6
セラの様子がおかしい。
ここ数日、薄っすら感じていた違和感が、今朝になって急に濃くなった。
何かが決定的に違うわけでも、ここがおかしいと断定できるわけでもない。
それでも妙な胸騒ぎがして、学院に着いてからも僕の心の靄は消えなかった。
僕らの教室は朝の光が大きな窓から差し込んでいて、木の机や椅子に柔らかな影を落としている。
今日は六人で集まって、グループ発表の最終練習をする日だ。
課題は王国と周辺諸国の交易史。
僕たちは役割を分担して、交易路の成り立ちや主要都市の役割、政治的な背景を説明する寸劇仕立てにしてみた。
はじめ君が地図を広げ、伊庭君が記録用の帳面を机に置き、千ちゃんが台本をめくって内容を確認している。
そんな中、少し息を弾ませたセラと僕が教室に入って行った。
「もう、遅いわよ!二人とも!」
千ちゃんが台本をぱたんと閉じて、冗談めかして眉を吊り上げた。
『みんなごめんね、私が寝坊しちゃって……。総司が迎えに来てくれた時に起きたの』
「セラが寝坊なんて珍しいじゃん。クレープ一つで許してやるから気にすんなって」
平助がにかっと笑って言うと、セラが小さく笑い返した。
「平助君、セラに集らないでくださいよ。おはようございます、時間のことは気にしないでください」
伊庭君が少し呆れたように平助を嗜めた後、セラに微笑みを向けている。
はじめ君も柔らかく口元に弧を描きながら口を開いた。
「ああ。昼も練習できる故、焦る必要はない」
「セラちゃんなら許すわ。沖田君が寝坊したならどついてたけどね」
僕が千ちゃんの隣に腰を下ろすと、彼女は軽口を叩きながら僕に意地悪な笑みを向けた。
「うわ、千ちゃんそれ酷くない?」
「だって沖田君はたまに真面目にやらないんだもの。時間くらいは守ってもらわないと」
「おかしいな。僕は誰よりも真面目な自覚があるんだけど?」
「もう、何言ってるの?そんないい加減な自覚はいりません」
千ちゃんと笑いながらやり取りをしていると、セラがじっとこちらを見ていた。
視線に気づいて小首を傾げると、セラは少し遅れて、へらりと微笑んだ。
その笑顔は可愛いのに、どこか力が抜けていて、今朝馬車の中で見た少しぼんやりした表情と同じ。
本当に大丈夫なのかな。
「よし!んじゃ始めようぜ!」
平助の声が場を切り替えると、はじめ君の合図で僕たちは寸劇仕立ての発表を順番に通してみることになった。
僕は交易史の後半、王国が南方の諸国と結んだ条約について説明する役だ。
セラの役は、序盤の王国の港町の成り立ちと、交易で栄えた時代の情景を語る重要な部分。
淡々としながらも聞き手を引き込む、柔らかい声で話を進めてくれるのがいつものセラだった。
けれど今日のセラは、台本を見下ろしたまま、何度かページを行き来させていた。
その指先がほんの少し震えていて、目の焦点も少しだけ合っていない。
『……あ……えっと……』
小さな声が途切れ、間が空く。
周りの視線が自然と彼女に集まり、場が静まり返った。
『ごめんなさい……。資料、まだ……まとめきれてなくて……。発表までに必ずまとめるね』
その声は本当に申し訳なさそうで、今にも消え入りそうだった。
「妃教育もある身だ、大変だろう。俺達で分担すればいい故、問題はない」
はじめ君が迷いなく言葉をかけると、伊庭君も穏やかな笑みを浮かべ、彼女の机にあった資料をさっと手に取って確認した。
「そうですよ、仲間は協力し合うものです。頼ってください」
「セラちゃんは立ってるだけでグループの評価は上がるから大丈夫よ」
「そうそう!じゃあ、クレープ二つなー」
平助がちゃっかりと条件を追加して場に笑いが生まれたけど、セラは申し訳なさそうに「ありがとう」と呟いた。
その微笑みはやっぱりどこか心許なくて僕の胸に小さな棘を残した。
「僕も手伝うよ。昼に一緒にまとめようか」
『ありがとう、ごめんね……』
「気にしないでいいってば」
セラはどんなに忙しかろうが体調が悪かろうが、自分のやるべきことは期日前に必ず熟し、その出来栄えもいつも郡を抜いている。
そんなこの子が発表の当日に資料もまとめていないなんてことは、僕の知る限り今日が初めてだった。
それにセラは自分の発表が始まるまでそのことに気づいてすらいない様子だったから、それが一番に引っかかる。
