3

午前の三時限目は、解析幾何学の授業だった。
数字と図形の書かれたホワイトボードの前に、セラが指名された。
前に出た彼女は、いつもの落ち着いた足取りでホワイトボードの前に立つ。
式はそこまで複雑じゃなく、主席の彼女なら一息で解けるはずだった。

でも今日のセラはいつもと違った。
ホワイトボードの前、途中まで滑らかに動いていた手が不意に止まった。
解答まであと一歩なのに、その先には踏み出せない様子だった。


「……あら、珍しいわね。この前の試験で同じ式が出てたけど、あなた満点だったでしょう?」


先生の声は驚きと疑問が混じっていて、教室の空気が少しざわめいた。
セラは悲しそうに俯くと、細い声で言った。


『……ごめんなさい、わかりません……』


目を丸くする先生、教室に漂う静かな空気。
そんな中、勢いよく手を上げたのは平助だった。


「はいはい!俺解ける!」


きっと平助なりに、教室の空気を変えたかったんだろう。
セラに寄せられていた視線が、一気に平助へと移った。


「あら?藤堂君が?珍しいわね」

「だろ?すげー珍しいことなんだから俺に解かせてくれよ!」

「先生には敬語を使いましょうね。じゃあ藤堂くんに解いてもらおうかしら。セラさんは席に戻っていいわよ」


セラが小さく頭を下げ、席に戻る。
その横顔は少ししゅんとしていたけど、席に着くと平助を見守るような温かい視線を向けていた。
かたや平助は胸を張ってホワイトボードへ向かい、勢いよく式を書き始めた。
 

「よっしゃ、できた!」

「藤堂くん、全然違うわよ」

「え?まじ?」

「はあ……もう、さっきの自信はどこからきたのかしら」


クラスが笑い混じりのため息に包まれる。
笑いが漏れる教室の中、僕は平助の不器用な気遣いを見て心の中で小さく笑った。
 
 
そしてチャイムが鳴り、昼休み。
すぐにでもセラのところへ行こうと立ち上がった時、「沖田くん」と呼び止められる。
その声に誘われて振り向くと、そこには千ちゃんが立っていた。


「今日の放課後よろしくね」

「え?」

「え、じゃないでしょう?武術演習場の整備当番、今日一緒だって言ったじゃない」


そうだ。
完全に頭から抜けていた。
セラのことで頭がいっぱいだったから、仕方ないけど。


「ごめん、千ちゃん。別の日にずらしてもらえない?」

「今日までだから無理よ。沖田君が今週で時間とれるのは今日だけだって言ったんじゃない」


しまったな……。
近藤さんに学費を出してもらっている立場で、学院の仕事を投げるわけにはいかない。
けれど、セラと過ごす予定を後回しにするのは気が重い。
週明けに変更しても、セラは笑って受け入れてくれるだろうか……そんな期待が頭をよぎる。


「わかったよ。今日よろしくね」

「ええ、よろしくね。それよりセラちゃんは最近どう?」


千ちゃんは僕に顔を寄せると、眉を下げて小声で聞いてきた。


「どうもなにも、見ての通り元気ないよ。だいぶ精神的に弱ってるみたいなんだけど、原因がわからないんだ」

「口数も減っちゃったものね……、私もすごく心配」

「このままだとあの子が自信をなくしちゃいそうで不安なんだよね。どうしたらいいのか、毎日手探りだし」

「沖田くんがそんな弱気でどうするのよ。セラちゃんの近衛騎士なんだから、しっかりしなさい!」

「……いった……」


千ちゃんに思い切り背中を叩かれ、苦笑いする。


「千ちゃんは可愛いんだから、その乱暴なところをどうにかすればもっとモテると思うんだけどな」

「……今、乱暴って言った?」

「自覚なかった?」

「もう、沖田くん!」

「あれ?その手は何?」


また振り上げられた手を見て、すかさず指摘してみると、千ちゃんは罰が悪そうにその手を引っ込めていたから笑ってしまう。


「はははっ、いい心がけなんじゃない?」

「本当に頭くる。セラちゃんを早く元気にしてあげてよね」

「言われなくてもそうするつもりだよ。ありがとう、あの子の心配をしてくれて」

「友達なんだから当たり前よ。沖田君にお礼を言われる義理はないわ」


千ちゃんは眉を吊り上げたままぷいっとそっぽを向くけど、その後再び互いに目を合わせて笑ってしまった。
平助にしても千ちゃんにしても、それに伊庭君やはじめ君だって皆セラのことが好きであの子を案じている。
僕達でどうにかセラを元気付けてあげたいと考えていた。


