7

皆と別れ、馬車に乗り込んだ僕は、座席の隣でおとなしくしているセラの横顔をじっと見つめていた。
綺麗な所作で座り、姿勢を崩すことなくただ穏やかにしている様子は、普段のセラそのものだ。
今日はたまたま本調子じゃなかっただけかもしれないけど、だからと言ってあんな風に他の男に気安く触れるのは僕としては見過ごせなかった。


「今日のこと、僕は怒ってるんだけど」


そう口にした瞬間、彼女の肩が小さく揺れる。
大きなセラの瞳が、僕を捉えて揺れた。


『怒ってるの……?』

「怒ってるよ。どうしてかわかるよね」

『えっと……』


唇が小さく動き、何かを思い出そうと必死になっている。
けれどその間延びした表情と曖昧な視線に、胸の奥で別の引っ掛かりが膨らむようだった。


「もしかして、自分のしたこと覚えてないの?」

『覚えてるかな……多分……』

「多分ってなに?それ、ほぼ覚えてないってことだよね」

『ふふ』


場違いな笑みを浮かべられて、思わず眉が動く。
笑ってごまかされると、余計に苛立つんだけど。


「何笑ってるの?僕は結構本気で怒ってるんだけど」

『でも……そんなに怒られるようなこと、したかな』

「したよ。平助の髪を撫でて、伊庭君の指についたクリームだって舐めてたじゃない」


目を見開いた様子からして、やっと今僕が怒ってる理由を理解したらしい。
途端に頬が少し赤くなり、視線が床へと落ちた。


『……ごめんなさい』

「どうしてあんなことしたの?」

『あの時は……凄くそうしたくなって……』


少し潤んだ瞳で、そう呟く。
でもセラからの言葉は、心臓がひやりとするような妙な言い回しだった。


「そうしたくなったって……僕以外の男に?僕の前でよくそんなことが言えるね」

『そういうわけじゃなくて……ただ平助君の髪が子犬みたいに柔らかそうで、触ってみたいなって……』

「じゃあ伊庭君は?」

『クリームがおいしそうだったから、つい……』

「へえ……セラはつい、で人の指とか平気で舐めちゃうんだ」


わざと笑ってみせたけど、笑みの奥に自分でもわかるくらい鋭い棘が混じってしまった。


「じゃあさ、僕が他の女の子の手についてるクリームをおいしそうだからって舐めても、セラは文句を言わないってことだよね」

『……それは……嫌……』

「それっておかしいよね、セラは平気でやったのに」

『総司は……そういうこと、したいの?』

「いや……したくないよ、君がいるから。でもセラは違うんでしょ?」


声が少し低くなる。
我ながら思っていた以上に苛立っているのが今になってわかって、少しばかり罰が悪い気分になった。
それに、そういうことがしたいのって……したいわけがないし、そういう意味で言ったわけじゃない。
やっぱり今日のセラとはいつものような意思疎通ができていない気がして、僕はため息を吐き出した。


「とにかく、僕は誰にでもそんなことをする子は好きじゃないよ。今日みたいなことを続けるなら、僕は君のことが好きじゃなくなるけど」


実際はそんな簡単な問題じゃないからこうして辟易しているわけだけど、セラはその言葉を鵜呑みにしたのか目の前の瞳を大きく見開いた。
ほんの一拍、呼吸が止まったみたいに動きが固まり、次の瞬間ぽたり、と涙が制服のスカートに落ちた。


『……や、やだ……、ごめんなさい………』


最初はか細い声だったのが、あっという間に嗚咽に変わり、涙が次々と零れて制服の袖を濡らしていく。
まるで蛇口をひねったみたいに止まらない様子に、僕は唖然として一度言葉を失った。


「……え、ちょっと泣きすぎじゃない?」


手を伸ばすと、制服越しに伝わるその手は震えてて、心なしか熱くも感じられた。


『……ごめ……んなさ……、ごめ……なさ……』

「もうわかったから、謝らなくていいよ」

『嫌いにならないで……総司……』


その顔があまりにも必死で、胸の奥が苦しくなる。
さっきまでの苛立ちなんて一瞬で消えて、代わりにどうしようもない保護欲が膨らんでいった。


「嫌いになんてならないよ。だからもう泣かないで」


僕はそのままセラの頭を引き寄せ、肩ごと抱き込んだ。
制服の胸元にしがみつく彼女の髪が、微かに甘い匂いを放っている。
嗚咽混じりに繰り返す「ごめんなさい」が、僕の胸に重く染みていった。


『自分でも……どうしてあんなことしたのかわからないの……』

「うん、わかったから……もういいよ」

『総司の気持ち……考えられてなくて……ごめ……なさっ……』


ようやくいつものセラらしい言葉が聞けた気がした。
今日一日、セラの言葉はどこか掴みどころがなくて、僕の声も届いているのか曖昧で。
近くにいるのに、この子が遠くに感じられた。
その時に比べたら、今のセラは幾分かはいつものセラらしい。
とは言え、あまりに泣かせ過ぎた自分に結局僕自身が悔やんでいた。


「僕も言い過ぎてごめんね。セラのことは大好きなままだよ、だからそんなに泣かないで」

『……ひ……うっ……』

「セラ……」

『うう……ふ……』


駄目だ、一向に泣き止まない。
その様子は明らかに情緒が安定していないように感じられた。
そして恐らく思考力も落ちている。
それが今日一日、セラと過ごしていて感じたことだった。

