4

昼休みは結局、セラと二人で屋上にいた。
セラに触れ、その愛らしい顔を眺めていたら、時間なんてあっという間に過ぎていた。

教室へ戻ると、平助たち四人が心配そうに僕達のところへと来てくれる。
どこに行っていたのかと尋ねられ、軽く事情を説明すると皆は笑顔でセラの無事を喜んでいた。


そして午後の授業は写生の時間。
湖のほとりまで行くと、その場所は午後の日差しを受けて、細かなさざ波が銀色に光っていた。
皆がそれぞれ思い思いに場所を選び、折りたたみのイーゼルを立ててキャンバスを固定していく。
絵具箱の中には、油彩用の筆やパレット、ナイフが整然と並び、ほのかに絵具の匂いが漂ってきた。

セラと僕は、湖岸の葦が風に揺れる場所に並んで腰を下ろすことに。
足元では水が小さく寄せては返し、その音が穏やかに耳に届いた。


「さてと、ここで一緒に書こうか」

『うん』

「ここから半分はセラが自由に使っていいよ。ちなみに僕が作った色を使いたかったら、それもどうぞ」

『ありがとう、総司』


その笑顔が嬉しそうで、こっちまで口元が緩んでしまう。
僕はキャンバスを掛け、群青とコバルトブルーをパレットに落とし、パレットナイフでゆっくり混ぜ合わせた。
その青を見つめながら、どうやってこの光の揺らぎを閉じ込めようかと考える。


『総司は湖をそのまま描くの?』


鉛筆で下描きを始めたセラが、小さく首を傾げてこちらを見た。


「どうしようかな。セラは?」

『私は少し花も入れようと思うの。湖だけだと寂しい気がするから』

「じゃあ僕も、それに合わせて描こうかな」


セラが湖を見つめる視線は、穏やかで、少しだけ遠くを見ているようだった。
その横顔を見つめて触れたくなる自分をなんとか抑えて、僕は再びキャンバスに向き合った。


『お腹……減ったね?』


真面目にスケッチしていると思いきや、セラは僕の様子を窺うようにそんなことを言うから笑ってしまう。


「僕もだよ。でも仕方ないよね、食べることより有意義な時間を過ごしちゃったんだから」


言ってしまえば、昼の時間はずっとセラの唇を堪能していた。
触れた肌の感触や僕の名前を呼ぶ甘い声も、今もまだはっきり思い出せる。


『うん……。総司といられて幸せだった……』


僕だけに届く小さな声。
すぐ近くに人はいないとは言え、そんなことを言われれば色々な意味で落ち着かない心情になる。
僕を見つめるセラの瞳も熱っぽく潤んでいてて、僕の手はすっかり動きを止めてしまった。


「その顔はだめだよ。周りに気付かれたら大変でしょ?」

『私……どんな顔してるの?』

「んー、僕のことが大好きって言ってるような顔」


その言葉を聞いてセラはより頬を染めるから、さっきより余計に可愛い表情になってしまった。


『そんなこと……ないと思うよ』

「そう?言葉がなくても伝わってくるくらいには顔に出てるよ」

『総司は私にそういう顔はしてくれないの?』

「僕?僕だってしてると思うけど」

『今してみて?』


なかなかの無理難題を押し付けられて苦笑いをこぼす。
こういうのって言われてできるものでもないし、場所も場所なだけに難しい。
セラに触れていいなら、簡単にできそうだけど。


「はい、してみたよ」


とりあえずセラを好きでたまらないことは事実だから、その顔を眺めて微笑みを浮かべる。


『……全然伝わってこないよ?』

「全然って酷いな。そもそも男なのに君みたいに目をうるうるさせてたり、頬を赤くしてたら逆にちょっと嫌じゃない?」

『ううん、そういう総司も見てみたい』

「そんなに見てみたいなら、セラにも協力してもらわないとね」

『私が協力して見せてもらえるなら、ちゃんと協力するよ?』

「じゃあ……それは帰りの馬車の中で、ね」


セラの顔を覗き込み小声でそう告げると、彼女の眉は少し頼りなさげに下げられた。


『なんか企んでそうな顔してる……』

「そうかもね。でもセラは協力してくれるって言ったんだから、撤回はできないよ」

『もう……』


少し頬を膨らましながらも、すぐにふわりと微笑み、再び湖を書き始める。
その様子だけ見れば、セラはいつも通り落ち着いているように感じられた。

でも……今日のあの様子やあの泣き方。
セラらしくもない言葉の数々。
考えれば考える程、軽く流していいことではない気がする。
解決策も浮かばずにこうして時間だけが流れていくことに、焦りを感じずにはいられない。
王太子が戻ってきたら、一度あいつにも話しておく必要があるだろうとセラの横顔を眺めていた。