「じゃあお昼を食べましょうか。もうお腹ぺこぺこ」

「そうだね」


そう言ってセラの席を見れば、あの子の姿はどこにもなかった。
教室を見渡してもどこにもいない。
はじめ君や、伊庭君、平助は皆教室内にいるのに、セラだけがいなかった。


「セラは?」

「セラちゃん?あら?いないみたい」

「平助、伊庭君。セラ、知ってる?」


ロッカーで荷物を取りに行っていた二人に尋ねてみても、二人とも目を瞬いて教室を見渡している。


「え?いないんですか?」

「でもセラは一人でどっか行ったりしないだろ。前に総司が一人で行動するなってセラに約束させてたじゃん」

「でも、どこにもいないんだけど」

「私、念のため女子トイレを見に行ってみるわね」

「僕と平助くんも探してみますね」


一度目の世界でセラが何者かに襲われ命を落としてから、僕は別の世界に渡る度にセラには決して一人にならないように伝えていた。
でも今のセラの行動は、僕にも掴めないところがある。
だから焦る気持ちのままはじめ君のところに行けば、はじめ君も教室を見渡し眉を顰めていた。


「あんたがセラを見ていなくてどうする」

「それは僕が悪かったよ。でも少し話をしてただけなんだけどね」


あの時、真っ先にセラのところに行っていれば良かった。
そもそもあの子から目を離したことが間違いだった。
そんな後悔をしながらも、今はまずセラを探すことが最優先だと拳を握りしめた。


「俺も探してみよう、女子トイレにはいないのか?」

「それなら今千ちゃんが……」

「沖田君、トイレにもいなかったわ」


丁度戻ってきた千ちゃんの言葉を聞いてすぐ、僕は教室を出てセラを探すために走り出した。
廊下を駆け抜けながら、胸の奥に重たい焦りがじわじわと広がっていく。
すれ違う生徒にセラのことを聞いてみても、首を横に振られるばかりだった。

ただでさえ最近のセラは不安定なのに、こんなふうに一人で消えるなんて、嫌な予感がする。
階段を下り、昇降口を横切り、もう一度別棟へ足を向けたけど、教室、図書室、中庭まで全部見てもあの子の影すら見えなかった。


「はあっ……、は……」


息を切らしながら、ふと踊り場で立ち止まり上を見上げた。
屋上へ続く鉄の扉。
普段は誰も行かないし、用もない場所だ。
でも前の世界でセラと二人で話したその場所は、一人になりたい時には適しているように思えた。

最後の手がかりに縋るように、僕は階段を駆け上がる。
重たい扉を押し開けると、柵のそばに小さな背中が見えた。
制服のスカートが風に揺れ、柔らかい髪もふわりと舞う。
その肩がかすかに震えているのが分かり、僕の心も重く沈んでいくようだった。


「……セラ」


声をかけると、セラは驚いたように振り返る。
瞳は泣き腫らしたあとみたいに赤く、光を受けてきらめいた。


「探したよ。こんなところで、何してるの?」


返事をしようとしても言葉が出ないのか、唇がかすかに震えている。
泣くのをぐっと堪えるようにしているその姿が今にも消えてしまいそうに見えて、僕まで苦しくなっていった。


「前に約束したよね、学院内で絶対一人にならないでって」

『……ごめんなさい……』


そんなに弱々しく言われたら、これ以上は何も言えなくなってしまう。
ただ何か理由があってのことなのであれば、それをちゃんと知りたいと思った。


「どうして一人でいなくなったりしたの?」

『風に……当たりたくなって……』

「じゃあどうして泣いてたの?」


セラは言いたくないのか、言うことに躊躇いがあるのか、一向にその後の言葉を発さなかった。


「もしかしてさっきの授業のこと、気にしてるの?」


セラの瞳は揺らいだけど、肯定も否定もしないまま顔を俯かせてしまう。


「大丈夫だよ、いつも優秀な君からしたら悔しかったかもしれないけど、誰にだって本調子じゃない時はあるんだから。セラならすぐ取り戻せるよ」

『……ありがとう』


その言葉に元気はなかったけど、取り敢えずはセラが無事で良かった。
生きていれば、また以前みたいに笑えるようになると信じているからだ。


「じゃあ戻ろうか。昼休みが終わる前に食べないとね。皆もセラのこと、待ってるよ」

『先に食べててくれて良かったのに……』

「そういうわけにはいかないよ。みんなセラと食べたいんだからさ」


セラは静かに頷いてくれた。
その仕草に少しだけ肩の力が抜けたけど、胸の奥にはまだ伝えなければいけない言葉が残っている。
元気のないこの子に告げるのは、正直言って気が引けた。
でもこういう話は二人きりの時じゃないと、きっと余計に誤解を招くだろうと僕は今伝えることにした。


