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今日は朝から胸の奥に重しを抱えたような感覚があった。
ここ最近は少し無理をして遅くまで勉強しても目覚めはすっきりとしていたのに、どうしてだろう。
昨夜も、あの香りを焚いて眠ったはずなのに。


「セラさん」


侍女の方に手伝って頂きながら身支度をしていると、朝にも関わらず千鶴様が部屋へとやってくる。
彼女に会うのはお香を貸していただいた時以来。
私は微笑みながら千鶴様のところへ足を進めた。


『千鶴様、おはようございます』

「おはようございます。セラさんが良ければ今から朝食をご一緒できないかと思って参ったんです」

『私も丁度これから頂くところでした、喜んでご一緒させていただきますす』


侍女の方々が手際よく二人分の朝食を運んでくださり、私達は席に着く。
何気なく千鶴様の装いをみれば、今日も学院には出向かれないご予定らしい。
ぼんやりと視線を泳がせていると、千鶴様が私の顔を覗き込み、くすりと笑った。


「セラさん、今日はぼんやりしていらっしゃいますね?」

『あ……申し訳ありません……』

「いいえ。そういえばあのお香、使っていただけていると侍女から聞きました。お気に召していただけて嬉しいです」


……そうだ。
千鶴様にお目にかかったら、きちんとお礼を申し上げようと心に決めていたのに。
すっかり忘れていたことに小さな自己嫌悪が胸を掠める。


『素敵なお香、どうもありがとうございます。とってもいい香りで安らげるので、毎晩欠かさず愛用させて頂いてますよ』

「ふふ、嬉しいです。よく眠れるかしら?」

『はい、もう驚いてしまうくらい朝までぐっすり眠れます』

「それなら良かったです。セラさんは毎日妃教育と学院の勉強で大変ですもの、質の良い睡眠が一番大切ですからね」


王宮に来てからというもの、胸の奥に澱のような不安が沈んでいて、夜中にふと目を覚まし、そのまま眠れないことも多かった。
でも今は夜が来るのが楽しみなほど。
眠る前、あの香りと一緒に寝具に沈む瞬間がたまらなく幸せだった。


「でも……もうすぐ薫も帰ってくるから、お香もそろそろ終わりにしないと」

『え……?』

「薫はね、匂いの強いものが苦手なの。だから、お部屋にお香の香りが残っていると怒るんです。セラさんのお部屋にも薫が訪れるでしょう?私がお香を貸して差し上げたと知れたら、きっと叱られてしまうわ。なのでお香は一度お返しいただこうと思っていたの」


胸の奥が沈むのを感じた。
残念……というより、不安に近い感覚。
この三週間、あの香りに包まれて眠ることはすでに私の日課であり、心の支えのようになっていたから。
それが急になくなってしまうと、また眠れない夜が続くのではないかと心配になった。


「ふふ……セラさん、悲しそうなお顔」

『いいえ、今まで使わせていただけただけで、本当にありがたいです』

「そう言っていただけて嬉しいわ。それでね、お香の代わりと言ってはなんですけど、こちらの紅茶をぜひ飲んでみてほしいの」

『紅茶……ですか?』


首をかしげる私の前で、例のお香を焚いてくれる侍女の方が、音もなく紅茶を注いでいく。
湯気とともに、心地よく嗅ぎ慣れた香りがふわりと鼻先を掠め、思わず瞬きを繰り返した。


『この香り……』

「あのお香と同じ成分で作られた紅茶なの。今のセラさんなら、きっと気に入ってくださると思って」


カップを唇に近づければ、ふわりと胸の奥まで広がる甘やかな香気。
一口含むと身体の芯まで温まり、心が静かにほどけていくようだった。


『……とっても、おいしいです』


もう一度口をつけ、ゆっくりと息を吐く。
ああ、この香り……本当に好き。
さっきまでの身体の重さが、いつの間にか心地よい温もりに変わっている。


『身体……ぽかぽかしてきました……。不思議……』

「セラさん、頬がピンク色になっていて本当に可愛い……。ねえ、そんなに気に入ってくださったの?」

『……はい……とっても……』

「実はこの紅茶は少し特別なものなんです。王宮でも口にできるのはほんの一握りの人だけ。だから内密にお願い致しますね。朝と夕食後、寝る前とご用意する予定ですが、それ以外で、もし飲みたくなったらこの侍女に声をかけてください。この子はこれから、あなたのお部屋にも付けることにします。きっと頼みやすいはずですよ」

『わかりました。お気遣いありがとうございます、千鶴様……』


千鶴様が何かを小さく告げると、侍女の方は静かに一礼して部屋を辞した。
残されたのは私と千鶴様だけ。
椅子を離れた千鶴様が私の背後に回り込み、すっと顔を寄せてくる。
耳元に柔らかな息がかかるほど近くで、囁く声が降りてきた。