『あ……黄色がないみたい……』


ある程度の下描きを終えて、セラがふと言葉をこぼす。
恐らく花弁に色付けしたかったんだろう。
僕は黄色の絵の具を探してみたけど、どこにも見当たらなかった。


「あれ?本当だ。どこにいったんだろう」

『オレンジ色を白で伸ばして使えるから大丈夫だよ』

「でも僕も使いたいし、向こうにいるはじめ君あたりに借りてくるよ。セラはちょっと待ってて」


頷くセラに微笑みを向けて、少し先にいるはじめ君の元に歩いて行く。
僕が来ると、涼しげな目元が僕を真っ直ぐ見上げていた。


「どうかしたか」

「黄色の絵の具、貸して貰いたいんだけど」

「何故俺があんたに貸さなければならない」

「セラが使いたいんだって」


僕がそう言った直後、はじめ君は迷いなく黄色の絵の具を差し出してくるから思わず苦笑いを浮かべる。


「あはは。ありがとう、はじめ君」

「先程、セラは平気だったのか?戻ってきた時、目元が赤かった故気になっていた」

「うん、僕が元気づけたから今は平気そうだよ」


皆には、前の授業で問題が解けなかったことを気にしていたと話してある。
本当は僕絡みのことだったけど、それは言えないから誤魔化すより他はなかった。


「そうか、それならば良かった。それをセラを持っていってやれ」

「うん、少し借りるね」

「セラは随分熱心に取り組んでいるのだな」


はじめ君の視線の先を見れば、セラが立ち上がり湖に向かって歩いているところだった。
恐らく近くに寄ってその色彩を見極めたいのだろう、その様子に僕の頬も自然と緩んだ。
けれどふと違和感に気づいたのは、セラの視線が全く足元に向いていなかったこと。
迷わず歩いて行っているのに、セラはただ遠くを眺めて足を進め、不意にそれは駆け足になった。


「セラっ……」


僕が走り出したその直後、嫌な想像の通りになった。
セラは引き寄せられるように足を進め、そのまま湖の中へと落ちてしまった。


「……っ……」


走りながらブレザーと靴を脱ぎ捨て、僕は迷わず湖の中へと飛び込んだ。
冷たい水が肌に突き刺さるのを感じながら、必死に手を伸ばして沈む身体を腕に抱く。
無我夢中で水を掻き分け水面から顔を出すと、焦った様相のはじめ君が僕に向かって手を差し出してくれた。


「平気か!?」

「……なんとかね。はじめ君、セラをお願い……」

「任せてくれ」


はじめ君にセラを引っ張り上げてもらう横、僕は自力で湖から上がる。
あまりの急な出来事に理解が追いつかないまま、どうしてこんなことになったのかと考えれば、心臓が嫌な音を立てていった。


『けほっ……ごほっ……』

「セラ、平気?」

「水は飲んでいないか?」

『ごめ……なさ……大丈夫……』

「ほら、取り敢えずこれ着て」


水を吸った彼女のブレザーを脱がし、代わりに僕のを肩にかける。
すると騒ぎに気づいただろう平助や伊庭君、千ちゃんが僕達の元に来て、焦った様子で話しかけてきた。


「セラちゃん、落ちちゃったの?大丈夫?」

『うん……、ごめんね……』

「つーか、なんで落ちちまったんだよ?」

「セラと沖田君が無事で良かったですよ。足を滑らせてしまったんですか?」


僕が見た様子では、足を滑らせたとか……そんな理由ではなかった。
でも、湖に落ちようとしたわけでもない。
まるで湖がセラの視界に入っていないように、この子は足を進めていたように感じられた。
だからこそ、こうなった理由が何かセラの返事を待っていたけど。
彼女の口からは、予想すらしていなかった言葉が紡がれた。