「あとね、朝話してたデートのことなんだけど」


僕の声に反応して、ようやくセラが顔を上げた。
泣き腫らしたせいで少し赤くなった瞳が、僕を真っすぐ見つめている。
その愛らしい表情を前にすると、言葉を選ぶことが酷く難しくなるけど、それでも言うより他はないと言葉を続けた。


「今日の放課後、武術演習場の整備当番だったんだよね。さっき千ちゃんに言われるまで、約束してたことすっかり忘れててさ。だから来週にずらしてもらってもいい?僕から誘っておいてごめんね」


いつものセラなら「全然いいよ」って笑ってくれるはずだった。
だからそんな反応を予想していたけど、返ってきたのは言葉ではなく、僕の手が振り払われる感触だった。

僕が驚いて瞬きをした直後、セラの瞳には涙が溜まり、愛らしい顔が辛そうに歪む。
そして……初めてだ。
こんなふうに僕を睨むこの子を見るのは。
胸の奥で心臓が音を立て、息が詰まって言葉が出なかった。


『総司のうそつき……約束って言ったのに……』


セラの高い声は震えていたけど、確かに怒りを帯びていた。
いつも人の気持ちに寄り添って優しい言葉を選んでくれるこの子が、こうして一方的に感情をぶつけてくるなんて想像もしていなかった。


『総司だって約束を守ってくれないのに、どうして私だけ守らないといけないの?私だって一人になりたい時はあるの。もうほうっておいて……っ』


言葉の最後が崩れて、セラの目から大粒の涙が落ちた。
喉の奥でしゃくりあげながら、必死に何かをこらえるような顔。
セラに伸ばしかけた指先が震えて空を切り、触れることさえ今はできなかった。


「……約束したのに、ごめん。でも、君をほうっておけるわけないでしょ?それに、僕だって約束をやぶりたかったわけじゃないんだよ」

『……さっきだって千ちゃんと楽しそうに話してたの知ってるよ。私じゃなくて千ちゃんといたいなら、最初からそう言えばいいのに……』

「何言ってるのさ、放課後のことはただの委員会の仕事だよ?」

『……私のこと一番って言ったのに……ずっと好きって言ってくれてたのに……総司の……うそつき……』


理由が、ようやくわかった。
セラがここで一人泣いていたのは、僕が千ちゃんと話していたからだ。
でもまさかそんなことで、セラの気持ちがここまで不安定になるとは予想すらしていなくて。
こんなにも大切に思っているのに、それが届かないもどかしさが胸を締め付けていった。


「セラ、何か勘違いしてるよ。僕は千ちゃんのことを友達としてしか見てないし、セラが一番好きなことも本当だよ」


言葉をかけてみても、セラは僕に背を向けて泣き続ける。
完全に心を閉ざしたようなその背中に、胸の奥で小さな焦りが膨らんでいった。


「よく考えてよ。僕が何のために王宮に上がったと思う?セラに無理を言ってまでついていったのは、君が好きだから……君の傍にいたいからだって、わかってるでしょ?」

『……それを総司は後悔してるんでしょう……?』

「なんで勝手に決めつけるのさ、後悔なんてしたことないけど」

『もうわかってるからいいの。こんな毎日失敗ばかりで……総司に迷惑ばかりかけて……王太子妃に相応しくない私なんて、愛想つかされて当然だもん……』

「セラ、さっきから何を言ってるの?誰がそんなこと……」

『総司が……私のことを好きじゃなくなるって言ったんだよ……』


そんなつもりで言った言葉ではないのに、この子の耳にはそう聞こえてしまったんだと今になって知る。
そして今、その誤解がどれほどセラを苦しめているのかが痛いほど伝わってくるようだった。