セラに対する違和感が濃くなり、言いようのない不安が胸に渦巻いていた。
とは言え、それをこの子自身に告げてしまえばセラのことだ。
自分の失敗を必要以上に責めて、気にしてしまうかもしれない。
誰しも疲れが溜まれば、知らず知らずのうちに思考力が落ちる時はある。
支えてあげれば問題ない筈だと、セラに向かって微笑みを向けた。
そしてその日、皆で力を合わせどうにか無事に発表をやり遂げた僕たちは、放課後に学院のテラス席へ向かっていた。
妃教育があるから長居はできないと分かっていたけど、セラが「今日は絶対に奢らせてほしい」と言うから、結局こうして全員で来ることになった。
テラスは午後の陽射しが柔らかく、白いテーブルクロスの上に並べられたクレープが甘い香りを放っている。
六人で丸く座り、それぞれの手に包み紙を握っていた。
「やっぱり疲れた後の甘いもんは最高だよな」
「同感です。発表も大成功でしたし、今日は本当にお疲れ様でした」
平助が大口でクレープをかじりながらそう言うと、伊庭君は手元のストロベリークリームを上品に口へ運んだ。
『今日はみんなに沢山手伝ってもらったから、本当にありがとう』
セラは愛らしく微笑み、手にしたクレープを少し見つめてから、ゆっくりとかじった。
けれど、その仕草を見守っていた時だった。
セラがふいに隣の平助に身を寄せ、指先を伸ばした。
「え?なんだよ、セラ」
戸惑う平助の頭に、セラの細い指が触れ、ふわりと髪を撫で始めた。
『わぁ……平助君の髪って、子犬みたいにふわふわしてて可愛い』
満面の笑みでそう言った瞬間、平助の耳まで真っ赤になった。
「なっ……ちょ、やめろって」
『だめ?』
「いや……だめじゃねーけど……」
『私、ずっと触ってみたいなって思ってたんだ』
平助は見るからに満更でもなさそうに視線を逸らしていたけど、その場には微妙な沈黙が落ちた。
視線が自然とセラへと集まり、伊庭君もはじめ君も、そして千ちゃんまでもが一瞬だけ驚いた顔をした。
「セラちゃん、今日はずいぶん積極的じゃない?平助君の顔が真っ赤よ」
『そうかな?どうしても、触りたくなっちゃって』
「……俺も撫でてもらえたりしないだろうか」
「斎藤君までどさくさに紛れて何を言ってるんですか」
「本当だよね。はじめ君のは冗談に聞こえないけど」
というか冗談ではなさそうだと苦笑いを浮かべながらも、いまだ平助の髪を撫でているセラの様子に苦い気持ちになった。
普段のセラなら、こんな真似は絶対にしない。
礼儀正しくて、節度を大事にして、必要な距離はきちんと守る子だ。
それが今はまるで子供のように無邪気に触れている。
そして平助の耳の横から髪をすくって撫でると、案の定、平助の肩がびくんと震えた。
「お、おい……!その撫で方はやめてくれって!」
『これ?』
セラは首を傾げて、もう一度同じ動きを繰り返す。
「だああっ、それが駄目なんだって!なんか……ぞくぞくしちまうだろ」
『でも、総司はいつもこうやって撫でてくれるよ?』
その言葉に、空気が一瞬で凍った。
平助も、はじめ君も、伊庭君も一気に不機嫌そうに瞳を細める。
そして次の瞬間には、三人分の視線が僕に刺さった。
「沖田君はまだセラに気安く触っているんですか?騎士失格ですよ」
「あんたにはやはり節度というものがないのだな、見損なった」
「総司、お前最低だな。セラに変なこと教えんなよ」
「いや……なんで僕?僕はそんなことしてないし、注意するならセラに言ってよ」
口では軽く返したけど、こんな話が広がればセラとの関係を勘繰られ兼ねない。
複雑な心情でセラを見ると、彼女は満足したように手を離し、何事もなかったかのようにクレープを食べようとしていた。
けれど生クリームがぽたりとセラのフォークから落ちかける。
制服に落ちる寸前、すっと横から伸びた手でそれを受け止めたのは伊庭君だった。
「良かった、間に合って……」
『ありがとう、伊庭君』
労わるような優しい微笑みを浮かべた伊庭君の指先にはクリームがついている。
微笑んでお礼を言ったセラは、自然な動きで伊庭君の手を取ると、迷うことなくその指先をぺろりと舐めたから僕はその目を疑った。
……え?