『ううん。今お父様がそこにいて、呼ばれたから』

「え?」

『あれ……?お父様は?お父様はどこに行ったの?まさか湖に落ちてないよね?』


必死な様子で僕に尋ねてくるセラを目の前に、その場の空気が一瞬にして凍りついた。
タチの悪い冗談だったらどんなにいいかと思ってしまう程、セラから出た言葉は僕にとって精神的に辛いものだった。


「セラちゃん、落ち着いて?ここは学院よ?あなたのお父様はいらっしゃらないわ」

『でも、今そこに……』

「……ははっ、なに寝ぼけてんだよ。近藤さんがここにいるわけねーじゃん」

「そうですよ……。見てください、君の目の前には湖しかない筈ですよ」

『ううん、今ここにいたの。本当だよ?私、呼ばれたから……』


セラはそう言って、僕とはじめ君を交互に見ると不安そうに言った。


『総司とはじめは、信じてくれるよね……?』


言葉が出なかった。
どう返してあげるべきかもわからなくて無言のままでいると、はじめ君が柔らかく笑みを浮かべて言った。


「ああ、そうだな」

「いや……そうだなって。はじめ君まで何言ってんだよ」


はじめ君は余計なことは言うなというように平助に視線だけ送る。
そしてハンカチを出すと、セラの濡れた頬にそっとあてた。


「近藤さんは用事があると仰って先に戻られた。セラのことを心配されていた故、まずは一度教室に戻って着替えた方がいい。このままでは風邪を引く」

『そう……だよね。総司まで私のせいでびしょ濡れになって……また迷惑かけて……ごめんなさい……』

「いや、僕は平気だよ。でもはじめ君の言う通り、着替えないとね」

「鈴鹿、悪いがセラを連れて先生のところに状況を説明にしに行ってもらえるだろうか。総司もすぐに向かわせる」

「わかったわ。セラちゃん、私と一緒に行きましょう?」

『うん……。ありがとう、みんなも心配かけてごめんね』


しゅんとした様子で去っていくセラの背中を、僕達はしばらく黙って見送っていた。
その小さな背が角を曲がって見えなくなった後、はじめ君がほんの僅かに目を細め、ゆっくりと僕の方を見た。


「総司。セラのあの様子、前々から思ってはいたが普通ではないな」

「最近ずっと元気なかったから俺も気にはなってたけどさ。近藤さんがいるとか……あんなのはおかしいって」

「僕もそう思います。今のは体調が悪いとか、そういうレベルじゃないですよ」


平助と伊庭君の言葉を聞いた後、はじめ君はほんの少し目を伏せ、言葉を選ぶようにしてから口を開いた。


「考えたくはないが、セラのあの症状には一つ心当たりがある」


僕たち三人は、思わずはじめ君に視線を向けた。


「心当たり?」

「ああ。今、王都で流行っている香を知っているか?」

「お香……ですか?今、ご令嬢たちの間で人気があると評判の?」

「そうだ。高価で香りが上品で、手に入れるのも難しい。若い令嬢が集まる社交場では、持っているだけで一目置かれると聞く」

「そんなのがあるんだな。でも別にそれ自体は、悪いことじゃねーよな?」

「その香自体はな。だが問題は、それに似せて作られた模造品だ」


はじめ君の声が、少し低くなった。


「香りも見た目も正規品とほとんど同じで、よほど嗅ぎ慣れている者でなければ区別がつかない。その完成度は異常なほど高いと聞いた」

「……その模造品には何か問題があるのでしょうか?」

「中毒性の高い麻薬が仕込まれているという話だ」


空気が一瞬で重くなる。
無意識に僕の拳が強く握られた時、平助がやや蒼白した顔で言った。


「は?麻薬ってどういうことだよ……」

「最初は香りを吸うことで気分が高揚し、心地よい幸福感や集中力の高まりを感じる。不眠に悩まされていた者は、その香を使うことで快適に深い睡眠を得られるという。それだけ聞けば悪いことのようには見えない」