「総司さんとは、順調?」

『え……?』

「薫には話してないから、安心してね」


やわらかく響く声。
それは私の胸を不思議と落ち着かせる千鶴様の声。
けれど今は、胸の奥で小さなざわめきが生まれ始めていた。


『ありがとうございます。でも……総司とは……あまり一緒に過ごすことが出来ていなくて……』

「そうですよね。でも寂しいのは、セラさんだけではないのかもしれませんよ」


視線を向けると、千鶴様はあくまで穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「総司さんも、もしかしたら寂しいのかも。最近よく色々な女の子とお話ししている姿をお見かけしますから」

『……総司が……ですか?』

「ええ。毎日とても楽しそうに笑いながら。だからセラさんのことが少し心配になったんです」


楽しそうに、他の女の子と笑い合う総司。
その光景がまだ見てもいないのに鮮明に頭の中で形を取り、胸が締め付けられる。
指先が小さく震え、息が浅くなるのを感じた。


「総司さんって、忠誠心はそれほど強くないでしょう?この前なんて、私の近衛騎士になりたいと仰っていたのですよ」

『……ですが、総司は……私の近衛騎士になるために……』

「それは建前じゃないかしら?だって総司さんはセラさんの傍にいたいからではなく、出世のために王宮へいらしたと思うんです。だからきっと……セラさんが本当に未来の王妃に相応しいか、見極めているところなのでしょうね」


未来の王妃。
その言葉は、胸の奥に冷たい刃のように落ちてくる。
私はこのままいけば、いずれルヴァン王国の王妃になる。
けれど……こんなにも気持ちが不安定で、自分にも自信がなくて……本当に務まるのかな。


『……私……最近、失敗ばかりなんです……』

「セラさんが?」

『どれもきちんと……熟せていなくて……数日前も総司に、叱られてしまって……』


言葉を重ねるうち、胸が苦しくなっていく。
先日の総司の表情が脳裏に浮かび、私のことを好きじゃなくなるかもと言った彼の言葉を思い出してしまえば、それが酷く怖く感じられた。
急に視界がにじみ、紅茶の香りがやけに濃く鼻を満たす。
心臓が早鐘を打ち、温もりが全身に広がるのに、胸の奥は妙に空虚で、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。


「……セラさん……大丈夫?」


千鶴様の声は甘く、耳の奥に染み込むようだった。
けれどその優しさは不安の火種をそっと撫でていくように再び総司のことを口にした。


「総司さんなんて、セラさんがいらないと言ったらいつでもこの王宮から出て行ってもらえます。勿論、アストリアに帰って頂くことはできませんけど」

『ですが……総司は、私を護るためにここに来たとこの前も言ってくれたので……私は総司を信じたいんです……』

「でもそれって総司さんの本心なのかしら?仮に本心だったとしても人の気持ちは変わるものでしょう?」

『そうかもしれないですが……』

『総司さんも今頃後悔してるかもしれませんよ。あまり会えなくて自由がきかないセラさんより、総司さんを満足させてあげられる女の子は、彼の周りには沢山いると思いますから」


頭がうまく回らない中で、総司の笑顔が遠くなっていく。
総司の気持ちが急にわからなくなって、私の視界は瞬く間に歪み始めた。


「セラさん、お可哀想……。ですが総司さんが離れて行っても、私がいますよ」

『千鶴……様が……?』

「そうです。だから心配しないで?もし不安になったらこの紅茶を飲んでくださいね。学院でも飲めるよう、ここの水筒にも用意してあります。だから安心して学院に行ってらしてください」

『千鶴様は今日も……行かれないのですか?』

「私は薫が戻ってきたら一緒に行くわ。気をつけて行ってらしてね」


千鶴様は時計を見ると、そう言って微笑むなり笑顔で私の部屋を出て行った。
伸ばした手が水筒を取り中を開けると、落ち着く香りが広がる。
良かった、学院にも持っていけるなら……これを飲めばきっと落ち着くことができる。

でも……


『こんなに……紅茶とかお香とか……頼ってていいのかな……』


まるで依存しているみたいに。
そんな疑問がふと心に生まれた。
でもふわりと香りが漂ってくれば、些細なことは気にならなくなってくる。
紅茶やお香で元気になれるなら、それは悪いことではない。
それよりもまずは私がしっかりしないと。
これ以上はもう失敗しないようにしないと……。


『あ……支度……』


もう一度持ち物を確認しよう。
そう思って立ち上がろうとした途端、頭の中がぐらりと揺れて思わず顔を顰める。
気持ち悪い、頭が痛い、身体が重い……。


『紅茶……』


カップに残っていた紅茶を一気に飲み干すと、ようやくきちんと息が吸える気がした。
気持ちが落ち着いて、私はまだ大丈夫だと思える。
今日一日をまた頑張ろうと思いながら、私は背筋を伸ばしてそこに立ち上がった。


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