「あれはそういう意味で言った言葉じゃないよ。単なるやきもちみたいなものだって、あの時も言ったでしょ?」


セラは何も言わないまま、ただ僕に背を向けて泣いている。
目の前のほんの少し距離が、どうしようもなく遠く感じる中、僕は言葉を続けた。


「セラを傷つけたなら謝るよ。でも僕が君を好きじゃなくなることなんてあり得ないよ。今だって変わらず君が好きなんだから」

『総司のことなんて……もう……信じられない……』


その一言が、胸の奥に鈍く刺さった。
信じてほしい、たったそれだけなのに君は目を逸らす。
拒まれるたびに、僕の想いは宙に投げ出されて行き場を失うようだった。


「……どうして……」


気づけば声が掠れていた。


「どうしてこんなに僕が君を大事に思ってるのに、わかってくれないの?」


セラの肩を掴み僕の方を向かせれば、涙に濡れた瞳が僕を映した。


「僕のことが信じられない?馬鹿じゃないの?」


自分でも少し強い言葉だと言うことはわかっていた。
優しくしてあげなければいけないことも理解している。
でもこの想いを否定されることは、いくら君でも僕は許してあげられそうにない。
だからこそセラを見つめ、はっきりと告げていた。


「悪いけど僕はね、セラのことを誰よりも一番に考えてるよ。誰がセラを想うよりもね。そんな僕を信じられないなら、君は誰のことなら信じられるの?」


その言葉を聞いて、セラの唇が小さく震えた。
答えられない沈黙が、屋上の冷えた空気の中で長く響く。
僕は肩に置いた手をそっと引き寄せた。
拒まれるかもしれないけど、それでも離したくなかった。


「僕はずっと君の傍にいるよ。何があってもそれは変わらない。それでも信じられないなら……僕は、どうすればいいのさ」


セラはただ泣くだけで、答えないまま唇を噛みしめる。
それが僕には拒絶のように感じられて、また胸の奥が軋んだ。


「黙ってたらわからないよ。僕は君の気持ちをちゃんと知りたい。だから教えてよ。僕のどこがそんなに信じられないの?」

『……だって……人の気持ちは変わるから……』

「僕の気持ちが変わることは絶対にないよ」

『そんなこと……言い切れないよ……』

「言い切れるよ。僕は出会ってからずっと、君を一番大事にしてる。何よりも大切に思ってるよ。それを信じないって言うなら、それは僕の全部を否定するのと同じだよ」


セラの瞳が揺れて、小さく息を呑む音がした。
それでもまだ不安そうに涙をこぼして、また僕から視線を逸らしてしまう。


「どうしてセラがそんなに不安に思ってるのか、僕はまだわかってあげられてないけど、君が信じてくれるまで何度でも言うよ」


そっと伸ばした手が頬に触れれば、結局どうしたって愛おしい気持ちが溢れてしまう。
どんなに疑われてもどんなに拒絶されても、僕はもうセラを知らなかった頃には戻れないから。
僕が君に伝えたい言葉は、ただ一つだけだ。


「僕は、セラが好きだよ。君が全てを信じられなくなっても、僕のことだけは信じて。僕が君を傷つけるわけないでしょ?」


必死にそう告げても、セラの瞳はまだ揺れていた。
泣き腫らした目がゆっくりと僕を見上げ、揺らぎ、その光はすぐに細められてしまう。
再び零れる涙が、頬を静かに伝い落ちた。


『それならどうして約束を守ってくれないの……?』


その声は震え、掠れていた。
僕の中でほんの些細な約束だったことが、セラにとってはどれほど大切だったのかが重みを持って響いてくるようだった。


『どうして信じさせてくれないの……?総司が約束を守ってくれたら……ちゃんと信じようって思ってたのに……』


そう言い終えるや否や、セラは抑えきれないように泣きじゃくった。
肩を震わせ息を詰まらせながら、まるで何かにすがるように僕を見上げていた。

気づけなかった。
朝、口にした「アイスを食べに行こう」なんていう、他愛のない約束が。
今のセラにとっては、僕を信じるための小さくて大事な灯だったなんて。

本来のセラは僕なんかに依存せず、自分の足でしっかりと立っていられる人だ。
それなのに今はまるで僕がいなければ息もできないみたいに、弱々しく見える。
そんなこの子の変化に気づいていたのに、僕は自分がセラに寄り添えていると思い込んでいた。