「っ……、セラ……」
伊庭君の瞳がみるみる見開かれ、瞬く間に赤く染まっていく。
でもセラはいつもの如く微笑みながら、首を傾げてるだけだった。
「おい、何やってんだよ……!舐めるとかだめだろ!お前、今日少しおかしいぞ」
『え?』
「確かに今日は些かいつもと様子が違うな」
「セラちゃん……大丈夫?」
皆の言葉に本当に不思議そうに首を傾げるセラのその仕草に、また周囲の空気が固まった。
「セラ、男の指なんて舐めたら駄目だよ。はしたないでしょ」
少しの苛立ちを含んだ声でそう告げると、僕を見てはっとした様子で瞳を揺らす。
そしてようやく我に返ったように、頬を赤く染めて俯いた。
『……ご、ごめんなさい。私、何して……』
小さく呟く声。
そのしおらしい表情さえ、妙に愛らしく見えてしまうから困る。
当然のように全員がその様子に目を奪われて、僕達のテーブルは数秒間無言だった。
「謝らなくていいですよ。僕は……気にしてません」
沈黙を破った伊庭君は優しくそんなことを言ってるけど、耳まで真っ赤だ。
少し誇らしげにも見えるから、それが余計に面白くない。
「いや、どう見ても気にしてる顔だけど」
「沖田君は黙っててくださいよ」
セラは気まずそうな面持ちで鞄からハンカチを取り出すと、そっと伊庭君の手を取り、舐めた部分をやさしく拭った。
『伊庭君、汚くしてごめんなさい……。今はこれしかなくて……。あとで手を洗ってね』
真面目に謝る声と控えめな仕草に、伊庭君の瞳がわずかに揺れる。
完全に心を撃ち抜かれたような顔で、セラを見つめていた。
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ洗いません」
『え?』
「いや……伊庭君もどさくさに紛れて何言ってんだよ」
そんなやり取りを苛立たしげに見つめていたら、隣にいたはじめ君が低い声で僕に話しかけてきた。
「セラは平気か?明らかに様子がおかしいが」
「私も今朝から少し気になっていたの。いつも通りに感じる時もあるんだけど……たまに危うく見えない?」
続けて千ちゃんも小声で囁くと、二人の視線が僕に注がれる。
僕は伊庭君の横顔と、何事もなかったようにクレープを口にするセラを見比べてからため息を一つこぼした。
「僕もそう思って見てるんだけど、よくわからないんだよね。熱はないみたいだし、セラに聞いても元気だって言うし」
「精神的に追い詰められていないといいのだが。王宮はおそらく息が詰まる場所だろうからな」
千ちゃんは唇を噛み、黙った。
僕も同じく、簡単には言葉が出なかった。
セラの笑顔は普段と変わらないようでいて、どこか掴めない影がある。
それが一時的ものなのか、それとも何か原因があるのかわからないからもどかしかった。
「とりあえず注意深く見てるつもりだよ。はじめ君と千ちゃんも、何か気づいたことがあれば教えてくれる?」
「ああ、わかった」
「勿論よ。私も気をつけて見ておくわね」
皆が笑って話を続ける中、僕は目の前のセラを見つめていた。
頬がほんのり桃色に染まり目尻が緩んで、幸せそうに笑っている。
それは確かに可愛くて、見た者を惹きつけるいつもの笑顔だった。
だけどその輝きの奥に、いつものセラを形作っている理性や節度がどこか霞んでいるように思えてならない。
甘い匂いと午後の日差しに溶けるようなその笑顔に、僕の胸はざわめき続けていた。
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