日は違っていた。
「お嬢様、沖田様がもうお越しでございます」
その言葉に、はっとして上体を起こす。
けれどその途端、視界がふらりと揺れて眉を寄せた。
「お嬢様?大丈夫ですか?」
『はい、大丈夫です……』
今の……どうしたんだろう。
今はもういつも通りだけど、頭の奥がふわっと浮くような感覚がした。
急に起きたせいかな。
『ごめんなさい、すぐに支度を整えますね』
ベッドから降りて壁の時計を見れば、針はいつもより三十分も早い時刻を指している。
扉の向こう、総司が部屋を覗き込み、柔らかな笑みを浮かべていた。
「寝坊しちゃったの?」
『総司、今日はどうしてこんなに早く?』
「今日はグループディスカッションの発表日だよ。朝、みんなで練習するって約束したじゃない」
昨日、確かにそんな話をしていたような気がする。
けれど記憶はどこか霞がかっていて、すぐにははっきり思い出せない。
ただ焦りだけが心の中に広がっていった。
『ごめんね、うっかりしちゃって……。すぐ準備するから待っててもらってもいいかな?』
「うん、外で待ってるね。焦らなくていいよ」
総司が扉を閉めるのを見届けて、私は侍女の方々の方へ向き直った。
『本来であれば、昨夜のうちに今朝は早く出るとお伝えすべきでした。申し訳ないです』
「どうかお気になさらないでくださいませ」
「お嬢様のお顔を拝見できるだけで、私どもは嬉しゅうございます」
『ありがとうございます。朝食までご用意くださったのに、いただけずごめんなさい』
「構いませんよ。私どものことはお気にならさらないでくださいね」
かけて頂いた優しい言葉に、胸の奥が温かくなる。
自分の不手際が恥ずかしく情けなく思いながらも、急いで着替えと髪を整え、総司の待つ廊下へ出た。
『総司、ごめんね。お待たせ』
「平気だよ。じゃあ行こっか」
どうしよう、今日は沢山の方に迷惑をかけてしまった。
そもそもどうして私は忘れてたんだろう。
手帳にきちんと書き込めば良かったのに……。
『……っひあ……』
考え事をしていたせいか、足元の感覚がふっと抜ける。
そして身体が階段の下へと傾き、落ちることを覚悟して目を瞑った。
けれど気付いた時には逞しい腕に支えられていて、驚いて見上げた先には、同じように少し驚いた様子の総司が私を見下ろしていた。
「……びっくりした。君が落ちなくて良かったよ」
『ごめ……なさい……』
「別にいいよ。セラは大丈夫?」
『うん、総司が支えてくれたから』
「良かった。ちゃんと前見て歩くんだよ」
総司は優しくそう言うと、私の頭にそっと手を置き微笑んでくれる。
一歩前を歩きながらも、少し後ろにいる私を総司は見守るように見つめていた。
『総司こそ前見ないと危ないよ?』
「僕は君みたいに階段から足を滑らせたりしないよ」
『私だってもう落ちないもん』
「どうかな。君は危なっかしいから僕がちゃんと見ててあげないとね」
総司は少し悪戯に笑っているけど、その気遣いは嬉しくて申し訳ない。
足元を慎重に見ながら階段を降りる私の様子を、総司は少し楽しそうに眺めていた。
しばらくして馬車に乗り込むと、扉が閉められカーテンが引かれる。
二人きりの空間になるや否や、総司はふわりと私を抱き寄せた。
「セラ、今日は少し頬が赤いけど、体調は平気なの?」
総司の温かい手が額に触れると、彼は考え素振りをして「熱はなさそうだけど」と呟く。
『体調は元気だから大丈夫だよ。でも今日は本当にごめんね。皆との約束の時間に間に合うかな』
「間に合わなくても大丈夫だから、そんなに気にしなくていいよ」
『でも総司は早く起きてまで迎えに来てくれたのに』
「気にしないでいいってば。それよりセラが寝坊なんて珍しいね」