それでも、今こうして僕に甘えてくれる君がどうしようもなく愛しい。
いつもは何も求めない彼女だからこそ、その仕草も言葉も、胸の奥に深く沁みていくようだった。


「……そうだよね、ごめん。セラを不安にさせて」


泣き顔を見つめながら、頬を濡らす涙をそっと拭った。


「約束、ちゃんと守るよ。今日は一緒にアイス食べに行こう」


セラは大きく目を見開き、わずかに光を取り戻した瞳が僕を真っ直ぐに見つめ返す。
その見てわかる程変化を見せる表情が、胸の奥を焼くように可愛かった。


「だから僕を信じられないなんて、そんな悲しいこと言わないで。セラが不安にならないように、僕にできるかぎりのことはするから。君のためなら、僕はどんなことでもできるよ」


唇をきつく結ぶその仕草も、涙に濡れた睫毛の影も、全部僕だけが見ていたい。
千ちゃんには悪いけど、セラを泣かせてまでやるべきことなんて僕にはない。
近藤さんだってきっと、この涙を見るよりは僕の判断を認めてくれるはずだと自分に言い聞かせる。
そして彼女の柔らかな髪をゆっくりと撫でた。


『……本当にデート……できるの?』

「うん、できるよ。僕も楽しみにしてるね」

『……ありがとう……』


小さく、それでも頬を赤らめて言うその声は、弱々しいのに確かな温もりを含んでいた。


「セラ、好きだよ。だから不安にならないで」

『……うん……』


僕の服の裾をそっと掴む小さな手が、まるで離したくないと訴えてくるみたいで、胸が熱くなる。
ようやく僕を信じてくれたセラの細い肩を抱き寄せ、華奢な身体をそっと包み込んでいた。


『もう少し、このままでいたい……』


僕の胸元に額を押し当てたまま、セラが小さく囁いた。


「……うん。好きなだけ、ここにいていいよ」


背中に手を回すと、セラはさらに僕の服を更にぎゅっと掴んだ。
まるで僕が少しでも離れたら、また全部が壊れてしまうとでも思っているみたいに。

わかってる、今のセラはいつもの彼女じゃない。
でも君が僕に寄りかかってくれている事実がどうしようもなく嬉しくて、その小さな震えを感じるたび、護りたい気持ちが膨らんでいった。


『もっと総司と一緒にいたい……。総司がいてくれないと……私、だめなの……』


耳元で囁かれたその声が全身を痺れさせ、心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。
胸の奥から溢れそうなほど愛おしくて、彼女を抱く腕に自然と力がこもった。


「……僕もだよ」


自分でも驚くくらい掠れた声が漏れた時には、僕はセラを屋上のドア際へと押しやっていた。
唇が触れた瞬間、理性が崩れ落ちそうになる。
深く、深く、逃げられないように彼女を捕まえて、舌を絡める。
触れた熱がもっと欲しいと僕を急かし、セラの全てを飲み込みたくて、呼吸を奪うように何度も口づけを重ねた。

指先が震えているのは、寒さのせいじゃない。
ただ、目の前のこの存在があまりにも愛おしすぎて、抑えようとしても抑えきれないからだ。


「……セラ」


唇を離しても、すぐにまた重ねてしまう。
舌が触れるたび、もっと、もっとと欲が募っていく。
このまま触れられる場所すべてに僕の痕を刻みたい。
息を奪って、舌を絡めて、君を僕の内側に閉じ込めたくなる。


『……総司……』


唇を重ねたまま、肩越しに吐息が漏れる。
その途切れ途切れの呼吸の合間に、掠れた声が僕の耳を打った。


「……そんな可愛い声で呼ばないでよ……抑えられなくなる」


自分でも驚くほど低く、熱のこもった声が喉から漏れる。
それでもセラは怯えるどころか、胸元を強く掴んできた。

セラを壁に押しつけたまま、頬や顎、首筋に唇を這わせる。
セラの呼吸も熱く乱れて、耳元で震える声が重なるたび、僕の中の衝動は膨れ上がる。
護りたいはずなのに、こうしているとどんな手を使ってでもこの子の全てを支配したくなってしまう。
声も、吐息も、震える身体も、全部僕だけのものにして。
誰にも触れられないように、身体の深いところまで、このまま全部奪ってしまいたい。
その込み上げる欲望に気づいていても、僕はセラを手放すことだけはできなかった。


『……総司……好き……』


さっきまであんなに泣いていたのに、今は僕の腕の中で頬を染めてくれている。
その安心しきった表情がたまらなく愛おしい。


「僕もセラが好きだよ」

『ずっと、離れないでね』

「離れないよ。絶対に」


その約束だけは、どんなことがあっても守る。
セラの温もりを抱きしめながら、この瞬間を永遠に閉じ込めてしまえたらいいのにと本気で思った。


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