はじめ君は淡々と説明を続けるものの、その眼差しは真剣だった。


「だがそれが日常になると、香りがない時に落ち着かなくなる。やがて些細なことに苛立ったり、不安になったり、誰かに疑いの目を向けるようになる。情緒が不安定になり、被害妄想が出る。そしてさらに進行すれば幻覚や幻聴に囚われ、最後には精神が崩壊する」

「セラが、そのようなものを……?」

「俺だって信じたくはない。ただ……ここ最近のセラの様子や、今日の幻覚は症状と一致している。あんたに何か心当たりはないか?」


その問いかけに、心臓がどくんと嫌な音を立てた。
脳裏ではここ最近のセラが纏っている、あの香りが思い浮かぶ。
そして僕がヘアオイルを変えたのかと聞いた時、あの子が言っていたことを思い出した。


「そう言えばお香……部屋で使ってるって言ってた」


指先が冷たくなっていくのを感じた。
だってあの会話をしたのはもう三週間近く前。
あの時、何も知らずに聞き流してしまった自分に酷い怒りが込み上げてくるようだった。


「その香りをあんたはわかるか?」

「直接嗅いだわけじゃないからわからないけど……、でも最近のセラからは甘い果実のような、強い香りがする気がするんだ」

「まだ断定はできないが、その香が本物か偽物か確認する必要がありそうだな」


はじめ君の声は冷静だったけど、その奥には強い警戒が感じられた。
僕は唇をきつく結び、湖の水面に視線を落とした。
もしそれが事実なら、セラはすでに知らないうちに罠にかかっている。
そして……それを渡したのは誰なのか。
胸の奥で静かにくすぶっていたものが急に燃え上がり、気づけばはじめ君の肩をぐっと掴んでいた。


「もしセラがそれを使ってたとしても……直るんだよね?元に戻るんだよね?」


その言葉は、自分でも驚くほど切羽詰まった声になっていた。
はじめ君はわずかに目を細め、間を置いて答える。


「まだ初期であれば、完全に断てる可能性は高い。体内に残った成分が抜けるまで数日から数週間……精神面の揺らぎはしばらく残るが、時間と適切な療養で元に戻れる」

「じゃあ……」


安堵しかけた瞬間、はじめ君が言葉を重ねた。


「だが、長く使っていた場合や過剰に摂取していた場合は……完全に戻る保証はできない」


その一言で胸の奥が一気に冷えた。
言葉を失った僕の横では、平助が慌てて口を挟む。


「……な、なんだよそれ。セラが一生おかしくなったままかもしれないってことなのか!?」

「可能性の話だ。だが今は事実を確認する方が先だ」

「もしそのお香が部屋にあったら、回収して出どころを探る必要がありますね」

「そうだね。それがどこから来たのか、誰が渡したのか……必ず僕が突き止めるよ」


口ではそう答えながらも、心の中では不安が消えない。
セラの部屋への立ち入りを許されていない僕が、どうこの問題に立ち向かえばいいか、頭の中で考えていた。


「沖田君一人で大丈夫ですか?僕達は王宮内には入ることはできませんが、協力できることはさせてください。取り敢えず、そのお香のことは僕も調べてみます」

「ありがとう、伊庭君。でも僕も今、セラの部屋を自由に出入りできる立場じゃないんだ。だからどうやってそのお香を調べようかと思ってるんだけどね」

「なあ、それだったら全部セラに話して、そのお香を持ってきてもらうことはできないのか?」

「恐らくセラは今、精神的にかなり不安定な状態の筈だ。今のセラにその香が麻薬だと伝えるのは危うい可能性もある。精神的苦痛を与えて、セラの心を壊してしまっては意味がないからな」

「状況を見ながら判断するから、皆はとりあえずこのことは口外しないで。今丁度王太子が不在なんだけど、そろそろ戻ってくる筈だから、最悪はあいつの力を借りるようになるかもしれないけど」


できればそんなことはしたくない。
僕の手であの子を危険から救ってあげたいよ。
でも僕のくだらない意地で、セラを危険に晒すわけにはいかない。
ここは感情は捨てて、どうすることがセラの身を一番に護れるか考えて慎重に行動する必要があると考えていた。


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