『寝坊っていうより、朝の約束のことをすっかり忘れてたの』
ため息混じりに告げると、総司はくすくす笑って首を傾げた。
「いつもきちんとしてるのに、君でもそういうことがあるんだね」
『どうして忘れちゃったんだろう』
「人間なんだから、たまには抜けることもあるよ。だからそんな顔しないで」
その声は、包み込むようにあたたかい。
私は思わず「ありがとう」と小さく呟き、彼を見上げた。
すると総司は私の額に自分のをそっと重ねる。
「でもお詫びに、ひとつしてほしいな」
『お詫び?』
「セラからキスして」
その言葉が可愛いらしくて、思わず笑みがこぼれる。
私は顔を上げそっと総司の唇に触れた。
最初は軽く、けれど自然と深くなっていく。
どちらからともなく舌が触れ合い、絡まり、甘く溶ける。
馬車の中に呼吸と心臓の音だけが響き、唇を離したあとも総司の瞳は熱を帯びて私を見つめていた。
「これで今日のことは帳消しだね」
総司は満足そうに微笑み、私の髪をそっと撫でた。
触れてくれる温もりが心地よくて、私はただ静かに身を委ねた。
『総司に頭撫でてもらえるの、気持ちいい』
「そう?」
『うん、眠くなっちゃいそう……』
ぼんやりとしたまま総司の腕の中にいると、本当に寝てしまいそうになる。
目が虚ろになっていると、総司が私の顔を覗き込んできた。
「セラ?」
『うん?』
「だいぶ眠そうだね、夜ちゃんと寝てる?」
『うん、寝てるよ』
「それならいいけど。疲れが溜まってるんじゃない?今日の夜は早めに寝なよ。もし宿題とか出たら僕が代わりにやっておくし」
今日の夢にはお父様が出てきた。
前まで暮らしていたお屋敷で、お父様や山南さん、山崎さんと総司、騎士団の皆と楽しく過ごす夢だった。
とってもいい夢だったから、あのままもう少しあの夢を見ていたかったな。
今夜もまたあの夢の続きが見れたらいいな。
「ねえ、セラ?」
『え?』
「大丈夫?僕の話、聞いてた?」
『総司の話?』
総司は私を見下ろしながら眉を顰めるから、私の眉は逆に下がってしまった。
『ごめんなさい、聞いてなかったかも……』
「いや……それはいいけど。本当に大丈夫なの?やたらぼんやりしてるけど」
『今日の夢はね、とってもいい夢だったんだ』
「……え?」
『お父様が出てきて、前みたいにみんなで楽しく過ごしてる夢だったの。お父様に会いたいな』
王宮に来てからどのくらいの月日が経ったんだろう。
確か……えっと……、あれ?
よく分からないけど、もう結構経った気がする。
「……そうだよね。僕も近藤さんにも会いたいし、もう少し今の生活が落ち着いたら公爵邸に戻れるように王太子に聞いてみようか」
『え?私、公爵邸に戻れるの?結婚しなくていいの?』
「いや、そうじゃなくて……。一日か二日、近藤さんに会いに戻れたらいいねって話」
『あ、そっか……』
てっきり今までの生活に戻れるのかと期待してしまった。
そもそもどうして私は薫様と婚約することになったんだろう。
記憶に靄がかかってしまったように思い出せずにぼんやり考えていると、総司の手が私の頬に触れた。
「セラ、こっち向いて」
総司にそう声をかけられて、直ぐ隣にいる総司に視線を移す。
総司は怪訝そうな顔つきで、私のことをじっと見ていた。
「本当に体調は大丈夫?なんか目が少し虚ろじゃない?」
『ううん、すごく元気だよ?最近よく眠れるし目覚めもいいし、むしろ絶好調なの。毎日がすごーく楽しいよ』
「セラが楽しく過ごせてるなら良かったけどね」
『うん。本当に楽しい、とっても幸せ。悩みも何もないし』
「え、何も?」
『うん、何もないよ。だって生きてるだけでこんなに毎日キラキラしてるもん』
