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日課になったセラのお迎え。
今朝も扉を軽く叩くと、間もなく中から足音が近づいてきた。
開かれた扉の向こうに立つセラは、ふわりと笑って「おはよう」と言ってくれる。
その笑顔は、いつもと同じように穏やかで愛らしかった。
けれどここ最近のセラが、以前よりも少し元気をなくしていることはわかっているつもりだ。
時々ぼんやりしたり、考え込んだり……まるで心が疲れてしまっているように見える瞬間が増えていた。


「おはよう。準備はできてる?」

『うん、大丈夫だよ。いつもお迎えきてくれてありがとう』

「はは、何?今更」

『なんとなく、言いたくなったの』


可愛いな、本当に。
少し照れくさそうに笑うところも、こうして優しい言葉を掛けてくれるところも、以前と変わらないセラのままだ。
でもふと横を向いた時、今日もその瞳は影ってしまう。
少し前までのセラは、いつだって顔を上げてその瞳を輝かせていたのに、今は顔を俯かせることが増えていた。


学院へ向かう馬車に乗り込み、揺れが落ち着くと、僕は窓のカーテンをそっと引いた。
淡い光が消えると、車内は少しだけ静かになる。

隣に座るセラの頬にかかっていた髪をそっと耳にかければ、彼女は小さく瞬きしながら僕を見上げてきた。
その瞳は僅かに揺れていて、ほんの少し潤んで見える。
でもすぐに視線は逸らされ、きゅっと唇を結んだ横顔は泣き出しそうにも見えた。


「今日の放課後、二人でアイスでも食べに行こうか」


問いかけたい言葉はあったけど、それがセラを追い詰めることになるのが嫌だった。
だから敢えて明るい話を振ってみれば、セラは再び僕を見た。
驚いたような、それでいて少し嬉しそうな表情。
頬がほんのりと色づくところがまた可愛いかった。


『いいの?任務とか……大丈夫?』

「大丈夫だよ。たまには、セラとゆっくりしたいし」

『私も……私もね、総司とゆっくりできたら嬉しいなって思ってたんだ』


さっきまで影っていた表情が、花を咲かせたように一気に明るくなる。
その変わりようには驚いたけど、僕の言葉一つでこんなにも変化を見せてくれることがたまらなく嬉しかった。


「ははっ」

『どうして笑うの?』

「んー?内緒」

『もう、内緒は嫌だよ……』

「セラが嬉しそうにしてくれたから、僕も嬉しくなったんだよ」


セラは僕の言葉を聞くと、一度目を見開いた後、嬉しそうにはにかんでくれる。
その笑顔を見れば、僕の心配も少しだけ溶けていくようだった。


「セラ、好きだよ」


セラは潤んだ瞳で僕を見つめる。
少し不安げで、それでも僕を信じようとしてくれている眼差しが僕へと真っ直ぐ向けられていた。


『どのくらいすき……?一番……すき?』


なんだか物凄く可愛い質問をされて笑ってしまいそうになったけど、セラの顔は真剣そのものだ。
それなら僕も真面目に答えようと、少し考えてから言葉にした。


「そうだね、僕の一番から百番まではセラが占めてるよ」

『ふふ、それ本当なのかな?』

「本当だよ。百一番目が近藤さんかな」


セラは嬉しそうに顔を綻ばせて笑ってくれる。
僕と話すことでこんなに元気になってくれるなら、この笑顔をもっと増やしたい。
ここ最近は嬉しそうに笑ってくれることが減ってしまったから、僕が取り戻してあげたいと淡い期待が芽生える。