でも仮にそうだとしたら、なんでこんなことに?
疲れているのなら、これ以上セラが苦しくなる前に休ませてあげたいと思った。
とは言え、僕が知っているこの子は決してそんな弱い子じゃない。
誰よりも真っ直ぐに頑張れる優しいセラに、僕は惹かれたんだから。


「セラ、こっち見て」


セラの顔を上げさせて、頬や額を再び触ってもやっぱり熱はない。
瞳を覗き込んでみても……医者でもないからよくわからなかった。


『そ……じ……』

「うん?」

『ごめ……んね……』

「もういいってば。それにごめんより、大好きって言ってもらえた方が僕は嬉しいんだけどな」


セラはいまだ泣き止むことはしないまま、辛そうに僕を見つめている。
その様子に苦笑いをこぼしながらも濡れ過ぎた頬の涙を拭うと、セラは言ってくれた。


『……総司、だいすき……』


この一言で、さっきまでの苛立ちも憂鬱な気持ちも吹き飛んでしまう。
そしてただこう言ってくれるこの子を護りたいと思う。


「僕もセラが大好きだよ」


耳元でそう囁くと、セラは僕の制服を握り、しゃくり上げながらも僕から離れようとしなかった。
その様子がまるで僕を必要としてくれているみたいでどうしようもなく嬉しいなんて、僕も大概どうしようもない。


「本当にどうしたの?最近、何かあった?」

『ううん……』

「何か変なもの食べたり、いつもと違うことしたり……何か心当たりないの?」


セラを見つめてみても、鼻を啜りながらセラは首を傾げていた。


「そっか……。じゃあやっぱり疲れてるのかな、今日は妃教育は休めないの?」

『私の……やるべきことだから、それは……ちゃんと頑張りたいの……』

「でも身体を壊したら意味ないでしょ?」

『身体は元気だよ?』

「そうだとしても、心も元気じゃないとね。そんなに泣いてたら心配になるよ」


と言っても、泣かせたのは紛れもなく僕なんだけど。
再び零れてしまった涙を拭うと、セラの瞳が僕を見つめた。


『私は大丈夫。ちゃんと頑張れるから』

「僕は頑張り過ぎたら駄目だよって言ってるんだよ。皆も心配してたでしょ?」

『私……全然頑張れてないの。昨日も……眠くて、あまり勉強進まないまま眠っちゃって……』

「眠い時は寝ていいんだよ。王太子が帰ってきたら一度相談してみようよ、一緒に」


セラは少し寂しそうに目を伏せると、静かに頷いてくれる。
そっと髪を撫でれば、最近よく香ってくる甘い香りが鼻に届いた。


「最近、前とは違うヘアオイルでも使ってるの?」

『何も変えてないよ?』

「本当?前より甘い香りがする気がするんだけど」


余計なことは言わないけど、以前までのセラの香りの方が好きだったりする。
セラの返事を待ちながらセラの温もりを肌に感じるように抱きしめていると、柔らかい声が聞こえてきた。


『それは……もしかしたらお香の香りかな?』

「お香?」

『うん、ルームフレグランスみたいなもの』

「そっか、お香ね。王宮は部屋ごとに色々お香が置いてあるもんね」


残念ながら今のセラの部屋には入ったことがないから、普段この子が部屋で一人どんなふうに過ごしているのかわからない。
以前のように木を登って忍び込めたら良かったものの、ここは王宮。
見つかったりしたら酷い刑罰を与えられそうだと、一つ息を吐いた。


「王女とはどう?最近会ってるの?」


王太子が不在になってから、王女も学院には来ていなかった。
だから僕は顔すら見ていないけど、セラに何かされていたらたまったものじゃない。
だからこそ聞いた言葉に、セラは首を横に振った。


『最後にお会いしたのは、多分薫様がお城を空ける前だったと思う』

「じゃあここ最近は全然会ってないってこと?」

『うん。私もお会いしたいんだけど忙しくてなかなか……。でも侍女の方に聞いたら体調は崩されてないみたい』


セラは本当のことを話している様子だし、会っていないならセラの様子がおかしいことにあの王女は関わっているわけではなさそうだ。
それならセラは何にこんなに追い詰められているんだろうと、その顔を見つめていた。


『総司?』

「どうしたの?」

『……わたしのこと、好き?』


涙目でそう聞いてくるセラは少し不安気に瞳を揺らしていて、それが破壊的に可愛かった。
好きなんて一言では伝えきれないくらい、僕は君のことが大好きで大切で堪らないよ。


「好きだよ。好き過ぎてさっきは君に文句を言っちゃったけど、セラが僕以外に触れるのが嫌だったんだよね。でも、沢山泣かせてごめんね」


セラが弱ってるなら僕だけは何があっても寄り添ってあげるべきだったのに、あんなに泣かせて自己嫌悪だ。
でもセラは首を横に振ると、僕に顔を寄せてそっと触れるだけのキスを落とした。


『総司に怒ってもらえて、良かったよ。これからはちゃんと気をつけられるから……』


ゆっくりとした聴き心地の良い声でセラはそう言った。
目が合うとふわりと笑ってくれるから、その笑顔が見れて少し安堵する。


「何かあればなんでも僕に相談して。君の力になりたいって思ってるからね」


どうかセラのことはこのまま杞憂で終わってくれますように。
毎日頑張って努力しているこの子が、苦しむことはありませんようにと願ってしまう僕がいた。


- 373 -

*前次#


ページ:

トップページへ