朝カーテンを開ければ、空も太陽も風もみんなキラキラしてる。
おいしい朝食が並んでいて、紅茶はいい香り。
用意されたドレスは可愛いくて、いつも色々な髪型に綺麗に結ってもらえる。
私の傍には大好きな総司がいて、学院に行けば大好きな友達がいる。
お父様に会えないのは少し寂しいけど、そのうち会えるよね。
「……そっか、良かったね」
『うん』
少し前まで色々悩んでいた気がするけど、最近は小さいことは気にならなくなったかもしれない。
だって人は生きてるだけで無限の可能性がある。
どんな未来に辿り着いたとしても、その先には絶対に幸せがある。
だって外の空気も吸い込むだけで、こんなに気持ちが良くて幸せなんだって毎日のように思えるから。
「セラって本当前向きだよね。羨ましいよ」
『普通だよ?それに総司だってそうでしょう?』
「僕は、どうかな。後ろ向きではいたくないけどね。でもこんな状況だと、色々考えちゃうことはあるかな」
『私は今日のお昼ごはんは何かなって考えてるよ』
「え……?」
『朝ごはん、食べられなかったの。だからお腹減っちゃって』
今日の朝ご飯。
あれは多分、ママレードが練り込まれたデニッシュパン。
お気に入りのパンを食べ損ねたことを残念に思っていると、すぐ隣から総司の声が聞こえた。
「……なんか今日のセラ、おかしくない?」
『おかしい?私が?』
「あんまり僕の話を聞いてくれてない気がするんだけど」
『どうして?ちゃんと聞いてるよ?』
「そう?まあ、別にいいけど」
総司はそう言うなり、私から視線を逸らしてそっぽを向いてしまった。
そうすれば胸がズキンと痛み出して、途端に胸が苦しくなっていく。
『……総司?怒ってるの?』
「いや、怒ってはないよ」
『でも怖い顔してるよ。ごめんなさい、総司……』
私、何か怒られるようなことしちゃった?
どうしよう、総司に嫌われたら……
総司に嫌いって言われたら、私は……
「セラ……」
振り返った総司は、私を見るなり顔を歪めて私の目元をそっと撫でた。
「なんで泣くのさ……僕は怒ってないよ」
『私のこと……好き?』
「うん、好きだよ。当たり前じゃない」
『私のことだけずっと好きでいてくれる?約束してくれる?』
「勿論。セラのことだけずっと好きでいるよ。約束する」
『良かった。私も総司のことだけずっと好き』
総司は柔らかく微笑むと、そっと触れるだけのキスをしてくれる。
優しく髪を撫でてくれる手はやっぱり心地良くて、総司の傍にずっといたいと思う。
「セラは笑ったり泣いたり……忙しい子だね」
『だって総司に嫌われるのは悲しいから』
「セラを嫌いになるなんて有り得ないよ。僕は君を護るためにここにいるんだし、君だってわかってるでしょ?」
『私を護るため?』
「うん、そうだよ」
『総司は何から私を護ってくれるの?』
私の言葉を聞いて無言になった総司を目の前に、私は小首を傾げた。
「セラ……、やっぱり疲れてるんじゃない?君のことが凄く心配なんだけど……」
『私は元気だよ?』
「でも、明らかにいつもと違うよ」
『違うって何が?』
「よくわからないけど……」
そう言って、総司は再び私の額に手を置いた。
「熱は……やっぱりないよね」
総司を見上げてその顔を見つめていると、大好きだと想う気持ちが心を満たしていく。
顔を上げてそっと彼の頬に唇を寄せれば、総司は目を瞬いて私を見た。
『総司、大好き』
ふっと微笑んだ総司は、私をその腕に優しく抱きしめてくれた。
その腕の中はとても幸せで、私は目を閉じながらその温もりに心を委ねていた。
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