「セラに問題ね。百二番目は山南さんで、百三番目は山崎君なんだけどさ。百四番目は誰だと思う?」


わざと首を傾げて聞くと、セラを同じように首を傾げて考えていた。


『うーん……平助くん?』

「残念、伊庭くんだよ」

『そうなんだ、でもどうして?』

「平助は百五番目だから」

『もう、なにその理由』


セラが呆れたように口を尖らせるのが可愛くて、つい笑ってしまう。


「だってさ、百四番目は、真面目で面倒くさくいけど頼りになる人の枠だから、伊庭くんがぴったりなんだよ」

『ふふ、じゃあ平助くんは?』

「明るくて単純で、すぐ食べ物に釣られる人の枠」

『あははっ……』


また笑ってくれた。
その声が今はやけに心地いい。
それにやっぱりセラには笑顔が一番似合うと思う。


「ちなみに一番はどんな枠か、聞いておく?」


セラは目をぱちくりとさせると、僕を上目で見つめて頷いた。


「一番は、ずっと隣にいてくれないと困る人の枠だよ」


そう答えると、セラの頬が少し染まる。
僕はその反応にくすっと笑い、さらに言葉を続けた。


「その枠は一人しか入れないんだよね。他の誰にも譲らないし、たとえセラが怒ってても、泣いてても絶対に外れない」

『そんな枠、あるの?』

「あるよ。君専用の、大事な枠」


セラが少し照れくさそうに視線を落としたから、僕はそっとその手を握った。
冷えた指先を包み込むように握りながら、意識して明るい声で続ける。


「君はもうそこに入っちゃったんだから、これからもずっと僕の隣にいてよ」

『うん……』


ここ最近、以前より口数が少ないセラは、そう短い返事をしただけだった。
でも僕を見つめる瞳は綺麗な光で潤んでいて、その顔にも笑顔が浮かんでいる。
今はそれだけで十分だと、セラの背中に手を添えそっと抱き寄せた。


「今日、楽しみにしてるよ。少しだけど、久しぶりにセラとのデートだしね」

『デート?』

「そうだよ。アイスを食べて、少し寄り道もしようか」


勿論周りに勘繰られるわけにはいかないから、手を繋いで歩くことも出来ないけど、セラが少しでも元気になれるならそれで僕は満足できる。
腕の中のセラはそっと僕の背中に手を回すと、控えめな声で言ってくれた。


『私も楽しみにしてるね』

「約束だよ、他の予定は入れないで」

『うん、約束』


最近セラはたまに記憶の抜け落ちがある。
本人は自覚していないらしいけど、ふとしたことで会話が噛み合わないことが度々あった。
だからこの約束は忘れてしまわないよう、そっと小指を絡める。
僕よりも細くて白い指は、僕の指をきゅっと握り返してくれた。


「そういえば、今日は久しぶりに外の授業だよね。湖のほとりで写生するやつ」


そう言った瞬間、セラは僕から身体を離すと、少し慌てたように鞄を開けた。
視線は鞄の中を探るように泳ぎ、やがて動きが止まる。
そして僅かにセラの唇が震え、きつく結ばれた。


「……どうかしたの?」

『……水彩の道具、持ってくるの忘れちゃった……』


その声はひどく小さくて、まるでこの世の終わりかのような表情を浮かべている。
セラはすぐに手帳を開くと、そこに何も書かれていないのを見て、愕然とした顔をした。


『どうして……』


呟く声は、戸惑いと落胆が入り混じっていた。
手帳には、その授業に必要な持ち物の記載がない。
学院でちゃんと話を聞いていれば、そこに書かれているはずなのに、その痕跡はどこにもなかった。

最近のセラはらしくなく、度々何かを忘れたり、やり残したりしている。
でもそれらはどれも、そこまで気に病む必要のない程度のものだった。
それなのにセラは何か取り返しのつかないことをしたかのように、放心している。
僕はその姿を見て、胸の奥が締め付けられるような苦しさを覚えた。


「僕のを使えばいいよ」


そう言って、自分の道具を取り出し、セラの前に差し出した。
それでもセラは、すぐには手を伸ばさなかった。
ただ俯いて小さく息を吸い込むと、鞄から水筒を取り出した。
水筒を握る手がわずかに震えていて、それを飲んだ後も落ち着いたようには見えない。
むしろ今度は、視線がどこかに留まったまま動かなくなっていた。


「セラ」


できるだけ刺激しないよう、柔らかく名前を呼ぶ。
ゆっくりと顔を上げた彼女に、僕はさりげなく声をかけた。


「ほら、これ使っていいよ」


さっき取り出したままになっていた水彩の道具を手元に差し出す。
けれどセラは小さく首を横に振った。


『ううん、大丈夫……先生に話して貸していただくから』

「でもセラはそういうの気にするでしょ?僕が先生に借りるから、君がこれを使えばいいよ」

『だめだよ、総司はきちんと持ってきてるのに……』

「僕はあんまりそういうの気にしないし、別にいいよ。今日だって持ってきたのもまぐれに近くて、ラッキーって感じだし」


軽く冗談めかしてみたものの、セラの顔には笑みが戻らない。
その様子を目の前にして、胸の奥にはひどく嫌な感覚が残った。


「ごめんね。迎えに行った時、僕が聞いてあげれば良かったよね」


今のセラは、明らかに本調子じゃない。
事前に僕が気を回すべきだったと思いながらそう口にした直後、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


『ち、ちがうの……私が、だめなせいなの……』

「いや、セラ?忘れ物くらいみんなするよ。そんなに気にすることじゃないでしょ」

『迷惑……かけて……ごめんなさい……総司に謝らせて……ごめんなさい……』


普段は穏やかな彼女が、ここ最近は感情の揺れが激しい。
普段ならこんなに些細なことで泣く筈ないのに、今はあまりにも不安定に思えてならなかった。
セラの変化に気づいてからもう三週間近くが経っていることを考えれば、僕の背中には冷たい汗が伝っていく。
セラの状態は僕が思っている以上に深刻なのかもしれないと、心臓が嫌な音を立てていた。


「セラ……」


涙に濡れた瞳をこちらに向けさせる。
けれどその光はやっぱり遠く、僕を見つめる視線も虚ろだった。


「僕は君が心配だよ。何に悩んでるの?何がそこまで君を追い詰めてるの?」


王太子が不在の今、僕とあいつの板挟みで苦しんでいるわけではないだろう。
妃教育や学院での学業の両立だって、頑張りたいと言って微笑んでいた筈だ。
それなのに今のセラは、その瞳に希望を宿していない。
悩みなんて何一つないと言っていた数週間前のこの子も少し様子がおかしかったけど、今はその時以上に危うく見えた。

でも僕が問いかけても、返ってくるのは謝罪の言葉だけ。
その様子は僕の言葉すら、聞くのを恐れているようにも感じられた。
それなら今は追い詰めるよりも、ほんの少しでも笑顔を取り戻してもらう方が先だ。
僕はセラの目の前に水彩の道具を出すと、彼女に向かって微笑みを向けた。


「いいこと考えた」

『……え?』

「今日は先生に借りなくていいよ。僕も借りないから」

『でも……』

「これを一緒に使おう。筆は何本もあるし、パレットもバケツも一つあれば二人で十分だよ」


そう言いながら、指先で彼女の涙を拭う。
視線が合ったときのセラの目は、少しだけ戸惑うように僕だけを見つめていた。


『それは総司に申し訳ないから……』

「申し訳なくないよ。いつも言ってるじゃない、もっと甘えてよって」

『だけど……』

「その方が君の隣にいる口実にもなるし、名案じゃない?」


セラは唇をきゅっと結び、それから小さく「ありがとう」と呟いて、わずかに微笑んでくれた。


『ごめんね』

「謝るくらいなら僕が喜ぶことしてほしいな」

『総司が喜ぶこと?』

「わかるでしょ?」


涙に濡れた頬を撫でて、そっと触れるだけのキスを落とす。
たったこれだけのことで僕の鼓動は早くなり、セラの頬も色付いていく。
その一瞬にとてつもない幸せを感じることが出来るから、この瞬間はいつになっても僕にとって特別だ。


「これで水彩道具のことはなしね」


セラは泣き止んで、鼻を一度控えめに啜りながらも微笑んでくれた。


「もう一回」

『ん……』


今度はたた僕が触れたくて、先程よりも深く唇を重ねる。
止まらなくなりそうなほど柔らかくて温かい、僕にとって何よりも大切なぬくもりが僕の不安を癒すようにそこにあった。


「今のはセラの涙を拭いてあげた分ね。えっと、次は何を口実にしようかな」

『ふふ』


ようやくまた笑ってくれた。
それだけのことがこんなに嬉しいから、やっぱり君には笑っていて欲しい。
そのためならどんなことでもしようと、再び腕の中に小さな身体を抱きしめていた。


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